Essay

FEDは金融政策のルールを変更したか

                                 96年7月21日   大和投資顧問 河野龍太郎

FEDの政策目標
  多くの中央銀行同様、FED(米国の中央銀行)の長期的な目標は「インフレなき持続的成長」である。「物価安定」と「成長」の相反する二つの目標があるようにも見えるが、「物価安定」が結果的に「持続的成長」をもたらすと解釈されており、最優先事項は「物価安定」と考えられている。

 FEDは長期目標を達成するために、二段階方式を取っている。つまり、実質GDP、名目GDP、失業率、マネーサプライなどのマクロ変数を中間目標とし、中間目標を金融政策でコントロールすることで、最終目標の達成をはかる。

 これまでFEDは中間目標の中で特に実質GDPと失業率を重視してきたが、この理由は明白である。実質GDPと潜在生産量の差であるGDPギャップが縮まれば、最終目標である物価安定が脅かされる。また、失業率が自然失業率(NAIRU=インフレを加速させない失業率で、潜在生産量に対応)に近づけば、やはり物価安定が損なわれるのである。実質GDPもしくは失業率が自然率の近辺で推移するようにコントロールされれば、物価安定が達成できるのだ。

従来の金融政策は無効?
  しかし、どうやら、FEDは政策決定において従来の二段階方式を後退させた可能性がある。従来のルールに従えば、中間目標変数は最終目標の達成を脅かす水準にあり、とっくに金融引き締めを実施してもおかしくないのである。

 この背景には、FEDがアメリカ経済の大きな変化を遂に認めたことがあるようだ。雇用、生産設備とも従来は天井と考えられた稼働率で利用されているのに、いっこうにインフレの兆しは見られない。間違いなく、最終目標である物価と中間目標である生産・失業率の間の関係が変わったのである。果たして、技術進歩で総供給関数がシフトし、この結果潜在成長率は上昇し、自然失業率も低下したのだろうか。

 もしそれだけなら、話は簡単である。生産性の伸びが上昇した分だけ、実質GDPのターゲットを引き上げ、失業率のターゲットを引き下げればよい。実質GDPと失業率は、これまで通り中間目標として十分機能する。

 しかし、話はそう簡単ではない。問題は、今のところ経済全体の生産性が上昇したことを示す証拠が全くないのである。あれほど、米国企業の経営者が生産性の上昇を誇らしげに語るにもかかわらずである。同じように、潜在成長率の上昇と自然失業率の低下も確認されていない。

 全てを総合的に判断すると、アメリカで生じていることは次のようになるだろう。アメリカ経済の総供給関数はまさにシフト(移行)の途中にあり、シフト(移行)はまだ完了していない。コンピューターを始めとした新技術による生産性の上昇が経済全体に波及するには、かなり時間がかかる。また、過渡期には資源の浪費も多いはずである。技術が習得され人的資本の一部になるまでには、トレーニングも必要であり、むしろ一時的には生産性が落ちることもある。このため、経済のある部門では生産性の伸びが上昇しているが、別の部門では生産性の伸びは上昇していない、もしくは低下しているのである。マクロ集計量で見ると、変化が観察されないことになる。

 こうした移行過程では中間目標と長期目標の関係が不安定になるため、移行が完了するまでは実質GDPや失業率の中間目標としての機能が損なわれる。仮に従来通りの方法を採っても、本当の潜在生産力や自然失業率の水準がわからないため、実質GDPと失業率の誘導水準が決められない。このため、最終目標である物価の安定も達成できなくなってしまう。

 FEDは金融政策の決定に頭を悩ませていることだろう。同時に市場参加者である我々もこれまでのルールが使えないため、金融政策の予想が困難になる。

新しい金融政策ルールの登場か?
  こうした事情に関係してか、5月に連銀から「金融政策の機動的アプローチ(Opportunistic Approach to Disinflation)」なる手法が紹介された。このアプローチでは、①現在のようなディスインフレ下では経済成長率が高まっても、物価上昇が始まらなければ、金融引き締め策を取らないで、景気減速や物価を抑制させるショックを待つ。②しかし、実際にインフレの兆しが見え始めれば、その時は物価上昇の初期段階で徹底的に金融引締め策を取る、とされている。中間目標の実質GDPや失業率を無視する形で、いきなり最終目標の物価が金融政策のターゲットにされているのである。

 この理論は連銀の政策決定で正式には採用されていない、とFEDからコメントされている。しかし、ブラインダー元連銀副議長やボーエン・フィラデルフィア連銀総裁がこの理論を支持していたことはすでに明らかになっている。また、7月18日に行われたグリーンスパン議長の議会証言から判断すると、グリーンスパンの立場もこの理論にかなり近いように思われる。