2000
09月

2000年09月の日記

日記

2000年09月27日

 もうバカ受け。「ドットコム店ドットコム」と言うのです。URLが。「dotcommise.com」と本当なんですよ.....。

 聞いてはいました。我が社からすぐ近くの商社の財務担当の田中ちゃんから。「妹が下高井戸で店を出したから、今度いこうよう.....」と。で水曜日にこっちは今西君を、田中ちゃんは伊藤君を(わたしじゃありません)帯同してその店に行ったのです。料理よりもなによりも、その店のURLを聞いた瞬間に、この店のなんというかちょっとふざけた、余裕のアイデアに関心しました。

 「ドットコム店ドットコム」ですよ。なかなか想像力豊かじゃないですか。別に改めて聞き直さなくても、書きとめなくても一発で頭に入る。「誰だ考えたのは...」と言いたくなる。珍しく売れるURLで、相応のオファーがあれば「売る」と言ってました。σ(^^)

 行ったのは系列3店(?)のうち本店「海晴亭」ですが、とっても気に入ったのは「野菜入り卵焼き」でした。昔から好きなんですよ。大根下ろしをたっぷり添えた一品で、あれはまた食べたい。牛すじ入りのオムライスもよかったな。つまり、卵系がナイス。阿佐ヶ谷店は近いので今度行ってみようかな、なんて思ってます。BBSを見ると、どうも今年の7月の下旬に立ち上がったサイトのようです。

 うーん、でもな阿佐ヶ谷店には「ミス国立」(だっけな)の田中ちゃんの妹がいないからな......

2000年09月26日

 寝る前にワシントン・ポストを見たら、トップストーリーは「どん底からはい上がって米ソフトボール・チームが強い日本を破って優勝.....」と。どうもアメリカは、ソフトボールは全く自分たちのもの、と考えていた節がある。なにせ、予選の段階で3敗もした時には、ニューヨーク・タイムズには「全く予想外」と長い記事が載っていた。それもスポーツ面のトップで。

 まあ日本も頑張ったと思う。アトランタが4位、今回は2位。アメリカにとって見れば国際試合で連勝を続けていた自分たちが「勝って当たり前」だったのに、メダルも取れないかもしれないというところまで墜ちてからの優勝で、米マスコミが大騒ぎするのは分かる。シドニーの記者会見場でもアメリカ人の記者ははしゃぎ気味だったという。

 日本は階段を上がっては来ているが、重要な点は最後の3試合は宇津木という37才の、今回でソフトボールをやめると見られている選手のホームランでしか点を取れない展開だったことだ。つまり、ヒットは続いていない。昨日の試合も、得点チャンスは少なかった。

 審判のジャッジがどうこうということはあるかもしれないが、結局負けたのは打力不足だった気がする。宇津木が抜けた後の日本チームに、彼女に匹敵する大砲が出てこないと、次のオリンピックは期待倒れになるように思う。

 男子の野球を見ていてもそう思うのですが、日本の野球類は最後は「打力」がポイントになっていると思う。投手は既に国際クラスになっていると思う。大リーグで活躍する日本人投手を見てもそう思う。
 

2000年09月24〜25日

 やはり他人頼みは良くないと言うことでしょうか。news and analysisでG7の声明を扱った中で、英文声明の日本語訳に大蔵省のサイトのこの訳を使ったら、一カ所おかしいところがあった。

 G7の声明英文では

We welcome the U.S. action to release a limited quantity of its oil reserves in the form of swap transactions. We agreed to remain in close contact and to continue our discussions with oil producing and consuming countries as we evaluate measures appropriate to the evolving situation in oil and product markets.
 となっている部分です。私も読者から指摘されて気が付いたのですが、大蔵省の仮訳は以下のようになっている。
我々は、一連のスワップ取引の形態による石油備蓄の一定限の量の放出という米国の行動を歓迎する。我々は、これらの対策が石油及び製品市場における進行中の状況にとって適切であると評価し、引き続き産油国及び消費国と密接な接触を保ち議論を継続していくことを合意した。
 ポイントは、英文の最後の文章の中にある measures をどう考えるかです。大蔵省の仮訳を作った人は、これはアメリカの一定限の備蓄放出を指すと考えた。しかし、この measures には「this」とも何ともこれを限定する語句は付いていない。この部分は私流に素直に訳せば以下のようになります。
我々は、スワップ取引の形で限られた量の石油備蓄を放出するとのアメリカの措置を歓迎する。石油、同製品市場における環境変化にあった措置を模索するに際しては、我々は石油生産国と消費国双方と緊密に接触し、協議を継続することで合意した。
 つまり、 measures は「appropriate to the evolving situation」で限定されていると見たのです。金曜日に発表されたアメリカの戦略備蓄放出だけを指すのではなく、むしろ今後取られる措置を指していると。その意味では大蔵省の訳は正に「仮訳」だったというわけです。しかし、大蔵省のこのサイトはG7が終わって比較的早い時間にアップされていた。英文も一緒に。翻訳がおかしかったのはいただけないが、以前に比べてのスピードアップは評価できる。

 と思いながら25日の夜寝る前にニューヨーク市場の相場を見たら、石油価格、ユーロ相場ともに下がっている。下がっていいのは石油価格で、ユーロは下がってはいけないはずです。少なくともECBにとっては。筆者はここでも書きましたが、ユーロの長期的な先行きに関しては楽観視していませんが、市場の見方も今のところそうのようです。

 ニューヨーク商品取引所の25日午前中の期近11月きりの原油相場は安値で先週末比1.82ドル安、5.6%安の30.86ドル。これは8月14日以来の安値。先週の高値37.80ドルに比べると大幅な下落。
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 ところで、先の中国で過ごした一週間弱を一本のチャット・コーナーの記事としてまとめました。day by day のコーナーの文章をひっくり返しただけですから新味はないと思いますが。

 それからこのコーナーの文章としては、古代史に於いてこれだけは確実の事という私の父親の文章を掲載しました。買ったばかりのスキャナーでスキャンして、作業量を短縮してアップした文章です。ご興味があったらどうぞ。「象の時間、かげろうの時間」という表現は洒落ていると思う。

2000年09月23日

 中田がPKキックを左のポストに当てて右に外したとき、なぜか2大会前だったかイタリアのバッジオがワールドカップのPK戦で右上にボールを蹴り上げてしまって外したシーン(間違っていたら済みません)を思い出しました。二人とも所属する国の希望の星。テクニックも人気もある。その二人が、PKを外して自分が所属する国の敗北を呼んでしまった。

 二人の失敗には、共通なものがあるような気がする。危なげないゴール、見ていて綺麗な、人気選手のそれにふさわしいゴールが欲しい。それを欲するだけの技量もある。であるからこそ、「失敗はできない」という気持ち。だから狙う。必要以上に。キーパーの動きを見れば、あそこまで狙う必要があるとは思えない。しかし、彼等は狙った。そして、失敗した。スターがいないアメリカは、とにかく必死でやっていたように思う。

 二人にとって多くの成功の中での数少ない失敗。しかし、力があると思われる選手の失敗だけに、見る人間の記憶に残る。人間は自らを成功に導いたもので、しばしば失敗するという言葉を思い出していました。たぶん彼等は、自分が人気選手であり、技量も他の選手に勝っているという自信がなければ、なんなく成功していたのではないか、とも思う。

 バッジオが失敗したPK戦に関して、その後イタリアのマスコミがどう書いたかは知りません。この文章は23日の午後11時過ぎに書いていますが、24日の日本の朝刊がどんな論評をするか気になる。23日のテレビでは、「失敗したのは中田だった」ということを映像では見せたものの、表現の上ではあまり前面に出せなかったように思う。今までの希望の星でありながら、PK戦で失敗した中田の扱いに迷っているように見えた。

 報道にもいつも迷いがあり、そして落としどころは試行錯誤だ。
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 しかしそれにしても、今回のオリンピックの報道を見ていて気になることが沢山ある。技や技量の分析が少なく、大挙して押し掛けたマスコミの連中が勝った、負けただけであまりにも大騒ぎしているのはいただけない。メダルに手が届いたとか、届かなかったとか。重要な点だが、では「なぜ」という点の分析があまりにも少なかった。

 アナウンサーはある程度仕方がないにしても、解説の人まで感情移入してしまうのは困ったものだ。我々がもつ印象以上の分析を期待しているのに、しばしばその役割を忘れている人がいる。自分が育ててきた選手の話になってつい力が入るのは分かるが....。

 24日の朝には女子マラソンがある。また見させていただく予定だが、中継はどこの局の誰がやるのか。感情だけが移入されたような実況中継は聞きたくないものだ。映像だけ見て、想像をたくましくするというのも良いかもしれない。インタビューは聞きますが。

2000年09月22日

 二種のウィルスはニューヨーク株式市場で最初に跳梁跋扈しました。そしてそれが欧州市場に伝搬し、今週の後半にはアジア市場に、そして一番抵抗力のあった(円高で)日本の株式市場でも猛威をふるいだしたとき、日米欧の医者(central banker)達はとりあえず二種のウィルスのうち一種に対して対症療法に乗り出した..........。日本時間の22日の夜から始まったユーロ安阻止の日米欧協調介入は、そう表現することが可能だろう。

 二種のウィルス、すなわち原油高とユーロ安のうち、対処が難しいのはユーロ安です。一般に言われている米欧成長率格差が問題なのではない。実は、アメリカに向かう欧州の資金と、EUの政治スタンスそのものが問題なのです。つまり、根が深い。二種のウィルスによって欧州では物価は上昇気配。しかし、金利の新たな上げに景気は耐えられない状況になりつつある。つまり、欧州にとってのジレンマ、「no win situation」だった。

 サマーズが「アメリカの通貨政策は変わらない」と言ったといって、「介入はない」と理解したとしたら、その人は外国為替市場を知らない。金利とか介入とかには中央銀行家は何を言っても良い。逆を言った方が効果が高まるからである。ウィルスが欧州だけを犯している間は、アメリカも日本も対岸の火事である。しかし、株安は金曜日の東京市場が500円近いものになった段階で、世界的な危機になりつつあった。各国は自国に利害が生じる場合は、一致して動く。国内を納得させられるからだ。

 23日のG7を待たずに、ユーロ安と原油高という二種のウィルスが、世界経済の鼓動である各地の株式市場に深刻な打撃を与えそうになったこと(具体的には22日欧州、ニューヨーク市場)、G7を待つより事前に打って出る方が効果的であること、先に行動を見せておいてそれをフォローする声明をG7で出すシナリオの方が賢いこと.........などが今回の「早めの措置」になったのでしょう。ECBはHPを見ると協調介入に関して次のように簡単に述べている。

The ECB announces joint intervention in the exchange markets

22 September 2000
On the initiative of the European Central Bank, the monetary authorities of the United States and Japan joined with the European Central Bank in concerted intervention in exchange markets because of their shared concern about the potential implications of recent movements in the euro exchange rate for the world economy.

 「ユーロの最近の相場変動が世界経済に対して持ちうる影響に関しての懸念の共有」という表現。それはそうだろう。日米欧にとって、今の段階での持続的株安は困る。ユーロ安をそれを誘発しそうだった。しかし、介入の効果を持続させるためには、バックボーンになる措置を連打する必要がある。問題なのは、今の欧州にはそれができない点である。だから思う。金曜日という明日なき日、ポジション調整が起こりやすいチャンスをとらえて介入は行われた。しかし、来週からの市場でユーロの水準を維持するのは、かなり難しいのではないかと。
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 もう一つのウィルスは、案外おとなしくなるのが早いかもしれない。そもそも、世界の原油市場は供給過剰である。そうした中で、選挙戦での点数稼ぎだろうがゴアはクリントンに「戦略備蓄の放出を」と要請した。なんというタイミングか。

 円高でもユーロ安でも、それがアメリカの市場(株でも債券でも)に大きなマイナスの影響力及ぼし始めたときには、必ず相場は大きな転換点を迎える。なぜなら、アメリカが動くからである。アメリカとサウジの間柄を考えれば、大統領選挙を控えてこの時期に、原油相場が湾岸戦争時に付けた41.15ドルに達すると考えるのには無理がある。

 中央銀行家達は、「ユーロ安」というウィルスへの取り組みをまずは優先した。しかい、もう一つのウィルスである「原油高」の方が、今年いっぱいというタームで考えるとG7にとっては、対処はやさしいと思う。問題は欧州の共通通貨が抱える問題の深さである。今のところ、ユーロが持続的反発に転じる材料、「今まで下げ続けていた」という事以外にはないように見える。だから、セントラル・バンカーは一生懸命にならざるをえない。「We are here !」と市場に宣伝することに....。

2000年09月20〜21日

 今週は日本中のほとんどのレストランが、「客が来ない」と嘆いているのではと思う。実際、「暇なんですが....」という電話やメールが来る。まあしかし、どちらが楽しいかと言えば、そりゃ4年に一度のゲームを見る方が楽しいわけで、私も仕事を片づけたあとは今週は比較的スムーズに退社し、テレビを見ることが続いている。レストランの方々には、ちょっとあと一週間ほど我慢してもらわないと。<^!^>

 いままでずっと興味がなかったので買ってなかったのですが、jpeg 画像をいくつか緊急に作る必要があったのと、随分安くなっているのを知っていたので、今週はスキャナーをゲットしました。今までちょこっと貯めた点数を使ったので、ヨドバシカメラで1万円もしなかった。説明書もあまり読まないで、ああでもない、こうでもないとやっていたら出来るようになったのですが、驚いたのはOCR(光学式読みとり)の能力。

 ハードそのものに付いているソフトだけではなく、なんていったっけな「e-typist」「e-contact」といったようなソフト(一つになってました)を一本買ったのですが、これが性能が良かった。A4のレポートなんぞは全く間違いなく読みとってくれる。

 実は親父が地方の歴史雑誌に書いた文章をネットに記念にアップしようとずっとコピーを持ち歩いていたのです。そのうち自分で手打ちしようと。しかし何気なしにスキャナーのOCR能力が異常に高いことが分かって、早速すべてスキャナーの上に載せて7ページほどを読みとってしまいました。ワードやテキスト・エディターに載せて、html処理して、楽々です。親父の文章は昔の漢字が使われていて、自分で打つのはしんどいな....と思っていた矢先だったのです。

 むろんOCRをするにはこつもあります。なるべく白い紙の上の印刷活字を読ませること。新聞なども白い紙の上にコピーして、かつ少し大きくし、かつ一つ一つの文章の固まり具合を明確にしてスキャナーに読ませると識字率、認識率が大きく向上する。今まで新聞の資料を取っておくのは結構大変だったのです。手は汚れるし。

 結局最後まで残して於いて価値があるのは、「数字」なんですよね。あやふやになってはいけない。考え方とかは、自分の考え方と付き合わせればどこが違うか覚えられる。しかし、数字は間違えてはいけない。

 あとやってみようと思っているのは、名刺管理でしょうか。古くなっても見ない名刺はいらない名刺という割り切り方をしてきたのですが、簡単にデジタル情報になるのなら、あとで検索をかければ良いので、残しても良いかな....と。検索ができれば、使い勝手が良い。「e-contact」というのがそれに当たるのでしょうが、実はまだ使ってない。

 モノは、キヤノンの「CanoScan N656U」とか言うやつで、軽く、薄い。名刺の処理をするのにはちょっと説明書でも読まなければならないような。スキャナーを資料整理にうまく使っている方、何かアドバイスがあれば下さい。 よろしゅう。

2000年09月17〜19日

 たった一週間でしたが、日本を空けていたらいろいろやることがたまっていました。週末は外せない葬式で諏訪に行き、その後も貧乏暇なし。諏訪と東京の間で最近だけで2回も列車に閉じこめられたので、日曜日に帰ってくるときは雨がひどく「またか」と思いましたが、なんとかなんともなく通過した。

 実家で中国に居る間に撮影した写真(300枚近い)を見せていたら、やはりその時代を生きた人ですね、親父は歴史的な地点はちゃんと頭の年代表の中に入っていて、興味津々に見ていました。
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 火曜日にやっとフレッツの接続が完了。18日の午後から使えるはずだったのですが、なぜだか18日中はうまくいかず。頭に来て電話したりしていたら(一度として繋がらなかった)、19日の夜にちょっとした設定でつながった。ダイヤルアップよりかなり早く接続するのが見た目には良いのですが、何と言ってもメリットは使っても使っても月額4500だかを払えば良いという料金関係。

 私は「ネットは速ければ良い」という意見には反対で、まず低料金を優先し、次にスピードを重視すべきだと思う。なぜなら、例えば人間がニュースそのものを読む時間はネットのスピードが上がったからと言って短縮される訳ではない。144でも64kでも、出てきた画面を読む速度は同じです。256kでもそれよりもっと速くても。人間の能力には限界がある。

 確かに接続速度が速くなると、絵とか音楽の送受信には時間がかからなくなる。しかしそのために接続料金が高くなってはしかたがないと思う。64kのフレッツは高速接続の媒体に比較すると遅いが、料金がいくら使っても変わらないというのはメリットがある。

 接続先はメインに使っているグローバル・オンラインが対応しなかったので、結局NIFTYにしました。NIFTYにはずっと入っていて、いままで使用していたコースがフレッツ対応の「無制限コース」に吸収されたのがラッキー。

 メールのsmtp を「smtp.nifty.com」に変えてしばらく続ける予定。これをすると、ネットスケープを使っている場合は、ラップトップの設定を家以外で使うときには変える必要があるので面倒ですが、まあそれも辞書登録してしまったので大丈夫でしょう。

2000年09月15〜16日

 帰国したのがちょうど木曜日の午後6時。日本のサッカーチームが南アフリカと試合を始めた直後。帰ったら終わっていました。しばらくオリンピックが話題の中心と言うことで、金曜日の朝のスタンバイの最初の話題も森本さんのシドニー報告でした。柔道も金をまず二と取ったし。それにしても、田島の「めちゃ悔しい」は日本人離れしていて良かった。

 数日間しか中国に行っていなかったのですから世の中それほど変わっていないのですが、一つ変わったのはNTT東日本からの封書が届いていて、何かと思ったら「フレッツISDN」の利用開始通知。18日から使用できるという。この件に関してはこのコーナーの読者の方にもいろいろ教えていただきましたが、こで私も毎月4500円の利用料でネットの使い放題が始まるというわけです。

 結局メインに使っているグローバル・オンラインが対応しないので、NIFTYにつないで、メーラーの送りサイドを mail.nifty.com(でしたっけ)にする予定です。18日の午後開始ですので、あと数日は現状のままです。

 中国に関しては最大の「鍋」をまだまとめていないのですが、それは後日このコーナーにアップする予定です。
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 大連の印象の続きです。正直言って、大連が「北方香港」の名にふさわしく、その夜もかなり香港に近いことには驚きました。旅行者として初めて来て、かつ団体で行動している分際としてはあまり自由な行動は慎んだのですが、大連の夜の風俗の開放度はホテルのバーに行っただけで分かる。

 夜の9時半過ぎだったでしょうか。まだ寝るのは早いのでちょっと飲もうと思ったのでバーに降りていったら、女性の3人組がダンスをしながら歌を歌っている。何の歌だか分かりませんでしたが、銀めらのかなりボディーを露出した衣装で、踊りはうまいとは言えませんが、英語の歌を結構楽しそうに歌っている。ここが原則社会主義の中国の本土であることを考えれば、「へえ、こんなこともしているんだ」という印象。

 バーはカウンターが20席、その奥にあるイス席が50くらいですが、すぐ気が付くのはカウンターを中心にジュースを置いて女性が一人だったり、二人だったりして所在なしに、誰かを待つではなく座っていること。世界中どこの国に行っても、この手の女性が何を狙っているかは明白です。最初「ここは中国だから....」とか思ったが、どうもそうなんですな。纏足の足と、普通の足=中国の大連で撮影

 男の種類はというと、西洋系が20人弱くらいいたでしょうか。東洋系は日本人だか、韓国人だか、はてまたジモチーなのかわからない。あまり日本語は聞こえなかったので、中国人(地元の人ではないかもしれませんが)のようだった。むろんグループで来ている人たちもいたし、ただ軽く飲みに来た人も居たようですが。

 しばらく飲んでいたら、目線を送ってくる連中がいる。面倒なので無視していましたが二人ほど接近してきて、ビールを飲みたいだとか、「私はお金が必要だ」と直接的に言うのもいてからかっていたら面白かった。むろん、こっちは中国語が出来ない、向こうはほんのちょっとしか英語が出来ないで、意思はほとんど伝わらない。考えてみれば、あまり英語がうまい女性は、そういうことなんでしょう。しかも危ない。

 30分ほど居て引き上げましたが、まああれも現代「北方香港」の大連の実状なんでしょう。大和ホテルのバーもそんな感じでした。シャングリラは大連で最高級なホテルでそうなんだそうですから、あとはおして知るべし。女性の一人は吉林省の出身だと言っていた。来る直前にも旅行中にも読んでいた『中国「内陸」発』(村山 弘)さんの書いた本を思い出しました。

2000年09月14日

 中国の朝は早かった。訪問したのは大連、青島、煙台とわずかに数カ所ですが、たぶん全国そうでしょう。煙台では5時起きして数人で「自由市場」に午前の6時過ぎに行ったのですが、もう人が一杯で動くのにも苦労するくらいだった。聞けば市場(いちば)は午前の4時頃からやっているそうで、午前の6時過ぎといえば既にピークを過ぎているという。

 大連では最終日は午前中が自由時間だったので、早起きしてホテルの近く(大連駅の近く)を一人で2時間ほどぶらぶらと歩きましたが、通勤風景が見られる一方で街は既に活況を呈していた。「早餐」と書いた朝食屋が1元から4元でお粥のような朝食を用意し、しかも呼び込みを使って客を誘っている。まるで夕方のような喧騒です。客が少ない店が多かったので、覗いただけで実際には入りませんでしたが。

 大連薬局と書いてある薬屋は午前の8時に店を開けて、入ると凄い薬の臭いがしたし、それから30分後の8時30分には銀行が店を開けた。そして9時にはデパートが開くという感じである。都市でもそうなのだから、一般的には中国の地方の朝はもっと早いのではないか。

 通勤風景といっても日本のように多くの人の歩く方向が同じと言うことはない。大連駅の一日の利用客は80万人だそうだが、それぞれが勝手な方向に歩いている。驚くことに、誰もネクタイをしていな。ワイシャツもまれで、皆開襟シャツ、Tシャツ。唯一見つけたネクタイ姿の男性は、マクドナルドの店長だった。

 男も女も皆小さなバッグを抱えて歩いている。服装はまったくばらばらである。決して高くはないし、どちらかと言えば粗末だが、それでも服装は多彩である。昔の人民服はわずかにおこじきさんが着ていただけで、あとは全く見かけなかった。ごくまれに底厚靴の女の子が歩いていたし、それよりまだ希だが、チャパツのおねえちゃんもいる。

 最初中国人相手の小さな店で肉まんを買って歩きながら食べていたが、どうも腹に馴染みそうもないので目に入ったマクドナルドに突入してみた。「麦当労(本当はくさかんむり)」と書く。ケンタッキーは「肯徳茎」である。大連の中山広場の大和ホテルの上にある大スクリーン。市民は夜ここに集まってサッカーの試合を見たり、独特の足蹴りゲームをしたり、ダンスをしたり

 値段はたぶん中国人には高い。ビッグマックが16.8元。ソフトクリームが2元、シェークが4元、アップルパイが3元。「ここはどうだ」とコーヒーを飲んだらやはりまずい。大連で強く感じたのは、どこが社会主義か、市場経済そのものではということである。
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 たぶんここ数年だと思うが、中国はすさまじい勢いで「商品」が溢れかえる経済を作った。デパートに行けば分かる。モノが溢れかえっているのである。良い品も多い。悪かろう安かろうだけではないところの入り口に来ている感じがする。街の看板には、「DVD」の字が踊り、CDが驚くような安さで売っている。「商品経済」の登場である。女性の着る物が豊富だし、家具も揃っている。「商品経済」ということは、同時に「貨幣経済」が支配的になったということである。お金が全ての価値の尺度になる

 中国が世界においても有数の「モノづくりの工場」になっていることを考えれば、これは不自然なことではない。ユニクロといい製品はもともとは中国で作っているのである。そして作っていないものは輸入している。日本の製品も溢れかえっている。ソニーの比較的性能の高いウォークマンは2000元弱だった。普通の働き手は、一ヶ月の給料で買えない。その豊かな商品を買える所得のある連中と、そうではなく大連駅の近くでも見たが物乞いに落ちている連中との格差。

 大連駅の近くでも、朝から何をするでもなく街にたたずんでいる連中が多かった。若い人も多い。中国では国内航空でもパスポートを要求されるなど人の移動を制限しているが、それでも人は動いて流民化している。繁栄を迎えつつあるように見える商品経済と、所在なく街にたたずむ連中との共存。大連駅に佇んでいると、行き交う人々の時代の変化に対するとまどいの表情を見ることが出来る。確認に満ちて歩いている人はいない。

 それはそうだろう。社会主義という思想が根底にあった社会から、急速に「商品」が中心になる経済になって、お金が重要になった。しかし、それに加えて携帯電話だコンピューターだと身の回りはめまぐるしく変わる。そして中国にも「情報化社会」が訪れようとしている。日本人よりもはるかに短い時間でいくつもの時代を中国の人々は経験しているのである。

 大連のガイドをしてくれた金さんが、今の中国で高い所得を持つ人々は?小平の改革開放路線が始まった時に勇気を持って自分で事業を始めた人たちだと言っていた。建物の内装業者、医者、そして最近ではIT技術者。彼等は普通の人々に対して高い所得を持つ。そして金持ちのもう一つのグループがいる。民衆や企業にたかる役人である。袖の下というやつだ。これが中国で蔓延していることはつい最近非常に地位の高い役人の死刑によって証明された。
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 街を歩きながら、今後中国はどんな発展過程をたどるのだろうかと思った。これから伸びそうな重要な商品のかなりの部分は輸入なのである。繊維とか在来産業では、労働賃金の安さ故に強みを発揮しつつある。しかし、それが発展の原動力になるのも当分の間だけだろう。「成長の踊り場」はもっと長引くことは必至なのだ。半導体産業も、コンピューターも産業もない。

 しかし中国の強みは、「民族」という店では非常に幅広い領域で活躍するタレントを擁しているということである。台湾はコンピューター産業のメッカだし、中国人はアメリカでもいろいろな分野で活躍している。ことビジネスという点では、ユダヤの人々と並んで情報網は整備されている。

 しかし「製造業」はどうだろうか。集団としての統制とかモノを最後まで仕上げることに対する熱意は低いように思える。人口の大きな、領土の広さ、革新と保守との対立、内陸と沿岸の成長率格差、そして地方の違い。こうした違い故に、中国は「偉大なるカオス」の状態が続くような印象もある。だからこの国は、「こうだ」と言えないままの国なのではとも思う。

2000年09月13日

 ちょっとした異文化体験。青島のホテルで。状況は朝飯。10人のメンバーが揃って、三つのテーブルに別れた。オーダーを聞きにくるウェートレス。といってもセットされていて全員コンチネンタルと決まっている。ジュースの種類、パン、コーヒーかティーか(卵はなかった)を決める。ウェートレスが我々のところに来てジュースを聞いた。そこまではまあ普通だった。

 4人がそれぞれジュースを決めて言い終え、次のパンの種類のオーダーに移ろうとしたら、あんら....彼女は別のテーブルに行ってしまった。何か急用でも起きたのかと思っていたら、彼女隣のテーブルに行ってそこのメンバーにジュールの種類を聞いている。そしてそこが終わったら、もう一つのテーブルでジュースの種類を聞いている。それが全部終わったら、つまりグループ全員のジュースをまず聞き終えるのです。それからやっと、我々のテーブルにパンの種類を聞きに来た.....。

 以下のオーダーもそのような採取方式が続いた。世界各地を訪問したが、こういうオーダーの取り方をしたのはここだけである。でなぜそうしているか....をちょっと考えると、ジュースのオーダーを全部取り終えたところで他の従業員にそのオーダーを伝えているのではないかと思った。あのテーブルのあそこに座っている人はオレンジジュースとか。

 そうすれば、ジュースについては全員に素早くオーダー品が届くというシナリオである。しかしこの推測はもろくも壊れた。ジュースをもってきたのは別の従業員(男性)だったが、彼はオレンジ、グレープフルーツなど3種類のジュースをひとつにつき3カップくらいもってきて、我々の目の前につきだした。自分のを取れというサインである。あんれ、、、、それではあの独特のオーダーの取り方はなんだったのか ?
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 中国で駄目なのは、水、紙全般、特に柔らかい紙(ティッシューのような)、それにコーヒー・紅茶の類です。煙台(えんたい)の朝市。魚、果物、虫といろいろなものが出品されている水はとにかく水道から出た水は飲まない方が良い。そのものが悪いという意味では必ずしもなく(実際に水道管が腐食していて茶色の水が最初出るケースもあるので悪いことは悪いが)、まあ日本人には体に合わないということ。

 だから旅の間中、ウーロン茶だったり、エビアンだったりで水を持ち歩くことになる。しかし特に夏はあまり大きめな水分補給用のボトルを買ってはいけない。移動している間に、空気と水の接触によってその水も悪くなることがある。腹を壊す。事実そういうケースが起きました。

 ウーロン茶でも、無糖が普通の日本人が驚くことには砂糖を入れたやや甘い烏龍茶もある。最初飲んだときは驚いた。まあ飲めなくはないが、少なくとも私は砂糖の入ったウーロン茶は飲んだことがなかったのでく。その後は私ばかりでなく、大勢の人が「無糖の烏龍茶」を探すことになった。

 レストランに入っても「水」は決して黙っていたら出てこないし、オーダーしてもただで出てくるとは思えない。水が黙っていても出てくるのは、日本とアメリカくらいか。少なくとも隣の中国は違う。
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 その市場に出された幼虫中国の物品のプライスは一応何にでも正札として数字は貼ってある。しかし、それは店側の希望より一段と高いところ(私の予想ですが)にあって、そのまま買うのはむしろ礼儀に反する。小さい物を中心にいろいろなものを買ったが、通訳の郭さんなどに入ってもらって交渉すると、大体において直ちに2割は安くなり、背中を向けたりして交渉を継続すると大体において半分にはなる。

 もっと驚くのは、すぐ隣でも店によって価格が大きく違うということである。だから「どの店が安いか」ということを探索し、「1円でも安く買うこと」に興味がある人には中国は天国ではないか。そうとう疲れること請け合いですが。

 訪れた観光地では、どこでもほぼ同じ物を売っていた。最初は「ここで買わなくては、他ではないだろう」と思って買った物もあるが、その大部分はどこにでも置いてあった。そして価格はまったく違った。だから、しばらくすると買い物をするのにも少し知恵が付いて、共通品は覚えるから、他のものを探すことになる。道教のお寺で買ったお守りなどは買って良かったと今でも思うが、そういうものは十分な品数は揃えていない。

 一番大きな買い物は、背中にかけられるバッグでした。もっていかなかったので、必要だった。かなり気に入ったのでグループの今泉さん、ガイドの郭さんと三つ買ったのですが、最初85元だったのが郭さんや今泉さんの交渉(かなりねばり強い)で45元になった。ナイス。むろん、日本でも使います。

 エンカルタによれば、イエンタイ(煙台)は、中華人民共和国シャントン(山東)省の省轄市(省が管轄する市)。シャントン(山東)半島の北側に位置する港湾・工業・観光都市。ラッカセイとリンゴの産地として知られ、生産量はそれぞれ国内の6分の1、5分の1を占める。工業は缶詰食品・ワイン醸造・絹・金細工・時計・建材・合成皮革・工芸品などが発達している。三方が海に面しているため漁業基地としても発展、国内総漁獲量の10%を占める。海にのぞむ丹崖山にたつ蓬莱閣は唐、宋、元と各時代に建設された建築群の総称で、展望のすばらしさから「この世の仙境」と称される。時には蜃気楼もみられる。面積は1万3507km2。人口は630万人(1993年)。

 古くはチーフー(芝罘:しふ)の名で知られ、秦の始皇帝が3度おとずれ海をのぞんでサメを射止めたという。前漢時代に海路がひらけた。地名の由来は、1398年倭寇にそなえる軍事基地として芝罘にのろし台がもうけられたことによる。1858年、天津条約によって通商港として開港、十数カ国の領事館が設置され、国際貿易都市としてさかえた。

2000年09月12日

 青島の海岸を走ると、日本人の目から見ても「高級住宅」と思える一戸建てやマンションが既に完成しているか、建設途中になっている。そういう場所がたくさんあるのです。広い敷地にしっかりした南欧風の建物、そして海と山が近いという環境。労山(労には本当は山が付きます)など観光地も近い。なるほど環境はよいから、良いところに目を付けたと思わせる。

 しかし、すこし目をこらすと「建設途中で放り出された」ようなビルや家もあること、それに車窓から見る限りあまり人が入居していないとわかることから、「これはおかしい」と気が付く。街の貧しい地域では生活の臭いむんむんとする中国なのに、家が立派な地区では生活の臭いがまったくしないのである。南欧とかドイツ南部地方を思わせる青島の街

 そのかなりの部分は空き家、空室である。聞くと、これは1998年以前に中国の不動産業者が国から資金を借りる形で高い需要を見込んで多くの別荘、高級マンションを建設。しかし、その後の市場の冷却化(98年のアジア通貨危機の影響が大きいという)で売れなくなり、それを抱えたままになっているのだという。それらの物件は不良資産となっているし、これらの業者に対して資金を貸しだした国は不良債権を抱えていることになる。

 先日紹介した『中国「内陸」発』という本には「長引く踊り場」という言葉がでてくるが、今の中国経済が「成長の踊り場」にいることは間違いないようです。
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 今は踊り場にあるとして、今後の成長の目はどこか。一つはITだろうと思う。インターネットにしろ、携帯電話にしろ普及はかなり進んでいるように思える。前者で見ると、郭さんの会社がホームページを持ち、彼女自身もメールアドレスを持っているのはある意味で当然なんでしょうが、大連のホテルのレストランで朝食時に文章を打っていたら、従業員の女性(ウェートレス)がVAIOを見て「beautiful」と言って寄ってきて、「これは98、いや99か....」と。

 いや「99はないから2000だ...」「ああそうそう」とか言いながら話していたら、「自分もやっているが、小さい機械が欲しい....」。まあそう言われても困るのですが、彼女もメールアドレスを持っていていろいろやっているというのです。アドレスを書いた名刺を持ってきたので、私のも渡しました。若者の間では、メールアドレスを持っていることぐらい当然という時代が中国でも出現しているようです。

 ネット接続はないのですが、携帯電話市場も急速に拡大している。番組などで中国の携帯電話市場の拡大は何回も取り上げましたが、見たのは初めて。大連でも青島でも行く先ざきで携帯電話がごく普通に使われている。むろん、若者中心ですが。モトローラやパナソニックの端末が多かったように思う。統計に寄れば、今の中国の携帯電話普及台数は6000万台で、これは日本の台数に等しい。

 中国から国際電話でネット接続していた身から言うと、中国の電話代金は日本に比べても安いと思われる。ホテルから東京の自分のプロバイダーを呼び出して使っても、それほど高くはない。国際電話がそうだから、国内電話は相当安いだろうと考えられる。もっとも携帯電話は据え置き電話よりは高いようですが。月給が1500元(一元は13縁)の中国の人たちにどのくらい負担かどうかは知りませんが。
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 中国の道路事情は80年代に北京に行った時に比べればかなり良くなっている。ハードの部分です。しかしマナーな相変わらず目を覆いたくなる。しばらく車(小型バス)の先頭に座っていたのですが、二重追い越しはあるし、全体にセンターラインに対する意識が希薄な印象。中国では9月1日から横断歩道を渡らなければ罰金という法律が出来たらしいのですが、誰も守っている様子はない。なぜなら、横断歩道がないのですから。

 中国の車のナンバーにはいろいろな色がある。クロ、緑、黄色。なかにはないのもあるが、それは買って3ヶ月間はナンバーを付けて走る必要がないためだという。

2000年09月11日

 旅行のメンバーは、全国鍋物研究会の仲間です。まあ当初目的は「中国に日本にない鍋を発見しよう」ということです。この件は、旅の途中ですからその報告はまた最後に。

 11日は朝から青島に移動。チンタオは、シャントン(山東)省の東部にある省第2の都市。シャントン(山東)半島の南西部、チャオチョウ(膠州)湾をいだく小半島の先端に位置し、ホワン(黄)海に臨む。日本で有名なのは、何と言っても「青島ビール」ですが、他に食品や紡績などを中心とする軽工業、ターリエン(大連)につぐ北方第2位の対外貿易基地としての役割、それから青島海洋大学に代表される海洋研究・開発と、ラオシャン(ろう山=「ろう」は山に労働の労)景勝区や海水浴場などリゾート地からなる観光産業などだそうです。

 ここも19世紀の終わりには漁村にすぎなかったが、1897年にドイツが占拠、翌年租界地として港をひらいたことから発展が始まった。確かに市内、郊外を走っているとヨーロッパ式の都市開発が展開されている印象が強い。屋根の色とか、家やマンションの形などです。ヨーロッパ風の赤屋根が目立つ。なだらかな坂道も多い。青島とは、沖合の島の名だったらしい。第1次世界大戦中に日本が占領、中国に返還されたのは1922年。

 ラオシャンの奇岩や道教のお寺も興味深かったのですが、何と言っても秦の始皇帝のころからの、いやもっと前からのこの地方の日本との関わり。今泉さんによると、このチャオチュウ湾で海に出ると、必ず日本に到着するのだそうです。日本海側、太平洋側の区別はその時の海流の流れによって違うらしいのですが。

 その時代には中国では日本の事を中国から見て太陽の出る東の方にある国という意味で「扶桑」とか「扶桑国」とも、そしてこれは理由は知らないのですが「膠」とも言ったらしい。例えば始皇帝が中国を統一する。そうすると、追われた連中がこの辺に集まって、「それじゃ日本に逃れよう...」ということになる。

 かつてその日本行きの一大基地だったと言われている村も通りました。青島の案内をしてくれた孫さんによると、中国では普通一つの村の全家族が同一の名字ということも珍しくないらしいのですが、その村には実に60位の名字があり、それは日本に行きたい連中が中国各地から集まったためにそうなったという。そういえば、なんとかく懐かしいような.....青島の日本とも縁の深いと言われる村で

 バスを降りて豆をなにかしていた老人3人に近づいて孫さんが話をするのを聞いていましたが、容貌や体の大きななどまあ日本のどこにでもいるような田舎のお爺さん、お婆さんという印象。中国からこうして日本に渡り、そのまま居着いた人も多かったのではないかと思います。
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 われわれの中国の旅の案内をしてくれたのは、この旅行会社の副課長さんである郭威さんです。日本語がうまい中国の女性。河南省の会社なのですが、メンバーの何人かの以前の中国旅行でお世話になって、今回も依頼したようです。聞くと、「10人くらいのまとまった旅行になれば、私はどこにでも行く」と言っていました。旅の旅に別のガイドに来てもらうのは大変ですから、なるほどこの人を頼れば良い....と思いました。ウイグル地区にでもどこにでも行くのだそうです。

 彼女とは別に大連では金さんという男性の大連大学卒25才が、そして青島では孫さんが現地ガイドとして付いてくれた。彼等の日本語は上手だったが、話していたら金さんは大連の日本の会社で少し働いていたことがあるようで、英語も多少出来る。三人とも感じが良かった。金さんは大連大学卒と言うから、この辺では大変なエリートなんでしょう。

 中国で大学に行く人は今でもかなり少ないのだそうです。昔は大学は無料だった。しかし、現在は有料。例えば大連の家族が息子でも娘でも北京の大学に送るには年収のかなりの部分、場合によっては三分の一近くを送らねばらない。これは大変でしょう。よって、お金のある家族しか子息を大学には行かせられない。社会主義の国でありながら、階級格差は広がると言うことになる。

2000年09月10日

 中国・大連で宿泊したシャングリラホテルに見るインターネット事情ですが、ネットへの接続は大きな問題もなく実現しました。ホテルから外部に出る電話番号「9」に日本の国番号「0081」を足して後は東京の「3」以下プロバイダーのナンバーで問題なし。しかし行くときに調べたGRICで中国、特に大連の近くのプロバイダーを探すことが出来なかったので、その度にちょこちょこ国際電話をしなければならない。これは結構大変だった。

 しかも、ケースバイケースでしたが接続速度は28.8だったり、それより遅い速度だったりしたために、「これはしんどいな」という印象。結局中国では自分のコンピューターではメールチェックなど必要最低限のアクセスをしただけでした。
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 日曜日ということで、大連から出て旅順、203高地などに行きましたが、中国人のグループ、日本人のグループと実に大勢の観光客と行くところ行くところで出会いました。秋は当然ながら中国国内でも観光シーズンだそうで、人の動きも激しい。80年代の半ばに北京から行った万里の長城で見かけた中国の観光客と比べると、その数も多いし、何よりも観光客の服装もカラフルで日本人とあまり区別ができないまでになっている印象でした。

 日本人が好むから大連がらみの観光コースにはこういうところ(旅順、203高地などなど)を組み込むのでしょうが、まあ中国にしてみれば迷惑な話で、自分の国の土地に来て不凍港が欲しいロシアと、ロシアの極東進出を阻みたい日本が戦争をした。203(標高)高地の戦いでは日本人兵士が10000人、ロシア人兵士が5000人死んだという。

 しかし飾ってある当時の写真を見れば、直接交戦国でないにもかかわらず中国の連中もかなり戦争に巻き込まれて死んでいる。日本の国土で中国とアメリカが戦争したらどうなるかを考えてみれば、今から考えるととんでもないことをしていたわけです。むろん、当時の常識と今の常識はかなり違いますが、それにしてもという印象。

 203高地というのは、当時の映像は写真で見ると砲弾が飛び交い、兵士が白兵戦を行った場所で山は緑一つないという印象ですが、行ってみるとこれが緑に覆われている。あまり大きな木はないのですが、それでも緑で覆われている。自然の治癒力はまだかなり強いと思いましたが、これは現地の人たちの努力の賜でもあるのでしょうか。

 203高地の近くの「ロシア軍が作ったが、後に日本軍に破壊された塹壕」などの後も見ましたが、まあそこらじゅうに弾痕があってその生々しいこと。ロシア人にしても、日本人にしても「こんなところでは死にたくなかっただろうに....」と思う。縁もゆかりもなかったわけですから。ステッセルだ乃木だと上に立つ人間は有名になったりしていますが、あんなところで死んだひとり一人の兵士にしてみればたまったものではない。それともあまりそういうことを考える暇もなく数万にも上る人が命を落としたのでしょうか。
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 旅順というのは、高いところから見ると確かに入り口が狭く、不凍であるということも合わせて、取り合いになるのが不思議でないほど良い港です。今でも中国の軍港で、外国人は限られた3カ所への立ち入りが許されているだけ。中国の原子力潜水艦の基地はここにあるらしい。

 旅順を取り囲むいくつかの丘の上に砲門を構えて、砲弾を撃ち合ったというわけです。当時の砲弾はリーチの長いものでは7〜8キロはとんだらしい。港から4〜5キロの高台に砲門を構えて打ち合う。あちこちに測定する人を置いて、その人からの位置を知らせる有線電話の情報をもとに地図上の位置に打ち込む。「今はちょっと右に外れた....」とかいいながら。

 コンピューターでセットして発射すればターゲットに着弾するクルーズミサイルから見れば、まあ悠長な話です。しかしその場に居たら、そりゃ生きた心地はしない。しかしこの当時の戦争は肉弾戦ですから、コンピューター時代の戦争に比べて膨大な数の人が命を落とす。見て回ってあまり気持ちの良いものではない。むろん、歴史の一幕ではあるのですが。

2000年09月09日

 土曜日の午前の便で午後から大連に来ています。フライトで2時間半。時差は1時間。近い。これだったら、国内旅行の感覚です。しかしひどい込み様でした。成田空港も、そして飛行機の中も。15日金曜日の休みを視野に入れて、やや遅れの長めの休みをとった人が多かったのでしょう。

 大連行きのJAL797も満席。一席も余っていない状況。しかし、隣にたまたま座った人が私がPCで文章を書き始めたら話しかけてきて、カナダに住んでいて大連にも事務所があるという台湾出身の人(最後まで彼の職業は分からなかった)で、これが結構面白かった。ずっと彼と話をしながら行けたのはラッキーでした。大連で一番のレストランとかを教わったりして。大連港近くのビルから大連駅を望む方向で

 大連空港の印象は地方空港にしては、昨年行ったハノイ空港よりかなり進んだ印象がしました。空港ビルはしっかりしていて、そこで最初に見た人々の表情も豊かで、体躯もがっしりしている。ベトナムの空港で最初に見かけた人たちは、どちらかと言えば貧弱で、かなりタイムスリップしてきた印象だった。

 街の印象は事前にネットでかなり情報を集めてしまっていたからでしょうが、ある程度は「見ていた通りだ」というもの。いかんですな、あまり情報を集めてしまうと。その分、感動がない。大きなビルがそうですかね、建設中も含めて20棟以上。都市の景観は、その人口500万とあわせて、徐々に整ってきている印象。
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 大連が目指すのは「北方香港」です。つまり読んで字のごとく、北の香港。そしてわずか100年前にロシア人が開き、満州鉄道の基地として日本によって発展のきっかけをつかみ、そして中国の北の大都会に変わりつつある大連は、少なくとも表面的に見ればそれに成功しつつあるように見える。走っている車のマナーは悪いのですが、道路などはかなり整備されている。道路沿いの緑も手が入っている。

 市と市長が「北方香港」を唱える中で香港と決定的に違うのは、大連とその周辺の豊かな面積です。香港は猫の額に都市が造られている。しかし、大連はそうですね鯨の背中に都市が造られている。そういえば公園には鯨の噴水が、自然博物館には鯨の展示がありました。σ(^^)

 北京の天安門広場より広いという星海公園とか、「これは中国一」「これは世界一」とか、やたら規模が大きいことが目立つし、それを売り物にしている。市内観光をしながらガイドをしてくれた金さん(朝鮮族ではないそうですが)の話で気になったのは、「満州鉄道」という単語が出てくる頻度の高さ。

 「これが満州鉄道の本社でした」「これが社宅でした......」「これが病院」と実に頻繁に出てくる。その当時大連の市内の人口は60万。うち日本人が40万人、中国人が20万人という時代があったということなので、それだけこの市に与えている日本、満州鉄道の影響は大きかったということでしょう。「ここは旧日本人街でした」いう説明も何度も受けた。

 大きな規模のビル開発、都市開発が出来るのは、地震がないというこの地方の特質もあるらしい。いくつかは途中で止まっていましたが、大きなビルが今でも建造中です。大連の人々の生活ぶりも見たかったのですが、なかなかそうはいかない部分がある。ガイドに聞いたところ、大連の普通のサラリーマン家庭の一ヶ月の収入は1500元(1元は13円)くらいだそうです。つまり2万円にいかない。

 ですからむろんのこと貧しいところもありますが、タクシーの初乗りが5元(距離は2キロ)の世界ですから、それはそれでちゃんと生活は成り立つようになっている。大連の市の中心部には、その時その時で色が変わる大きな球が道の真ん中にある。

 三つのことを表しているのだそうです。一つは地球でその地球を五本の柱が支えている。むろん、五本の柱は五大陸を意味する。五大陸が地球を支えているというわけです。球のその次の意味は、サッカーボール。大連は中国でももっともサッカーの盛んなところだそうで、若い男の趣味はほとんどのケースにおいてサッカーだそうだ。事実、市民はサッカーを熱心に見ていました。例えば「大連 対 四川」といった戦いを。球の三番目の意味は、大連が「北における真珠」という意味だそうです。

 一つ日本の大部分の都市より大連が優れていると思ったのは、電線の地中化が徹底的に進んでいること、それに夜の街の照明の綺麗さです。電線は市内では全く見かけなかった。だから、都市が鮮明に見える。これは青山、丸の内など都内では一部しか進んでいない東京よりもはるかに進んでいる。

 次に都市の夜間照明。電球の数が108もある街路灯は、街を薄暗く、しかし情緒溢れる形で照らし出して、なんとも綺麗なのです。市の中心の中山広場の照明は特に綺麗で、その下で土曜日ということもあって多くのカップルがゆったりと夕食時の時間を過ごしているのは圧巻でした。

2000年09月08日

 このコーナーで水曜日に紹介した「渋谷区立中幡小学校 校長 杉原 五雄」さんと金曜日にメール交換して、「その後の状況」をお聞きしました。予定した7台のコンピューターは何とか確保できて、来週には搬入ということになり、当初の目標は達成されたとのこと。

 インターネットがこのように活用できて嬉しい一方で、インターネットの持つ力に怖いような思いもした、と言っておられました。ということで、このコーナーの読者の方々にもご心配をおかけしました。

 ただし、避難生活が一体どのくらい続くのかも分からない状態では、何かと入り用なことあると思います。そういう折りには、可能なことならお手伝いしたいものです。
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 土曜日の朝から大連に行きます。ちょい音信不通になるかもしれませんね。σ(^^)

2000年09月07日

 6日、7日と名古屋に移動していて7日の午後東京に帰ってきましたが、名古屋の街の様子はあまり変わったようにも思えなかった。まあしばしば行ってますから。5年先の万博も市民の関心もまだまだという印象。名刺にそれを刷り込んだ会社もあるようですが。もう10数年お付き合いのある会社の方々と旧交を温めましたが、一度海外に行った人が帰ってきたりして、時間の経過の早さを感じました。

 一つタクシーの運転手から面白い話しを聞いた。名古屋駅の新幹線口の向かって右側のトンネルの出口の所に「森下医院」という病院があるのです。この病院、台湾では一番有名な日本の病院だそうで、台湾からツアーを組んで患者がくるらしい。全般的な老人病対策では有名らしい。おもろい病院があるものです。何か特徴があると、海外から患者が来るという。売り物の時代でしょうか。
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 デジタル写真の処理に関しては、いろいろな方からメールをいただきました。重複しているサイトもあるのですが、ご紹介していただいたサイトは以下の通りで、この中から好さそうなサイトを選んで使ってみようかと思っています。

  1. 富士フィルム
  2. デジプリ
  3. 富士ネットサービス
  4. プラザクエスト
  5. 高橋サイト
 これからこういうサイトは増えるのではないでしょうか。

2000年09月06日

 6日の朝ですがこのコーナーの読者から一通のメールが来ましたので、ご紹介しましょう。三宅島関係で、要するに避難した三宅島の小、中、高校の生徒の教育の為にコンピューターが必要だが(問題の作成とか学校のための文書の作成など)、コンピューターを持ち出す時間もなくて避難先で今大変困っている、いらないコンピューターがある人は譲って欲しいという話です。  

 ところで、何が一番必要なの? と聞きましたら、コンピュ−タとのことです。教材を作るのにもコンピュ−タが必要なのですが全くないそうです。

 現在三つの小学校と三つの中学校、そして高校と七つの違うクラスが一緒に勉強しています。コンピュ−タを持ち出すこともできないほど慌ただしい島からの脱出だったので、ぜひコンピュ−タを各学校単位ででも、場合によったら全てに対してでも1台援助して頂けないかという連絡が入りました。新しくなくて良いのです。Windows95が稼動すれば良いのですからそのような不必要なコンピュ−タまたはリ-ス替えで捨て場に困っているような方がおられましたら下記あてメ−ルいただけないでしょうか。よろしくお願いいたします。

 私の方から、彼らに送ります。また、直接送っていただける方は学校までご連絡戴ければ幸です。  

 として以下に連絡先がありました。
 渋谷区立中幡小学校 校長 杉原 五雄
 郵便番号 151-0072   渋谷区幡ヶ谷3-49-1
 電話 3376-1371

 校長 杉原 五雄 までご連絡下さい。よろしくお願いいたします。
 杉原さんのメールアドレス ituo@mb.infoweb.ne.jp
 杉原さんの個人サイト http://village.infoweb.ne.jp/~sugihara/main.htm

 私も7日の朝8時前にこの電話番号に電話しましたが、杉原さんはまだ来ていらっしゃらなかった。この電話番号は学校の番号のようです。杉原さんのサイト(校長先生のサイト)の三宅島現状を見ると、既に7台の提供を受けることが出来たと書いてありますが、余裕のある方は三宅島の生徒達のためにコンピューターを送ってやれば感謝されるのではないでしょうか。避難は長引く可能性がありますかがありますから。三宅島関連のサイトとしては、こうしたサイトもあるようです。

 私もまだ必要なら、一台を提供しようかと検討しています。

2000年09月05日

 ほんまに世の中いろいろな事が起こる。5日の東京地域販売の読売朝刊は「地域ニュース」で「あちこちに猛暑の足跡」というちょっとした特集をしているのですが、その中に「蒸しぶろ エレベーターに30時間 猛暑の2日杉並で」という記事がある。5日の新聞に2日(確かに暑かった)の事が載るのですから、最近の猛暑話題を集めたという感じなのですが、驚くことに登場する「大泉 裕敬」君はつい先週も「メシでも食べよう」と言っていた会社の同僚。私がいるビルの一階に居る。

 記事の内容は以下の通り。

 杉並区阿佐谷南のマンションで、3日午後6時50分頃、同マンション所有者の会社員大泉裕敬さん(38)が「ホームエレベーターに閉じこめられている」と、マンションを訪れた姉から110番通報があった。杉並署が調べたところ、大泉さんは二階と三階の間で停止したエレベーターに前日昼頃から閉じこめられており、約50分後、レスキュー隊員が約30時間ぶりに救出。軽い脱水症状を起こしていたが、まもなく回復した。

 同消防署などの調べによると、エレベーターは三人乗り。一階と四階を直通で結んでおり、途中の二、三階部分には扉がなかった。

 大泉さんは同マンション四階で一人暮らし。二日昼頃、屋外の駐車場から自室に戻ろうとエレベーターに乗ったところ、二階と三階の間で突然停止。脱出口から天井の上に逃れ、ワイヤ伝いに四階付近まで上がったが、扉が開かなかった。エレベーターの天井の上で立ち往生.........救出後、大泉さんは姉の差し出した麦茶をおいしそうに飲み干したという。

 火曜日に本人に電話して、「大変だったんだな.....」と冷やかし半分で話をしました。普通エレベーターは多くの人が利用しますから、止まれば直ぐに分かる。しかしこのエレベーターはやや小さめのビルの四階専用で、四階には彼が保有している部屋しかないのだそうです。その上に一人暮らし。脱出口から天井に出たのが、呼吸などで良かったのかもしれない。

 本人によれば、すべての記事がそうであるように、いくつか捨象されている部分、間違っている部分がある。本人はこう言ってます。特にエレベーター内での格闘について

 3人乗りの小さいエレベ−タ−で脱出口など無く、 完全な密室でした。このままではいけないと思い、強化プラスチックの天井を12時間かけて素手で壊し、20cmほどの隙間からようやく這い上がったのが18時間後でした。ワイヤ伝いに四階付近まで何度も上がったが、内側から扉が開かなかった。おかげで、両手両足は傷だらけです......

 麦茶をくれたのは、実際はレスキュ−隊の人でした....

 と。ラッキーだったのは、日曜日、つまりお姉さんが「おかしい」と思って様子を見に来た3日ですが、実家(武蔵野市だったと思った)に家族で集まる予定にしていたのだそうです。そこに来なかったから、本当に「おかしい」「もしかしてあの子は....」ということになって、家族を代表してお姉さんが見に来た。新聞によれば、お姉さんは「四階のエレベーターの扉付近から”助けてー”と声が聞こえて...」ということで気が付いたらしい。

 恐ろしい話ですね。ウィークデーだったり、家族が会う約束がなかったら、もしかして....。ホームエレベーターなどが売り出されていますが、リスクはあるということです。まあこの場合は、携帯電話ももっていればニュースにもならずに済んだものを。彼はその時はもっていなかったそうです。

 彼は除夜の鐘の周辺を上がったり下がったりする習性がある男なのですが、「痩せたか.....」と聞いたら、「ハイ、少し....」。直後は6キロ痩せ、その後水を飲んだらかなり戻ったが、事故以前に比べれば3キロ減だそうです。分母が除夜の鐘ですから、%は小さい。まああたしゃ、大泉の年齢が新聞に出ていて「38」と書いてあった方がショックでしたが.........「裕敬」は「ひろのり」と読みます。まあでも大泉君、君はラッキーだったよ......

2000年09月03〜04日

 タクシーに乗ったら前の座席の背中に大きな警告。「忘れ物にはくれぐれもご注意下さい」とある。そりゃそうだな、忘れた方も大変だが、忘れられた方も面倒だワナ....と思いながら運転手と少し話していたら、面白かった。

 タクシー内の忘れ物で一番多いのは、予想通り「携帯電話」だそうです。私も何回も経験がある。携帯を忘れた人は比較的素早く気が付くのが特徴で、しばらくするとビービーなるのだそうです。で、どうするか ?

 普通は絶対に電話を取らないのだそうです。携帯電話をかけながら運転しているところを見つかると即9000円の罰金。かといって車を止めるのはしばしば難しい。罰金は今年4月1日以降の実施です。ただでさえあまり儲からない職業になっているのに、660円の料金を支払ったお客のために9000円払うのは確かにばからしい。運転中は、電話が鳴っても応答しないか、切ってしまうのだそうです。落とし主には悲しいことながら。

 だから特にタクシーの場合は、「携帯電話は落としても運転手に直ぐリーチ出来る」と思うのは間違い。甘い期待だとわかる。ではどうするか。その運転手さんはこう言っていました。「まあ、昼飯の時か家に帰ったら電話がかかってくるか様子を見ますね....」。つまりその間だけ、切った携帯電話をオンにするというのです。つまり、時間限定で落とし主からの電話を待つこともある....と。その運転手さんは、「一週間の間は...」と限定条件を付けた。

 なぜ一週間か。それを過ぎて持っていると「拾得物隠匿罪」になるのだそうです。ですから、お昼ご飯の時とか家に居るときにオンにし、それでも忘れ物電話に電話がかかってこない場合は、5〜6日たって忘れ物センターに届く。運転手にしても拾得物の届け出をするのは面倒でしょう。できたら、直接渡した方がいろいろメリットがある(?)。

 これは落とし主にしてみれば最悪です。落としたと気が付いて直ぐに電話しても、運転手は電話を切ってしまう。向こうの昼、夜といっても、もともと運転手の勤務時間は不規則。だからリーチ出来ない可能性が高い。かといって、忘れ物センターに届くのはかなり先。

 今の携帯電話の占めている生活上の地位から言って、ケイタイが数日間ないというのは耐えられないでしょう。普通の人は直ちに当該電話を失効させて、同じ番号で新しい携帯電話を買うことになる。運の良いことに、私がタクシーに携帯電話を忘れたのは今年4月1日以前でした。ある時は、運転手の人が応じる気持ちはあったものの、どうやって使って良いか分からずに、私の次の乗客が電話をとってくれたこともあった。

 携帯電話を一番使うのは、タクシーの中です。忘れ易い。しかし今日の運転手さんとの会話で、タクシーに忘れて直ちに戻ってくる可能性は以前に比べて格段に落ちたと覚悟しました。まあ、忘れないようにすればよいのですが.....。まあ、なくしたら戻ってこないんでしょうね。電話番号帳などのバックアップも忘れてはいけないということでしょう。

2000年09月01〜02日

 ちょっと大袈裟でんが、この週末は何度も死にそうになりました。σ(^^) 土曜日に昼過ぎに高円寺の家から出たらあまりの暑さに死にそうになり(冗談じゃなかったですね)、夕方諏訪に行ってこれは涼しいと窓を開けたままにし、そしてそのまま夜に寝たら夜中に寒くなって死にそうになって。

 秋の気配はするのに、なんともすさまじい暑さ。先日北極点の氷がかなり溶けているというニュースをアメリカの新聞で読みました。北極点が水になっていて、その廻りに残っている氷もあまり強力でない非力な砕氷船で前進できるくらいになっているという。南極のオゾン層もだいぶ破壊されているようで、もしこのまま地球が暑くなるとしたら心配なことです。

 熊谷では39度を上回ったとか報じられている。むかしアラブの王様はあまりに暑いと人間を蒲団のように並べてその上に寝たという。なんとも暑苦しい話だと思った記憶があるのですが、考えてみれば人間の体温はせいぜい37度ですから、それより外気が暑くなれば人間に触っている方が涼しい。

 まあそういうシチュエーションは日本では今まではあまりないし、これだけ冷房が発達していれば必要ないかもしれませんが、その冷房も地球温暖化に一役買っている。困ったものです。
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 ところで来週中国に行くのでちょっと「こういう写真屋さんはないか」と探しているのです。どうも近くにはない。こういうことです。たぶん向こうでは写真をかなり撮ることになると思うのです。食材とか鍋の写真を。

 それをネットで使う分には何にも問題はないのですが、デジタルの写真はそうはいってもそのままだとプリンターでプリントしても使えない。やはり写真屋さんに少し焼いてもらっていつもの大きさのものにして欲しいのです。

 それを帰ってやるのでは遅くなってしまう。そこで、中国からメールでgif なり jpeg を送るのです。それを焼いて待っていてくれればナイスです。もっと言えば、送付して欲しい人の住所を渡しておくので、そこに指定した写真を焼いて、送ってほしいのです。どうも、我が家の近くの写真屋さんにはそこまでやれるところがない。メールがないところが多い。これは商売になると思うのですが。どなたかそういう写真屋さんを都内、出来たら新宿から東の方面で知りませんカネ ?