Essay

<私のビートルズ論-Cyberchat>

 2002年12月08日のフジテレビの番組でしたか、テーマはビートルズでした。デビュー40周年、ジョージ・ハリソンのほぼ一周忌、そしてジョン・レノンの命日、ポール・マッカートニーの来日記念、埼玉スーパーアリーナでのレノン追悼コンサートと関連事項がその日前後に重なった。

 7~8分のVTRを降りてきてのスタジオのトーク時間は、1分でした。珍しくいろいろ考えていたのですが、3人いて60秒ですから、平均すれば一人20秒。その殆どは披露できなかった。ちょっと残念でした。まあ、テレビというのはああいうものらしいのですが。その時考えたことをせっかくだから残しておこう、というのがこの文章です。

 考えたのは、なぜこのグループは世代を越えて、時空を越えて好かれるのか、です。最近あちこちの店に入って気がつくと、ビートルズ(その後の各メンバーの単独曲を含めて)の曲がかかっていることが多い。アルバムは売れ続けている。六本木に行けば、Abbey Roadなどそっくりさんがビートルズの曲を延々と繰り返して演奏している店もある。なぜ.....

 ビートルズについて書くと、それこそ「俺はこう思う」という意見がいっぱい来そうですが、この問題に関しては私は主に三つの理由があると思っている。ビートルズの eternity(永遠性) についてです。

  1. メンバーや歌の対象の多様性
  2. 安定性と上質、上品さ
  3. 聞き手のニーズを掴む心
  ポールがジョンに送ったレクイエムの話はこのサイトでしばらく前に書きました。お互いを「別世界の人間」と思うほど、この二人のキーメンバーは違っていた。ポールが作曲、レノンが作詩を担当し、常に協力の必要性があったにもかかわらずです。

 しかし私は、だからこそ彼らの曲は多様になったと思うのです。彼らが7年ちょっとの間に作った210曲のうち、かなりが Lennon-Maccartneyですが、ジョンは特に後期がそうですが、どちらかというとイデオロギー的になった。しかし、ポールはそれには距離を置いていた。彼は今でもずっとそうですが、まろやかな男です。対して、ジョンはカミソリのようなところがある。それがうまくミックスされている。

 ジョージがインド音楽に傾倒したときでも、ポールはそれに距離を置いた。そういうバランス感覚の良いところがポールにはある。リンゴはどちらかと言うと、一番年上にもかかわらず、一番目立たなかった。それは、彼だけあとでこのグループに加わったからだと解説されることが多いのですが、そうでもないでしょう。やはり性格です。あの4人のメンバーを改めて見ると。

 ビートルズの曲の多様性は、改めて言うに及びません。この点も重要だと思う。多くの人がどこかで共有できるものを持てる。疲れ、理想、愛、セックス、ドラッグ、老齢、遊びなどなどビートルズの曲のテーマは実に広い。これが広い世代の支持を受ける一つの理由だと思う。

 次のポイント当たりから、意見が分かれる点です。スタジオの前の打ち合わせで「ビートルズは上品、上質だった」と言ったら、すごい反対意見が出た。しかし、私はある意味でビートルズはグループとしては口の端に載せても恥ずかしくない上質さをずっと保ったと思う。

 彼らはこういう。ビートルズは子供の時に親に「聞いてはいけない」と言われた、どちらかと言えば反体制の歌だと。しかしそうだろうか。日本の親がビートルズの歌詞に目を通していたとは思えない。あまりにも有名になり、子供達が熱中するので「勉強もしないで」という気持ちがあってそういったのではないか。

 なぜそうかと思うかというと、その大人達がすぐにビートルズの虜になったからだ。このグループはデビューからわずか1年で王室主催の「ロイヤル・バラエティ・ショー」に出ている。本家のイギリスでも「エスタブリッシュメントの一角」に入るのに時間がかかってない。ナイトになったのも、他のグループより早いと思う。

 ローリング・ストーンズと比べては怒られるかもしれないが、やはりその辺は違っていた。ビートルズの歌詞を見ていると、実に良くできている。どこに出してもおかしくないものが多い。「yesterday」は、今や学校の音楽の教科書に出ていると言うではないのか。

 「上質・上品」という点で言うならば、いろいろスキャンダルはビートルズも起こしたが、決定的に誰からも見限られるようなそれは起こしていない。どこか皆に愛嬌があった。ビートルズはほかのグループに比して、ドラッグにしても歌詞などではオブラートに包み知恵があったのではないか。

 人々が長く思い出す、歌い続ける曲はそれが「上質さ」「上品さ」があるからだと思う。そうでなかったら、人々は口にし続けない。逆説のように聞こえるかもしれないが、歌い続けられ、演奏し続けられているということ自体が、ビートルズが「上質・上品」だったことの証だと思う。

 さていよいよ最後のポイントです。そしてそれは私が一番強調したいことなのでもある。それは、「ビートルズとは、グループ全体としても、構成員一人一人としても、聞いてくれる人が何を聞きたいかをもっとも良く知っていた連中ではないか」というものです。あたかも、デパートやその店員が客が何を欲しているか知っていて、すごく売り上げが伸びるようなケースです。

 なぜそう思うかというと、彼らの歌には我々が聞きたいことが実にうまく入っている、と思うことが多いからです。実にうまく数多くの歌にそれが入っている。で、そのポイントを私は彼らの長い「ライブ経験」に求めたいのです。

 あまり知られていないが、実は彼らは実に実に長い「ライブの経験」の中で曲を作り、曲を演奏してスターダムにのし上がった。今のように最初から大きなレコード会社がついていたわけではない。どう見ても冴えない、それほど豊かとも思えない港町であるリバプールで、アマチュアとして演奏を続け、そして人気を獲得していった。

 ライブではごまかしはきかない。即本番ですから、取り直しなし、そして観客の反応はダイレクトです。それは厳しい。おそらく下手だと、ビール瓶でも飛んできた。観客がどこで拍手し、どこで叫び、そして何に笑うか身に付けた筈です。それをアマチュア時代からやり、デビューして(1962年)もその後3年以上やった。

 そういう中で、聞きに来てくれる連中は何を聞きたいのかをビートルズは掴んでいったのではないでしょうか。曲の順序を決める上で、どのような曲が並んだら良いのか、その過程で曲想の違うものを入れる必要はないのか、その曲と曲の間にはどういうトークを入れるのか、を考える。早いテンポの曲のあとにはスローを、愛を歌ったあとは戦争を、働きすぎて疲れたという歌のあとにはちょっとドラッグを連想させるような.....と対極を積み重ねていけば、曲も歌詞も多様になる。

 ビートルズの曲間トークで一番有名なのは、ジョンが初めてロイヤル・バラエティ・ショー主催の演奏会で言った一言です。「安い席で聞いているお金のない人たちは拍手を、その他の席で聞いている人は宝石をじゃらじゃら鳴らして下さい.....」と。こんなトークはライブで鍛えていなければ出てこない。つまりビートルズは、優れて客掴みがうまかった。

 芸術家に向かって、「あなた達は、聞き手が欲するものを作った面があるんでしょ」というのは失礼なことでしょうか。失礼かもしれないが、私はあらゆる人間の所作、芸術を含めたものにはそういう面があると思う。湧き出てくると同時に、うまく伝えたいのである。そして、それがうまくマッチした人々が、人々から受け入れられる芸術家となる。それはそれで、すっごく才能の必要なことではないのか。

 実はつい最近まで知らなかったのですが、あのジョンでさえイマジンを売るに際しては工夫をしているらしい。今売られているあの曲には、原曲がある。しかしそれはあまりにもリアル過ぎて、全く売れなかった。で、ジョンはどうしたかというと、メッセージは同じだが、それに「砂糖をかけて口当たりを良くした」(具体的に何をしたかは書いてありませんでした)と自分で認めているという。言いたいことを言っているだけではない。あの曲はジョンの代表作のように言われる。しかし、あの曲が有名な曲に収まるまでには、「顧客」を考えた措置を本人がとっているのです。

 最近アメリカ、日本でコンサートを開いたポールのアルバムを見ると、新曲はほとんどない。オールディーズを持つ音楽家のコンサートというのは難しいものだと思うのです。自分の新しい曲をやりたい。しかし、観客の大部分は自分の知っている曲を聴きたがる。過去を思い出したいのです。知っている曲で安心したいのです。しかし、彼が前回東京に来たときのコンサートは、その二つ(新旧の曲)がぶつかり合っていた。

 しかし、今回はインタビューでポールははっきり言っている。「来る人が聞きたい曲を演奏した」と。実際にポールのライブを聴くと、客が盛り上がるのは「let it be」であり、「the long and winding road」であり、あのヘイジュードの流しの部分なのです。ポールは客のニーズが良く分かっている。

 クラシックの作曲家達は、大部分が王様や専制君主のお抱えでした。庶民の為の存在ではなかった。彼らは実に少数の人に聞かせるために音楽を作った。うまい料理を作れと言われて、「失敗したら殺されるかもしれない」と恐れながら料理を考えた中国の厨房の料理人と似たところがある。しかしだからといって、「少数の為に作った」からと言って、出てきた音楽の価値が下がるわけではない。

 ビートルズを鍛えたのは、ライブです。今でもまっとうな音楽家が「ライブ」を大事にするのは、十分なワケがあると思っているのです。観客の吐息、表情、仕草。彼らにとってそれらはなんと重要な情報になっているか。ビートルズはそれを吸収し続けた。だから、曲が長持ちする。

 ビートルズはことさら「ライブ・グループ」の時期が長かったグループでしょうか。私は比較的長かったのではないか、と思っている。それは彼らについた後々の有名プロデューサーの力は大きかったでしょう。しかし、プロデューサーが作詞をするわけでも、作曲をするわけでもない。ジョンとポールの頭の中に、聞く人々のニーズが入っていなければ、身に付いていなければ、まともなものになりはしなかったのではないか。

 しかしこれは実に多くの分野で言えることなのではないでしょうか。人々は、自分が漠として考えていること、感じていることが形になることを喜ぶ。数々の音楽グループの中で、私はビートルズはそれにたけていたグループなのではないか、と思っているのです。
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  上記の文章を書いたのは2002年12月12日でしたが、それに関連して、福岡の馬場さんが面白いメールを送ってくれました。ユーミンのヒット曲作戦ですが、そこでも聞き手への歌作り人の努力が見て取れる。それを意識的にやるか、自然に出来るかの差はあるのですが、世界中の音楽家は自然とその努力をしているのだと思う。

伊藤さん

 ビートルズ論面白く読ませていただきました。タクシーの中でのお話の続きが聞けてよかったです。どんな反応が皆さんから寄せられるか楽しみですね。

 さて、以前聞いた話を思い出しました。ユーミンの作詞のネタ取材について、インタビューか取材記事で読んだ覚えがあります。媒体は覚えていないのですが、実際に本人が語った内容だったと記憶しています。彼女は、自分の聞き手である、若い女性(男性)達が何に興味があるのか、フィールドでしっかりとリサーチしているのだと。 

 具体的には、ファミリーレストランにサングラスなどをつけて本人と判らないように偽装して、長時間に渡って周りグループ/カップルのたわいもない話を「耳をダンボにして」聞いて、メモを取るのだそうです。その中からキーワードを選んで、詞の中に織り込んで行く。

 彼女の詞の中から、自分達が発している言葉が聞こえてくる。これなら、親近感が湧くのは当たり前ですが、たぶん彼女の特別な資質は、大量の情報の中からキーワードを発見する能力なのでしょう。それは、ライブ経験と同様に、観察しかないのでしょう。どの言葉に反応して、会話が盛り上がったか、耳だけでなく、鋭い視線で観察していたはずです。

 心理学をベースとしたコミュニケーション学が教えてくれるのは、受けてが求めるものを話し手が発信しなければ、受入られないということ。つまり、相手の欲するものを探すことが、話手(発信側)の能力として必要になる。これは、伊藤さんが自分の書き手・話手に求められるセンスとして、相手が何を求めているのかを感じ取る力のことを言われていたのに通ずるのでしょう。

 最近、話し手の能力がおぼつかないと感じることが多いのですが、ひとつには教育における発信能力の鍛錬が行われていないことに原因があるのだと思っています。これまでの教育は、パズルかゲームで、隠された答えを見つける作業でしかない。何をどのように伝えるかという、大切なことが注目されてこなかったのではないでしょうか。

 ビートルズを芸術論で議論すると不満を持つ方もあるのかもしれませんが、コミュニケーション論で考察してみてはいかがでしょうか。音楽も情報のひとつとして、受け手と出し手の間にどのような関係が構築されているのか。

 思いつきですが、ご参考まで書かせていただきました。

  ビートルズと筆者との関係は、最初に買ったLPがビートルズだったということから始まり、私としては結構縁があると思っているのです。今でも思い出すのは1980年の12月08日の夜のことです。まだ通信社のニューヨーク特派員で、4年間の滞在のあと、あと数日で帰国するという時でした。

 当時の通信社の記者の夜番(午後に来て夜中まで)の仕事といえば、一つはニューヨーク・タイムズなどのアメリカの新聞の翌朝早版(午後10時にタイムズ・スクエアの同紙本社の周辺のスタンドで売り出される)を買ってきてチェックすることでした。しかし帰国直前とあって送別会が立て込んでいて午後8時ごろ一回会合に出て、午後10時過ぎに新聞を買って支局に戻ってきた。

 新聞には特に大きなニュースはなかったのですが、チッカー(ニュースを伝える)を見たら、至急報で「ジョン・レノンが拳銃で撃たれた」と出ていた。しかし、生死は分からない。そのころジョンはヨーコと一緒にセントラルパーク・ウエストの76丁目かなにかのダコタ・ハウスに住んでいた。小生が住んでいたのは同じくセントラルパーク・ウエストの63丁目。すぐ近くだったのです。

 心配になった。しかし、まことに判断が甘かったことにまだ送別会が続いていたこともあって、「死にはしないだろう」とまた外に出た。ピアノバーかなにかに行ったと思います。そして、午前2時近くになってすっかり忘れてタクシーに乗った。今でも鮮明に覚えていますが、黒人の運転手でした。

 Do you know John Lennon was dead ?

 「しまった」です。その時の彼、運転手の悲しそうな声を今でも覚えています。すぐ行き先を変えた。家ではなく、支局にです。今のようにインターネットがあって自宅で仕事が出来る時代ではない。支局に戻って長い記事を書きました。送信手段はファックスです。本記は東京で外電を使って外信部が書いたというので、まあニューヨークからの解説という形で。

 力が入りました。ありったけの知識を入れて。代表的曲からアルバムまで。結局この記事が小生がニューヨークから特派員として書いた最後の記事になりました。今でもはっきり覚えているのですが、東京のデスクは「サージャント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」は長すぎると思ったのか、小生の解説から削除した。ビートルズを語るときこのアルバムは外せないと思うのですが。ニューヨークに居て、「なんだ」と思ったことを今でも思い出す。

 90年代。ヨーコさんは蕎麦好きでした。毎日のようにソーホーの本むら庵で蕎麦を食べていると知っていました。本むら庵は荻窪が本店の蕎麦屋です。今は六本木にもある。ワンアイド・ジャックの斜め向かいです。旨い。ある時そんなことも忘れて、昼飯にソーホーの本むら庵に行きました。彼女は2~3人の連れと来ていて、静かに蕎麦を食べていました。たぶん、彼女は今でも蕎麦が好きなのでしょう。

 埼玉のジョンレノンミュージアムに行けていないのが、ちょっと残念ですが、まあこれはこれからの楽しみです。時代を作った一つのグループ。4人のうち二人逝った。残る二人には、なるべく長生きしてほしい。

 最後に、ポールがジョンに捧げたレクイエムを掲載しておきます。「Here Today」。82年のポールのアルバム「Tug of War」の5曲目にある。このアルバムはずっと前から持っていて聞いていたのに、実はそうだとは知らなかった。

And if I said
I really knew you well
What would your answer be ?
If you are here today
Here today

Well knowing you
You'd probably laugh and say
That we were world's apart
If you are here today
Here today

But as for me
I still remember how it was before
And I am holding back the tears no more
I love you

What about the time we met ?
Well I suppose that you could say that
We were playing hard to get
Didn't understand a thing
But you could always sing

What about the night we cried ?
Because there wasn't any reason left
To keep it all inside
Never understood a word
But you are always there with a smile

And if I say I really loved you
And was glad you come along
Then you were here today
For you were in my song
Here today

  「Here Today」は「もし君が今日ここにいたら...」と訳したら良いのか。2分27秒の短い、静かな曲です。アルバムの解説には「曲調もアレンジもyesterday を意識されてレコーディングされている」とある。

 「僕が君のことを良く知っていると言ったら、君は恐らく笑って”僕たちは世界が違った”と言うだろう.....」。そうでしたね。ビートルズの組成中(7年ちょっとの間です)に出来た210曲のうち、大部分はLennon-Maccartneyでしたが、二人は育ちも家庭環境も考え方も違っていた。ポールはこの歌でもその意識が出ている通りあまりそれを気にしなかったが、ジョンは気にしていたと思う。ポールもそれを知っていたから、「You'd probably laugh and say that we were world's apart」と言っている。


ycaster 2002/12/20)