Essay

瓦解した帝国、先進国への跛行的な前進~2011年シベリア鉄道・サンクトペテルブルクの旅~-Cyberchat>

 2011年の09月08日から18日まで、短い期間だが私として今まで1度も足を踏み入れたことがなかったロシア(旧ソ連)の地を訪れた。成田からウラジオストックに飛び、そこで一日滞在した後にシベリア鉄道に乗り、シベリアの中心都市イルクーツクに行き、そこでバイカル湖を見て、今度は飛行機でサンクトペテルブルクに行くという往路。帰りはサンクトから飛行機でウラジオに飛び、そこで国際線に乗り換えて成田に帰る、というルート。

すさまじい量の食材が揃っていたロシアのスーパー。サンクトペテルブルクの空港の近くで 楽しみでした。何せ初めて行く国。「早く機会を見て行きたい」と思っていた。見なければ何も始まらない、というのが私の基本的なスタンスだ。昨年チベットに一緒に行ったグループとの計画が持ち上がったときに、歓迎裏に直ぐに決断。直前にロシアで飛行機が落ちたし、ロシアの国内政治情勢(チェチェンなど)も不安定であちこちで時間を置きながらテロが起きていることなど、ほんの少し頭をよぎったが直ぐに消えた。「良い機会。今がチャンス」と思った。ここの文章は、その10日間の印象記です。最初に総論を書いて、あとは各日に何を思ったかを綴った文章をday by dayから、そのまま収録した。

 いくつかの印象を最初に項目で記したい。

  • 非常に大きな括りで言うと、今回の10日間の旅でロシアに対して自分が持っていたイメージや情報に新たに大量の記憶と印象、それに情報が加わり、見方も大きく変わった。良いとか悪いではなく、「ロシア理解の複雑性が増した」という表現が正しいかも知れない。「結構面白い隣国を持っている」という気持ちだ

  • まず2011年のロシアは、世界でも類を見ないような「大量消費社会」に突入していた。何せモノが溢れかえっているのだ。モノを売っているお店(スーパー、市場、デパート)などに機会があるごとに入ったが、「家庭で必要とするもの」は多種多様に、かつ実に豊富に置かれていた。特に食材は凄まじかった。量では完全に日本を上回る。日本のように食品がキラキラ輝いているということはない。魚の売り方も雑だ。しかし、量と種類は凄い。サンクトペテルブルクにカルティエがないなど、まだアンバランスはある。しかし、ソ連の時代の「商店に何もなかった時代」は過去だし、90年代に聞いていた供給の不安定さは完全に消えたように思えた。社会の不安もだいぶ解消し、ある種の秩序が戻っていた。ロシアの今は、「完全大量消費社会」だ。人々の消費活動は過去への反動かも知れないが、実に活発に見えた

  • それとの関連で言うなら、ウラジオストックでもイルクーツクでも、そしてサンクトペテルブルクでも道には車が溢れかえっていた。二種類ある。路上駐車と走っている車。事故が多発し、渋滞が激しい。ロシアでは「車庫証明が要らない」(後で紹介するセルゲイ君)から、都市の許容量(駐車スペース、道路の量)に関係なく車が増える。行った三つの都市とも、「車の数は許容量」を明らかに超えていた。にもかかわらず増え続けている。結果、道という道に車が奇妙な形で駐車している。縦だったり、斜めだったり、直角だったり、二重、三重だったり。車がそれぞれあさっての方向を向いているケースもある。地下駐車場も、機械式駐車場も見なかった。我先にと道路脇に駐車する。もう限界だろう。だから駐車場ニーズは高まる

  • 大量消費社会だが、一人当たりGDPで1万ドル(日本の四分の一)のロシアは、まだ開発途上国である。ウラジオストックに入った瞬間からサンクトペテルブルクに到達するまで、日本に居るときよりも鼻くその色がかなり黒くなった。明らかに極東とシベリアの空気は日本より悪い。どこでも車は土埃だらけ。ウラジオストックなど東海岸、それに極東部分は殆どが日本車(かつ中古車)、西に行くほどドイツ車が少しずつ多くなるなど変化はあるが、シベリアは道路の整備具合もいまいち。「田舎が貧しい」というのが私の「開発途上国」の定義だが、その範疇にロシアは入る

  • しかしサンクトペテルブルクは極東やシベリアとはかなり色合いが違う。そこは明確に「ヨーロッパ」だった。ロシアの皇帝達がヨーロッパを取り入れたくて作った街だから当然だが、それよりも人々の立ち居振る舞いが欧州的で、街も洗練されている。見所も沢山ある。東と違って、車も完全左ハンドルとなる。たまたまかもしれないが、空気も澄み渡っていた。西と東のロシアはそれほど違う

  • 旅を通じて印象に残ったのは、ロシアの男達の「俺は~~~に不満がある」という憂鬱顔だ。彼らが声を高くして談笑する姿はほとんど見なかった。酒を飲みながら、静かに話す。挨拶もあまりしない。これについては、後で考察する。シベリアの女性はぶざまに太った人も多かったが、微笑み返す余裕のある人が多かったように思う。サンクトペテルブルクの女性はスキニーでお洒落だ。ロシア全体で女性に元気と活力がある。なぜそうなのか?

  • ロシアは実に多様な人種が住む。イルクーツクだけで数十とターニャ(同地のガイド)が言ったような気がする。数え方にもよるのだろう。もともとブリヤートなど原住民と比較的平和裏に生活を築いてきた。加えて、「ロシア人は賃金の低い仕事はしない」(ターニャ)と言う中で、中央アジアからの働き手を多く招き入れてきた。しかしそれがロシアの西、特にモスクワなどで「俺たちの仕事を奪っている」と主張する若者達の過激な行動に繋がっている。サンクトペテルブルクの空港の出発ロビーでは数多くの出稼ぎ労働者を見た。人種的平和がいつまで続くのかには疑問も残る

    一方、牧歌的なバイカル湖のほとり、日本人墓地のある村

  • ロシア社会の中にあって、豊かな層は確実に生まれている。それも飛び抜けて豊かな。写真の通り、サンクトペテルブルクではハマーのストレッチを見た。私はアメリカでも見たことがない。彼らが豊かになるプロセスには、疑惑の部分(中国でもそうだが、体制が切り替わる際の国家の富や権限を不法な方法を含めて摂取・利用したもの)と、人々の資本主義に対する無知(例えば"株"に対する)を利用、ないし先見の明をもって収穫した部分がある

  • 社会は変わり始めている。イルクーツクの市長選でモスクワ推奨の人を現地のビジネスマンが破ったりもして、静かな市民革命の萌芽も見られる。しかし国全体としてみれば、依然として強権的な、西側の民主主義国から見れば異質な社会を形成しているのがロシアだ。旅行者の我々にも、ロシア社会が持つある種独特な緊張感が時として伝わる。寒いとか、KGBを恐れて自由な発言が出来なかった過去や、いろいろな要素があるのだろうと思う。田舎に行けば行くほど、ロシア人は海外からの旅行者をじっと見ている

  • 食事は、予想していたよりはましだったが、多様性はやはり日本の比ではないし、一つ一つの味付けも塩とか燻などにやや偏りが見られる。サラダは何故か知らないが細いスティック上に切り刻んだものが極東とシベリアでは出てきた。バーニャカウダではない。その上にドレッシングが既に薄くかかっていた。ちょっと塩辛い。旅行中一回も「ドレッシングを選ぶ権利」を行使できなかった。サンクトペテルブルクでは慣れ親しんだ葉っぱのあるサラダだったが、それでもドレッシングは既にかかっていた。いくつかの店のボルシチなどは"ナイス"と思ったが、かなりのケースにおいてロシアのロシア料理は改善の余地ありだ

  • 時々「エネルギー亡き後のロシア」を考えていた。90年代の混乱期を経てロシアが再び注目される国になったのは、「石油、天然ガスなど豊かな資源を持つ」という理解だったが、今回それに「大量消費社会」が加わった。「大量消費社会」には、何もお店には無かったソ連時代や混乱の90年代の反動もある。資源をロシアは対ヨーロッパや対中国、日本で武器にした。しかし、それらはいつか枯渇する。「どうする」が今の政権の一つの課題だ。ロケット技術など非常に高い技術、人材を持ちながらも、ロシアに世界に誇れる工業製品はない。イギリスを見ても、アメリカを見ても、世界に誇れる輸出品があってこその高い生活水準の維持だ。ロシアにはまだ「それが出来る」という確信が私にはない。車にしろ何にしろ、凄まじい輸入品天国だ

  • ロシアの古き建設物をまじまじと見ると、驚くほど荒削りだ。特に極東、シベリアでは何の建造物であれ、細部を見ると凸凹している。気にならないのだろうか。イルクーツクで泊まったホテル(まあ実態はロッジ)の廊下は歪んでいたし、ドアもようやく閉まっているという状態。カーテンレールはなく、木の棒にカーテンが結びつけられていた。多分シベリアの昔の「なるべく釘を使わない工法」にこだわったのだろう。しかし、あれほどそこら中が歪んだ家屋を建てなくても良いのに」と思う

  • day by dayを出来るだけ更新していたので、それを見た人から旅行中にいろいろメールを頂いた。「昔はエレベーターが途中で止まった」などの話が一杯入ってきた。「仕上げ」「ファイナル・タッチ」というものはロシアの大地には無いような気がした。おおざっぱというか、冬が直ぐ来るので「とりあえず寒くなければ」という印象が強く残っている。としたら、ドイツや日本に見られる「職人の技」には遠い。宮殿なども、イタリアなどから来た職人、有名な設計者が作ったという。となれば、先々世界に工業製品を売る国になるのは難しいだろう。我が家にもロシア製の工業製品は一つもない。しかしロシアの人々の識字率、インテリジェンスは高い。教育の普及の成果だ

  • ずっと考えていたのは、この国のでかさだ。ウラジオストックでシベリア鉄道に乗って、四日三晩でやっとシベリアの中心のイルクーツクに着く。同鉄道でモスクワに行こうと思ったら、そこからまた四日だ。列車のスピードが遅いと言っても途方もないでかさと距離だ。サンクトはモスクワよりまだ西だ。東西に広いだけではない。厚みもある。人も住まない北極圏から中国、モンゴル、そして中央アジアの諸国、そしてヨーロッパの北まで。途方もない広さだ。日本の45倍の国土を誇る

  • 懐も深い。ナポレオンもヒットラーも寄せ付けなかったのは、国土としての、また民族としての懐の深さだと思う。ロシアの冬はとてつもなく寒い。風も酷い。国土のでかさ、懐の深さの中で敵軍が呻吟している間に確実に冬が来る。ロシアの勝利はその時点で確定する。どの国の軍隊もみんな南から来るのだから、ロシアの「冬将軍」には勝てない。つまりこの国は、通常戦力で攻撃してもいかんともしがたく強い。核で攻撃しても、世界一の国土で、懐の深さはある

  • 地球が寒冷化したら、ロシアは真っ先にその打撃を被る国だ。しかしそうでもない限り、例えば温暖化したらロシアの大地にいろいろ問題は起きるが、サバイブできる国だと思う。そしていろいろな条件を想定してみても、「北の憂鬱」を抱えながらも、この国は残るだろう、と思わせるところがある

 旅行中ずっと気になっていたインタビューがあった。私がやったインタビューではない。ロシアのテレビ局のアナウンサーか何かが、来年の大統領選に確実に出るミハイル・プロホロフという大実業家にインタビューしているのだ。英語ニュース.comというサイトに、そのインタビューが動画収録されている。ロシア語だが英語訳が付いていて、次期大統領候補なのでインタビュアーも「ロシア全体が抱える問題」を取り上げている。

 一回だけさっと聞いただけだが、ロシアのGDPを食い散らす汚職・賄賂(ソ連時代の遺産だが、今でもあらゆるところで蔓延っているという)や天然資源枯渇後に備えたロシアの競争力のアップ(人材を生かす、と)、欠陥のある司法制度などについて聞いていた。「ああ、今のロシアではこんなことが問題なんだ」と理解できて非常に面白かった。

 日本にだって汚職はある。しかし日本の首相候補に真っ先に「日本の汚職は」と聞く日本の記者はいない。それだけロシアでは汚職・賄賂が国民的関心事なのだ。

 ソ連は瓦解したが、官僚機構は残った。きっと複雑な各種手続きを利用して、低い給与を補填するだけでなく、富を収奪している人々はロシアにはまだ多いのだろう。さらに、「ロシアで豊になった人」の中には例えば「(税関手続きが複雑なので)それに対するコンサルで金持ちになった」というような人もいるという。ロシアでの富は、まだまだ「知恵」というよりは、「システムの悪用」「中間搾取」から成り立っている。それが問題だ。ロシアはインドや中国と同じ問題を抱える。

楽しかった列車の旅 記者が、二番目の質問として「天然資源枯渇後に備えたロシアの競争力のアップ」を取り上げていたのには拍手を送った。私もそれが問題だと思っていたからだ。プロホロフは「豊かな人材」を挙げていたと思う。ロシア人は今でさえも「汚い仕事」を旧ソ連邦の中央アジア出身者にやってもらっている。やってもらっているのに、「彼らは増えすぎた」と言う。加えてのファイナルタッチの弱さ、何かについてのおおざっぱだ。

 セルゲイによれば、20~30ルーブルの釣り銭の齟齬は気にしなそうだ。私が持ったロシアの「おおざっぱ」という印象を、彼は明確に認める一方で、ロシア人からの違和感として「日本人はこまかい」と彼は言った。

 「じゃ、ロシアの財務諸表は信じられないということなの」と私。本当らしい。買収などをかけてロシア企業に財務諸表を出してくれ、というと「どちらの」と聞かれると本に書いてあった。そりゃそうだ。正確なわけがない。釣り銭さえ合わそうとしないのだから。日本の銀行では、一日の帳尻が一円でもあわなければ「あいさん」(だっけな)になるまで、店の全員が帰れない。大きな違いだ。そりゃロシアとの商売は難しい。

《おおざっぱ、しかし真面目》

 しかしおおざっぱだから不真面目か、というとこれが違う。今回我々を案内してくれたビターリー君(極東 帰りにも彼に会った)、ターニャ(シベリアのイルクーツク)、セルゲイ(サンクトペテルブルク)の3人はとっても熱心で、力を抜くことなく我々を案内し、知っていることの限りを尽くして喋り、我々の質問に答えてくれた。ナイス。東南アジアなどに多い「手抜きガイド」の再教育に彼らを使いたいくらいだ。

 あとで触れるが、「建設に21年かかり、修復に24年かかった」教会ではないが、ロシアの人々の「過去の修復」にかける熱意はすさまじい。日本人以上とも思える。エカテリーナ宮殿も大祖国戦争(対ロシア戦)では徹底的に破壊された。琥珀の間の修復は終わっていたが、今でも終わっていない部屋が山ほどある。それを時間をかけ、資材をあちこちから集めながら、当時の技法を再構築しつつ「もとの姿」に戻そうとしている。

 ロシアの街を歩き人々と会話すると、知的レベルの高さには驚く。どんな地方都市にもいっぱい大学があり、学生が多い。奇妙な名前のついた学問も沢山ある。きっとそれぞれに学者がいるのだろう。勉強はしているのだ。

 しかし、「生かす場」がない時がしばしばある。ロシアの経済状態は不安定だ。だから、アメリカに、イギリスに、そしてドイツに、スウェーデンに行く。そこで業績を上げる。そしてその国の人になる。実にもったいない。なにせ、旧ソ連はアメリカと比肩して宇宙開発をした国だ。

 多分ロシアの生きる道は製造業ではなく、ITなどのサービス産業だ。製造業が安定してその国の力、世界から称賛される力になるには、「モノを作る美意識」が必要だ。私の知る限り、日本、ドイツ、イタリアにはそれがある。ロシアにそれがあるとは今のところ思えない。ロシアではまず厳しい冬を越せる実用性だ。とにかく役立つことが必要だ。こだわっていては死んでしまう。

 何かの本に書いてあった。「ロシアではツードアの車は売れない」と。ツードア車で後ろに人を入れるために運転手なり助手席の人が真冬に立っていると死んでしまうから、と書いてあった。

 本当かどうかは知らない。しかし、白軍の25万人は確実にバイカル湖の上で凍死した。想像を絶する寒さなのだ。だから、市民生活でも「寒さを避ける暖房」でお金が掛かることなどないらしい。暖房にお金が払えなかったら、ロシアでは即死ぬ。だから、「暖房はどこでもただに近い」と。「暖房」は当然の社会インフラなのだ。

《ロシアの男の顔は広報媒体?》

 ロシアの男達の不満顔、恐怖顔について少し考察する。項目の中で『(印象に残ったこととしての)ロシアの男達の「俺は~~~に不満がある」という憂鬱顔だ』と書いた部分だ。最近は60歳前後だそうだが、数年前はロシアの公式統計でも58歳とか書かれていたロシアの男達の平均寿命との関係も考えていた。酒を飲み、不満を感じながら死ぬのかもしれない、と思っていた。それだったら悲しい。

 しかし、少なくとも「ウオッカを飲み過ぎて」というのは過去の話だそうだ。今のロシアで人気なのはビール。「最近はロシアの人はあまりウオッカを飲まない」とセルゲイ君。

 本当らしい。レストランで注意深く見ていると、ロシア人はかなりの部分ビールやワインを飲んでいる。ビールをかなり飲んでも早死にはしない。冬の厳しさに関係しているとも考えられるが、ロシアの女性は日本の女性ほど長生きではないが、世界のレベル(70代半ば)から見れば普通だ。

 ものすごく仮説だ。私の。しかしセルゲイ君などいろいろな人と話していて、一つの背景に思い至った。それは、ロシアは「男が"力"を誇示しなければならない社会なのだ」という点だ。目力でも顔力でも良い。なんでも強さを常に強調していかないといけない社会だと気がついた。

 セルゲイが言う。「ロシアではやはり力を強調していない。政治家にもなれないんですよ」と。日本の政治家は、極論を言えばお辞儀と土下座が必要だ。それとは対極だ。「強く見られなければ、誰にも相手にされない」と。肩に力が入っている男達の国なのだ。疲れるだろうに。

 セルゲイと並んでエルミタージュ宮殿横で写真を撮った。彼はボクシングをやっている武闘家だ。デジカメのファイルを見ると、職業病なのか私には笑おうというインセンティブが働いている。しかしセルゲイの顔はどこかに「強さ」を示したい意志が出ている。二人でポーズをとったときの彼の筋肉の動きを微妙に感じた。年齢もあるが、私はただ立っただけだ。

 プーチンはいつも怖そうな面相で歩き、怖そうな顔で演説する。早口で、時に命令調だ。前任二人と違う。ゴルバチョフはよく笑い、エリツィンは良く飲んだ。二人とも人気がない。プーチンは日本では人気がないが、ロシアでは圧倒的な支持率だ。彼はいつも、顔にも歩き方にも「強さ」と「怖さ」を強調しているように私には思える。ロシアでは、それが人気だ。

 伝えられるところでは、プーチンも非公式な場では笑い、冗談を言うという。普通のロシア人も、きまじめな顔をしながらもアネクドートで冗談を言い、そしてニヤッと笑う。しかし、「外国の人には、それは笑っているようには見えない」とセルゲイ。日本は対極の国だ。子供や女性に限らず、老人にも、ビジネスマンにも「かわいい」を求め、その単語を浴びせる社会だ。

 そう言えば、「kawaii」はフランス語、英語、中国語、スペイン語などなどになったようだが、ロシア語にはどうだろう。なってはいるのだろう。ロシアの若い女性には、「かわいい」はキーになる言葉なのかも知れない。

 しかし、ロシアの男には「かわいい」が当てはまるのは相当先な気がする。

 国民の大部分が農奴だった時代

 開放されても飢餓が普通だった時代

 敵軍によって何百万という人が、そして体制(スターリン)によって何千万もの人が死んだ時代

 KGBがにらみを効かせ、国民の間で密告が普通だった時代

 失業率と犯罪が高くなった90年代の厳しい経済危機

 そして今でも厳しい冬

 苦難の連続なのだ。だから、ロシアの男にはまだ「強さ」が必要なのだろう。体制だってまた変化するかも知れない。笑ってなどいられない。ロシアの男達の憂鬱顔は、「対外的な強さの誇示」「広報目的の強さ」なのだろう。それをロシアとの外交では考慮する必要があるように思う。そう思えば、プーチンも理解できる。私の勝手な想像だ。

素晴らしいの一語につきるエルミタージュ美術館の収蔵品の数々《しっかり生きてまっせ》

 長くなって恐縮だが、今回の旅は「ロシアとは何か」を感じながら移動した。移動という意味では、シベリア鉄道は圧巻だった。こういうことも考えた。「結構人間、どこででも生きていけるじゃない。なんとか工夫して」ということだ。なぜそう思ったのかは分からない。

 ロシア人は明らかに日本のように精緻に計算され、仕上げ完璧の構造物の中では生きていない。実にアバウトな面があるし、目を覆いたくなるような杜撰な工事の現実もある。新幹線とシベリア鉄道の差だと言っても良い。はっきり言ってメシもまずい。日本に比べれば。なにせ多様性がない。

 しかしロシアの人々は、少し憂鬱な顔をしながらも立派に生きているし、日本の国民一人当たりGDPの四分の一と言っても、収入のある層はヨーロッパの豊かな人々と同じようにバカンスを楽しみ、年金をもらい、所得は高い。

 「あほさ加減」はどの国にもある。考え方がどこか偏っているのも、同じ。アメリカも考えてみれば宗教くさい建前だらけの国だ。日本にもロシアにも、そしてアメリカにもヨーロッパにも他の国から見たときの滑稽さはある。

 しかし、「みんな生きてるじゃん」というのが印象だ。夏のシベリア視察が出来たので、今度は冬も見て見たい。みんな想像以上にしぶとく生きているんだろうな。楽しみを見つけながら。

 フィンランドにサウナがあるなら、ロシアにはバーニャがある。イルクーツクで昔の農民の家を見せてもらったが、それはそれは歪んだ作りをしている。しかし全体的に見れば立派だ。大きいし、何でも出来そうだ。

 そしてその家の別棟にはバーニャがあった。基本的にはサウナと同じだ。火をおこし、水を温め、よって体を温め、入浴し、そこで出産もし、そこで家族が談笑する。バーニャから出る煙と湯気は温かかったのではないかと想像した。一回入ってみたい。人間はシベリアの極地でも生きるすべを獲得していた。ナイスだ。

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2011年09月02日(金曜日)

 (14:24)"シベリア・サンクト行き"がいよいよ一週間後に迫ったので、そろそろややこしい問題から解決しておこうと思って、二つの携帯電話会社の支店で相談してきました。

 去年のチベットでは、旅行中一回もHPの更新をしなかった。ま、いろいろ問題がありましたから。で今回もそういう事態になるかな、と危惧しているのですが(なにしろかなりの部分鉄道移動ですから)、それでも何が出来るかをチェックしようと思って。今の私にとって海外で一番気になるのは、通信状態です。

 まずドコモへ。意外な発見がありました。データ通信に関して。それは、元々LO5に入っていたシムカードをバッファローの3Gwifi(ポケットwifi)に入れてルーターとして使っているのですが、後者はもともと海外ローミングの機能がないことが分かった。しかし、もう使っていない「L05」がドコモのWORLD WINGの対象であることが分かったのです。ハードは家に残っていた。

 つまりシムカードをまた入れ替えれば良い。PCサイドの設定が必要ですが、これが定額の範囲内で使えたら、それはそれで素晴らしい。繋げる先は「MegaFon」というロシアの全国的な携帯電話会社らしい。ここにつなげば、海外でも定額で通信できそう。音声通信は、どこでも問題ないでしょう。契約通りです。

 次にソフトバンクに行って、改めて契約環境をチェック。ケイタイ(スマート)には訪問地に到着すると、「どの携帯電話会社に繋げ」と支持が来るのですが、一応備忘の為にここに残しておきます。

  • 「設定」→「一般」→「ネットワーク」で、まず「データローミグ」をoff
  • 「設定」→「キャリア」で、「VimpelCom」を選択
  • その上で、「設定」→「一般」→「ネットワーク」で「データローミグ」をon

 という手順のようです。一時はまたインマルサットかと思ったが、去年は持って行ったきり全く使わなかった。通信状態は良かった。HPを更新しなかったのは、その他の理由です。

 今回の旅は、成田からウラジオストク航空でウラジオストクに飛び、翌日にそこから3泊4日のシベリア鉄道の旅を行い(ほとんど移動と聞きました)、イルクーツクで下車して2~3日滞在して、今度はアエロフロートでサンクトペテルブルク(帝政ロシアの首都)に行ってちょっとゆっくりして、その後ウラジオに戻り、その後東京へ、という道程。

 ロシアは全く初めてです。食事はまずいらしい。聞いたところ。口の悪い友達は、「最近、メシのまずいところにばっかし行っていない」と。まあそうなんですよ。モンゴル、ブータン、チベットなどなど。足回りの良い、食事が美味しいところはいつでも行けますから。

 昨年は青海チベット鉄道でしたが、あとシベリア鉄道に乗ればもう長い列車はいいかな、と。乗りたい列車はいっぱいありますが。ですから楽しみです。あとサンクトペテルブルクも楽しそう。めったに旅行先を調べることをしない私ですが、今回はちと調べて行こうかな、と思っています。今回は、9人の楽しそうな方々との旅行です。


2011年09月05日(月曜日)

 (23:24)ちょうど時間が空いていたので、夕方 の「なでしこ」の対オーストラリア戦を 見ましたが、まだ本来のらしさは見ら れなかったような気がしました。それでも勝つのだから、強い。

 ワールドカップ優勝から一ヶ月。「この間に体調をちょっと崩す選手もいた」 と佐々木監督が述べているとおり、多分各選手にとっては「嬉しい過密スケ ジュール」が続いたと思います。そりゃ、体調はおかしくなる。

 テレビの番組なんて、待たされることが多い。加えて、自分の事を聞かれるの ならまだしも、「あの選手はどうですか」と。そりゃ、気を遣います よ。多分 彼女らは、この一ヶ月の間「気疲れ」したと思う。

 ところで、いろいろな方から「ロシア情報」「ロシアの思い出」などをメールやSNSで頂いています。矢津さんという方から、以下のようなメールを頂きました。  

伊籐様

今度はロシアに行かれるとのこと、レポートを楽しみにしております。
私は旧ソ連時代を含め数回ロシア(モスクワ)とウクライナ(キエフ)に行きま
した。もう一昔前になりますので相当変化しているのではと思います。

飲み物・食べ物で思い出に残っているのは、何よりもウオッカとチーズとキャビ
アです。最初の訪問時はモスクワ-キエフは汽車で移動しました。乗るとコン
パートメントの壁一面に様々な種類のウオッカが並んでいてビックリ。美人の随
行員(共産党員の監視役)が準備してくれたものです。ウオッカでは赤唐辛子を
浸した真っ赤なウオッカがおいしかったことを覚えています。ロシア人に言わせ
ると最も効く風邪薬でもあるとのこと。彼らはウオッカを飲むときは必ずチーズ
をつまみにします。私は今でも焼酎のつまみはチーズです。

キエフではドニエプル川に、訪問した研究所所有のヨット(と言っても実は砕氷
船を改造した大型船)に乗り、中州でパーティを楽しみましたが、旧ソ連時代は
キャビアが振る舞われましたが、ソ連崩壊後はお金が無くキャビアは消えていま
した。

また、モスクワで有名なレストランに行くと、食事が出てくるまでに2時間かか
りました。当時はこれが当たり前でした。「サービス」とか「おもてなし」とい
う概念が存在しない社会だったのです。

 シベリア鉄道の食事は、「ウオッカとチーズとキャビア」とはいきそうもありません。カップヌードルを大量に持って行きます。「食事が出てくるまでに2時間」はちょっと勘弁ですね。もうそれはないでしょうが。

 メールありがとうございました。楽しみです。何が起きるか。


2011年09月08日(木曜日)

 (23:24)成田を午後4時前のフライト(ウラジオストック航空便)で飛び立って、時差二時間を入れてウラジオストックに着いたのが午後9時前でしたかね。しかしそこからが長かった。ホテルに着いたのは午後11時半だった。通常は1時間で空港からホテルに着くはずなのに。倍以上かかった。

夕闇に包まれたウラジオストック空港 市内が大渋滞だったのです。理由がありました。プーチンが今日からウラジオストックに来ていて、天然ガスのパイプラインが当地まで開通したことを祝う祝賀行事がコンサートを含めて行われていたらしいのです。

 「ロシアで交通渋滞が起きるのは、モスクワとウラジオストックくらい」(現地のガイドさん)といわれる車の多いこの街で、中心部の2路線が通行止めになったらしい。「通行止め」の発表があったのが二日前。で突入してみたら、やっぱり大渋滞ということらしい。

 冗談でみんな(総勢10人)で「Russian Puzzle」とか言ってふざけていましたが、徐々にお腹は減るしで.....。何せ表が駄目なので裏に回ったのですが、狭い道に対向車が一杯、こっちからも一杯、そして交差点は信号もなくスタック状態。昔こういう状態をニューヨークではなんと言っていたかな、なんて思い出していました。

 とにかく、運転手さんが席から降りて、彼方此方に行って「こっちに移動しろ、あっちに行け」と忙しく動き、それに補助の人が周りを説得しまくってやっとホテルに着いた状態。「プーチンは人気なの」とそのガイドに聴いたら、「そんなことないですよ」と彼。まあ、ウラジオストックの街をこれほどの交通渋滞に巻き込むようでは、市民の評判は落ちる、と納得。

 実は空港に到着したのが夕刻時もすっかり夜のとばりに接近していた頃で、街は車のフロントライトの中でしか見ていない。全体に暗いのです。節電中の東京より。しかし幾つかの事が分かった。

  • 街中いたるところで工事をしているので、凄くほこりっぽい。車がみな土埃に塗れている
  • つい最近読んだ案内には、「人口60万」とあったが、今日ガイドさんに聴いたら「人口80万人」と。つまりウラジオストックは急膨張している
  • 市の中心部に入る手前のところに、建設中だが光り輝くマンションが建設中だったりして、街の景観が大きく変わりつつある
  • 坂が多いということから(街全体が坂道になっている)は、サンフランシスコに似ていなくもないが、それだけの落ち着きと美しさはない

だって真ん前から車が来るのが分かるでしょう。おかしい といった印象でしょうか。空港もシャビーだし、もう街の中の駐車マナーと言ったら、驚き桃の木。そもそも信号が少なすぎる。車の量にしては。もうマナーもあったものではない。しかし中国人の運転よりは落ち着いている。渋滞しても、誰もいらいらしていない。どいてもらってこちらが手を振ると、ニコッと笑顔を返してくる、という状況。

 そうそう、知りませんでしたがウラジオストックは来年のAPECの会場だそうです。それで街中が工事だらけになっている。APECってそんなに準備が要りましたっけ。その時の日本の首相は誰でしょうかね。

 ま、明日は少し市内観光しますから、日本(と言っても成田からで、新潟からだと1時間ちょっとです)から飛行機で2時間ちょっとのこの街の印象を記したい思います。ただし、明日の夜10時にはシベリア鉄道に乗りますから、無線LANが飛んでいるわけでもない、電源が一車両一つしかないような鉄道ですから、4日ほど後のイルクーツクのホテルまでは、音信不通になる可能性大です。

 二つほど注意されました。一つ「治安は悪い」と。貴重品は肌身離さず。次に「パスポートは列車のコンパートメントを離れるときでも携行せよ」と。ロシアの人々も、常にパスポートは持って歩いていると。ただし、チベットのように「警察官にカメラを向けるな」なんてのはなかった。

 それでは皆さん、その時まで。


2011年09月09日(金曜日)

 (23:24)何に一番驚いたかって、「プーチンがロシアで一番大きな国産自動車会社の株主」ってやつかな。で彼は、ウラジオストック経由でロシアに流れていた日本車(中古車)に高率な関税をかけて、ロシア製の車の販売を促進しようとした。

こんな冗談の通じる方々と一緒です 仕事が干上がったのがウラジオストックの連中です。一大産業だった。二回スト・デモを平和裏にやった。三回目はプーチンが「いかん」と。しかも現地(ウラジオストック)の警察はなぜ住民が怒っているのか分かっているので何もしない。

 それが分かったプーチンはモスクワの警察部隊を連れてきて、徹底的にこの三回目のデモ・ストを取り締まった。その結果は、「多分ウラジオストックの人間は、ロシアのどの都市の人たちよりも"プーチン嫌い"になった」(現地の人の言)という結末。国家の最重要人物が、国の大企業の株を持ち、その業績に寄与することを平気でする。凄いですね。

ウラジオストックはそうは言ってもかつて軍港だった 言ってみれば、これは世界のレベルでは途上国です。で実際に、かなりの部分で「ロシアはまだ途上国だ」と思える。ホテルの風呂の水が濁ること、石鹸などが臭うこと、道が土埃だらけなこと。信号の数が少ないのも途上国です。駐車の仕方も凄い、というか酷い。交通ルールはないに等しい。人々の着ているものも貧しいかな。国営のデパートを見たが、依然の中国のそれのような売り場の作りをしていた。

 しかし車の数は先進国です。凄い数。凄まじい数の日本車、特にトヨタ車が街を走っている。以前は「99%は日本の車」だったらしい。しかしプーチンが関税を高くしたので、今は「90%が日本車」という状況らしい。当地は右側通行だが、日本車がそのまま入ってきているので、ハンドルは大部分が右です。

結婚式の花嫁 街には酔っぱらいがけっこういる。お乞食さんも。しかしこの町の特徴かも知れないが、若い人が多い。まだ若い街で、坂が多いのでそのうち良い年になるのかも知れないが、今はまだまだという感じの街です。

 「ウラジオストック」はロシア語で、「東方を征服せよ」という意味らしい。1862年とかに作られているので、本当に若い街、ロシア帝国の「東進運動」の先頭に立った街です。いろいろ見ている。国営デパート。ドイツの艦船を14隻沈めたロシアの潜水艦。切符が無くても駅舎に入れるので、ウラジオストック駅にも。ロシア人の結婚式にも出会ったな。


2011年09月10日(土曜日)

 (05:24)朝5時少し前に目が醒めた。ずっと移動している。昨夜の午後10時過ぎのウラジオストック発から。ゆっくりした揺れの中で。前後にも、左右にも、そして斜めにも、時々素早く、時にゆったりと常に揺れている。重層的な揺れ。日本では経験しない。

ウラジオストックは車が多すぎる。9割が中古の日本車 窓の外を見れば、満天の星だ。一緒に目をさました久井さんが、「今オリオン座が見えました」と教えてくれた。彼は登山家・写真家だ。今年の11月には登頂ではないが、チョモランマの近くの5000数百メートルの山に挑戦する。

 時々日本から持って来たケイタイの一つ(ドコモ)の受信針が三本になり、そしてそのほんの少し後には「圏外」と出る。今どの辺を走っているのか、皆目検討がつかない。

 それにしても、何だろうこの移動体は。はっきり言って鈍重な印象がする。走り方から、トイレのドアまで。しかし基本的には移動している。自らの車体を大地に食い込ませながら。そして、途中の駅だろうか、人を下ろすわけでもなく止まり、そしてまた移動する。隣のコンパートメントの市岡さんや降幡さんのいびきが聞こえる。

 日本の新幹線に乗っていても、地に食い込みながら移動している、という感覚はある。抵抗があって初めて列車は前に進む。しかし新幹線の場合、それは時にミズスマシのようだ。速い。音もシュー・・・・という音だ。しかしこの列車は、あくまでゴー・・・・ゴットン、ゴトンだ。決してスマートではない。

 大きな虫が、自らの重さを大地に知らせしめるかのようにゆっくり加速し、暫く走り、そして減速する。その繰り返しだ。この列車はスピードを上げても、決して大地から離れることなく、車輪を線路に食い込ませながら。余計な心配だが、保線は大変だろう。日本の新幹線、特に東京ー大阪間は時に大地から浮遊したような印象を受けるときがあるが、この電車にはそういうことは決してない。

 動力は電気だ。この電車と、ほぼ四日間の付き合いになる。部屋は二人部屋。ウラジオストックから終点のモスクワまでは7日間ののりっぱらしい。それはかなわん。私たちはイルクーツクで降りる。それでも3泊4日の移動だ。

 総勢9人。加えて、ずっと同行してくれる稲村さん。去年のチベット、その前のブータンも彼女が案内してくれた。そしてウラジオストックから現地の案内をしてくれているビダリさん。彼は樺太の出身だ。

ウラジオストックのスーパーは、特に食材に限ると非常に豊富だった。他は貧しいが、食べるものは豊。これは驚きだった。 時間はたっぷりある。昨晩の乗車前の夕食会では、小谷野さんが江戸時代に時化で伊勢から樺太に流され(それも数ヶ月にわたって)、その後130両ほどのお金を持っていたために"大商人"と間違われたこともあり、また本人の能力や資質をロシアの人々に認められてエカテリーナ2世に謁見した大黒屋の話は面白かったな。

 彼は日本に戻ってきた。鎖国の江戸時代に。スパイとして疑われながらも、一途に望郷の念で帰ってきた彼に、幕府は「苦労したな」ということで毎月3両の生活費を支給したという。この話が40分。また食事をして次に私が、関西からの重鎮もいたが「カウンターから日本が見える」のさわりを15分ほど。

 繰り返すが、時間はたっぷりある。こうしてメンバーが一人一人お話をしていく、ということを車中でも計画している。ははは。私の次の講話の題材は、「円」です。まだ明るくならない。夜明けが楽しみだ。

 それにしても、ウラジオストックのデパートではその古色蒼然ぶりに驚いたが、列車に乗り込む前に買い込みに立ち寄ったスーパーの食材の多さには驚いた。ロシアの人々の「食べること」への熱意を感じた。ロシアの食事は、決して特においしいとも思わないが、今回これまでの数回の食事は、予想よりは良い。

壮麗なエルミタージュ美術館。一応全部見るのに一週間。それでも所蔵品の3%しか展示されていない かつての共産圏の「ほとんど物がない店」を知っている私からすれば、「ロシアもこんなにモノが溢れる、特に食材が溢れる国になったのか」という印象がする。

 日本のきらきら光る食材に慣れた人間には、全体に「ちょっとくすんでいる」印象はする。しかし、ロシアでは収穫できないような果物から、「ロシアの大地そのものから生まれたもの」(肉やジャガイモ)までが、ヤマのように並んでいる。国民一人あたりのGDPは、まだ日本の四分の一くらいだろうか。しかしロシアは確実に豊になりつつあるように見える。

 書いても今すぐネットにアップできないので、文章を貯める。車中で「定額ネットサービス」をトライしてみたが、「接続先を変えろ」「従量にしろ」とかうるさい。次に送れるのはハバロフスクの停車時、それともイルクーツクのホテル。ま、時間はたっぷりある。


2011年09月10日(土曜日)

 (11:24)ずっと列車の中。喋ったり食べたり。それでも時間が余るから、文章を書き貯めることにする。

 二人一部屋であることは既に書いた。入り口から右と左にベッドがある。一つのそれは私には十分だが、ちょっと体の大きい人には厳しいかも知れない。トイレは一車両の両サイドに各1。堅牢だが、古い作りをしている。トイレットペーパーはあるか、ないか。だから日本から少し持ってきた。

たまたま寄ったホテルで行われいた大きな経済会議の会場前で、キャラクターと 一番の悩みは乗客用のシャワーがないことだ。一車両に一人の車掌さん(女性)がいて、彼女らのためにはシャワーがあるが、「だいじょうぶかいな」という代物。ま、タオルを水で濡らして体を拭いてしのぎ、本当に困ったら使わせてもらうことにする。

 列車の中の温度は、まだ9月の前半ということもあるのだろうが、温かい。特に陽の光がある時には。だから、コンパートメントの中では短パンとTシャツで過ごしている。しかし夜はちょっと寒い。上に一枚が必要だ。我々の車両の隣が食堂車で、コンパートメントからは列車の進行方向から見て右側(モスクは行きだからか)しか見れないが、食堂車では両サイドの窓が見える。ナイス。

乗車前の最後のレストランで出てきた大きなカニ。味はまずまずだった 予想に反して、全10人が一同に会することができる場所がないので、"ご講義"を開催する場所がないので、予定をどうするのかこれから考える。心配していた充電施設は、一車両に3箇所あって、これはなかなか便利。充電は問題ない。

 問題があるのは、予想通り通信だ。ウラジオストックではバスの中でもL05Aで定額通信がつながったが、列車の中ではこれが機能しなかった。まあでもこんなもんでしょう。お湯はいつでも出てくる設備がある。

 それにしても、なぜロシア人というのはなぜそろいもそろって「俺は.....に不満なんだ」という顔をしているのだろうか。私の印象かも知れないが、特に男性の顔は暗い。若い女性には精気があるような気がする。今でもロシアの男性の平均寿命は58歳だ。それと男性の顔の暗さには関係があるような気がする。

 ハバロフスクに着いた。「30分の停車」というので、皆で外に出る。綺麗な駅だ。本当に綺麗だ。西に行けばもっと綺麗な駅が多くなるのだろうか。


2011年09月11日(日曜日)

 (08:24)ずっと窓から景色を見ていると、「でかいな」とか、「まだ人類は増えても収容する土地はあるじゃない」とか考えてしまう。来る前に読んだ本によれば、ロシアの面積は日本の45倍。永久凍土の場所があるにしても、でかい。車窓からそれが分かる。

 ほんとうに時々街があり、車が走っているのに出くわす。しかし、それ以外は行けども行けども草原、その中で主に白樺林が続く。極東地方で樹木が多く、シベリアの深部に行くほど木は少なくなるという特徴はあるが、総じて緩やかな起伏だ。ちょっとした山はあっても、要するに人っ子一人いない草原と林の連続である。

 こんだけでかいのに、人口は日本より2000万人ほど多いに過ぎない。しかも毎年70万人減っている、とフィナンシャル・タイムズに書いてあった。ということはそれほど遠くない将来に、日本の人口と等しくなる。日本も減っていますが、まだ数万のレベルだ。

 FTには、「ロシアは将来、国境警備も出来なくなる」と書いてあった。本当にそうなるかどうかは知らない。しかし大変な過去と現在を抱えた国であることは確かだ。ロシアを構成する一番大きな民族はスラブだ。しかしこれは、英語で言う「スレーブ」(奴隷)につながるとも言われる。民族の過去として、なかなか厳しい。

 ずっとヨーロッパの文化から遅れていた民族だった。その憂鬱と厳しい冬が音楽と素晴らしい文学を生んだのかもしれない。旅の終わりに行くサンクトペテルブルクは、エカテリーナ二世が「追いつきたい」という一心で作った帝政ロシアの都だと言われる。その位置も、モスクワよりヨーロッパに近い。

ロシアの大地に沈む夕陽。地平線に落ちる夕陽は、久しぶりでした ロシアはナポレオンもヒットラーも最後は寄せ付けなかった。そのあまりもの大きさと、その大きな国土を移動している間に敵軍に必ず襲ってくる冬将軍が大敵だった。それしても、ヨーロッパの列強はなぜその強さの絶頂でロシアを攻め、そして失敗して没落するのか?

 冬将軍そのものは、ロシアの人々をも苦しめた。明後日到着するイルクーツクのバイカル湖では、赤軍の追跡を逃れて数千の元貴族などが僕(しもべ)や軍隊を連れ、総勢100万人以上で逃げたが、極寒のバイカル湖の上で、遮るものとてない強風(体温を奪う)と寒さで、25万人以上の人が湖上で死に、そのまま湖上で凍結し、そして春には解氷とともに湖底に沈んだと言われる。ロシア革命の時だ。その他の人も全滅だったと言われる。

 そういう意味では、「冬のロシア、冬のシベリアに来たかった」という気がする。きっと寒いんだろうな。風もあって。私も零下15度くらいまでは知っているが、それ以上は想像の世界だ。昔西麻布にあり、今は銀在にあるアイス・バーなどちょろいものだ。どうせ短時間しかいないから。

 ナポレオンもヒットラーも、正確にはどの辺まで侵攻したか知らない。どちらもロシアに大打撃を与えはしたものの、結局はこのでかい大地が持つ底知れぬ懐の深さと寒さに負けた。きっと南にいて想像するには、ロシアのでかさと寒さは限界を超えているのだと思う。机上の空論で作戦を立てても、そうはいかない。想定外の連続になる。なにせロシアはかなりの国土がまだ荒野なのだ。

 これだけでかい国土。その下には一杯いろいろなものが埋まっているような気がする。プーチンがウラジオストックに来たのは、天然ガスのパイプラインが通じたからだそうだ。まだまだ何かありそうだ。アラスカをアメリカに売ってしまったにしても、まだロシアは天然資源では豊かな国だ。

 しかしロシアを少し歩いただけだが、まだまだ貧しい国だと思う。何が足りないのかと考えたら、やはり工業だ。ロシアはいろいろ作れる。プーチンが日本からの輸入車に高い関税をかけたのも、自分が株を持っているかどうかに関係なく、ロシアにも乗用車メーカーはあるからだ。

 しかし、ガイドのビダリさんが言う。「新車なのに、日本の中古車に劣る。スタイルも良くない」と。それではロシアの人も、他国の人も買わない。恐らく日本でロシア製の車に乗っているのは、いたとして大使館の人ぐらいだろう。ドイツ車は山ほど走っている。

 なぜロシアでは工業が駄目なのか。超大国の一翼を担って核や宇宙では世界を席巻したのに。ここからは私の推論だ。多分、一つには極寒のロシアでは、スペックを他の国とは変えなければならないからではないか。よく落ちるボンバルについて言われるのは、「カナダという寒い土地で作られるこの航空会社の飛行機は、温かいところで使うとどこか狂う」ということだ。

 今私が乗っているシベリア鉄道の車両にしても、「こんなにでかく重くしなくても」と思う。冬の雪を想定しているのかも知れないが、フロアが高いところにあるような気がする。極寒のロシアでは必要なのだろう。しかしこのスペックでは世界には売れない。そんな地理的理由によるスペックの違いが、一つ思い浮かぶ。

 加えて寒さが人間の活動に与える影響だ。あまり寒いと人間は外に出なくなり、労働意欲は失われる。「酒でも飲んだ方が良い」となるのではないか。これは想像だが、寒い地方では家族が集まり、酒を飲んだり、お茶を飲む習慣がある。寒さ故の死と隣り合わせの世界では、ある意味刹那的になるのではないか。それにしても、「ロシア」から工業製品が想起されないのは、この国の先行きを懸念される。

 ロシアには奇妙なところがある。時差が11もある。腕時計を合わせるのが大変だ。GPSケイタイはその点便利だ。中国があれだけでかいのに時差なしもおかしいが、11もあるのは凄い。

 凄いはいいが、なんと東京とイルクーツクが同じ時差域に入るのだ。だからシベリア鉄道で移動していても、夜明けは凄く遅く、よって夕暮れも遅い。10日にロシアの大地に沈む太陽を撮影したのは午後7時49分だった。夜を短くしたかったのか。

 もう一つ面白いのは、ロシアでは駅舎や鉄道の中の時計が、すべてモスクワ時間になっていることだ。だから10日の夕食は、列車の中の時計では午後1時ごろに摂った。凄い話だ。運転上そうした方が良いのだろうが、これも「おつりの計算が我々とは違う人たちの発想」なのかもしれない。

 ま、これだけでかくて北にあれば、なかなか異なる常識を持っている人であることは分かる。前提が違うのだから、話をしなければ多分お互いに分からない。そういう気がする。


2011年09月11日(日曜日)

 (23:24)やっぱし、シベリア鉄道からの通信は不便です。大きな駅などで列車が停止しているときに、ドコモではMegaFonに、iphoneではBeelineに繋げることが多い。しかし情報は取れても発信は難しい。だからHPの更新は出来ない。

 多分、工夫して無理すれば出来る。しかし、しないことにした。それは、このまま繋げるとすると「従量制でどうぞ」というメッセージが出るからだ。ウラジオストックでは、バスの中でも「定額制でつながりました」とメッセージが出て重宝したのに。

 内陸に行くとそもそも日本のケイタイが繋がりにくくなり(現地の人たちのもそうだろうが)、そしてほとんどの期間において切れる。「圏外」表示です。そして通信業者を指定しておいても、それがしばしば自然に外れる。特にドコモの場合。「従量制でのパケット通信」は、後の請求が恐ろしい。

シベリアの夜明け 私は音声接続をあまりしなかったが、トライした人によると「向こうの声(日本)は聞こえるが、こちらの声は届いていない」「変な電話と思われて切られた」という話が多い。普通のケイタイ通話がそうだから、データ通信はもっと難しいと思う。

 列車が止まっているとき以上に、動いているときは繋がりが悪い。だから、駅ごとにさっと情報を仕入れて、「ああ、鉢呂経産大臣が辞めたのか」「野球の結果は?」と情報をチェックするわけである。この手の旅行ではいつも、私が唯一外部の情報をゲットできる人間なので、皆さんに「何が起きています」と報告する役割だ。やはり現地を見るのが第一なので、日本の情報は最小限に。

 退屈するだろうと思っていたが、結構そうではない。夕暮れに地平線に陽が沈むのを見たり、夜明けにもまた陽が昇るのを見る。何度かシャッターチャンスがあるから、それを待つ。夜はやることがなくなるので、狭い部屋に8人くらいが入って、酒を飲みながら馬鹿話だ。これが結構時間がたつ。

 ちょっと眠くなると寝る。1時間、2時間と。昼間寝ていられるのは、この列車のメリットだ。普段決してない時間の長さを寝ている。ナイス。常に揺れているのは、私はあまり気にしない。

 あと一晩寝て、そして夜まで移動して、やっとイルクーツクに着くが、それまでの時間の過ごし方はほぼ見通せた。もう一生乗ることはないだろうシベリア鉄道。ここは名残を惜しむ時間帯に入る。

 私たちの車両の直ぐ隣が食堂車だ。いつも来るメンバーは決まっている。オーストラリア人の夫婦と、我々と、そして若干のロシア人。他の人たちは何を食べているのだろう、と思う。きっと持ってきたモノを食べているのだ。我々も昼はウラジオストックで大量に買い込んだ、また日本から持ってきたモノを食べている。

 初日はウラジオストックの旅行社の社長(?)が差し入れてくれたカニだった。今日はカレーの予定だ。明日はラーメンか。持ってきたものを費消しないと鞄が重たいままだ。私は既にカットが入っているカステラを4本もってきたが、既に3本は費消した。この調子でいくと、イルクーツクに着く頃はかなり鞄が軽くなる。


2011年09月12日(月曜日)

 (10:24)ああびっくりした。ゴルフに遅れる夢で目が醒めた。隣の久井さんによれば、「ベッドから落ちそうだった」と。そういえば、直近のゴルフは随分前に約束して、コンファームが来なかったものだから(そういう態度が駄目ですね)、忘れて先輩に大目玉だったな。

シベリアの電柱。なぜか支えがあるものがある もう諦めて常にチェックしているわけではなく、大きな駅で止まったときのみ「どやろ」と思ってメールなどをチェックしようとするのですが、多くのケースにおいてドコモのケイタイは「select net」と出てきて、要するに「業者を選ばせよう」とする。ロシアに入って「Megafon」を選んでいるはずなのに、うるさい。

 iphoneは前から選んでいる「Beeline」が繋がらなければ「圏外」と出るので、分かりやすい。だからもっぱら列車に乗ってからは、僅かなチャンスで繋がったときに、まとめて情報をゲットしている。ナデシコが中国に1-0で勝ってトップ通過で、二位が北朝鮮だとか。

 昨日の午後は句会を開きました。窓を見ながら、みんなで俳句(と称するもの)を作った。その成果が以下です。ちょっと多く出来すぎて、本当は私が選別したいのですが、その力はない。中には面白いのもありますから、出来た句全部を掲載します。

酩酊や 跳ぶ白樺に 涙を乗せ

白樺や 原生林に 酔い暮れて

酔いきたり 秋色荒野 汽車走る

なくがごと 白樺の群れ 揺れ動く

秋ロシア 太平楽の 汽車走る

シベリアの 冬が恋しい 平和人

人眠る 北シベリアに 早き秋

秋平和 越冬語るは 一等車

ウォッカに 頭脳目覚める 北の旅

ロシアなる 大地に似合う 樺の色

酔うほどに 秋の深まる バイカル湖

秋冷の シベリアに咲く 花ありて

望郷の シベリアの風 地平線

満月が みなもに映える ロシアの子

シベリアで みなもに映える 満月かな

夢列車 満月の下 ひた走る

シベリアに 墓標のごとき 白樺ぞ

シベリアに つかの間の秋 汽車走る

ウォッカに 酩酊の友 高笑い

ウラジオに 寺の名残ぞ 秋が往く

レーニンを 知らぬ子もいて 秋ロシア

秋のどか 北シベリアの 冬遠く

バイカルで 失せし命に 思い馳せ

バイカルに 凍てし命を いつくしむ

バイカルに 眠る御霊や 冬近し

凍てし海 荒ぶる風や 死者の声

白樺が 墓標に見える シベリア路

シベリアの 月を映して 河静か

黄金に 色づく樹々に 日の光

鱒売りや 冬に備えられ 駅に立つ

白樺の 森を引き裂く 朝日かな

シベリアの 落日雄々しく 胸を射る

錦秋の シベリア走る 鉄の音

秋暮れて いつまで続く へぼ碁かな

シベリアの 線路に落とす 秋の糞

 失礼しましたね。最後の句は説明がいる。要するにシベリア鉄道のトイレです。とても写真をお見せする気にはならない。綺麗に掃除されてはいるので撮影はしました。しかし、ちょっとね。要するに、抜けているのです。そのまま下に。一回弁があって止まり、その後水を流すと、やや角度を付けて線路に落ちる。とても貯めていては処理しきれないんでしょうね。とにかく7日間も走る。そのまま小にしろ、大にしろどすんと下に落ちる。

 それにしても、9日に乗ったからもう4日目。凄く飽きるのではないかと思っていたが、そうでもない。結構気分は変わる。景色も最初は山がなかったが、徐々に標高が高くなる中で出てきて、モンゴルの草原(結構山がある)のようになったり、また平原になったり。それにしても、「冬のシベリア」が見て見たい。

 それにしても酒を軽く飲みながら、つまり酩酊しながら開いた句会は面白かった。私は「酩酊」と「白樺の木(樹)の白」を詠みたがったが、むろん完成にはいたっていない。最初のが私の試作品です。句をずっとやっている市岡、降幡さんによれば、何でもまず作ってリファインすれば良いとのこと。俳句なんて作ったのは45年ぶりだ。

 上のかなりの数の句は、誰がどれを作ったとは書きません。一番数多く作ったのは、やはり降幡さんです。ナイス。
2011年09月12日(月曜日)

 (11:24)へえ、こんなところで彼らは会ったんだ、というのがウラン・ウデです。メドベージェフと金正日が会った場所です。会談はつい最近行われた。私たちの列車がその街に止まったのが、現地時間で午前10時50分くらい。25分止まった。

ウランウデの熊像の前で。ロシア人との交換撮影 「世界を征服する」(ウラジミール)とか、「東方を征服する」(ウラジオストック)とか、意味のある単語を並べて名前や地名にするロシアですから、ウラン・ウデも何か意味があるのでしょう。しかし、それはブリヤート語でロシア人もあまり知らなかった。

 首脳会談があった割には、小さな街です。人口37万人、1997年で。だらかもっと増えているのでしょう。モンゴルに向かう列車の起点らしい。それにしても、今まで出会ったシベリア鉄道の街としては大きい。

 しかしゴミだらけで、こんな小さな、汚い街でよく首脳会談をやったと思う。しかも、金正日は駅からかなり離れた兵舎を会談場所としたいといったという。飛行機を使わないのも、そんな場所を会談の場として選ぶのも、人づてに聞く彼の「警戒心」「猜疑心」の強さかも知れない。

 駅で止まっている間に、ホームに降りてみました。寒い。温度計を見たら10度でした。ということは、イルクーツクも寒いと言うことです。いよいよバイカル湖の寒さが実感できる。ナイス。

 この列車が東京と同じ時差を持つそのイルクーツクに着くのは、午後6時くらいらしい。この列車は、案外のところ時刻正確に動いている。列車の中で働く人もかなり熱心に働いている。具体的に言うと、我々の車両は現地の人が乗る車両より若干良い。その廊下には絨毯が敷いてある。

売り子の女性と。日本と同じで その絨毯の上にカバーを掛けるのだが、それを毎朝同じ女の子が一生懸命やっている。綺麗に揃えて絨毯が汚れないようにするのです。何回か手伝おうとしたが、「自分がやる」という雰囲気だ。食堂のおねえちゃんも、無論太めだが結構愛嬌がある。私は「ダダダ」の連発挨拶で親しくなった。

 ところで、午後1時過ぎからバイカル湖に沿って南下し、その後北上する線路の形になっている。直線距離にすればたいしたことはないが、線路がそうなっているのだから仕方がない。でかい湖だ。またこの湖については書くが、日本の十分の一の大きさだという。電車の左側には、雪を被った山が並んでいる。結構な景色だ。

 ここで我々をウラジオストックからずっとエスコートしてきてくれたギル・ヴィターリーさんについて書きたい。英語表記すると、「Gir Vitaliy」となる。最初名前をなかなか覚えられなかったが、この綴りを見て「ありゃ、vitalityから後ろの方の t を抜いた形だ」と思ってから、完璧に彼の名前を言えるようになった。

 32歳の若者です。まだ結婚はしていない。樺太出身の、顔だけ見たら日本人。しかしソ連生まれのソ連育ち。無論今はロシアですが、彼が生まれ、そして育ったのはソ連だ。ウラジオストックの大学で日本語を学び、これからも日本語を生かして日本の企業(進出企業)で働きたい、とおっしゃる。良い青年です。

 彼にコンタクトを取りたい方は、「vitaliy.jp@gmail.com」か、「+7(902)505-16-90」に。凄いと思いません。「.jp」と「.com」が両方入っているメルアドなんて、なかなかないですよ。

 彼はイルクーツク到着までです。お世話様でした。我々はまだ時々モンゴルのガイドをしてくれたメグちゃんとも連絡を取っています。というより、彼女が日本に来た。ま、そういう関係を続けたいと思っています。


2011年09月13日(火曜日)

 (10:24)バイカル湖はでかいですよ。改めて書きますが、「日本の面積の10分の1」ある。琵琶湖の50倍。よく見ると、それは日本の本州の形によく似ている。月が欠けた形とも言える。三日月型なのでその巨大さにもかかわらず、狭いところでは対岸が見える。特に冠雪の山は。

 何よりも驚くのは、「世界の淡水の25%をこの湖が持つ」とされる点だ。これは凄いことじゃないですか。「ロシアにはそんな資源もあるのか」と思う。もともとは深海が陸に囲まれたまま隆起し、淡水化したとされる。出来たのが2500万年前で、「世界最古の湖」かつ「世界最大の淡水湖」だそうだ。

 深い海だったので、今でも湖でもっとも深いところは水面から1637メートルに達するとされる。この辺の標高(海抜)はせいぜい450メートルだから、バイカル湖の湖面から見て下に尖ったコーン(いや出刃包丁)のようになっている湖底は、海面よりかなり下と言うことになる。もし地下水脈があれば、今でも多少の塩が混ざってもおかしくない。私の勝手な想像だ。近く変動で、バイカル湖は毎年1センチ幅を広げているという。

 昨日線路沿いにずっと(考えたら列車は3時間近くバイカルの湖岸を走っていた)見ていたバイカル湖は、風が強かったせいか濁っていた。しかし冬は透明度が高まるのだそうだ。「43メートル先が見透せる」時もあると書いてある。その時は、「世界一二の透明度の高い湖」だという。

 驚くのは、固有種として「アザラシ」がいることだ。湖にアザラシがいるというのが、凄い。あと1500を超える固有種が住んでいるそうだ。冬は全面凍結するという。きっと寒いのだろうな。

 しかし、バイカル湖が全面的に結氷している姿も見て見たい。「御神渡り」はあるのだろうか。あるとすると、凄まじい音がすると思う。しかし日本でも長野県の諏訪湖以外に「湖の氷が氷結し、ある程度進んだ段階で氷全体が盛り上がって線を作りながら割れる」という話はあまり聞かないので、無いのかも知れない。(と思ったら、ターニャがバイカル湖にも氷が割れて盛り上がる、と言っていた。凄い音だろうな)

 これは私が勝手に考えたのだが、「バイカル湖は世界の湖の中で、一番人の命を数多く飲み込んだ湖かも知れない。知られているだけで25万人のロシア革命時の泊軍の人々(貴族やその軍隊)が湖底に沈んでいる。その他にもこの湖にはいろいろな悲劇が伝わる。だから、句にも詠んでみた。今日これからバイカル湖はゆっくり見る。

ロシアの駅舎は綺麗なところが多い。イルクーツク駅もそう イルクーツクには、昨日の夕方6時10分に着いた。ロシアの駅舎は、ウラジオストックがみすぼらしかったが、その他は結構堂々としていて綺麗だ。日本の駅舎が絶対使わない色をしている。白が基調で、そこに薄いブルーを使ったり、草色を使ったり。ハバロフスクの駅舎は綺麗だったが、イルクーツクの駅も良い。冬見れば、また違った趣があるのかも知れない。

 街は綺麗だ。実は明日、イルクーツクは建設されてから350年の記念日に当たるという。日本の多くの都市のように、「気がついたら出来ていた」というのとは違う。「誰がいつ、誰の命令で入植して」というのが分かっているのだ。ロシアは意図的に東方進出を図った。

 この街のガイドであるターニャさんによれば、この街は大火(1879年)に1度見舞われた。その前は家々は全部木造だったそうだ。しかし大火のあと、家や建物は石造りに切り替えられたそうだ。そして、この古い町には当時(100年以上前)に建設された古い建物が大部分残っているという。ナポレオンもヒットラーも、この街には遠く及ばなかった。

 この街を愛したのはチェーホフだ。彼がイルクーツクを「シベリアのパリ」と呼んだ。私にはちょっと疑問だが、一つは街が小さいことにある。人口は今でも70万人。以前は間違いなくシベリアの中心都市だったが、今では~~スクと名が付く街が育ってきた。

 ふと思った。「スク」とは城壁か。そう言えば沖縄では「城」を「グスク」と言う。日本の縄文人が弥生人に押されて北と南に分かれたことはよく知られている。そしてその縄文人は、シベリアのかなりの部分を支配していたブリヤート人などと繋がりがある、同じだという学説もあるそうだ。

ロシア人は花が好き 壮大な話だが、素人の私には「スク」と「グスク」から勝手な想像をするしか能がない。いつか調べたい。と思って、ターニャに聞いたら、「スク」とは、ロシア語の語尾変化の一種で、意味はないという。あーあ、大発見だと思ったのに。(笑)

 冬は寒いらしい。特に一昨年はマイナス40度があったそうな。しかしガイドのターニャが、「日本ほど寒く感じない」と言う。彼女の言葉をそのまま引用すると、「湿気が日本は高い」「イルクーツクは湿気が低い」と言う。確かに今朝シャワーを浴びて頭をシャンプーしたが、見る間に乾いた。頭の毛を短くしたことは確かだが、これには驚いた。

 雪はあまり積もらないそうだ。だから、車は「冬タイヤ」を10月頃に付けて、翌春まで。

 「家の中は冬でもとても温かい」
 「だから、イルクーツクに来る観光客は、冬の方が多い」
 「昔は日本人が多かったが、最近は韓国、中国の人が多い。特に中国人は良いホテルに泊まる」
 「ヨーロッパからはドイツ人」

 と彼女は言う。もう一つ彼女の言葉で面白かったのは、アメリカ大陸では白人とインディオが激しい戦いを展開した。しかし、ロシア人とブリヤートなど現地人はあまり対立しなかった、という。互恵的であったのだ。

 ロシア人は農業を得意とし、その産物をブリヤート人に提供した。農機具などを含めて。対して狩猟民族のブリヤート人(その他にも民族はいっぱいあるらしい)は、ロシア人に毛皮などを提供した。

 イルクーツクには雑多な顔をした人がいる。民族の数は半端ではないそうだ。まあ、エリツィンを見てウクライナの人々が「あいつはアジア人だ」と言った話は頷ける。先にバイカル湖は「日本の本州の形によく似ている」と書いたが、ターニャが面白い神話を教えてくれた。

 むかし極東には島がなかった。そこで神は今のバイカル湖の部分を切り取って、今の日本の位置に島を作った。それが日本だ、という話だった。ははは。実際にはバイカル湖の大きさは、日本の東京から青森に相当する。小さい。しかし、形は本当に良く似ている。


2011年09月13日(火曜日)

 (23:24)「その映画は見ておけば良かったな」と思いました。「おろしや国酔無譚」。井上靖さんの小説も読んでいなかった。

 ロシアの、しかもシベリアのイルクーツクの地に来て、これだけ数多くの日本人の足跡に触れる事が出来るとはあまり予想していなかったし、それが1990年代に映画になったことも不明にして結びつかなかった。無論映画の題名は覚えている。しかしまだ見てない。イルクーツクでも、これから私たちが行くサンクトペテルブルクでも、大規模なロケを行ったようだ。

 驚いたことに、イルクーツクには「金沢通り」があった。写真の通り。同市と金沢市が姉妹都市関係にあることから、一つのイルクーツク市内の通りが金沢に因んで名付けられた。しかし、「(金沢市には)イルクーツク通りという名前の通りがあるとは知りません。何故ですか?」とターニャに聞かれても、直ちに返事を持ち合わせていなかった。

 そしてその通りの一番奥手にあるのが、1994年に建立された大黒屋光太夫の碑です。生命を生む卵が一つ、それをくり抜いたとも思える背の高い碑の前にある。卵の前には、「露日交流の記念碑」という短い文章が、ロシア語と日本語で書かれている。

 バスの中で、iphone で「大黒屋光太夫」に関して検索して、ちょっと読みました。小谷野先生の話と合わせて、「あのロシアを、鉄道でもしんどいシベリアを」馬と徒歩で横断した日本人達に驚愕しました。何人かは亡くなり、足が凍傷になってロシアに帰化した人もいた。大黒屋光太夫の記念碑 小谷野先生によれば、「大黒屋光太夫 帝政ロシア漂流の物語」(2004年 山下恒夫著)などが良いという。帰って読もうと思う。

 我々が泊まったホテル(ロッジというか、山小屋)の直ぐ近くに「日本人墓地」があった。カタカタで60人の方の名前が刻まれている。抑留の間に亡くなった方々と聞いた。綺麗に花が飾ってあり、その周りはロシアの方々の墓が広がっていた。ロシアは土葬だそうだ。寒いだろうに。しばし合掌しました。

 ターニャがいろいろなことを話してくれた。彼女の日本語は、ところどころおかしい。しかし全体的にはしっかりしているし、聞いていれば何を言っているのか分かる。何よりも熱心なのが良い。

  1. イルクーツクは水力発電が盛ん。よって、モスクワより電気料金が安い。四分の一らしい
  2. その結果、この街の周りにはアルミなど電力を激しく使う産業が集積している
  3. シベリアのモノの集積都市で、日本向けの最大の輸出品は木材である

 など。冬のイルクーツクを知らないからだろうが、近くにバイカル湖という湖もあるし、ちょっとの間なら居ても良いかなと思う。バイカル湖水族館にも行った。面白かったな。固有種のバイカルアザラシが実際に泳いでいて、そのまん丸さは笑えた。これは動画で撮影した。そのアザラシが食べている魚もユニークだった。

 やはり現地の方と長く話していると、自分のその国に対する知識が改まって良い。「ロシアは毎年70万人口が減っていると聞いたが」とFTの話を引用したら、彼女は

  1. 実際の所、90年代の経済危機の時期には人口は大きく減少傾向になった。どの家でも子供を一人しか産まなかった
  2. その結果、保育園や幼稚園、小学校もがらがらになった。皆が社会主義からマーケット主導への経済の中で先行き不安感が強かった
  3. しかし、今のロシアでは徐々に人口は増え始めている。それは経済が安定したからだ。男性の平均寿命は60歳を超えたと思う

 ということだった。ま、60歳でも若過ぎる。そういう彼女自身、5歳の息子にせがまれてもう一人を産む決心をして、今は妊娠三ヶ月だという。その割に凄く動く女性だが、彼女からロシアの年金制度、企業と従業員などとの関係も聞くことが出来た。彼女には感謝だ。彼女の一人息子が、赤ちゃんが生まれたらと「練習したい」ということで、お人形さんを買ってくれと言っている、という話は可愛かった。

 私がシベリア鉄道の旅をしているとサイトで読んで、いろいろな方がメールを下さっている。通信状態が悪く、全部に返信できないでいる。しかし、1993年という混乱の最中にイルクーツクにいらっした方が、当時の写真までスキャナーで読み取って送ってくれた。貴重だ。木の博物館には私たちも正に今日行って、送っていただいた要塞も見てきました。当時のマーケットの写真が良かった。

 梅本さんからは、自分のシベリア鉄道乗車の際に、おっかなびっくり飲んだ飲み物について。ターニャに聞いたら、まだあるそうですよ。まだまだいろいろな方から、「こうだった」とか「参考になる」だとか。

 しかしここはイルクーツク市内でなく、バイカル湖の近くの村。日本人墓地の直ぐ近く。無線LANがないホテルだった。ある予定だったのだが。よって今日隣の遅いwifiがあった緑屋根のホテルまで行って使わせてもらった。サンクトに行けばもうちょっとまともな対応が出来そうです。

 明日の朝は午前3時に移動を開始します。


2011年09月14日(水曜日)

 (09:24)男の右手が静かに、そしてそれを愛おしむように動いていた。左に右にゆったりと。まるで何かが終わったときのように。

 イルクーツクからサンクトペテルスブルクに向かうロシア国内線の中。8割方の込み。アイルを挟んだ私の左斜め前は、ロシア人の男女だった。20代か30代初め。健康そうで、がたいが大きい。最初は奥に女性がおり、アイルサイドに男がいて、男が三席列の真ん中に頭を落としていた。

 いつ入れ替わったのか知らない。多分どちらかがトイレに立ったあとだ。男が三席のうち窓側の二席を占めるように仰向けになり、そしてその上に女がこれまた上向きで横たわった。男も女も寝て(寝たふりをして)いる。

 最初は気がつかなかったが、ふと見ると男の手が女性の胸の上で左右にゆっくりと動いている。がちっと結構深い谷間に入り込み、右に左に。あくまでもゆっくりと。女は反応はしていない。しかし、女はTシャツ一枚。どこでもさわってもらえる態勢で、そのうちTシャツが上がって、お腹も出てきた。

見えてきた宮殿 あやや、この二人の男女のロシア人は一体何をしていたんだい(知っているんだけど)、と思ったら、その前を子供が通った。でも状況は同じ。子供は何も考えていないように見えるが、その二人の前を行ったり来たり。

 あはは、「ロシア人もなかなかやるじゃないか」と思っているうちに、飛行機は目的地(サンクト)に近づいた。それまで暗かった機内が明るくなった。機はディセンディングを開始した。

 二人がちょっとポジションを変えた。もう男の右手は女性の胸にはない。残念だ。もうちょっと続けて欲しかった。ところで今何時? イルクーツクから夜明けをずっと追って、今はサンクトの時間で午前7時半だ。朝にしては、ちょっと面白い見せ物だった。

 ――――――――――

 ところで到着したばかりのサンクトペテルスブルクはこれからゆっくり見るのだが、第一印象は「段違いに都会だ」ということだ。日本人の奥さんと子供二人(一姫二太郎 7&2)を徳島県の鳴門に残して、夏の間日本から出稼ぎをしに来ているセルゲイ君が説明してくれる。

 人口は460万人で、モスクワの1200万人に次いでロシア第二位の都市。ベルリンから飛行機で3時間の距離にある。今凄い日本ブームだそうだ。日本食のレストランが300あると彼は言っていた。確かに空港からのバスの移動の道すがら、らしき店が一杯見える。

 と言っても、「イタリアンと一緒」とか「タジキスタン料理と一緒」と混在状態だ。日本人の経営者は一人もいなくなったらしい。ということは、寿司にマヨネーズをかけるタイプ? 一回は行ってみたい。なぜ寿司取扱店が増えるのか。「(寿司は)小さいのに高くお金を取れる」かららしい。

 それよりも面白かったのは、「沈む街」という話だ。スウェーデンに税金を取られない自らの港を持ち、ヨーロッパに近いところということで、もともとは沼地だったところに街を作った。それが今のサンクトペテルスブルクだという。

水と宮殿との調和が美しい イタリアやフランスから一流の建設家を招いて造ったし、よく杭打ちもしたという。しかし、建設が終えた瞬間から今に至るまで街全体の建物が沈下しているという。実際によく見ると、建物の入り口が沈下で狭くなっていて、一階が地面にのめり込んでいるのが分かる。外から見ると一階が地下になり、2階が一階になりつつある。しかし建物の中ではあくまで地中に埋まっても一階は一階だ。

 杭打ちの関係で、建物全体が均等に沈むという。笑える。仮にかしいだらやばい。かしがないために、隣の建物との隙間はない。支え合って静かに沈んでいる街、というイメージだ。しかし街全体には活気があり、久しぶりにヨーロッパを感じられる。沈むと言ってもゆっくりだ。

 ロシアの皇帝達は、ヨーロッパの一員になりたくてこの都を作った。パリに似ているとも、ベルリンに似ているとも言える。しかし戦争では悲惨な歴史を持つ。またそれに関しては取り上げるが、大祖国戦争(1941~45年)には当初80万が死んだと言われたが、よく計算すると150万が死んだという。飢えと爆撃。今はその痕跡はないようだ。じっくり見たい。


2011年09月15日(木曜日)

 (07:24)サンクトペテルスブルクに入ったので、電波状態が非常に良くなった。ホテルも市内中心部にあり、欧州全体をチェーンにしている良いホテルなので、ログインとパスワードの数字をもらえば無線LANが心地よく動く。ケイタイもそれぞれの提携先に"安定的"に繋がって、なんの不自由もなくなった。シベリアはそれが結構難しかった。

 ですから、世界で、そして日本で何が起きているのか全部分かるようになった。鉢呂さんの後が元官房長官の枝野さんになっただとか、ヤクルトが連勝しているだとか、日馬富士が二敗してちょと綱が難しくなっただとか、さらにヨーロッパ、特にギリシャの危機が深刻化しているとか。

 そう言えば、昨日は私の本である「ほんとうはすごい 日本の産業力」が14日に書店店頭に並んだ筈だ。この目で確かめられないのが残念だが、多くの人に読んで欲しい。また事前に収録して来た「地球アステク」は、日本時間の15日夜の放送の筈だ。

 東京大学生産技術研究所の須田義大教授を取材した「未来の交通システムに乗る!」だ。面白い乗り物だったな。ここサンクトペテルスブルクには、トロリーバスと路面電車が両方走っている。加えて、圧倒的な車の数。あそうか、今夜BSジャパン午後10時。皆様、御覧を。

 日本や世界で起きている事に関しては、いろいろな人がいろいろな事を言っているでしょう。私はせっかくの機会なのでこのロシア第二の都市についての記述を続ける。初めて来た国なので、とっても面白い。引き続き「私がみたまま」の話が中心になるが、括弧でくくった部分はセルゲイ君のお話が中心だ。

 サンクトペテルスブルクが都会である最も確実な証拠と思われるのは、綺麗で若い女性の数がだんちに増えたことだ。今までのロシアの女性のイメージはがらっと変わる。セルゲイ君によれば、この街は「ヨーロッパのデトロイト」と呼ばれているらしい。トヨタも日産もフォードも工場を持つ。

 しかし恐らくモスクワが政都だとすると、この街は商業・工業中心の街なのだろう。ロシア中から若い女性が出てきていると思われる。彼女らは皆「ロシアのおばさん」とは違う。スキニーでスタイルが良くて、おしゃれだ。歩き方も速い。やはり女性が生き生きしている。

 次に英語が結構通じる。今までのロシアの都市は無理だった。ウラジオでもイルクーツクでも。しかし肝心な店では英語がまずまず話せる人が少なくとも一人はいる。これは助かる。意志が通じると言うことは、重要なことだ。

 ウラジオストックの街を走っているのは圧倒的に日本の車で、その事情はイルクーツクでもあまり変わらなかった。しかも中古車が中心だから、圧倒的に右ハンドルだった。しかしサンクトペテルスブルクの車は圧倒的に左ハンドルだ。ロシアという国の東端では右ハンドル、西端では左ハンドル。笑える。

 かつ車種は、ドイツ車(BM、ベンツ、アウディ、VW)あり、日本車(トヨタ、日産、本田に加えて富士重工や三菱も)あり、韓国ありで多様だ。それだけで、多様性を感じる。ロシア製も走っている。写真はロシア製のジープタイプ。しかし一見し、「これじゃ売れない」と思う。

 "国産"にプーチンが力を入れても、無理でしょう。そう言えば、トラバントにちょっと似ている。トラバントと言えば、私は見なかったが旧東ドイツのそれが走っていたそうだ。稲村さんが言っていた。逆にそれは素晴らしい。あの「手で押しても潰れそうな車」(1990年に私も東ドイツで見た)がいまだ動いていること自体が、ニュースだ。まあ一種のクラシックカー?

かっこ悪い典型のロシア車 時差で5時間ほどがプレゼントされたんで、午後2時から行動開始でいろいろなところを見た。カザン聖堂が一番面白かったかな。このサイトがあったので、「あれ中は撮影禁止なのに」と思ったら、やはり外の写真と動画が中心だ。立派な教会だ。セルゲイ君によれば教会の中もスリが多いらしいが。まだ誰も被害に遭ってない。今日はいよいよエルミタージュ美術館だ。エルミタージュとは、フランス語で「隠遁者の部屋」。

 セルゲイ君とは、機会を見ては意見の交換や、彼の意見の聴取を続けている。来年の3月の大統領選挙の見通しだとか。これはイルクーツクのターニャも同じ意見だったのだが、日本ではあまり知られていないミハイル・プロホロフという実業家が一つのポイントになるという。

 調べると彼はニッケル会社から身を起こして、大富豪になった。今はニュージャージーネッツ(米NBAの有力チーム)のオーナーでもある。このサイトに掲載されているインタビューはなかなか面白い。あとでその話も出てくる。ロシアのGDPを食い散らす汚職・賄賂(ソ連時代の遺産だが、今でもあらゆるところで蔓延っているという)や天然資源枯渇後に備えたロシアの競争力のアップ(人材を生かす、と)、欠陥のある司法制度などについて。個人的に成功したら、「皆のために働きたい」と。

 しかし自ら「プーチン大好き人間」と自称するセルゲイ君の見通し・解説が面白かった。大統領選挙は、あと一人か二人をあわせて4人~5人が立候補する。プーチンもメドベージェフも。しかし、メドベージェフが勝つ。プーチンとメドベージェフは今でも非常に仲が良い。メドちゃんが勝つのはプーチンも承知(だそうだ)。

 「つまり、全員がプーチンの手の中で踊っている」と彼。へえ、そうなんだ。let me see。「なぜプーチンが好きなのか」という私の質問に、「彼はスマートだ」とセルゲイ君。そう言えばセルゲイは眼鏡を取ってちょっと厳しい顔をすると、プーチンに似ている。そう言うと彼は喜ぶ。「プロホロフという名前の人物」はあまり知らなかった。覚えておこう。

 あと二つ。セルゲイ君から聞いた、面白い話。

  1. ロシア語には方言がない
  2. ロシア人は略さない

 ソ連は言葉も中央の言葉を強制したらしい。しかし方言があれば残るはずだ。きっと新しい国なのだ。イルクーツクでもサンクトペテルスブルクでもせいぜい300~400年の歴史。方言が広がるには時間が短い。

 こうして書いていてもいらいらするのだが、ロシアでは名前から地名からやたら長い。セルゲイも実は長いそうだ。彼はよく日本人の癖を知っているから、「私をセルと呼んでください」と言う。配慮はナイス。しかし、これは日本に関する中途半端な知識だ。日本人は、対象物を三~四文字で呼びたがる。だから「セルゲイ」はそのままでいい。「セル」では逆に呼びにくい。旅のメンバーは皆「セルゲイ」と呼ぶ。

 サンクトペテルスブルクなんて発音も書きも面倒くさい。「サンクト」で、またウラジオストックも「ウラジオ」で良いじゃないか、と日本人の私は思う。大体、「サンクトペテルブルク」なのか「サンクトペテルブルク」なのか私などィ考えてしまう。しかしセルゲイ君に聞いたら、「私たちは長い名前に慣れている。ロシア人は短縮はしません」と。

 そう、勝手にしてよ.....という感じ。うーん、今後「サンクト」と自然に書いちゃうかも。よろしゅう。


2011年09月15日(木曜日)

 (23:24)あらら、レストランから帰ってきて「そのうちホテルのバーに行こう」などと思っていたら、ついうとうとして2時間も寝てしまった。行った日本レストラン(後で報告します)でちょっと笑いすぎて疲れたのか、それとも時差のせいか。

 昨日の話の続きから書いてしまおうと思う。一本前の書き込みでセルゲイ君の発言として「しかし、メドベージェフが勝つ。プーチンとメドベージェフは今でも非常に仲が良い。メドちゃんが勝つのはプーチンも承知(だそうだ)」と書いた。それを裏付けるような記事を「St.Petersburg Times」という新聞のこの記事(別に写真)に発見した。URLにナンバリングがしてあるから、長く残してくれると思う。

リンクも張っておいたが、ロシアに対する政治観を一変させてくれる新聞記事 笑えるでしょう、この風刺絵は。プーチンがメドべージェスを押さえつけている。しかし目を丸くしているメドベージェフはプーチンの口を右手を挙げてふさいでいる。そしてこの記事の最初の方には、「In practical terms, they are just flip sides of the same coin. 」とある。

 日本に多い「プーチンかメドべージェスか」といった議論を笑い飛ばしている。「It makes no difference whether Putin or Medvedev is the next president.」と喝破。その書き出しは、

It was really pointless for observers to have spent the last three years asking the question: "Who is better, Medvedev or Putin?" and to have worked themselves up over the conundrum even more during the run-up to elections each fall.

 勉強になる。それは置くとして、今日の二つの目玉はドストエフスキーの館とエルミタージュ美術館だ。まず世界でももっとも有名な作家の一人・ドストエフスキーの館は、既に一階が半分くらい地下に沈んだ四階建ての建物にあった。生涯貧乏で、出版社に生活費を前借りしては小説を締め切りに追われるようにして書いていた人生だったようだ。追われてもあれだけの作品が描けるのだから天才だ。

 彼とその家族が実際に住んでいたアパート(小さいマンションの一室)を見せてもらった。彼が使った机があり、死んだソファーがあり、そして死んだ時刻を示す時計がある。彼の一生についてくどくど書くつもりはない。ネットで調べて欲しい。この建物の入り口の真ん前に、セックスビデオのショップがあった。何故だろう。

 私がずっと考えていたのは「ロシア的精神」なるものについてだ。この北国、特にサンクトペテルブルクには、その地理的条件にふさわしい、またそれが生み出した"精神"が宿っていると思う。ロシアの男が皆ちょっと暗い顔をしているのは、そのせいではないかとも思った。「暗い」と言ったら失礼か。「厳しい顔」というのがいいかもしれない。

 サンクトペテルブルクで学生時代、KGB(本部が川沿いにある)時代の一部を過ごしたプーチンも、しばしば「ロシア的な厳しい顔」をする。それは我々も日本のテレビのニュース画面で見ている。「何を考えているのだろう」と時に不安になる。

 セルゲイ君によれば、「サンクトペテルブルクはシベリアよりも厳しい」という。沼地で湿度が高く、寒くて雪も降る。半年もが日本で言う冬だ。洪水もある。そもそもここはスウェーデンからやっと奪い返した土地だ。そこに急いで大都市を建設した。しかし沈みつつある。

 なんらかの"特殊な、他とは違う精神"が宿っておかしくない。多くの作品がこの「厳しい街」で生まれた。憂鬱な冬、または冬の長さがポイントかも知れない。「人間とは何か」を考えるにしても、たっぷり時間が確保された街だ。

街の遊び 「ロシア的精神」があるのか、あるとしてそれは何かはまだ私には分からない。しかし、聖ニコラス大聖堂の2階で合唱隊を伴った大きなミサの一部を聞きながら、「ここには何かが宿っているかも知れない」と思った。スペインやイタリアのそれとも違う。それにしても、なぜ寺院、教会は"金色(ゴールド)"にこだわるのか。日本の寺もそうだ。地位が高くなれば金の量が増えるかのようだ。

 エルミタージュの所蔵品の一部については、今調べたら私は2004年10月07日(木曜日)に江戸東京博物館で見ている。その時に「もちろんエルミタージュも現地で現物を見るのが一番良いのですが、まあそれはまたの楽しみに」と書いていた。だから、やっと実現したというわけだ。

エルミタージュから来た物品、絵画はすごく輝いていました。エカテリーナ二世が使った黄金の馬車よりも、彼女やその親族が様々なおりに作った宝石が素晴らしかった。宝石と言っても、時計にしてあったり、ブローチにしてあったり、様々な機能物になっているのですが、それが未だに輝きを失っていないのは見物でした。

 絵も素晴らしいものが多い。どちらかというと写実的な絵ばっかしですから、何を描いているのか、何を言いたいのかは比較的よく分かる。そういう意味では、非常にわかりやすい展覧会になっている。集められているもの、作られたものも、言ってみればドイツ人であるエカテリーナ二世という個性の結実.....

 とも書いていた。実際にこの地に足を運んで見た第一印象を言うと、「とても見切れるものではない」というものだ。一日でも一週間でも、一ヶ月でも無理だ。驚くことに展示品は収蔵品の3%だと。かつ世界中でエルミタージュ展が開かれている(筈だ)。国外にある美術品展物品も多いだろう。

 「よう集めた」とも思うし、「なんと壮大な」とも思う。"壮大"とは収蔵品の範囲でもあるし、それに要した時間でもある。「体制が違えどもの継続」は称賛に値する。何でも幅広くある。だから、見切れない。結局自分の見たいもの、好きなものをじっくり見るのが正しい。勉強して戻ってくる。また帰国して、また見に来る。

日本食like それにしてはちょっとサンクトペテルブルクは遠い。降幡さんがたとえ短期間でもの移住に興味を示した。「そしたら我々も宿が出来る」的な話になった。見た絵や彫刻品は不思議と頭に残る。そして、記憶に蘇る絵が集められた架空の部屋の片隅にたたずむ自分を発見する。また来たい。描いた人、作った人の気持ちに入り込むのは、多分とっても楽しい。

 話は変わる。夕飯は市内の日本料理を名乗る店だった。ものは試し。面白い。料理の順序は「寿司→味噌汁→タコサラダ→イカ天+揚げロール→デザート」だった。一つ一つを写真に撮った。正直言って気分良く食べられるものとてなかった。しかしそれが現実だ。日本人の従業員は一人もいない。試せて良かった。

 店の経営サイドの女性とセルゲイ君にいろいろ質問した。矢継ぎ早に。返答の中から面白い情報を拾うと

  • サンクトペテルブルクでの外国料理の人気順位は、1.日本食 2.イタリア.....ビリ=中華料理 ゼロ=韓国 だそうだ

  • 世界のどの都市に行っても常に数で日本料理店を上回る"中華"は全く人気がないそうだ。「最低の料理と考えられている」と。かつての中ソ紛争の影響? そういえば、エルミタージュでも日本が中国に勝っていた。韓国は見かけなかった

  • 店は朝9時に開店し、朝の6時間でやっているそうだ。つまり21時間営業。もう6年もしている。当時は他に無かったから。しかし今は他の料理を圧倒する300店舗も日本料理と称するものを提供する店がある。従業員は総勢100人居る

  • 韓国の焼き肉料理はゼロだと。Hyundaiの連中もがっかりだろう。何故か。消防が火を許さないそうだ。韓国は車では結構頑張っている。しかし料理ではスタンディングはない

 車の話をまたちょっとする。サンクトペテルブルクも凄まじい数だ。既に書いたように多様だ。メーカーも揃っている。ただしハマーしかGMの車は見なかった。ロシアではGMはまだ復活していない。数ではセダンが多い。しかし印象を素直に述べれば、「SUVが存在感を示す世界」がロシアの車社会だ。

 BMWでたとえると、それは「X3」の世界ではない。ましてやBMWジャパンが今日本で一押している「X1」の世界ではない。「X5」、さらには「X6」の世界だ。「X5」では日本では大きすぎて使えない車庫が多い。「X6」なんてロシアで初めて見た。5と6がけっこうな数走っている。

 ベンツでも、トヨタでも、kia でも、そしてアウディでもSUVが目立つ。もっともロシアでは高さ、大きさなど関係ないのかも知れない。だって、まだ機械式の駐車場を見ていない。ビルも新築できないサンクトペテルブルクでは、機械式の駐車場を作ることなど無理なのだろう。かといって、日本のようにビルが簡単に取り壊されてパーク24になることもない。

 つまり、「止まれる場所」に止まっている、というのが実態だ。きっと、「車庫証明」なんて必要ないんだろうな。明日はエカテリーナ宮殿に行く。私にはちょっと興味がない部分だ。しかし郊外に出る。それが楽しみだ。
 ――――――――――
 ところで、私の最新作である「ほんとうはすごい 日本の産業力」を「買いました」というメール、ツイッター、フェースブックでのお知らせを沢山頂いている。ありがとうございます。多くの方に読んでいただきたいと思います。

 加えて今日は、エッセイが二本リリースされました。一つは「存在感増すブラジル経済【5】世界第4位の航空機産業」です。ブラジル特集も、いよいよ佳境に入ってきました。ブラジルについて本当に驚くのは

ブラジルが中国やインドなど他の開発途上巨大国(BRICsを含めて)と一線を画しているのは、その産業構成である。なんと今日本が三菱のMRJで参入を目指している航空機産業でヨーロッパのエアバス、アメリカ合衆国のボーイング、カナダのボンバルディア・エアロスペースに次いで世界第四位の地位を占めていること

 です。もう一本は、そもそも講座です。今回は「ヨーロッパの情勢」を取り扱いました。


2011年09月16日(金曜日)

 (09:24)今日はスタートが午前10時でちょっと遅い。長旅だと老いも若きも本当は「半日くらいの自由時間」があった方が良いので、運営サイド(稲村さん、セルゲイ君に)に「今日の出発は昼頃にしよう」と提案したら、「エカテリーナ宮殿は予約時間がありますから」と言われた。そう言えば、エルミタージュも緩い予約制だった。あれ、去年行ったチベットのポタラ宮も予約ではなかったか。旧社会主義国の特徴?

 それでもちょっと遅いスタートは嬉しい。散歩ができるし、文章も書ける。ちょっと掻き落としていた、おっと「書き落としていた」ことを書く。

  1. サンクトペテルブルクという街の綺麗さは、その色にある

  2. ロシア人は貯金なし

  3. 日本人のロシアンティーの飲み方は、世界では通用しない

 という三点だ。

 サンクトペテルブルクという街が綺麗で実に好感が持てるのは、この街が沈みつつある悲しい街だからではない。「修復は行われているし、全部沈んだら、その上に建物を建てれば良い」(セルゲイ君)ということもある。サンクトペテルブルクが綺麗な街でいられるのは、パリのように高さ制限があることもあるが、私の理解によればその色合いの統一性にある。

MR.SUSHHIという店の宣伝だった 市内のかなりの数の建物が、淡いピンク、淡いブルー、淡いオレンジ、その混合などある意味統一されている。昨日行った冬宮は薄い緑色がすこし入ったベース空色だった。市内を移動していて明確に色を主張する建物には、逆にこちらがはっとする。それほど少ない。

 つまり、「淡い」ということが特徴なのだ。インドの「ピンクシティー」のように、街全体が統一的に同じ色になっているのではない。あそこでは宮殿も、街の壁も、そして商店もピンクだった。昔王様がその色が好きだったのだろう。サンクトペテルブルクにはそういう色の統一性はない。「淡さ」が統一されている。

 看板もそうだ。私が市内で見かけた一番色を強調していた看板は、ドストエフスキー館のはす向かいのXショップのブルーだ(時間がなくて入れなかった。向学と社会の許容度を調べるために入りたかった)。目立ったから覚えている。しかし色を主張する建物は少ない。

 今は新しい建物とて建設が許されないサンクトペテルブルクだから、街が作られた頃からの哲学なのだろう。もっとも、ナチス軍に取り囲まれた約3年間は、ロンドンと同じように偽装したという。ピンポイントの爆撃を避けるために。ロンドンの建物にはつい最近までその「黒滲み」が残っていた。

 サンクトペテルブルクはそれは感じない。銅像などは「丸ごと土で埋めた」そうだ。いろいろなやり方をとったから、戦争が終わって比較的素早く修復できたのだろう。ナチスはエルミタージュを攻撃目標から外していたという。占領したら欲しかったから。

 話がずれた。なぜそうか。パリは綺麗な街だが、「統一された色調」はない。ベルリンは猥雑だ。ロンドンは黒にくすんでいる。マドリードは統一感を欠いたパリだ。だからサンクトペテルブルクはヨーロッパの街の中でも異彩を放つ。

 私の勝手な見方だ。サンクトペテルブルクはエカテリーナなどなどロシアの皇帝達が「ヨーロッパの仲間入りをするのだ」とパリなどをまねて作った。高さ制限はその名残だ。しかしマネだけでは面白くない。きっとそれを超えたい気持ちがあったのだ。だから「色の淡さ」を一つのウリにしたかったのではないか。今日セルゲイに聞いてみよう。

 「セルゲイ」と言えば、夕べホテルに帰ってきて毎日山ほど来るfacebook 関連のメールの中に、「Varlamov SergeyさんからFacebookの友達リクエストが届いています」というのを見つけた。誰だか分からない外国人から友達リクエストが届くことはよくある。ちょっと怪しい写真だったりする。そういうのは丁重にお断りしている。「後で」だ。

 しかしまず名前がセルゲイだし、その下を見ると「鳴門教育大学」とある。「あ、あいつだ」と思った。その中味は歪んでいる。「友達110人・写真11枚・ウォ-ルへの投稿10件・グループ11件」とある。友達が110人もいるのに、「投稿10件」。「私は怠けています」と言っているに等しい。そう言えば「HPやブログも考えたが、「忙しくて」と言い訳を言っていた。俺だって結構忙しい。

 「varlamov sergey」をフェースブック検索したら、山ほど同姓同名が出てきた。最初に出てきたのは「eurocupうんちゃら」だった。仕方がないので「varlamov sergey  鳴門」で検索したら当たったが、これも彼ではなかった。ま、今日聞いてみよう。でも「鳴門教育大学」が私に友達リクエスト。確実だ。だからもう「友達承認」しておいた。

 また話があっちに行った。「ロシア人は貯金なし」は面白かった。バスの中で、「何でもご質問は」とセルゲイ君が言うので、「ロシア人はいまどうやって暮らしているのか」と聞いて、その枝質問として「貯金は」とか「財布はどっちが持っている」(女性サイドらしい)などと聞いた。まずたまげたのが、「ロシア人は貯金がありません」だった。

 答えを要約すると、「ロシアは共産主義の国だった」「医療も、暖房費も限りなく安かった」「皆同じ給料で、貧しいが助け合って生きてきた」「だから、貯金なんてしなくても生きるだけならなんとか出来た」ということだ。所得水準が低かったと言うこともあるのだろう。しかし、「貯金なし」の習慣は今でも残っているらしい。しかしだとすると、街を走っているドイツの高級車などの代金は全部借金か?また質問が出来た。

 セルゲイ君が問わず語りに子供の頃の話をバスの中でし始めた。7家族が住むアパートだったそうだ。風呂は一つ、手洗い・顔洗いそして便所も一つ。キッチンも一つ。7家族の共同生活だったそうだ。朝の手洗い・顔洗いの混雑は酷かったらしい。そりゃそうだ。みんな同じ時間帯に勤めに出るし、学校に行く。

 キッチンにはコンロは家族の数だけかろうじてあったらしい。子供達は学校から帰るとこのキッチンでどの家族のお母さんが何かを作っていても、それをもらえたという。子供達にとって、「飯炊きおばさんが7人」いるようなものだ。「子供達にとっては幸せだった」と。日本の江戸時代の長屋状態だ。この話は面白かった。

 「今は違います」とセルゲイ君。皆家を借り(月5万くらいからあるらしい。降幡さんはそこに興味を持った)、キッチンも風呂も別々だ。所得もばらけてきた。ロシアの人々にとっては、「that is the problem」なのかもしれない。しかし共同生活は過去の話だ。もう戻らないだろう。

エルミタージュ美術館での ちょっと深入りしてやれと思って、「じゃ、私が個人的にサンクトペテルブルクでの案内を何日か頼んだら、一日いくらでやってくれる」と聞いたら、「この前名古屋のパチンコ屋のオヤジかなにかが来た時には、チップだけで5万円だった」「しかし本当に安くやるときもあります」と「両サイド提示のはぐらかし」にきた。ははは、笑える。プライスリストは非公表らしい。そのうち稲村さんが、「事務所を通せ」とか言い出した。

 しかし彼は賢い。「あまり高くすると、次から仕事が来なくなる」「高いギャラになって"自分は偉い"と思ったらだめじゃないですか」と。説教されているのかと思った。若いのにそれに気づいている。日本では勘違いしている人が多いのに。セルゲイのそれは、私の考え方でもある。人生自然体。

 我々を乗せた小型バスがKGBの前を通りかかった。彼がアネクドート(ロシア語では滑稽な小話全般を指すが、日本ではそのうち特に旧ソ連で発達した政治風刺の小話ーwikiの説明)を紹介してくれた。サイトに載っていないので紹介する。

  • KGBの建物は4階建てが多いサンクトペテルブルクの中では7階建てと高い。で、市民の間ではこう噂されていると。「KGBの7階からはシベリアが見える」

  • KGBの建物が1度火事になった。ある市民が電話してきた。「もしもしKGBさんですか?」。KGBの担当者「そうですが、今は仕事をやめています」。また電話。その繰り返し。KGBの担当者「なぜなんなに何回も?」。市民「あまりにも嬉しくて.....」

 二本目は詳しく覚えていない。要するにKGBは嫌われる、恐れられる存在だったと言うことだ。狭いアパートでは、「隣に声が漏れるのを心配して、KGBの悪口も言わなかった、子供にも言わせなかった」そうだ。「今はそんなことはない」とセルゲイ君。チベットは今、昔のソ連だ。

 「日本人のロシアンティーの飲み方は、世界では通用しない」は笑えた。私とロシアとの出会いは、ニューヨークのカーネギーホールの近くの「Russian Tea Room」(確か)だったので、そうとは知らなかったが、日本に帰ってきて「ロシアンティーにはジャムを入れる」が"当たり前"になっていて、その後はその風習を当然だと思っていた。

 しかし彼は言う。「そんなロシアのティーの飲み方をするのは日本人だけ」と。たまに蜂蜜は入れるらしい。ただしそこまで。「じゃ、日本人的ロシアンティーの飲み方(with ジャム)は誰が始め、はやらしたんだ」と思う。とにかくロシアの人たちは、日本人が来てティーを頼み、ジャムが来ないのを不思議がっているのを不思議に思っているという。

 彼は続けて言う。「ボルシチ」に「トマトを入れるのは日本の孤立した習慣だ」と。あの赤にトマトを連想するのは私にも分かる。しかしロシアではボルシチにはトマトは入れないそうだ。あと何か一つ言っていたが、忘れた。確かピロシキの話だった。「揚げ」の。日本の製法は違う、という話だった。確か。

 私たちがサンクトペテルブルクの日本食屋で感じた違和感を、彼は日本のロシア料理屋で感じているという。「日本でうまいロシアレストランはないの」と私が聞いたら、彼は即座にこういった。「ありません」。

 彼は言う。イタリアより美味しいイタリア料理、フランスより美味しいフランス料理の店が日本にはある、と。しかし、ロシア料理について言うと「日本は不毛の場所だ」と。しかし、その本場のロシアで食べても、私は「ロシア料理には切れがない」「多様性に欠ける」と思う。

 まあこれはもう、「舌の違い」だ。


2011年09月17日(土曜日)

 (07:24)iphone の「マップ」で現在位置を検索し、出てきた場所にピンを落としてみたら

夕陽を浴びるエルミタージュ冬宮ヴォルホフスキー通り1
サンクト・ペテルブルグ
サンクトペテルブルク
ロシア
199004

 と出てきた。かつそれを自己メールしたら、「59.945456,30.291533」という数字が出てきた。この数字は何だろう。あとで調べてみよう。知っている人がいたら、教えて欲しい。今私は出発当日の朝、Sokos Hotels(市内に三つあるらしい)の中の「Sokos Hotel Palace Bridge 」にいる。

 sokos hotels の親URL(http://www.sokoshotels.fi)を見ると、国の識別が「ru」ではなく、「fi」になっている。フィンランドのホテルなんだ。地図を見ると、フィンランドは近い。車で走れば直ぐの距離だ。

 そう言えば、ロビーにサウナの写真が彼方此方に飾ってあった。そうだ、サウナに入ってから帰国しよう。17日に夜行でウラジオストックに行き(9時間と聞いた)、そこで国際線に乗り換えて、18日の午後には東京だ。旅の最後はやや良いホテルで良かった。10日間ほっておいたら、髭も爪も伸びた。

 それにしても、サンクトペテルブルクの「Dvortsovaya Naberezhnaya」という名前の川(ネバ河)沿いの道を通り、かつ河口で流れを二つに分けている大きな島(なんてったかな)の先頭に右折したところの夜景は綺麗だった。右手にエルミタージュ美術館の冬宮がライトアップされ、かつ上流の橋がキラキラ点滅している。

そして夜景のエルミタージュ冬宮 都市の夜景が綺麗になるためには、どうしても水が必要だ。都市だから川、河が中心となる。水面に映るライトアップされた夜景。本当は高台が近くにあるともっと良いのだが、それがなくてもサンクトペテルブルクはヨーロッパの都市の中でもっとも夜景が綺麗であると思う。むろん、昼間も綺麗な街だ。水質以外は。

 綺麗と言えば「エカテリーナ宮殿」も素晴らしかった。サンクトペテルブルクの中心部から1時間ほどのライド。この宮殿はネットでも詳しく紹介され、写真も多く、今リンクさせていただいたサイトは比較的よくまとまっていると思う。ページは数ページに渡る。わたしがこの館を移動しながら思ったのは、

  1. すさまじい富の集積であり、そのツケを回されているのは多分ロシアの農民達(農奴)だろう。すさまじい美しさ、壮麗さは、凄まじい収奪の結果でもある
  2. しかしそうであっても、人間社会がつい300年ほど前までそういう構造をしていたことは事実で今から否定し難いし、これだけの壮麗な建物を建てられるということ自体は人類にとって一つの足跡だ
  3. かつエルミタージュとは違って、ここは徹底したドイツ軍の攻撃の対象になって正に廃墟のようになったが、その修復にかけたロシアの人たち努力と時間は称賛に値する

 と思った。修復はまだ終わっていない。まだ公開されていない部屋がいっぱい(20以上)あるのだ。破壊前の写真を見、材料を揃え。そして職人がこつこつと作る。最初に建てた当人達は、その後の宮殿が辿った運命を全く予想できなかっただろう。人間は20年もその時代が続くと、「これは永遠に続く」と錯覚するものだ。

 サンクトペテルブルクは今でも優れた観光地だが、今後もその地位を譲らないと思う。なにせ意図された綺麗さがある。昼も夜も。せいぜい300年の歴史ではあるが、ある意味ヨーロッパの歴史、歴史的建造物、人物歴が詰まっている。見所が一杯だ。この街が今後も確実に抱えるのは、洪水と駐車場の問題か。駐車場はもう激しく不足している。各運転手の駐車の仕方も酷い。

 昨日サンクトペテルブルクの街の色、建物の色が良いと書いたが、セルゲイ君に聞いたら「ピョートル大帝の命令で、"目に優しい""街を明るくする"という狙いから、緑、青、オレンジの淡い色が義務づけられた」と答えてくれた。"黒"をどうしても建物の色にしたかった人は高い罰金は払い、その子孫は今でもそれを払っているという。

 それにしても、私が紹介したエカテリーナ宮殿のサイト(http://www.eonet.ne.jp/~nostalghia-1983/zapishite2/petersburg075.html)を作った人は、かなり時間をかけて作っている。説明を聞いたばかりの私は、昨日のセルゲイ君の説明とダブらせると蘇ってくるものがある。

こぼれた血の上の救世主の教会の前で 最後の公的な見物、観察はChurch of our Savior on the Spilled Blood(こぼれた血の上の救世主の教会)という恐ろしい名前を持った教会だ。その説明はまたしても借り物サイトに頼るが、この教会は「建設に21年、修復に24年」とセルゲイ君が強調していたのが記憶に残った。それにしても、凄まじい修復執念だ。それには本当に敬意を払いたい。

 もう一つ昨日疑問があった。「貯金がないとしたら、どうやって高価な車を買っているのか」だ。殆どの人は借金だという。ちょっと心配になった。恐らくロシアの人々が"ローンでの買い物"を始めたのは最近だ。だとしたら、ローンが経済(家計や国の経済)に及ぼす影響を本当に知ってくるのはこれからだ。

 中には、「お金を貯めて買う」人もいるらしい。しかし「少数だ」とセルゲイ君。土地は国有だが、建物の部屋は買えるらしい。外国人も。確か結構な広さの、結構な場所の、結構良いマンションが「2000万円」と彼が言っていたような気がした。ここに数年住む人には良いかもしれない。「皆で出し合ってくれれば、私が......」と降幡さん。ははは、ちょっと興味がある。私も数ヶ月滞在したい。しかし、いかんせん遠い。

 一つ覚えた。イルクーツクでもそうだが、ちょっと綺麗な場所に行くと必ず結婚式を教会で挙げたばかりのカップルの一団に出会った。主に友達を引き連れて移動しまくっている。こっちで写真を撮り、あっちで写真を撮り。サンクトペテルブルクには飾ったベンツ(ベンツ?)のストレッチが結構な台数あって、それで来るカップルが多かった。

 誰でもいい。「ゴーリコ、ゴーリコ、ゴーリコ.....」と大声で囃す。ロシア後で「にがい」という意味らしい。するとカップルはブチューーーーーーとキスをする。甘くするのだ。そう言われたので、エカテリーナ宮殿の近くに居るときに、車で乗り付けてきていた新婚ほやほやカップルに向かって我々で「ゴーリコ、ゴーリコ、ゴーリコ.....」と大声で言葉をぶつけた。

 そしたらそのカップルは(新婦はちょっと太めだったが)立ち止まって、結構ディープなキスを展開してくれた。ははは、ナイス。


2011年09月18日(日曜日)

 (23:24)日本は暑かったんですね。ウラジオストックから日本への飛行機の中でキャビン・アテンダントの方(ウラジオストック航空のロシアの若い女性の方)に、「今日本は何度とおっしゃいました?」と聞き直しました。31度でした。低ければ10度(サンクトペテルブルク、イルクーツク)の世界にいましたから、空港に降り立ってちょっとくらっとしました。

 「もう終わってしまったのか」という気持ちと、「やっと日本」という気持ちと。でも最初のロシアだったので、実に楽しかったし、興味深かった。見るもの聞くもの。最近はいつものことですが、成田に降り立って大体都心にはバスで向かうのですが、「日本の車は静かに、秩序だって走っている、かつ一台一台が綺麗だ」と思いました。しかしその一方で、「道が細い」印象が改めてしました。

 サンクトペテルブルクを夕刻に出て9時間飛んでウラジオストックで一端荷物と一緒に降り、国際線に移動してそこから成田まで2時間半。一日の三分の二以上は空港、航空機の中だったのですが、「人の波」を感じました

 サンクトペテルブルクの空港では、明らかに旧ソ連邦のアジアの国々から来ている「働く人達」の波を見ました。皆黒っぽい服を着て、大きなテープでぐるぐる巻きにした荷物を持っていた。あの「ぐるぐる巻き荷物」は、当然ながら手荷物検査を通ってから巻きます。

 ウラジオストックから成田への飛行機も混んでいました。日本人7割だったような気がした。ロシアの方も多かった。空港で「フェースブックで見ていました」という日ロ間の貿易に携わっていらっしゃる方に話しかけられました。そういうご商売をされている方が多いんだろうと思いました。無論、我々のような旅行者もいたでしょうが。

 最後に備忘に。今回の旅で最初から忘れて「しまった」と思ったもの。世界で使えるコンセントアダプタ。今の旅は、「充電の旅」でもある。カメラ、ケイタイ、PCなどなど。いつものバッグでないので(今回は大きめを用意)、忘れてしまった。ずっと稲村さんに一つ借りていた。申し訳ない。

 少し疑念を持ちながらも持って行って良かったものは、まずはトイレットペーパーです。「紙」はやはり日本のが一番サイズから紙質からして良い。海外のトイレットペーパーはごわごわしていて、かつ細い。なぜだろう。2本半持って行って大部分使ったのは、別にトイレだけでなくいろいろに使ったから。ティッシュも日本のが一番良い。

 持ってくるべきだったと思ったもの。固形石けんかな。ホテルサイドにはいろいろ用意されている。大体がシャンプー一体型の液体です。しかし顔などは綺麗にならない。というか、すっきりしない。「固形石けんが欲しい」と思いました。

 持って行ったが必要なかったものは、万が一の時の靴の代え。今回も使わなかった。ま、運動靴なので逆に一回使ってみても良かった。持って行って無駄だったもの。麻雀道具。シベリア鉄道で暇になったらと、小型のものを持って行った。しかし、そんなスペースも、時間もなかった。高価なものではないので、セルゲイ君にあげてきた。

 持って行って凄く役立ったもの。iphone。シベリアではなかなか繋がらずに「役立たず」と思っていたが(ドコモの方が繋がった)、西に行くに従って、また時間が経過するに従って「これはいい」と思った。何よりも、時差を自然に補正してくれた。iphone を見れば現地時間が分かった。mac air も時差補正は自動だった。windows pc はダメだ。

 次にiphoe が良かったのは、フェースブックやツイッターの確認に最適なツールだったからだ。今回の旅は別の視点から言うと「フェースブックの旅」で、イルクーツクのターニャもそうだったが、特にサンクトペテルブルクのセルゲイとは早々に「友達」になって、いろいろな情報を交換した。彼は私がサンクトペテルブルクから送った写真などを見ていたし、質問に答えてくれたり。そうそう、彼がHPを教えてくれた。http://www.varlamoff.com/jp/welcome.htmlです。日本語です。そのうちもっと充実すると思います。

 疲れたので、また寝ます。明日は、ジャンガララーメンかCoCo壱番屋のカレーを食べよう。海外から帰ってくると無性に食べたくなる。あそうそう、昨日書いたiphone の数字は、やはり位置情報だそうです。越智さんが教えてくれた。
ycaster 2011/09/20)


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