日々のライブな情報ページ

2010
09/02
Thu

2010年09月02日(木曜日) 暴動の残滓(delayed)

day by day

 (23:30)ラサ(敢えて漢字表記すると”拉薩”)は海抜が3600メートル。富士山のてっぺんが3775メートルと言うから、ほぼその標高の所に都市がある、ということになる。人口は15万人。その7割がチベット人で、残り三割の圧倒的部分が漢人、あとは回教の人達。

 街のあちこちには2年前の暴動の残滓が見て取れる。街のそこかしこに3人、4人、5人一単位でそれぞれ別角度を監視しながら、銃を構えている迷彩服の兵士の姿がある。交差点にはあちこちにカメラが設置されていて、この街が依然として監視・緊張状態にあることをうかがわせる。

今でも綺麗に整備されているダライ・ラマ14世の使用館  3年ほど前から急に車が増えたそうだ。車を保有するのは、漢人の若者が主だそうで、確かに新車を数多く見かける。中国国内とあって、見知らぬ車(車種が多い)がいっぱいある。道路は広く、車はあまり信号がない街中を、時に喧噪に、時に静かに移動している。私の記憶違いかどうか判らないが、とにかく信号の数は少なかった。

 ラサに到着して真っ先に主催サイドから指摘(注意)されたのは、次の二点です。

  1. 街の中の彼方此方にいる制服の兵士にカメラを向けてはいけない
  2. 兵士を指さすような行為も行けない
  3. いつ誰何されるか判らないから、街の中を移動するときは例え団体であろうとパスポートを常に携行すること

 いつもどこを歩いても、何を撮影しても、誰と話しをしても良い街を歩き慣れている身としては、これはかなりの制約要因です。兵士は中国の中央政府から派遣されていて、街の様子を監視している。というより、銃を構えていていつでも戦える状態にある。監視の対象は、不満分子、騒動を起こしそうな連中であって、制服兵士の他に監視カメラがあり(東京やその他都市にもあるが、目的は違う)、そして実に数多くの私服警官がいると聞けば、気持ちは良くない。

 ラサは観光と農業の街なので、沢山の人に来てもらいたい。観光がなければこの街は成立しない。その一方で、新疆ウイグル自治区とともに、中国では民族的にも大きな問題を抱えた街としてある。

 日本から一緒のツアコンの方が、「ガイドさんはチベット人です。そのチベット人を困らせるような質問はよして下さい。最近はバスにも盗聴マイクが仕掛けれレているという話しもあります」と、これまた注意。これには困った。聞きたいことの半分も聞けない。まあその分は、じっと自分で見るしかない。

 長旅の後なので、2日の午前中はゆっくり休んで、午後から行動開始。見たのは

  1. チベット博物館
  2. ダライ・ラマの夏の離宮であるノルブリンカ 博物館にあった女体で示されたチベットの地図
 だった。博物館は中国の中央政府がチベットの各地方に散らばっていたチベットの歴史的価値のある文物を集めた博物館で、視点はチベットと中央政府の融和にある。1990年代の後半に作られたにしては結構古びた建物で、歩き回るにも苦労する。広くて。

 見ながら思ったのは、5000年も前の文物とかいろいろ展示してあって、「一体人類はいつ頃からこんな高地にまで上ってきたのだろう」といった現実離れした発想でした。石器とか土器に文様を付ける櫛など、興味深い展示物はあった。

ダライ・ラマが街の人々の祭りを見た屋敷の前で  一つ言うと、チベット語(中国語とは全く違う)の2(に),4(し),9(く)、10(じゅう)の発音は、日本語のそれと全く同じだという。日本人の起源については、雲南に住む民俗だとかいろいろ説がある。日本人といっても縄文系と弥生系は違う。だから複雑なのだが、10までの間の数字の4つまでが一緒というのは、何らかの紐帯を感じざるを得ない。10が一緒なので、「じゅうに」「じゅうし」「じゅうく」なども一緒。

 ノルブリンカに関しては書きたいことがいっぱいある。ダライ・ラマはこの館からインドに亡命した。厳しい雪の道を通って。今の14世が使っていたいろいろなものが残っている。館そのものも綺麗に保存されていて、綺麗に色とりどりの花が飾られている。何十種類もの世界中のお札が置かれている。世界中から来た人が置いていったのだろう。日本円もある。

 ここに佇むと、チベットという民俗が置かれた今の状況を考えざるを得ない。是非多くの日本人に訪れて欲しい。説明によると、3年前までは日本のお客さんが本当に多かったそうだ。しかし暴動のあとはさっぱり。暴動の前は多かったのに、その後はさっぱりだそうだ。

 チベットのガイドさんの基本月給は1300元(2万円)くらいで、ツアーが入るごとに追加で一日30元、ヒマラヤ近くのラサから遠方だと60元とかもらうらしい。それにしても少額だし、お客さんあってのガイドだ。今チベットの日本語ガイドさんの中には、英語を勉強したいと思っている人が多いという。日本人の旅行客が減っているからだ。

 しかし一方で思う。我々が支払ったお金のどのくらいが本当に現地の人達の懐に入っているのかと。しかし行かなければゼロだ。日本人として何が出来るのか考えてしまう。

 チベットで恵まれているのは公務員だそうで、月給は普通は3000元だと聞いた。退職してからもかなり優遇されているという。

 ところで、そろそろ「高山病」の事を書いておきましょう。これは実にやっかいな病気です。私は頭痛止まりだったが、進んで吐き気にとらわれ、結局2日の市街ツアーに出られなかった人も出た。「高山病」をネットで調べると、例えばこのサイトなどもそうだが、大体が富士山登山における高山病対策が出てくる。しかし青海チベット鉄道は最高標高地点は5000を超えるし、チベットの中心であるラサはそもそもが回りから降りてきても3600メートルある。

 高山病はまずまず頭に来るらしい。頭痛がしたり、頭が重くなる。回りの人を見ていると、それに加えて顔がペイルになって、しばしば唇が青くなる。そしてむくむ。これらは高山病の一種である。そういう意味では、行った9人が全員が頭痛には取り憑かれたという意味では、高山病にかかったと言える。

 面白いのは、その頭痛も収まっても、あとで波を打つように戻ってくることが多いこと。つまりバラツキがある。人によって「ああ今日は良さそうだ」という人と、「今日はちょっと調子悪そう」という人が出てくること。これは予測がつかないそうだ。要するに酸素不足なので、それを補うことが最大の対策なのだが、吐き気まで行くとあとが大変そうだった。

ホテルの部屋にあった酸素吸入器  対策の一つは写真のような器具を使って酸素を時々補完してやることだ。ホテルの部屋には写真のように二本用意されていて、一本が35元と聞いた。ホテルの近くのちょっとした店では5元で売っていた。いずれにせよ、酸素を吸うとすっと頭は軽くなる。

 あとホテルにはもっと本格的なボンベで酸素を急速にかつ持続的に供給してくれる装置がある。メンバーの何人かはそれのお世話になって、体調を戻していた。しかし駄目な人も居たのである。

 きついのは、体を動かすときだ。歩くのも標高の高い所では疲れる。私のように、早期に高山病を乗り越えた人間にも、ラサでの移動はきつかった。東京の早足は、ラサでは通じない。あんな事を観光客がしたら倒れかねない。

 もっと大変なのは階段を上がることだ。「ぜいぜい」「どきどき」と、心臓が信号を出してくる。高所では何事もゆっくりしないと命に関わる」ということでしょう。一つ私が発見したのは、ゆっくり時間をかけてシャワーを浴びると、少し頭痛が治まると言うこと。それって、人間の体がシャワーの湯から酸素を吸収している証拠? 

 まあでも、食事も美味しいし、何と言ってもめったに来れない場所にいるのだから、本当に良い経験になる。大体夜明けが午前8時30分ですよ。日暮れは午後8時半過ぎ。チベットの人は「北京と二時間くらい時差があってもおかしくない」と言う。あの広大な国土が一つの時差ですからね。あえて言えば香港と同じ。

 笑えたのは、2日の夜食べた「きのこ鍋」の店。なんと店の名前が「人民公社」(サイトはhttp://www.dianping.com/shop/2317933)というのです。はいるとどーんと毛沢東の肖像が飾ってある。店員は皆人民服。二階に上がると、スターリン、レーニンなどなどの写真。

 「ここでは会話の内容にも気を付けねば」とか話していたら、これは文化大革命の記憶も多くの中国の人々、特に若い人々にとって「遠い過去」となる中で、「人民公社」や「毛沢東」が一つのファッションとして蘇ってきた証だという。結構混んでいましたよ。東京の銀座にも「キノコ鍋」を売り物にする店が出来ていますが、うーん、ブームの予感。

23:02
twitter
伊藤洋一公式Twitterアカウント

サーチ


カテゴリー


最新の記事

カレンダー

キーワード