Essay

<アザーン響く異国情緒の街・イスタンブール〜2014年年初のトルコ〜-Cyberchat>

《アザーン》
 「え、そんなこと」と驚かれるかも知れませんが、私のここ数年の「身がおけたらいいな〜〜〜と思う旅行シチュエーション」の一つは、「アザーンの流れる街で目を覚まし、何日か滞在する」でした。それって決定的に日本と違うじゃないですか。アザーンは私にとってある意味最高の異国情緒なのです。だって、騒音とは違う音ってそもそも風景の一部になるって珍しいじゃないですか。しかもあれだけ明確な人の声。

トプカプ宮殿の夕暮れ しかし今までおよそ一回もそういう環境に身を置けたことはなかった。ウルムチでもアザーンは聞こえなかったし、「絶対ある」と思って行ったサマルカンドでもなぜか聞こえなかった。イスタンブールにある、と知っていました。だって、あまたの映画が教えてくれている。何を言っているのか知りませんが(多分「神は偉大!祈りに参集せよ」)、あの力強い男の声はいい。日本の街の夕方5時の「夕焼け小焼け」は優しいが、力強さには欠ける。それにやや聞き飽きた。

広場の地下鉄の駅の入り口 「アザーン」だけではなく、イスタンブールは他にも私にとって魅力が一杯に見える街でした。実は去年の「夏の旅の候補地」を皆で投票で決めようとしたとき、私は真っ先にイスタンブールを挙げたのです。だって、アジアとヨーロッパが出会う街であり、歴史があることは分かっているし、その遺跡が今でもその多くが残っているからです。無論「今のイスタンブール」の方がより重要で、「街の人がどんな顔をして生きているか」も見たかった。しかし賛同者は多かったが、その時は実現しなかった。トルコやグルジアの政情もあったからですが、今回別の形で実現することになって、勇んで出かけた次第。

 空港に到着したのが2013年の12月31日、つまり晦日の夜6時半過ぎ。世界中の街が常軌を逸っし始める時間帯で、「交通が....」と思っていたら、案の定結構混んでいた。出迎えてくれた大学の映画科を卒業したばかりの若い男性が、「今日はちょっと混みます...」と。でもあまり時間もたたずに旧市街の滞在ホテルに到着したのですが、もうそこはガラの準備万端といった風情。晦日を海外で過ごすことは良くあるのですが、とにかく日本以外は大騒ぎです。インドではディスコで大騒ぎ、スペインのマドリードでは宿泊した名前の通ったホテルのガラを予約して参加しましたが、何せ今回はホテルに着いたのは12時間のフライトと90分の移動のあと。とっとと風呂に入って寝ました。うっすらと午前2時頃までホテル中が爆発したようになっていたのは知っていましたが。

なぜかイスタンブールの子供のマネキンには髭が全部に むろん、その段階ではアザーンは一回も聞けなかった。騒音にかき消されて。

《若い国》
 翌日アザーンを午前6時前に聞いた後、少し温かくなって外に出て気がついたのは、「若い人たちが多い国」ということです。それはどうやら間違いない。帰ってきてジェトロのこのサイトで見たら、平均年齢が29.7才とある。そりゃ若い。ベトナムとほぼ同じです。ベトナムの若者は皆ヘルメットをかぶってバイクで移動している。ここではそんなことはない。歩く人、トラムに乗る人、渡し船でボスパラスの海峡などを渡る人、地下鉄を利用する人、車で移動する人、いろいろですが、でも若い。むろん、長く生きてきた顔に皺のある人もいるが、総じて少ない。

 「若者が多いが、長期政権が続いている国」となれば、当然ながらいろいろと問題が起こる素地がある。無論のこと2013年からトルコはタクシム広場の一角のゲジ公園の開発問題や政権の腐敗問題などで世界を騒がしている。前者はイスタンブールがオリンピックを獲得できなかった一つの要因ともなった。5回連続の敗北ということもあってトルコとしては相当ショックだったらしい。政府、市当局の担当者は無論、多くの国民も。

 しかし冷静な声も当然ながらある。空港からホテルに送ってくれた前述のトルコ人の若い男性(大学で映画を専攻して、卒業したばかりだとか)が最初に口にした単語の一つは「クロサワ」で、オリンピックに話題が及ぶと「東京に負けたことは残念だけど、良かったと思っている。イスタンブールはまだ準備が出来ていない」と言った。理由は

  • トルコ人はそもそもレスリングとバレーとあとサッカーなどいくつかの競技を得意とするだけ。そもそもこの国ではスポーツはあまり人気がない
  • オリンピックを誘致するだけのインフラ(交通など)が整備出来ていない

 だそうだ。スポーツがあまり好きじゃない? その傍証はある。私は国内、海外どこでも基本的に朝少しジョギングしたり、歩いたりをしているが、東京では当たり前で半ばが多いのにイスタンブールで朝ジョギングをしている人は私以外では誰一人としていなかった。冬という季節のせいかもしれないが、先日零下の諏訪湖周りでジョギングしている人を何人も見たので、気温の問題ではないとも思う。

各種ジェトン 乗り物によって違うのが面倒 実はトルコ人が走るのを見たのは、横断歩道以外で車道を横断していた人が、車の急接近で走って渡りきったときだけだ。信号などあってなしが如くだから。しかしそのトルコに日本は日韓共催のワールドカップで負けた。その試合を私はあの畑の中の仙台のスタジアムで見てしまっている。

 それはそうと、イスタンブールは大きな街だ。人口は実質1800万ほどだそうだ。"実質"というのは、オフィシャルな1500万に様々な形でこの大都会に入ってきている人を入れたら....ということらしい。実は海や海峡や入り江で区切られている面もあるので、歩くと割合簡単だ。坂を上がればガラタ塔とかタクシム広場に到着するし、坂を下りていけば港に着く。しかし一杯ある皆をを繋ぐ海が実はイスタンブールを繋いでいるのだ。

 区域で見ても大きな都市だ。そしてアジアとヨーロッパの境目と言われるボスポラス海峡すべてが行政区域内だ。それって凄いことですよね。巨大な海峡ですから。そこを大小様々な船が行き交う。港も並ぶように一杯ある。船と車が忙しく行き交う有史以前からの国際都市。トルコの人口(約7500万人)の四人に一人が住む。

 実際に街を歩くと実にいろいろな人が居ることが分かる。アラブ系、インド系、アフリカ系、アジア系などなど。むろん欧州系もいる。加えて観光客の多い街なので、本当に「世界中の人間に会える」といって過言ではない。

ボスポラス大橋 世界中に今は「国際都市」と名の付く都市が散らばっている。しかしこのイスタンブールほど古い歴史を持つ国際都市は少ないだろう。「イスタンブール 歴史」で調べたらもっとも徹底していると思われるサイト(「http://en.wikipedia.org/wiki/History_of_Istanbul」)に詳しい記述があった。

  Humans have lived in the area now known as Istanbul since at least the Neolithic. The earliest known settlement dates from 6700 BC, discovered in 2008, during the construction works of the Yenikapi subway station and the Marmaray tunnel at the historic peninsula on the European side.The first human settlement on the Anatolian side, the Fikirtepe mound, is from the Copper Age period, with artifacts dating from 5500 to 3500 BC.In nearby Kadikoy (Chalcedon) a port settlement dating back to the Phoenicians has been discovered.

 今が何年かというと紀元2014年でしたっけ。それがイスタンブールの歴史は紀元前6700年に遡ると。気の遠くなるような古さを持つ街であり、昔からコスモポリタンなんですよ。街のあちことに、ジェノバ人が住んだ場所、ユダヤ人が住んだ場所などいろいろな民族の住んだ一角がある。そして、東ローマ帝国の名残、そしてその後のオスマントルコの名残。だから、街を歩いていてとっても楽しい。お店も実に多様だ。遺跡も多い。

《続く政治不安》  もっともこの国は2013年から急に政治的に不安定になってきた。今のエルドアン首相は既に約10年の任期を終えようとしており、その間の大部分は安定した政治を誇ってきた。その間に経済発展に力を注ぎ、トルコを世界でも「成長可能性」という意味で注目される国にしたのだ。しかし、長期政権は確実に国民の間に飽きを生む。そして、政権の長さは権力側の気の緩み、傲慢、もっと具体的には「汚職」などの問題を生んだ。トルコではイスラム教をどの程度政治に持ち込むか、持ち込まないかの哲学論争も一貫して続いている。

 世界が急に「トルコ」の名前を頻繁に聞くようになったのは、去年の春だ。イスタンブールの新市街の高台の上には「タクシム」という広場があって、その一角にゲジ公園という公園がある。イスタンブール市民の憩いの場だそうだが、そこが世界的に有名な対立の場となった。エルドアン政権側がその公園の一角の再開発をイスタンブール市に提示したのだ。

彼等はいつでもいるんですよ。イスタンブール中から集まってきている印象 しかし歩けば直ぐに分かるが、「新市街」と言っても由緒ある街の一角をなす地域」の一部であり、「ここを開発する」と言われても、「どう開発されるのか」「どうせ政権の中に良い汁を吸う連中がいるのだろう」といった思惑を生じやすい。長期政権は人々が飽きていると言う意味で、そうした反感を生じやすい。アラブの長期政権も倒れたのは「長期政権故」の面がある。イスタンブールの若者が反対に立ち上がった。

 そもそもエルドアン首相の支持基盤は脆弱になってきていた、との指摘もある。ニューヨーク・タイムズは、『エルドアン首相は国民の約半分の支持を得ている。しかしもう半分はそれぞれ政治観点の異なる世俗主義者、自由主義者、有識者、少数民族だが、彼らは徐々に「反政府主義」で団結している』と報じていた。またこれは実際に私が経験したのだが、トルコではお店でアルコールを買おうと思っても午後10時以降はダメ。この「アルコール規制強化」や「巨大都市開発計画」に若者の一部は怒っているという。

 首相の舌禍を指摘する向きもある。私は聞いていないが、エルドアン首相は2012年に「女性は少なくとも3人子供を産むべきだ」と発言して国民の反感を買った、とニューヨーク・タイムズは伝えている。同首相としては、今は7500万人くらいの中東随一の国の人口を一億人くらいにしたいのかも知れない。その場合、トルコの中東における、また国際政治における政治的発言力は当然増大する。

 去年の6月から7月の危機に続いたのが、2013年の12月に起きた危機だ。それは政権内部から生じた危機と言っても良い。同国の司法勢力がエルドアン首相の懐刀の閣僚三人の息子を含む多くの人々を突然"汚職"の名目で逮捕したのだ。同首相が出馬を予定している大統領選(2013年8月)を控えての政権内混乱劇。

 この問題はすんなり耳に入ってきて納得出来るものではない。司法と言えば権力機構の一部であり、通常はそれが自ら権力基盤を揺るがすようなことをする訳がないからだ。しかしトルコの場合は複雑だ。同じイスラム勢力の中でも、宗教をどの程度政治の中に入れるのかなどでそもそもいろいろな考え方が存在するし、複雑な人口構成をしているだけに、様々な勢力がある。一般的にトルコの司法勢力には今はエルドアン首相と敵対しているギュレン師(実質的にアメリカ亡命中)の影響力が強いと言われる。その勢力がエルドアン追い落としを狙って政治的混乱を引き起こした、との見方がある。

 実際にエルドアン首相はこの3人の閣僚を含む複数閣僚を入れ替えるなど「内閣改造」を余儀なくされた。そして「これは静かなクーデターである」と述べたのである。実際に逮捕劇はギュレン師の影響下にある警察や検察の一部が、時には上司への報告なしに行ったと言われる。エルドアン首相が2014年早々に日本に来ている間も進めたのは、「関連した警官や検察官のクビのすげ替え」で、その規模は数百人に達したとの見方もある。

 トルコの政治危機がどのような今後どのような展開を辿るかは、他の中東諸国の急激な情勢変化を見ても予測しがたい面がある。新年から数日間の英語紙をイスタンブールで読んだが、「トルコ国民は2014年を増税と値上げのダブルパンチの中で迎えた」との記事が結構多かった。私がいる間でもあれだけトルコ・リラが下落したのだから、輸入物価の上昇は避けられないだろう。2014年は全般に「途上国」が難しい経済運営を強いられる、と見られる。トルコという国にとっては、恐らく選挙も大いに2014年は「試練の年」ということになる。

 しかしそれにしてもイスタンブールはトルコという国以上に、興味深い、行って楽しい都市だ。それは改めて強調しておく。また行きたい。一言付け加えると、とっても安全な街だ。夜、朝、出歩いても危ない印象はしないし、危ない目になど遭わなかった。そうは言っても海外の街なので周囲に注意を払うことは必要だが、その意味でも快適な街だった。


2014年01月02日(木曜日)

 (06:25)まだ到着して一日しか実質的にたっていませんが、「なんか好きになる予感」がする街です。いろいろな大陸、文化、人種のクロスロード。決して豊かではないが、いろいろな可能性を秘めた街だと思う。

一日に4回も乗りました。トラム 東京を31日の昼頃出て、イスタンブールに着いたのは同日の午後七時ごろでしたかね。確かなのはちょうど12時間くらい飛行機に乗っていたこと。地球儀を回すと「ヨーロッパより近い」と思うが、どんでもない。北回りの航路ですから、欧州並みに時間がかかる。

 着いたらホテルはいきなりガラ(大宴会)の用意の真っ最中でした。スペインのホテルて自分も参加してガラを過ごしたことはありますが、今回は予約が間に合わず。午前2時くらいまでホテル全体に音楽が響いていた。ちょっと晦日の街に出ましたが、あちこちのホテルやお店には飾りが付いていてきらびやかでした。

 当然街の動きは元旦はスロースタート。しかし午後になると凄い人出になりました。スイーツは甘過ぎそうだし、料理も繊細ではない。人々が着ているものも、それほど綺麗ではない。というか、要するに着ているものは「黒基調に統一」という感じで、それ以外を着ていると浮いて目立つ感じ。

 イスタンブールに関してメディアで目にした「政治的緊張」は見る限りではない。元旦の夜にタクシム広場を通って繁華街を一周しましたが、何もなかった。まあ元旦は休み、というこでしょうか。

2014元旦の夜のタクシム広場近くの繁華街 空港からホテルに送ってくれたトルコ人の若い男性(大学で映画を専攻して、卒業したばかりだとか)が最初に口にした単語は「クロサワ」で、あと話していると「イスタンブールが東京に負けたことは残念だけど、負けて良かったと思っている」と一言。理由は

  • トルコ人はそもそもレスリングとバレーとあとサッカーなどいくつかの競技が得意だけ
  • そもそもこの国ではスポーツはあまり人気がない
  • オリンピックを誘致するだけのインフラ(交通など)が整備出来ていない

 を挙げていました。確かにテレビをつければ、スポーツ番組と言えばサッカーかな。あとはあまり中継がない。確かにそうかもしれない。これから街を走りに行きますから、潜在的なランナーの数も知れる。

 しかし魅力的な街です。今まで見た映画の影響かも知れないが、「混濁」「混沌」がこの町のテーマのような気がする。統計上の人口は1500万だそうですが、ガイド君によれば「おそらくは1800万人の人間が住む街」がイスタンブール。

一時日本でも話題に。ショーですね、これは 「酒は10時以降は売らない」などお堅い、宗教的な面もあるが、街を歩くのは楽しい。何せ確実に日本列島に人が入ってくる以前にアフリカから出た現世人類が住み始めたと思われる土地だ。いろいろなものがごっちゃになっている。

 人を見るのが楽しい。本当にいろいろな人がいる。バケーション・シーズンだから世界中から人が着ているということだろうが、インド系もいれば、典型的なトルコ人もむろんいる。「北欧から遊びに来ているのか」という人々もいる。

 総じて人々は親切です。聞けば英語で一生懸命に答えてくれようとする。たどたどしくても通じる。ストリート・チルドレンはいるし、お乞食さんもいるが、それは世界各国で見られる現象です。

ボスポラス海峡観光船から見たイスタンブール旧市街 何よりもヨーロッパとアジアを分けるボスポラス海峡が街を分断していて、歴史上いろいろな物語を生んでいるのに、両岸を含めて一つのイスタンブールという行政区に入っているのが面白い。旧市街から見るガラタ塔とその周辺は綺麗だし、反対から見る旧市街もモスクとその周辺、そして街の色使いが綺麗です。

 来たばかりですが、とにかく歩き回るつもり。と書きながら、既にトラムには1日だけで4回も乗りました。一回150円の乗り放題。湿度は高いが天気は東京そっくり。違和感はない。

 新しい年もよろしゅう。皆様にとって良い年でありますように。


2014年01月03日(金曜日)

 (04:25 日本時間11:25)街ベースの値動きで見ると、確かにトルコ・リラ(tl)相場は混乱状態です。どこでこの通貨を買うのが良いのか良く考える必要がある。

 私が東京を出る時に成田で、「トルコ・リラは現地でお買いになった方が安いですよ」と言われながら、「でもチップも必要だし」と思って両替所(確か三井住友だった)で買ったトルコ・リラは、「2万円に対して290リラ」でした。「こんなもんか」と。

 しかし到着の翌日の元旦に街の両替所(旧市街には山ほどある)の比較的大きな店で200米ドルをトルコ・リラに替えたら、「なんと450リラ」ももらえました。これには仰天。ホテルでは替えません。だって手数料が5%ほどかかりますから。

 結構キャッシュが必要なんですよ。トラムやボスポラス海峡地下鉄に乗ったり、タクシーに乗って移動したり、食事をすると結構リラ・キャッシュが必要になる。トルコではとても信頼できるところでしかクレジット・カードは使う気になりませんから。

 で昨日、1月2日に「今度は銀行を使ってみよう」と思って開いていたHSBCの支店で200ドルを替えようとしたら、提示された相場が「220リラ」なぜだか知りませんが(多分間違い....?)。

 「あほか」と思って、「じゃ、替えない」と言って米ドル・キャッシュを取り戻して街のまた信頼できそうな両替所で200ドルを替えたら、なんと「470リラ」をもらえました。ははは、凄いでしょう。

 つまり私は米ドルや円キャッシュをトルコに持ってきたことにより、米ドルや円に対するリラ急落の即時的恩恵をもろに受ける身になっている、ということです。今日はcitibankのATMから円からキャッシュを引き出してみよう.....。イスタンブールには少なくとも4カ所くらいある。

 こんなことは私の人生でそうはない。ニューヨークにいる4年間は、受け取っているドルの給料部分がみるみる目減りする期間でしたから。赴任の時に持って行った円はごく僅かだったから、全く恩恵なし。

 今回のトルコですが、確か日本を出ると前にちょっとチェックしたら、1リラが63円ほど買える状態だった。それが新年になって通貨表を見たら、どう見ても1リラは50円弱しか買えない状態になっていた。両替をどこでするかによるが、「リラ暴落状態」というわけです。街の両替所が一番相場に敏感です。

 今朝のウォール・ストリート・ジャーナルのネットには「Dollar Is Off to a Roaring Start in the New Year」という記事があって、副見出しが「The Euro,Turkish Lira, South African Rand and Brazilian Real All Tumbled」とある。つまり私は最強のドルという通貨で、最弱のトルコ・リラをほぼ連日買っている、ということになる。これはなかなか気分が良い。

 今見ると、年明けのドル・円は104円の半ば。つまり、円だけは対ドルで上昇している。まそれはそうでしょう。年末は異常に円安が進みましたから、新年は「ポジションを一端整理して....」ということになる。その他のほぼ全ての通貨(ユーロを含む新興国通貨)に対しては、「ドルは強基調での2014年迎え」となっている。

 ユーロが安いのは、これも円とは逆で年末に強すぎたからです。年が明けて、「どちらの通貨が強くなるかな」と考えれば、「taperingもあるし、経済を強くなりそうだから...」とドルをフェーバーに考える人が多くなる。

 実はユーロキャッシュももってきているのです。トルコの人々は、「リラか、ユーロか」と聞く。多分ドルよりもユーロが欲しいんでしょう。トルコはユーロに入りたいわけですから。政府だけでなく。しかしもってきたユーロ紙幣は少なめなので、ユーロはまだ使ってありません。あとでどのくらい通用するか試してみるつもり。

 急落を見て、トルコ・リラを含む途上国通貨の運命は、今年は少なくとも前半は厳しいと思う。tapering ということは、「もう既に練習した」と言っても、そういうことなのです。「持っていて米ドルの方が安定的に儲かる通貨になった」ということ。加えてトルコには政情不安というやつがある。街は平穏ですよ。しかし世界の見方はそうなっている。

 先進国通貨間の戦いの予想は結構難しい。105円台から104円台への新年の円高は「一時的」な可能性が高い。昨年末にかけてのユーロ高は「行き過ぎ」でしょう。

 こう書いている最中にも一度停電した。ホテルだから直ぐに回復するが、10年ほど前にインドにいた時を思い出す。良い悪いではない。「途上国」というのはそういうくくりだとも思う。今年はやはり「先進国の年」になるような気がする。

 繰り返しますが、イスタンブールは好きですが。


2014年01月04日(土曜日)

 (04:25 日本時間11:25)「海岸の街に相応しくない微妙な土埃の気配と、たばこ臭さと、そして坂の街」というのが今までイスタンブールの市内を2日間動き回った印象です。

 土埃 ? これはユーラシア大陸のアジア部分では常に感じる雰囲気です。王の命令の下、右に左に大陸を駆け抜けた数多くの軍隊がその移動の時に巻き上げたであろう土煙を連想させる。なにせこの大陸には確率的には緑が圧倒的に少ない。日本に比べれば。

ガラタ塔からボスポラス海峡大橋を望む 緑が少なく、かなりの部分は砂漠で、そして山が赤茶けているとなれば土煙があがるのは自然です。だから、総じて車は土埃をかぶっている。タクシーもそう。ウラジオストックほどではないが、「この車はいつ洗ったんだい」というほど土埃をかぶっている。

 「たばこ」。とにかくよくタバコを吸う連中です。歩きタバコも平気。英語には「smoking like a Turk」(トルコ人のようにタバコを吸う)という表現があるようですが、タバコ人口が激減した東京から来ると非常に違和感がある。しかしこの街で歩きタバコを避けようとしたら、人出が多いところには行けない。だから街中、土埃とタバコの臭いがする。

ボスポラス海峡に沈む夕陽  そして私のイスタンブールに対する印象は「坂」です。とにかく歩くと坂がある。666もの名前の付いた坂がある東京も多分真っ青でしょう。トラムは端から端まで乗って街の雰囲気を味わったのですが、その東サイド(北でもある)の終点「カバタシュ」(新市街の下のボスポラス海峡沿いにある)から、タクシム広場まで歩いたのです。

 一度同じ区間を地下鉄で移動したのですが、一駅だけの地下鉄がずっと上がっていた。だから、地下鉄の床も一両の中で段差を付けて三つくらいに床調整してあるのです。そうでないと、人が転んでしまう。世界であんな地下鉄はここだけではないか、と。

 だから、「かなりの坂」であることは想像できた。「それを確かめよう」とカバタシュで降りて、自分の足でiphone5c(ドコモマシンでよくトルコで繋がった)のグーグルマップを頼りにタクシム広場まで歩いたのです。もう本当に死にそうになりました。冗談ではない坂なのです。なのに住宅街なのです。おばあさんはどうしてる ?

ガラタ橋で釣りをする人々 結構釣れていた しょうがないので、途中で「パークなんとか」というちょっと高そうなホテルのロビーで一休みして(ここのケーキは日本に近い大きさで、美味しそうだった)、やっとタクシム広場に着いた。カバタシュでトラムを降りたときにグーグルマップで距離を調べたら1.7キロと出た。「ちょろい」と思ったのが間違いだった。

 坂が多い、ということは横浜の山の手のように「景色の良いレストラン」「景色の良いお茶する店」が多いと言うことです。とても全部は回れない。いろいろな情報もあったのですが、手っ取り早くガラタ塔(そもそもこの塔の根っこに来るのが大変な坂で大変なのです)に上った(エレベーターがある)折に、その展望台の下の階にレストラン「ガラタ塔(Galata Tower)」があったので、空いていたので入ったのです。

 ここは素晴らしく景色が良かった。当たり前です。高台の一番上にある。ボスポラス海峡大橋も、ガラタ橋、その先の旧市街も実にくっきり見える。ブルーモスクもアヤソフィア博物館も。ここは食事もまずまず。ゆっくりチャイを飲んで時間を過ごしました。

 あそうだ、トルコの人たちの名誉のために書いておくと、2日の当地の英字紙「Daily News」にはWHOの発表として、「トルコで日常的にタバコを吸う人の割合は、2008年の32.2%から2012年には27.1%に減った」との統計が載っていた。「ああそう」という感じ。だって、街を歩けば歩きタバコに当たる、というくらいまだ居るわけですから。

 別の表現でイスタンブールを表現してみると、「膨大でどこまでが境目か分からない人口密集地帯」と言える。何せ、総人口7500万人が日本の国土の2倍に住む国にあって、イスタンブールの人口は公的には1500万、推計では1800万人。

ガラタ塔からガラタ橋、その先の旧市街を望む つまり、トルコの人口の4人に一人はイスタンブールに居る、ということになる。何という集中か。その集中ぶりは韓国のソウルに等しい。韓国は人口5000万に対して、ソウル人口は1200万。東京に住む日本人は10人に一人です。

タクシム広場近くを走るオーソドックス・トラムが急遽ロックバンドの舞台に それだけ人が集まれば活力もあるし、その一方で絶望と希望が入り交じる。人々の目は総じて、「欲しいものあり」の目をしている。もっと言えば穏やかではない。ところがトルコ人は一言話すと冗談を常に言う、人の良い連中となる。

 トプカプ宮殿をじっくり見学するに際してガイドマシンを借りたのですが、その時に「パスポートか運転免許証をお預かり.....」となる。回収を確実にするためですが、午後5時の閉館(ハーレムは4時)を少し過ぎてマシンを返すときに(人影もまばら)、担当者は私の運転免許証の写真を見ながら、「宮崎駿さん」と一言。笑えた。

 日本の女の子を追いかけて1ヶ月赤坂に住んでいたという宮殿の土産物屋勤めのおにいちゃん、その前を通りかかっただけで「安いよ」「安いよ」と声をかけてくる売り子達、キロ単位でスイーツを売る店(それ事態が驚き)でおもしろがって「200グラムちょうだい」と言ったら、そこから「おまえは何人だ」から始まって話題が広がったおっちゃん。

 聞かれて「日本人だ」と言うと、必ず目を一瞬下に下げるトルコ人。特に男。あれは一体なんなのか。それに続く言葉は総じて「賞賛」だ。


2014年01月04日(土曜日)

 (19:25)今日のテーマは、「アジアとヨーロッパを分け新鮮そうな魚が一杯、野菜も美味しそうでしたるボスポラス海峡」とよく言われるが、本当にこの海峡を挟むと何か違うだろうか、そのとっかかりぐらい掴めないか、という点でした。

 再びシルケジ(欧州サイドの地下鉄とトラムの連絡駅)から地下鉄に乗ってウスクダール(アジアサイド)に出て、街を歩いてみました。次に行くカディキョイよりも伝統的な街だと聞いていたので。まず「伝統的なアジアサイド」を見ようと思って。気づいたのは以下の点です。

  1. 人がまばらで、明らかにタクシム広場の周辺の人とは違ってゆっくり歩く
  2. 伝統的イスラムの服装をした女性の数が欧州サイドよりかなり多い
  3. 床屋が多い

 くらいでした。ちょっと商店があって、直ぐに住宅街という仕掛け。その住宅街に上がっていく坂道のきついこと。イスタンブールは欧州サイドでもアジアサイドでも坂道はきつい。一回りした後、波止場の近くのお店で30分くらいチャイを飲みながら街を歩く人達を見学。

見ず知らずの人が乗り会う面白いタクシー 次にカディキョイに移動しました。例の乗り合いタクシー(ドルムシュ)で。これは便利。路線が決まっているので。8人乗りくらいの3列仕様。面白いのは、さっと一番後ろに乗った人は運転手さんに直接料金を渡せない。で、二列目の人間(私はそこに座っていた)に何も言わずに料金を差し出すのです。後ろから。

 それを二列目の人間は黙って運転手に渡す。おつりがあったら逆方向にお金が動く、というシステム。誰も何も言わない。しかし私はニヤニヤしていました。だって面白いじゃないですか。でも会話を着ていると観光客は私一人(今日は一人で行動)で、あとは全部たまたまでしょうがトルコ人でした。

要するに豪華な地下の貯水池 カディキョイは同じアジアサイドでもウスクダールとは全く違う。とても洒落た街です。鮮魚、新鮮野菜を売っている通りがそのままレストラン街に繋がっている。それが風情があって良い。煩い誘いの言葉も少ない。「この街ならしばらく居ても面白そうだ」と思いました。

 僅か二つの港に合計4時間くらいしかいなかったので(カディキョイでも1時間くらい海岸でチャイを飲んでいました)、何か発見できたかと言えば、「そうじゃないよね」ということになる。しかし雰囲気は明らかに違う。特にウスクダールはイスラムの色彩が強いように思う。特に女性に。

ブルーが切れなボスポラス海峡を渡る地下鉄の内部 イスタンブールのアジアサイドには、1800万人のうち500万人くらいが住んでいるらしい。それだけで大変な人口だ。確か名古屋より大きい。今調べたら名古屋は230万人でした。

 ま、イスタンブール人はそれぞれの思いは違うでしょうが、「アジアとヨーロッパの境目に住む民」ということになる。残念だったのは、この時期いつもイスタンブールの天気が良くなるのは午後遅くなって、ということ。私がカディキョイを出た午後2時過ぎはまだ曇っていて、天気が良くなかった。

 しかしカディキョイからの連絡船でガラタ橋の袂(エミノニュ)に向かうときのカディキョイの景色は抜群でした。カモメが煩いくらいに飛んで。また来てもいいな、と思う瞬間でした。この町には魅力がある。

 天気が良くなってから、旧市街に戻って地下宮殿(何と皮肉な)や、その他のミュージアムを見学。宮殿や博物館はそれぞれ魅力があるのですが、いろいろな人がいろいろ書いてるので、コメントはしません。今日で実質最終日だな、寂しい。


2014年01月05日(日曜日)

 (09:25)最終日なので、早起きして夜明けの30分前にホテルを出て、エミノニュまでトラムで移動し、その後ガラタ橋を経由してガラタ塔まで走ったり歩いたり。帰りは足で全行程をホテルまで。

凄く釣れていました。自慢げだった 本当はボスポラス海峡に上る日の出を写真に撮りたかったのですが、雲が重く立ち込めてその気配はなし。その替わり、橋の上で多分午前3時頃から活動している人を観察しました。

 私が行った午前7時前後はもうぎっしり。橋の上は。真ん中は船が通るので糸を垂れる人はいないのですが(よって船用の信号が橋にはある)、両サイドはちょっと間に割り込むのが難しいほどの数の釣り人。朝も、昼も、そして夜もここには人がいるんだ、と思いました。トラムに乗って橋に向かう人も何回も見かけました。

 人によっては相当な収穫のようです。釣り人に釣れる魚の名前を聞いたら、「ケファ」と答えたような気がした。違っているのかも知れませんが。橋げたの上に釣り竿を固定する道具もあって、なかなか手が込んでいる。この橋は、世界で一番人が滞在する橋かも知れない、と思いました。

トプカプ宮殿の入り口の前を走る早朝のトラム それはそうと、「少し歩けばどこにでもバザールがある」といっても過言ではないイスタンブールで考えたのは、「今という時代は何とモノが溢れかえっている世界なのだろうか」ということです。

 戦後の日本は「モノがあふれる社会を作った」と言われた。しかしそれを言うなら、今は北朝鮮とか一部の最貧国を除けば、本当に「モノ」が世界中で山ほどある時代です。バザールでは、売り物を所狭しと、天井まで使って展示する。時には歴史的に価値があるとも思える城壁にキャリーバッグを積み上げているケースもある。潤沢感、豊饒感が凄い。「作りすぎでは...」とも思う。

ガラタ塔に向かう面白い階段 たから考えたのは、それが黒田さんの狙いだとしても、今の世界でインフレを起こすのは容易ではない、ということです。とにかくどう考えても「モノ」があふれている。マネーをいくら供給しても、モノの増加に追いつかない。だからのアメリカ、ヨーロッパでのディスインフレであり、日本のデフレ脱却の難渋です。

 潤沢に供給されるものは基本的には安くなる。今はマネーも潤沢に供給されていて、その値段である金利も低い。その一方で、「モノ」も安い。イスタンブールで商店を回っていると、

  • 一体これを誰がどのくらいの賃金で作っているのか
  •  商品を並べている商店も売れる見込みがあまりないのに、売る努力だけはしてい   る

右下が釣り竿を橋に固定する木製の道具 と思った。売れない商品はほこりをかぶる。イスタンブールではハタキではたいても商品の劣化は覆い隠せない。だから余計な心配だが、「一体今後売れるか」と思ってしまう。それでも世界は凄い勢いでモノを生産しているのです。

 北朝鮮を除く世界中の国が豊かになることを目指して動き始めた今の世界。市場経済参加者は実は69億を超えるのではないか。そしてそのかなりの人の労働賃金は非常に安い。

 加えて、原材料まで生産革命の動きが及ぶ。オイルシェールの生産が続く限り、もう石油価格の上昇が世界のインフレを誘引することはないかも知れない。だとしたら、どうやったら今のアメリカやヨーロッパのディスインフレは解消できるのか。

 ま、今の世界も依然と同じように難しい問題を抱えている。
ycaster 2000/12/03)



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