Essay

<選択肢-Cyberchat>

 「デジタル社会」の深化については、各方面から色々なネガティブ・キャンペーンが展開されている。「社会の古き良き伝統が失われる」「個が前面に出過ぎて社会のまとまりが失われる」「弱者切り捨ての社会を助長する」―――など。確かに、デジタル社会が深化することでありとあらゆる問題が解決すると考えるのは短絡的で、今のブームには行き過ぎがある。新しい技術が社会に入ってくるわけだから、可能性と同時に色々な問題が発生するのも明らかだ。

 しかし、筆者は

 「デジタル社会は、今まで夢想だにしなかった選択肢を人類に与えている」

 という点で、この新しい技術の可能性を強く信じる。使い方こそ問題であり、それは個人の、集団の、組織の、そして国や人類の問題であり、技術そのものの問題点ではない。

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 デジタル社会が最もすばらしいのは、そのもたらす選択肢の多様さである。例えば、WINDOWS95というOS一つをとってみても、タスク遂行の選択肢は飛躍的に拡大した。これはデジタル社会における「選択肢の飛躍的な拡大」を象徴するものである。「コピー」という単純な作業一つを例にとっても、やり方は幾通りもある。

  1. 教科書通りプルダウン・メニューを使う方法
  2. 右クリックのコピー機能を使う方法
  3. 同じく右クリックで「送る=SEND TO」機能を使用する方法
  4. デスクトップ上で、ドラッグして行う方法

 他にもあるに違いない。パソコンでマックタイプもあれば、WINDOWSタイプもあるというのが選択肢の拡大を意味する。絵でも文章でも、ソフトウエアなどのファイルでもすべて「デジタル信号」に変わりはないから、異なった仕様のパソコン間でも通信を通じれば区別なく処理できる。これはすばらしいことである。

 「選択肢」の幅を拡大するという意味では、インターネットなどのネットワーク技術が持つ可能性はすばらしいものがあるに違いない。ネットワークに加われば、日本の山間の小さな小学校でも、東京、ニューヨーク、ロンドンの最新教育施設を疑似体験しながら学ぶ事ができる。世界の一流がくまなく世界中に行き渡るわけだ。つまり情報格差の消失。

 「教育」ばかりでなく、「医療」におけるネットワーク技術の普及がもたらす効果も大きいだろう。最新の医療技術の普及は、加速度的に速まるに違いない。それによって助かる人も増えるだろう。老人問題におけるネットワーク技術の利用も新たな領域を切り開くだろう。筆者が買ったデジタルカメラは1分置きに自動シャッターで映像を撮ることができるが、これは電子メールで簡単に受信者に送ることができる。おじいちゃん、おばあちゃんに孫の顔を一分置きに送ることが簡単にできる時代が来ているのである。これは、おじいちゃん、おばあちゃんにとっては大変な「心の安らぎ」に違いない。社会をこうした面からも豊かにもできるのだ。

 デジタル社会は人間関係を希薄にするだろうか。筆者の場合、この「ホームページ」を作るので明らかに人間関係は広がり、深くなった。作ったら作ったで、知らない人からもメールが届く。それが疎ましかったら、その人は日常生活でもそういう人なのだろう。それは技術の問題ではない。

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 目指す目標達成のためのルートも多様に選べるようになる。ネットワーク化が進んだアメリカではケネディが「テレビ大統領」と呼ばれたように、もう少しで「ネットワーク大統領」が生まれるかも知れない。日本でも千葉麗子のように新種のタレントが生まれてきている。テレビから、劇場から、AVから、そしてネットワークから。時代の進展、技術の進歩は「女性タレント」というたった一つのジャンルをとっても、参入を希望する人にとってのルートの多様化を意味してきた。「選択肢」の拡大はまた、参入時期の制約の解除をも意味する。選択肢の多様化を利用できていないのは、個人であり、社会であり、組織であり、国であるのだろう。

 デジタル社会の一つの問題点は「収斂」ということかもしれない。誰もが簡単に「世界の超一流」にアクセスできるようになることにより、いわゆる「ローカル・ヒーロー」の陰が薄くなり、富も情報も「BEST」に集まってしまう現象である。当然、「BEST」と「SECOND」の格差は拡大する。

 既にスポーツの世界ではこれが起きている。100メートル競走でたった「0.01秒の差」でも、コマーシャルが舞い込むのは勝者であって、二位の人物にではない。BEATLESのようなマンモススターがより簡単に生まれやすくなるかもしれない。しかし、実際の音楽の世界ではこういうことは起きていない。多様な選択が可能になり、人々の関心が色々な音楽に拡散しているからだ。「収斂」は依然として限られた世界で起きている。

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 技術は人間に可能性と選択肢を呈示しているだけである。それを使うのは人間だ。無論、人間が持つ力の限界はあり、技術が人間に「無用な」、そして時に「望ましくない選択肢」を与えた事実があることは確かである。デジタル社会もそうした「望ましくない選択肢」を人類に与えている面もある。しかし、「望ましくない」というのもそもそも難しい定義だ。

 デジタル社会が人類に与えている可能性や選択肢は膨大なものがある。このことに間違いはない。整っていないのは、この技術を使いこなす環境と、人間や組織の方の意識、体制(法制面を含めて)である。新しい技術によってもたらされた、個人でも簡単に選べる新たな「選択肢」(OPTIONS)を試してみない手はない。 (ycaster 96/06/13)