2004
01月

2004年01月の日記

日記

2004年01月31日

 (23:45)派手ではないし、あまり宣伝もしていないのですが、良い映画を見ました。Seabiscuit。ちらちらと「ハルウララ」を考えながら。

 しかし、ハルウララとは違って、シービスケットは負け馬ではない。アメリカで実在した強い、そして大恐慌後の混乱状態で国民の多くが打ちひしがれていた時期にアメリカ国民を勇気づけた馬。それがまた小型で、暴れ馬で......と。

 見ていて思ったのは、アメリカの映画も徐々に「完璧な英雄」を賞賛するのではなく、何処かに傷のある人物、動物を描くのがうまくなったな...と。この作品もそうです。登場人物全員がどこか傷を負っている。時に加害者、時に被害者。ごった煮で生きている世界。ちょっと荒いかな、というところがあるが、総じてうまく出来ている。

 サイダーハウス・ルールの監督だと後で知りました。これも良い映画だった。こういう記事があって、ハルウララには3月に武騎手が乗ると。勝てるのでしょうか。シービスケットは胸のすくような、小よく大を制する素晴らしい馬でしたが。

2004年01月31日

 (09:45)しかし凄まじい数のウィルスメールが跋扈していますね。「hi」とか「hello」とか「test」などのタイトルで。その度にノートンが起きてきて、「この電子メールメッセージで脅威が見つかりました」と警告してくる。それに「ok」を出さないと、メールの取得が前に進まない。

 明らかに度を超したウィルスメールがネット上を回っている。これではウィルス防御をしてないPCは一発でしょう。アメリカではmydoom などに40万とか50万台が感染したとされている。そうだろう、と思う。

 ウィルスが来ると、「あれ何か悪いことしたかな」と思う。しかしこれだけ多いと、「またか」と慣れっこになる。どうにかならないものですかね。こんなにウィルスメールが跋扈していると言うことは、それだけネットへの負荷が高い、ということです。困ったものです。

2004年01月30日

 (18:51)「200億円ショック」というのが相当なんでしょうね。朝のTBSのラジオ番組でも日立の特許権訴訟を取り上げて、その最後の方で「今日は日亜化学工業と中村さんの訴訟の判決が出ます」と予告しましたが、夕方のラジオ番組では当然ながら当初の予定を変更して、出た判決を真っ先に取り上げました。明日の新聞も一面トップはこれでしょう。

 日立の場合は2億5000万円の請求に対して1億6300万円の支払い命令。特許権の海外での使用料を勘案して、二審段階で一審の3500万円を増額した。そしてその翌日に出たのが、東京地裁の今回の判決。中村さんの請求200億円に対して、裁判所が認めたのが200億円の満額。そりゃ、中村さんの顔も緩みますよ。

 今回の事案で興味深いのは、裁判所が判決の中で以下の認識を示したこと。

  1. 日亜化学工業が特許(青色発光ダイオード)によって得た利益を1208億円と計算
  2. 中村教授(発見当時は日亜の社員)の会社に対する貢献度をその利益の50%と認定
  3. 日亜が中村さんに支払うべき相当対価金額を604億円と認定
  4. よって、請求分の200億円の支払いを命じた
 ということは、中村さんが最高604億円を請求していたら、それを裁判所は認めていた、ということです。判決を自然に読むと、中村さんは200億円で満足せずに、残りの400億円を求めるでしょう。サラリーマンの生涯賃金が2億円とか3億円と言われる今の時代で、特許一つで200億円とか600億円が個人のフトコロに入るということは、今までの日本の企業社会から見れば「夢のまた夢」なんでしょう。当然日亜化学工業は控訴し、しかも記者会見も拒否して、ショックの大きさを隠さなかった。

 個人と企業の関係において、個人の持つ力が持つ意味が高く評価され始めた今週の傾向は、全体的には喜ばしいと思う。以前この問題を取り上げた自分の番組で、

  1. 青色発光ダイオードは、光の三元素のうち赤色、緑色が70年代に早々に製品化されたのに対して、青色は20世紀中はかなり難しいと国内、海外の企業も諦めかけていた
  2. しかし中村さんは、「無駄なことはよせ」みたいな会社の空気に抵抗しながらほぼ一人で発明努力を続けた
  3. その発明故に、四国の小さな会社に過ぎなかった日亜化学工業を急速に成長させた
 ということは知っていました。まあ私はある個人の発明であろうと、企業の中の研究者仲間との触れ合い(知的、会話的、思いつき的)で出来上がってくるものであり、かつ研究者は企業の施設の存在故に研究を続けられる、という考え方。その分個人の力は減価評価されるべきと考えていたのですが、中村さんが当時置かれていた状況は企業から冷たくされ、「個人の力」の部分が前面に出ていたようで、裁判所もそれを認定した。それが「発明への貢献度50%」の認識になっている。

 今回の判決全体の考え方の根拠は、特許法35条(職務発明)の3項の条文。その中の「相当の対価」の考え方。

従業者等は、契約、勤務規則その他の定により、職務発明について使用者等に特許を受ける権利若しくは特許権を承継させ、又は使用者等のため専用実施権を設定したときは、相当の対価の支払を受ける権利を有する。
 では1208億円の算出根拠は何かというと、「特許独占による利益」と「開発に際しての会社と発明者の貢献度」を裁判所は挙げ、
  1. 青色LEDによる同社の売り上げ高予想は、生産が本格化した94年から特許期間満了の2010年までの売上高1兆2086億円
  2. 仮に特許の使用を他社に許した場合、少なくとも他社のこの半分の売り上げが可能(6043億円)
  3. 日亜はその見返りに20%の特許実施料が得られるとして、日亜の独占利益は1208億円(6043×0.2)
  4. これに対する中村さんの貢献度は、「小企業の貧弱な研究環境の下で、個人的能力と独創的な発想により世界中の研究機関に先んじて世界的な発明を成し遂げた希有な例」として、「貢献度は50%」と認定
 した。つまり判決は最初から中村さんの例は、「希有な例」としていることになる。その意味では、大企業の研究施設が整った、優秀な研究者が大勢いる場合は、「貢献度」は低く見積もれる、ということでしょう。裁判官も判決後に、「将来の売り上げが大きい特殊事例。高額な対価がただちに一般化するには議論があろう」と述べている。

 しかし、それにしても200億、中村さんが追加請求するであろう400億円が上級審で支持された場合には、それはそれは当該企業、同じような事案に直面している企業にとっては大きな負担でしょう。だから企業サイドからは、今回の判決に対する懸念が強く出されている。

 日本の企業は、今まである意味で「貢献したら出世も出来るし、ボーナスも増えるから」みたいな曖昧な了解のもとに従業員を飲み込んできた。中村さんは青色発光ダイオード発明で日亜勤務中に2万円もらったそうだ。彼も当時はそれが当然だと思っていたというのが面白い。しかし、発見のあと海外に呼ばれて「むくわれたか」と聞かれてその金額を明かすと、「奴隷(slave)」と呼ばれたことが目覚めの原因だったようだ。

 この問題の落としどころは難しい。個々のケースでも違う。しかし発明に携わる個人には励みになるし、企業にはコスト見通しが難しくなる。従業員が研究を囲い込みする傾向も出るかもしれない。発明、発見は、同僚のちょっとした一言などにヒントを得ることが多いと言われているので、ではそれはどうするのか。発見を製品にする過程での、発明部門以外の人々の努力はどう勘案するのか。

 発明部門にいない私などは、将来こういうケースもありうると思う。「俺は社内コンピューター・システムを劇的に改善した」「販売システムを簡素化、効率的にした」「革命的な人事システムを会社にもたらした」などで、本当に会社に貢献した人がいるとする。それらは特許ではないから、「特許法35条の正当な対価」の対象にならないとして、企業はそれらの努力にどう報いるのか....といった問題である。特許以外で会社を訴える人も出てくるかもしれない。「俺(私は)はもっともらっししかるべきだ」、と。

 幅広い事例を検証すると、サラリーマンは自分の評価を会社側評価の大体20%増しで見ているそうだ。個人の自己評価と社会の、または企業のその人に対する評価には差があるケースが多い。そういう意味でも、中村さんを巡る裁判の第一審での今回の判決は個人のサイドの完全勝利で希有な例なのでしょう。日亜が控訴したので裁判はまだ続く。しかし、企業と従業員の関係を考え直す、良い機会だと思う。一発回答はないのでしょうが。

2004年01月30日

 (18:34)おやおや、もう平日としては1月最後の一日ですか。今日読んだ新聞では、FTの「Fed language shift--Us central bankers need better communications」という第二社説が面白かったな。見出しを見ても分かるとおり、今回は「よりよいコミュニケーション」がなかったから、「もっと良くしろ」という話。

 中央銀行の仕事というのは、「an art rather than a science(科学というよりは芸術)」というのはFTの言う通りでしょう。また「it can be patient in removing its policy accommodation」という今回のFOMC声明文が、これまで5ヶ月強にわたって使われていた「policy accommodation can be maintained for a considerable period」という文言に比べて「Delphic uterrance」(曖昧表現 FT)というのも当たっているのでしょう。よってFTはこの文章の最後で

 

But the challenges facing the Fed should not be underestimated. Tightening monetary policy without disrupting financial markets is a very difficult exercise in which clear communications are of paramount importance.

Although communications policy was on the agenda of this week's longer than usual FOMC, this week's statement showed no sign of any change in strategy.

This is a pity. Central banking may be an art and the Fed may be very good at flying by the seat of its pants. But we live in a scientific and technocratic age in which even central bankers might find advanced avionics can be helpful.

 と述べている。「もっとうまくやれた」「市場とのコミュニケーションに失敗した」というのである。これは日本の金融市場でも聞こえる声だ。

 私はそういう意見に一定の理解を示しながらも、でも今回のFRB以上に誰がどれだけうまくできたかは確信が持てないな、と思っているのです。というのは、経済や市場にとってまず「一定のショック」はそれほど悪いことではないというのが私の意見だし、ショックを避けようにも実は限界があるのではないか、と思っているのです。

 私の今の基本的な認識は、10年以上に渡って続いた「デフレ・金利低下」の基本環境から「デフレ収束・金利の上放れ」の時期へのパラダイム・シフトの渦中にあるというものだ。実はいつも思うのですが、こういう大きなパラダイムのシフトを世の中にいる人全てが理解するのには、非常に時間がかかる。これは私の経験に基づく話です。

 たとえば私は90年代の半ばに金利や為替の動きにもっともキーンはディーリング・ルームにいた。部下が大勢いたのですが、彼らが私のところにやってきて、「家の値段も下がったし、金利も下がった。家を買いたいのですが...」と。私はもっと家は下がるし、金利も下がると思ったので、必ず「やめておけ」と忠告したものです。その意見は結果的に当たっていたと思う。

 私の言うことを聞いた人間もいたが、しかしかなりの部分の部下は当初予定通りローンを組んで家を買った。私が目を剥くような巨額のローンを組んだ人もいた。そのとき思ったのは、「人間の、これまで一定期間続いた常識をくつがえすのはなかなか難しい。良い大学を出て知性が高い人でも....」ということです。そしてさらに分かったのは、彼らの行動に影響を与えたのは、経済に詳しいとは言えない奥さんや両親の意見だった、ということです。彼らは知識では私の言うことを理解していたと思う。しかし、家を買うというのは、奥さんやご両親の希望でもあり、部下はその意向を無視できなかった。人間の行動というのは、その程度のものでもあるのでしょう。

 ということは、知というのはそのままでも理解できる人間もいるが、実は「ショックが起きて初めて理解できる」人間が多いのだと思う。良い悪いの問題は別にしてです。おそらく、FRBがかなり神経を使ったコミュニケーションを図っても、それを正確に理解できる人は少ないでしょうし、社会にコミュニケーションをスルーするためにかける時間がかかり過ぎれば、措置の意味がなくなるかもしれない。時宜を失する。

 surprise とは別の言葉で言えば shock ですが、前者はしばしば賞賛され、日本の経済政策は「surprise がない」と批判される。しかし一方で、「shock」は非難される。実はこの二つは紙一重だと私は思っているのです。ショックを経て初めてしか政策当局の意図を理解できる人も案外多いのでしょう。実際に、パラダイム・シフトの時は必ず何回かショックが起きている。94年もそうだった。

 だから今回のFRBの文言変更は良かった、と言っているわけではない。しかし、金利の上げ下げに過去例のないような「時間軸」を置いて、FRB自ら手を縛っておくような事態を続けたくはなかった、という見方は当たっているのでしょう。FRBは桎梏を外したかったのだと思う。それはできた。

 世界の主要経済国の中央銀行で、相も変わらず桎梏を嵌めているのは日本銀行です。福井さんは30日に国会で「消費者物価が安定的にゼロを上回る状況で、超金融緩和の解除を考える」と述べ、デフレについては「last 1 mile説」を展開した。通信の世界の「last 1 mile」の話から、「デフレ克服の最後の1マイルが大変なんだ」と。

 ということは、「出口論」は盛んだが、日本銀行がゼロ金利政策から脱するのは相当先だ、ということです。で私は、FRB以上に金融政策の変更において「an art rather than a science」が必要なのは実は日本銀行だと思っているのです。超低金利、ゼロ金利は日本経済に染みついている。これをシフトさせるのは実は大変なのでしょう。ショックのコミュニケーションの使い分けがうまくできるかどうか。

 「いつまでも変わらない」と思っている事態も、いつかは必ず変わる。その変化の波及の、何波にも及ぶ波を最後の最後まで読むことは難しい。FTが「advanced avionics」という言葉でそこまで中央銀行に求めているとしたら、それは政策を受け止める方にもそれが求められる、ということでしょうが、これはなかなか難しい。

2004年01月29日

 (07:34)FOMCは政策金利(FFレートの1%という誘導目標)を据え置きはしたものの、声明の二カ所の部分の文言を変えることによって、同金利を動かす時期が接近したことを指し示しました。これによってニューヨークでは声明まで堅調に推移していた株価が、多少過剰反応気味に急落した。金利は無論、声明文も変えない、と見ていた向きが多かったからだ。声明全文は次の通りです。

The Federal Open Market Committee decided today to keep its target for the federal funds rate at 1 percent.

The Committee continues to believe that an accommodative stance of monetary policy, coupled with robust underlying growth in productivity, is providing important ongoing support to economic activity. The evidence accumulated over the intermeeting period confirms that output is expanding briskly. Although new hiring remains subdued, other indicators suggest an improvement in the labor market. Increases in core consumer prices are muted and expected to remain low.

The Committee perceives that the upside and downside risks to the attainment of sustainable growth for the next few quarters are roughly equal. The probability of an unwelcome fall in inflation has diminished in recent months and now appears almost equal to that of a rise in inflation. With inflation quite low and resource use slack, the Committee believes that it can be patient in removing its policy accommodation.

Voting for the FOMC monetary policy action were: Alan Greenspan, Chairman; Timothy F. Geithner, Vice Chairman; Ben S. Bernanke; Susan S. Bies; Roger W. Ferguson, Jr.; Edward M. Gramlich; Thomas M. Hoenig; Donald L. Kohn; Cathy E. Minehan; Mark W. Olson; Sandra Pianalto; and William Poole.

 前回12月の声明からの変更点は二点です。今回声明文の中の赤くした部分。それに該当する前回12月の声明では、以下のようになっていた。  
  1. the labor market appears to be improving modestly.
  2. the Committee believes that policy accommodation can be maintained for a considerable period.
 「1」では、今回の声明の方が註釈付きながら、労働市場の改善を強く示唆している。今回の声明をその部分において翻訳するならば、「新規雇用は引き続き低調ながら、他の指標は労働市場の改善を示唆している」となる。前回は「労働市場はわずかながら改善しているように見える」とだけしていた。明らかに前回の方が曖昧だ。

 「2」がもっと重要である。緩和姿勢の時間軸を今回は外した。今回の声明は「(インフレ率が極めて落ち着いており、かつ設備稼働率が低いなかでは、)委員会は緩和政策の打ち切りを我慢できると信じる」となる。前回の声明は「(同)委員会はかなりの期間に渡って、緩和政策を維持できると信じる」となっていた。

 「for a considerable period」とは最低3〜4ヶ月、長ければ半年を意味する、と見られていた。今回もその文言を採用するなら、FOMCの利上げは「今年前半はほぼない」という見方に傾くところだった。それを「我慢できる(can be patient)」に変えたと言うことは、場合によってはいつでも、つまり次回の会合においても利上げに踏み切りうる状況になった、とFOMCが宣言したに等しい。

 「1」について言うならば、FOMCが景況判断、特に肝心の労働市場の動きに対する評価を引き上げるのは二会合連続してである。昨年10月の声明では「spending is firming, and the labor market appears to be stabilizing(設備投資・支出はしっかりしてきているし、労働市場も安定してきている)」としていた部分を、12月には「output is expanding briskly, and the labor market appears to be improving modestly(生産は活発に拡大してきているし、労働市場は徐々に改善してきているように見える)」とした。12月はまた、物価情勢に関して10月の声明で「 the probability, though minor, of an unwelcome fall in inflation exceeds that of a rise in inflation from its already low level. 」と言っていた部分は、

The probability of an unwelcome fall in inflation has diminished in recent months and now appears almost equal to that of a rise in inflation.(インフレが歓迎されざる形で低下する危険性はここ数ヶ月で減少し、今やインフレが上昇する可能性とほぼ同等になった)
 としていた。今回この部分は引き継いだ。ただし、FOMCが次回の3月16日の会合で利上げに踏み切るかどうかは、今後の労働市場の動き、インフレ率の動き次第だろう。動きうる余地を作ったのと、実際に動くとは違う。

 FOMCの今後の日程を見ると、2月がなくて、4月もない。つまり今はFOMCの会合が年で一番飛び飛びの期間である。開催は1、3、5月の飛び石になる。今の強いアメリカ経済の現状では、FOMCとしては「時間軸」を外して、「もしかしたら利上げできる環境」を整備しておきたかったのだろう。

 今回の声明を逆サイドから見れば、少なくとも3月16日(次回会合)までは利上げはまずないだろうし(むろん緊急事態には予定外の時期にFOMCの電話会議は開きうるが、利上げでこれをやるのは経済や市場へのインパクトが大きい)、3月16日になければ5月4日までない、ということである。株式市場の反応が過剰、と書いたのはそういう意味だ。

 しかし、従来私がしばしばあちこちで言っている「パラダイムのシフト」は起こりつつあるし、今年これまでに台頭しつつあった「2004年も引き締めなし」という見方に対しては、私は引き続き懐疑的である。そして、今回のFOMC声明は、それを物語っている、と思う。

2004年01月28日

 (10:45)これを書いている午前11時前の段階ではニューハンプシャー州の米大統領予備選の結果は出ていない。ケリーが有利だとか、ディーンが追い上げているとか報道はありますが。しかし、朝のこのコーナーで触れたジェトロシカゴの鷲尾さんが送ってくれたレポートは面白かった。

 見出しが、「ニューハンプシャーではまだ何も決まらない〜〜民主党レースは長距離の耐久戦へ〜〜」というのです。南部7州で行われるスーパーセブン(2月3日)もあるし、まだ「誰」というには時期尚早というのです。7州とはアリゾナ、デラウエア、ミズーリー、ニューメキシコ、ノースダコタ、オクラホマ、サウスカロライナ。

 鷲尾さんのレポートの中には、今後の注目すべきポイントとして以下の三点が指摘されていた。イラクでの米軍死者の数などに関する考察は、日本ではなかなか分からない。面白いと思いました。参考までに。

  1. 財政赤字や雇用などのマクロ統計は、ブッシュ攻撃の有効な武器にはならない。それよりは、今、各候補が行なっているような、ブッシュ政権を特殊利害の代弁者と決め付けるやり方こそが有効
  2. イラク情勢に関し、現在、昨年5月以降の、米軍の死者の数が515名に達しているが、この数字が1000名に近づくと、ブッシュ政権にとっては危険水域(この絡みで、イラク国内での憲法草案の起案の遅れや、イラクには有意の大量破壊兵器生産計画はなかった、とのデビッド・ケイ元査察官の発言などの影響波及度に注目すべし)
  3. ニューハンプシャーを含め、今後の予備選などへの有権者の投票率が、過去の水準を超えつづけるかどうかが鍵
 米大統領選挙は長丁場です。

2004年01月28日

 (07:45)何年ぶりだろう。山川さんと食事をしました。山川さんとは昨年の12月17日まで約2年間、「株式会社ドコモAOL」の社長だった、日本の商業ネットワークの草分け的存在の人です。何が切っ掛けだったか、多分私の番組に出て頂いた縁だと思うのですが、90年代の中頃以降、数年に一度くらいにお会いしていた。

 山川さんが社長をしている間は一回もお会いしてないので、まあ3年ぶりくらいですかね。時々メールは交換していましたが。去年のその期日をもって、「ドコモAOL」は社名を「AOLジャパン株式会社」(America Online, Inc. 100%出資会社)とし、その段階で新会社の代表取締役社長兼CEO(最高経営責任者)はブレット・ウェインさんになった。

 「草分け」というのは、彼は「コンピュサーブ」(懐かしい)から関わっているからです。ちょっとネットを見たら、2001年の段階で

 山川氏は52歳。日商岩井ニューヨークオフィス駐在の1984年に「コンピュサーブ・プロジェクト」を手がけ,1986年2月,エヌ・アイ・エフ(現ニフティ)設立と同時に出向。1997年からニフティ常務を務めた。
 とあった。これは、山川さんがニフティを去り、2001年の12月13日の段階でドコモAOLの顧問に就任した時のもの。翌年1月にドコモAOLの代表取締役社長兼CEOになっている。ニューヨークで、その時は海の物とも山の物とも思えないコンピュサーブに関わっていたのだから、「草分け」でしょう。

 ニューヨークと言えば、今はシカゴ・ジェトロの鷲尾さん、今はTBSの羽生君の話が出て面白かった。それにしても、「コンピュサーブ」とは懐かしい。80年代の半ば、いやそれ以降かな、私もメンバーになって(Niftyserve経由だったかな。serve が compuserve の後半を引いている)電話線を繋いでニューヨーク・タイムズの記事をテキスト形式で引き出したのが私の最初のオンライン作業だったような気がする。あのころは結構そのこと自体に興奮した。あのピーポーという音が忘れられない。ダイアルアップの時代です。

 懐古話はどうでもいいのですが、山川さんと話していると、ネットワーク周りの話しがメチャ合うので楽しいのです。現状の問題点、今後の展望。むろん私の方がネットワーク周りという意味では、経験も知識も劣っている。でも問題意識を向けると、私が思っているのと大体同じ方向の答えが返ってくるし、かなりの程度問題意識は同じだなということが分かるからです。

 山川さんと話していて、これまで謎だったことがいくつも解けた。まあネットワークに携わっている企業にとっても、この世界は「夢舞台」であると同時に「激しいサバイバル、振り落としゲームの舞台」でもあるのです。アメリカで言えばAOLの rise and fall など枚挙にいとまがない。まあ彼はそういうのを全部見てきている。今のネットワークの世界の激しい変化に飲み込まれそうになっている企業はいくつもある。一世を風靡したのに、です。一方で新しい企業が生まれる。

 ドコモで今やっていらっしゃることも面白そうでした。「本でもどうですか...」と向けたら、「いやいや・・・・」と。電話線、ISDN、ADSL、光とラインは変わってきている。それぞれの段階でメジャープレーヤーは入ったり出たり。著しい成長と、そして慢心と、そして行き詰まりと。全部を生き残れる企業は希有です。

 いつも思うのです。ネットワークは、そして情報媒体は、それを作った人間の思惑さえも遙かに超えたところに飛んでいく。誰にも予測つかないケースが多いのです。でも人はしばしばそれを忘れる。

2004年01月27日

 (22:45)昨日取り上げた「iPod」に関しては、大勢の方からメールをいただきました。神田さんからは、「ちょっと早まったんじゃ」という内容。というのも、「iPod」には今年の4月頃と言われているのですが、「ミニ」が発表される。

 「ミニ」とはこの製品ですが、「容量は4GBと小さいものの、名刺サイズで、重量も3.6オンス(102グラム)」と私の要望のかなりの部分を満たす。知っていました。まあでも今度のは外付のハードディスクでいいや、写真の貯蔵庫でもいいや、という気持ちで買ったのです。正直、早く使いたいという気持ちもあった。ミニを買うかどうかも分かりませんし。

 土曜日にゲットしたiPodには、今朝までの段階で688曲を入れましたが、それでも表示を見る限りは2.73GBしか使っていない。ということは、ミニの4GBでもかなりのニーズを満たせると言うことでしょう。「十分」ということです。

 神田さんによればミニは、「AppleStoreから購入すると、背面に自分の好きな文字をレーザーで入れることができる」とのこと。そうですね。これから買う人はこちらの方がいいかもしれない。昨日紹介したビジネス・ウィークによれば、マックは今世界で74の小売り店舗を持っているそうです。そういえば、私は入ったことがないが銀座に一つある。3丁目ですか。一回入ってみようと思っています。

 iPodのデータをPCへ逆に戻すことのできるシェアウェアも出回っているようで、まったくの参考までに記すと、ここなどにあるようです。ただし私は信頼性は保証しません。

 MS96さんからは、ソニーがHi-MDという製品規格の策定を行っていると教えられました。製品としてはこんなイメージのようです。十分にiPodの対抗商品になるのかどうか。この世界、相当競争が激しくなるでしょうね。一斉を風靡したと思えるプロダクツもあっという間に時代遅れになるような。消費者はサバイブする製品を見抜かないと。

2004年01月26日

 (23:45)あらら、会社に行って机の上にあった「ビジネス・ウィーク」最新号を取り上げたら、ついこの土曜日に買った製品を持ったスティーブ・ジョブズがこちらを見ている。見出しは「SHOW TIME」とあって、その下に

Moving beyond computers, Steve Jobs has become a real force in music and movies.
 という説明。その製品とは、iPod (アイポッドと発音)です。正直言ってまだ自分のCDライブラリーから500曲くらいを入れ終えたところで、「使い込んでいる」とは言えない状態。しかし、この製品の革新性は良く分かる。

 私の身の回りではこのプロダクツを最初に使い始めたのは、この人で、「いいですよ」と勧められていた。しかし私のコンピューターには既に Sonic Stageにいっぱい音楽が入っていて、PCがあるところでは音楽に困ることはない。歩くときや電車に乗っているときに音楽を聴くのはあまり好きではないので、今までは買わないでいたのです。重いのに加えて、ソニーのメモリー・スティックを使った同様の製品を持っていたこともある。

 しかし、最近では20ギガ、40ギガの製品も出てきていて、その中に写真などのデータを蓄積できるし、外付けのハードディスクとしても使える、アンテナを付けてチューナーやアンプと同期することも出来ると聞いて、土曜日に新宿のヨドバシカメラで比較の上、40ギガモデルより20グラム軽い20ギガのiPod を買ったのです。

 この製品には、iTunesというソフトが付いてくる。ソニーが広く頒布している Sonic Stageと機能はほとんど同じです。CDのコンテンツを取り込み、自身でも演奏が出来るし、それを外部再生機器に送る役割も担う。今のところ iTunesとSonic Stageの違いはあまりないと思う。後者では再生機器の容量が小さいが故に、音楽ソフトのやりとり(出し入れ)が出来るという点だけが違うように思える。 iTunesではそれが出来ない。ソフトは音楽データを送り出す一方のように見える。

 正直言って iPodはまだ重いと思う。158グラムですから大方のケイタイより重い。私のケイタイは86グラムです。しかし、それを除けばこの名刺大のマシンの出来はなかなか良い。それだけ入れるのか入れないのかは別にして、40ギガのマシンだと iPodの中に10000曲を格納することが出来る。私のは20ギガだからよく知らないが5000曲か。まだ500ちょっとしか入れてないから、容量の10%程度しか使ってないことになる。

 革新的だと思うのは、いわゆるアルバム、曲の選曲や音量の調整など一切ボタンなしで行えること。よって製品に出っ張りがなく、スマート。非常にすっきりしている。すべてタッチ式で変えます。慣れれば非常に楽です。ただし注文もいろいろある。重いということ以外では

  1. これだけ重いのだから、動画の再生もして欲しい
  2. 音楽番組や会話ソフトを取り込んで再生したい
 など。この製品が面白いのは、日本人は今はCDからしか入れられないのですが、 iTunesのショップを通じてアメリカの連中は曲を直接購入し(インターネットを通じて)、それを入れることが出来る点。なぜ今アメリカに住んでいる人だけそれが出来るのか知りませんが、レコード会社との契約が出来ていないのでしょう。アメリカのショップには既に300万曲がリストアップされているという。音楽がオンラインに今一歩近づいたと言える。

 プロダクトしては、ソニーのウォークマンに匹敵する革新性を持っているかもしれない。逆に言えば、なぜソニーはこういう製品を思いつかなかったのか、と思う。マジック・ゲートのメモリー・スティックに入る曲は64kでは私の記憶ではMP3でも20曲に届かなかった。20曲を聴けば、別のスティックと入れ替えなければならなかった。

 しかしマックのこの製品は一つ持っていれば1ッカ月分の音楽をケイタイできる。これは好きな人にはたまらないかもしれない。2時間半の大阪行きも音楽を聴いていれば着く、という気楽さになる。ソニーは明らかにこの点で、マックに遅れを取ったと思う。オンラインでソフトをダウンしてくる方式が広まれば、映画でも同じ事が出来るようになる。この雑誌はマックを「エンターテインメントの巨人になりつつある」と讃えているが、その可能性は確かにある。

 注目されるのは、マックがコンピューターの世界の小島(small island)で満足していた今までの方針を大きく転換したことだ。何よりも驚いたのは、ヒューレッド・パッカードと提携したこと。最初狙いが分からなかったが、徐々に見えてきた。iPod は一般消費者に大きくアピールするものとなる。そこから、またマックワールドの住民が増えるかもしれない。iPodは私が買ったマックのハードとしては最初のものですが、なかなか面白い可能性を秘めていると思う。そういえば、日本でもこのプロダクトのCMが結構大々的に始まりましたね。

2004年01月25日

 (12:34)古賀議員の学歴詐称事件というのは、そのことに関する報道時間が長くなればなるほどいらいらしてきますね。自分が学校を卒業したかどうかなど、一発で分かるでしょうに。しかも、UCLAだなんだと。まったくこんな問題に付き合っている時間がもったいない、という印象。

松井のサインが....  まあでも世の中腹の立つことばかりではない。先週の金曜日でしたかね、「松井を応援する会」があって、麻布の韓国料理屋で夕食を一緒にしたのですが、その店はまさに会合に相応しい店でした。壁やふすまには松井選手の巨人時代、それからニューヨークに行ってからのサインがあって、他に高橋選手のサインもあるなど、野球選手が頻繁に訪れていることが分かる店だった。

 新しい店に行ったら、その店のウリを食べないとということで、コース料理を食べましたが、美味しかった。もっともこの店はある会員の懸命な努力で割り出しに成功した。ある会員とはjoe.mehara君で、彼には今回の会合の設定では感謝ですな。

 そういえば、S君は昔やっていたギターを再び始めたとか。先週のこのテレビ番組の特集にも出ていました。今になってロックを再び....という世代の人々の話でしたが、私の直ぐ近くにもいたというわけ。まあ皆、「やり残したこと」は有るわけですから、それはできるんなら思う存分やればよい、と思います。まあそのうち聞かせてもらいます。

2004年01月23日

 (07:28)何の気なしにFTを見たら一面トップに「Boost for India as debt rating upgraded」という記事。何かというと、ムーディーズ・インベスターズ・サービスがインド政府の外貨建て債務の格付けを今までより一段階上げてBaa3にしたという記事。

 「Baa3」というのは投資グレードです。今まではインド政府外貨建て債務への投資は「speculative」(思惑的)だったのが、国際的な投資家も動ける投資グレードになった。これが「boost for India」ということの背景です。

 ところが困ったことになっている。日本からインドに少しでも投資できるかどうか調べたのですが、これがまたルートがない。インド株を扱っている証券会社は皆無。日本の証券会社はやっと中国株を扱い始めたばかり。投信も調べたがあまりない。どなたか知っていたら教えて欲しい。

 今すぐということではない。インドの株も通貨も今は過大評価だと思う。SENSEX指数は年初の6000台から今は大台割れしている。しかし、自分のその国への評価を具現化したものを実際に行うには、あらかじめルートを造っておかねばならない。対インドではその方策が日本からだとないのである。日本の国際投資家としてのインフラ整備は実に遅れている、ということになる。

 インドが今回のムーディーズの格上げによってどの程度になったかというと、ロシア、カザフスタン、クロアチア、エルサルバドルなどと同じ。決して高いとは言えない。しかし、投資グレードになったということが重要です。

2004年01月22日

 (19:45)ずっと見たいと思っていたMYSTIC RIVERを今週やっと見ることができました。「いい映画」というより、考えさせられる、そして暫く記憶に残る映画ですな。

 見始めて直ぐに韓国の映画友へ/チングを思い出しました。なぜだか分からない。しかし、人数は違っても少年達の子供の時代、そしてその後の彼らの人生の交錯を描いているという点では、同じです。

 また一方で、天使はこの森でバスを降りたも思い出していました。一方はボストン、片方はアメリカの田舎町。しかし、昔ながらの緊密な地域社会の特色を色濃く残したアメリカ社会の人間関係を描いている。

 ジミーが言った言葉ですかね、「人生はちょっとしたことで変わる」というのは本当だと思う。ヒットラーの話が出ていて面白かったのですが、まあ皆偶然の積み重なりの上に今を生きているようなものです。しかしその結果は大きく違うし、時に悲劇が増幅されることもある。

 クリント・イーストウッドが監督ということでなおさら注目されているようですが、そうでなくて良い映画だと思う。まあ時代設定は今のボストンではない。少し前のボストンですが。

2004年01月21日

 (00:45)ブッシュの一般教書演説をホワイトハウスのサイトで読み始めたら、えらく「applause」という単語が気になる。つまりそのところでは、議員達が拍手し、多くの場合立ち上がって拍手をブッシュに送っているのです。

 で、あまりにも多いので「control+f」で検索をかけて一体演説全体の中でいくつ「applause」が出てくるかをチェックしたのです。私のカウントでは72回あった。つまりそれだけ議員達は、その都度立ったり座ったりして拍手していることになる。私は実際にこの演説が何分かかったか知らないのですが、多分議場に行った議員の大部分にとって、「もういい加減にやめて」と思うほど、「applause」が多く、かつ短時間に繰り返されたに違いない。

 つまり、大部分の議員にとっては、議場に運動に行ったようなものです。アメリカで議員になるのは大変だ。別の単語も調べてみました。「war」です。これは全部で12回出てきた。ブッシュとしては「自分は戦争を戦っている大統領だ」と言いたかったのでしょう。「commander in chief」の役割の部分を強調した、ということです。それの方が、国民に対して現役を売りやすい。

 読んでいて、「これはブッシュの選挙戦開始宣言だな」と思いました。アイオワではディーンが敗れて、予想外にケリーが勝った。ゲッパートは脱落。この名前は私が社会人になってから折に触れて聞いた名前ですが、今回はアメリカの政治のシーンから消えるという。民主党内の戦いは、次にニューハンプシャーがあって、徐々に同党の選挙の行方が見えてくるでしょう。

 ブッシュが「commander in chief」の役割を強調したにしても、今の段階では「選挙は接戦になる」との見方がアメリカのマスコミには多いようだ。マスコミ・サイドから見ると、その方が選挙のしがいが、報道していて面白い、と言うことかもしれないが、ブッシュの支持率の最近の低下はあながちその見方が間違っていないかもしれない、という気にもさせる。まあブッシュが優位には違いないのでしょうが、決まったと言い切るには早い気がする。

2004年01月20日

 (23:45)萬久満さんで食事をしていたら、戸田さんが「この上に銀座の勝ち組の店がある」「この前日本テレビの番組に出ていた」というので、「へえ」と。最近の銀座にはどちらかと言えば、「かろうじてのサバイバル組」が多いと聞いていたので、それは興味ありということで、友人と向学のためにほんのちょっと覗くことに。

 「Le Jardin」という名前のこの店はそれほど大きくない。ちょっと変な形をしている。あえて言えば「L字型」。9時頃だったのですが、既に店には8割方の客が。知っている顔が一つ。民主党のOさん。誰と来ていたのかは知りませんが。

 しばらくいて、秘密らしきものをいくつか見つけました。まず女性の質が高い。美的に、という以上にインテリジェンスで。一人の女の子は、東京大学の法学部を出て、卒業してから司法試験を受けようと思って昼間から夜の早い時間まで勉強して、夜9時過ぎからこの店で働いている、という。その他の女性も、私がチェックした限りでは全員が大学、しかも比較的名前の知られた大学を出ていた。

 その結果どうなるかというと、場の会話が進む。私があまりこの手の店に行かないのは、しばしば場が面白くないからです。何もしゃべれない方が多くて、こちらが、つまりお金を支払わなければならない側が店の方々をエンターテインしないといけない。それはちょっとないだろう、と思うわけです。

 あとは店に入っただけでは分からないのですが、戸田さんの話しによれば、顧客管理が徹底しているらしい。一ヶ月の郵便代が50万を超えることもあるという。つまり、サービス提供側の変化、催しをコンスタントに顧客に流している、ということです。

 何時行っても同じ、というのでは客のサイドから見れば飽きる。それをコンスタントに情報提供して、客の好奇心、訪問意欲をかき立てている、ということになる。まあ、「勝ち組」の店の戦略というのは、夜の世界でも昼の世界でもあまり変わらない、ということです。やはり店は生き生きしていないと。

2004年01月19日

 (23:34)ひょっと気が付くとメールの受信トレーに「hi」というタイトルのメールがちらほら。いかにもウィルスくさいなと思っていたら、日経のサイトに記事がありました。

 トレンドマイクロは19日、米国を中心に新種のコンピューターウイルス「バグル(WORM_BAGLE.A)」の被害が広がっていると発表した。日本でも被害が出ており、注意を呼び掛けている。

 感染する危険があるのはWindows95、 98、 ME、 NT、 2000、 XPのパソコン。感染するとハードディスクに入っているアドレス帳や文書ファイルなどに記載されているメールアドレスを勝手に探し出し、すべてのアドレス宛てにウイルス付きメールを送る。メールの件名が「Hi」となっているのが特徴。

 トレンドマイクロがオンラインで無料提供しているウイルス検出サービスを利用した人のうち、日本国内だけで70件の感染が確認されたという(19日午後17時現在)。

 この記事を読んでも、それほど重大な被害は及ぼさないし、私の場合はノートンがすべて検疫してくれるので、今のところ大丈夫ですが、皆様お気をつけを。

2004年01月18日

 (17:42)寒い一日。晴れの綺麗な空・・・・ということで、18日は新宿の東京ガスさんのショールームで、第八回の鍋物コンテストでした。11時頃に集まって、11時30分に創作鍋製作開始.....といういつものスケジュール。主催は、全日本鍋物研究会。国際色豊かでしたよ。韓国のご家族の方々も、上海の方も参加。

最後の全員写真  このコンテスト、第一回は1997年で、それからずっと続いている。伝統ある鍋物コンテストです。といっても、既に定着した鍋ではなく、創作鍋。今回の参加鍋は

  1. ヘルシーホワイト鍋
  2. いろは鍋
  3. 黒い鍋
  4. みその秘密鍋
  5. 上海十二楽坊鍋
  6. 日本昔塾々発酵鍋
  7. 韓国の茸鍋
  8. だけじゃないチャイニーズ
 というユニークなもの。今回は会長の水木さんがご親戚の結婚式で大阪ということで、広報部長(自称)の私が司会をしましたので、作りませんでしたが、チームの鍋は同票3位でした。

 投票は何回も書いていますが、仲間内の投票。よって参加者の神経戦を含む投票と、そして見学者の投票の集計です。最終的には、優勝はみその秘密鍋でした。新宿のゴールデン街の店の方を中心としたチームの作になるもの。

 各鍋のレシピーは全日本鍋物研究会のHPに掲載されると思います。またまとまった文章は、このページに第八回として掲載されます。

2004年01月16日

 (18:39)インドで買ってきたこのディスクこれを再生しようとしたら再生できない。よく見たら、VCDで日本ではあまりないタイプのディスクだったので、ちょっと調べたのです。どうやったら再生できるか。

 ありました。ここにVCDをPCでどうやって再生するか。メディア・プレーヤーを使えば簡単でした。世界各国でビデオの再生方法が結構違う。面倒なことです。

 言葉が分からないので、何を歌っているのか分からない。しかし、見ていたり聞いていると分かることもある。それは男女関係を含めて、インドの社会も変わってきているのだろうな、と思われることです。インドにおける結婚は普通、女性の親が膨大なリストを作って将来の旦那に相当な贈り物をして初めて成立すると言われるし、インドの複数の人に聞きましたが、今もかなりのケースでそうなっているらしい。

 しかし、ビデオの中で展開するシーンは、対等に魅力を見せ合う、我々から見ればまだ「インド的」ですが、ちょっと控えめなセクシーシーンです。男女の関係は対等に近づきつつあるように見える。チャッタルジーさんに聞いたことですが、インドでも力のある、能力のある女性は大学を出て就職し、かならずしも結婚をよすがとしない生活を送るようになっているという。

 ところで、滞在中にインドの大衆紙の一面をずっと飾っていたのは、ブリトニーでした。日本よりも彼女の人気は高いらしく、一面のかなり良い場所を占めていた。結婚したとか、直ぐ解消したとか。まあ、それで分かるのは、一般の人の関心は世界でそれほど変わるわけではない、ということです。日本でもブリトニーのファンは結構いるのでしょう。彼女も22ですか。ちょっと最近、お騒がせ過ぎ....の気もするのですが。

2004年01月15日

 (08:39)四国の高知に来ています。ここも「暖かいだろう」と思ってきたら、結構寒い。何に来ているかというと、この時、つまり2001年の8月末と同様に、船の進水式に出席するため。

 やはり戸田汽船さんの船で、「S-7168 NOSHIRO ?」の進水式。今時珍しく、海に落とす方式での進水式で、楽しみにて来ているのです。そのときに進水式のあれこれについて書きました。一回経験のあることは、「ああこういう流れだな」ということで、今回はあまり驚くことはない。淡々と前回と同じスケジュールが進行すると言う形。昨日野外で運動をして、宴会を行い、今日が進水式。

 船の進水式というのは、それはそれはおめでたいことですから、会も盛り上がる。おまけに、船の関係は非常に今業容が良い。運賃が高騰していて、船主、運行会社にとっては全体的には良い環境です。ただし、船の契約というのは長期が多いので、いくら運賃が高騰したからと言って、それはスポットの相場であって、船主サイドが常にその恩恵に浴するわけではない。

 船を造った新高知重工の尾崎社長としばらく車の中で話していましたが、船を造る側にしても、受注は順調だが、「とにかく鉄が値上がりして、契約価格を見直すわけにはいかないし、なかなか大変」だそうで、聞いていて「それはそうだな」と思いました。今日の進水式も、2001年の8月と同じような進行になるのでしょう。夕方には東京に戻ります。
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 今週これまでで良かったな、と思っているのは13日に「ユーロの頭が見えてきた印象がする。このところのユーロの上げは、対ドル、対円で急ピッチだっただけに、警戒すべき水準だと考えます」と書いたことが、実際にその通りに動き出したこと。相場の予測を行っている人間にとって、相場の予想が当たることほど快感はない。

 先週末に1ユーロ=1.29ドルに限りなく接近したユーロ・ドルは、今朝の段階で1.26台の半ばまで落ちてきている。このままユーロが落ちるかどうかは不明だが、今週の月曜日に書いたとおり、ヨーロッパサイドでユーロ高に対する懸念が強まっているだけに、また相場の動きが too fast too far だけだっただけに、当然の動きだろう。ユーロロングの人がまだ結構つかまっている印象がする。

 特徴は、対ユーロでのドルの反発があるにもかかわらず、ドルは対円で反発していない、ということである。14日のニューヨーク市場では、105円台があっった。こうした状況はまだ続くでしょう。ドル・円を持ち上げる力は、市場参加者の中ではまだ日本の通貨当局しかない。アメリカの金利でも上がり始めれば環境は違っていますが、その環境にはまだない。

 結果何が起きるかというと、ユーロ・円の円高です。今朝は134円台。確か7円台がありましたから、かなりのユーロ高修正。ポンド・円などもかなり修正してきている。今の部分的なドルの反発が全体的に動きに動くのは少し先でしょう。その間は、円は全面高になるということになる。日本の輸出企業には、少しきつい時期に入る。

2004年01月13日

 (17:39)マネックスメール用に以下の文章を書きましたので、このコーナーの読者にも提供します。また今日は、このコーナーでは、ヨーロッパサイドにとって明らかに「頭痛の種」になり始めたユーロを取り上げました。

 確信はない。しかし、徐々にユーロの頭が見えてきた印象がする。このところのユーロの上げは、対ドル、対円で急ピッチだっただけに、警戒すべき水準だと考えます。
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 米金利が異常な下がり方をしている。景気が強く、株式市場も堅調なのにこのところ一貫して下がっているのである。10年債の利回りは4%を割りそうなところにまで来た。

 米国内のインフレ圧力が弱いこともある。しかし理由はもっぱら、米債券を一生懸命買っている向きがあるからである。それはもっぱら、日本の通貨当局だと考えられている。具体的には大規模介入で得たドルの運用をもっぱらアメリカで行っており、その向かう先が米国国債なのである。

 どのくらい強烈な介入を日本の通貨当局はしているのか。直近では先週の金曜日の介入が良い例だ。106円台のローで小動きだったドル・円が急激に動き出したのは午後の2時過ぎくらいだろうか。介入と直ぐに分かる動きで、しばらくしてドル・円相場は108円台に乗った。介入は2円近くもドルを持ち上げたことになる。

 しかし介入とは合わせ技がない限りは、市場の需給を一時的に購入通貨の需要増に傾けるだけである。日本の通貨当局の今の介入の場合は、ドル需要増。ただし介入が終わればドル需要はなくなるわけだから、直ちにドルは緩み始めることになる。

 予想通り介入が止まったところで、ドルは対円で急速に下がり始めた。機敏な輸出業者は、思いっきり108円台で向こう数ヶ月のドル売り予約が出来ただろうし、日本の通貨当局の介入は日本の輸出業者になるべく高いレベルでのドル売りの機会を与えている、とも言える。

 問題なのは、輸出産業へのドル売り機会の提供が国民経済的に代償を伴う、ということだ。介入資金は国債の発行によってまかなわれている。今年2週間の介入総額は一説には4兆円に達したとの見方もある。膨大な金額だ。日本の通貨当局が昨年一年間で使った介入資金は20兆円。今年は既にその20%を使った。

 介入をすればするほど、アメリカの金利は下がる。日本のお金が行くからだ。その結果ますますドルは弱くなる。金利差が縮小するからだ。一方で日本の金利には上昇圧力が生ずる。今の日本の通貨当局の「介入戦略」には明らかに無理がある。永続するという保証もない。

 ヨーロッパと協調するなり、金融市場が日本の資金に依存し始めたアメリカ政府の同意を取り付けて何らかの新しい措置を取るか。2月のG7(6、7日)は日本の通貨当局にとっても正念場である。

2004年01月12日

 (16:38)年初に行ったインドの紀行をchat のコーナーここに掲載しました。まだ完成形ではありませんし、他の写真と入れ替えるかもしれませんが、とりあえずのまとめです。

 ご興味のある方はお読み下さい。滞在中に書いた文章にかなり加筆してあります。

2004年01月11日

 (16:24)食事友達の松本隆(作詞家/音楽プロデューサー)さんが新しいレーベル風待レコードを立ち上げて一年ちょっとになりますかね。そこから最近次々とアルバムが出てきている。今私が聞いているのは、この「キャプテンストライダム」の「ブッコロリー」というアルバムですが、ちょっと面白いグループです。

 このグループは、昨年の初夏から秋にかけて松本さんらのチームがオーディションを行い、寄せられた多くのMDやCD-Rを聴き、 共感するアーティストたちと出会った結果見いだした三組(キャプテンストライダム、neuma、ノラオンナ)の一つ。結構風変わりな音楽ですが、身近な話題が多くて曲は面白い。

 松本さんがなぜ新しいレーベル、インディを立ち上げたのかはこのページに詳しいのですが、まだ3アルバムを出したか出さないかのよちよち歩き。是非波を起こして欲しいと思います。彼と彼の奥さんを含めて、結構大人数で食事をするのですが、静かな人です。「はっぴいえんど」のころもそうだったかな。
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 音楽と言えば、最近岩瀬明美もよく聞きます。まあ重いくらいにソウルフルな声の歌手ですが、実力のほどは感じることができる。じっくり聞くと涙が出てきそうな曲ばかりです。

 この二つのアルバムは、好きな人にはこたえられないものになるかもしれない。

2004年01月10日

 (10:15)木曜日に野中広務さんの老兵は死なずを取り上げたので、その中の一文で拍手を送ったセンテンスをもう一つ紹介しておきましょう。この本は次回の私の日経ビジネスの書評の対象なのですが、そこでは詳しく触れられなかった部分です。

 この本にはいろいろ面白い回想が入っているのですが、「加藤の乱」にも一章が割り当てられていて、あのとき何故「次の総理」を約束されていた状況の加藤さんが森政権への反乱を企てたのかに関する野中さんの分析、というか印象が記されている。野中さんはなぜあの時に加藤さんが反乱に動いたかについて、次のように述べている。198ページです。

「私は加藤さんはインターネットに狂わされたのだと思う。」
 この一文を読んだ瞬間に、「この人は勘がいいな。よく見ているな」と思いました。というもの私も加藤さんをあの段階で狂わしたのは

 「インターネット」
 「あの乱の直前に彼が開いた自分のホームページ」
 「そのホームページに送られてきた無数の、彼にとっては魅惑溢れるメール」

 だったと思っていたからです。今でもはっきり覚えているのですが、あの当時の加藤さんの記者会見の一つに、「私のところには、全国から”加藤立て、このままじゃいかん”というメールが一杯来るのです」という発言があり、その時の加藤さんの顔が非常に高揚していたのを覚えている。その瞬間に私は、「ああ、この人もネット病にかかったな」と思ったものでした。それ以来、私は加藤さんの人生を狂わしたのはネットと思っていたのです。その後テレビの番組などで御一緒したことはありますが、直接聞いたことはない。しかし間違いない、と思っていました。

 それを野中さんがズバッと指摘していたので、納得すると同時に「この人は鋭い」と思ったのです。これはどちらかというと、その業界でも先進的、新しもの好きの人に一般的に言えることなのですが、新しく出てきた技術を使ってみる、使うと頭が良いだけにその技術の持つポテンシャルが直ちに理解できる、理解できると世の中がどう変わるかも予想できる。たとえそれが遠い先の話しであってもです。

 恐らく加藤さん、つまり山形県出身の国会議員にとってみれば、ネット上にホームページを作っただけで全国から大量に送られてくる見ず知らずの人達からのメールは、非常に魅力的に、魅惑に満ちたものに見えたはずだし、「自分の味方はこんなにいる」と思ったに違いない。「これは凄い」と。もしかしたら、「こういう世の中になれば、首相も国民が直接選ぶことになるかもしれない」と加藤さんが考えたとしても不思議ではない。

 あの当時の森さんの支持率は酷いものでした。多くの人が彼の首相としての資質に不満を持っていた。それの不満のはけ口となった一つが加藤さんHPであり、そこへのメールだったと思っています。どのくらい届いたかは知らない。しかし、恐らく選挙区選出の議員の想像力を超えていたのだと思います。それが加藤さんを高揚させ、行動させた。

 しかし何でもそうですが、新しい技術が社会を変えるのは実にゆっくりなのです。今になってやっとネット技術が家電に入ろうとしている。生き物の人間の社会のワーキングを技術が変えるのには、実は凄い時間がかかるのです。彼は理解力があり、頭も良いが故にその技術を社会より先に咀嚼し、行動してしまった。野中さんの本にも、『(加藤さんは)「俺のメールを見てみろ」と私に言ったものだ』という一文がある。

 実は私は、ちょっと違う意味でネットに狂わされたもう一人の人として、ソニーの出井さんを考えているのです。彼は手元に届いたビジネス・ウィークで「ワースト経営者」に選ばれてしまった。逆にフォーブスでは松下の中村さんの評価が高かった。

 これには異論がある人がいるかもしれない。しかし、「digital dream kids」という標語を見た瞬間に、「ああ、ソニーは、そして出井さんは高揚しているな」と私は思った。この標語の出始めのころです。「デジタルで夢を見る子供達」とは、なかなか優れた標語だと思う。しかし、その夢が現実の世界に降りて来るには凄い時間がかかる。

 当時彼が出席した講演会やシンポジュームに何回も出席していたのですが、今でも鮮明に覚えているのは、デジタル技術が産業界に及ぼす影響を記者が聞くと彼は必ず、「あなたはそんな呑気な質問をしているが、これはあなたの業界の足下だって揺さぶる話しなのですよ....」と記者を逆に脅すように話していた。これがすっごく印象的だったのです。そうなんだが、そこまで強調する必要はないだろう、と。新聞社もそんなことを言われなくってもデジタル技術は徐々に入れている。

 ソニーは、デジタルで夢を見ようとした。しかし、良く言えば先を見すぎていた、悪く言えば夢に踊らさせて現実が見えていなかった。多分このギャップにどこかで気づいたはずです。あまり評価もしていなかった液晶やプラズマのテレビ技術が世の中に受け入れられるのを見て、焦りもあったはずだ。

 ソニーが打ち出した一つの結論、それはデフレ対策という意味もあっただろうし、「アナログ技術への回帰」の気持ちもあったのでしょうが、けじめとして出てきたのがクオリアだったという気がする。「digital dream kids」に対する自らのアンチテーゼとしてソニーと出井さんは「クオリア」を作った。

 しかし、クオリアの一製品である016のカメラには欠陥があったことが公表されている。一品38万円のカメラ。故障など出てはいけない筈のものです。つまり、ソニーは品質も疑問にさらされる事態となっている。もともとソニーの製品は立て付けが悪い、よく故障する。

 政界と産業界で「出色」「異色」と言われた二人の優秀な人間、それを狂わしたのがインターネット、もっと広い意味でのデジタル技術だとすれば、ネットやデジタル技術は罪作りなような気もする。しかし重要なのは、そういう犠牲者を生みながらも、この技術は世界を徐々に、そして確実に変えるだろう、ということだ。この二人にも fight back のチャンスがないわけではない。それが救いですが。

2004年01月08日

 (23:57)よくよく眺めていると、年賀状というのは面白いものですね。ある人の年賀状のここ数年、それにそれ以前を思い出してみる。独身だった彼が、彼女が結婚し、そして子供が徐々に増えていく。そういう写真が送られてくる。一方で、いつまでたっても状況に変化が見られない様子の人もいる。そういう人の賀状には写真は少ない。その年だけでなく、時の流れの中で賀状は見ると面白い。

 でも実態は、賀状と格闘しているのです。まだ終わっていない。さすがにインドで書く気はしなかった。といって行く前に余裕があったわけではない。止めたいけど止められない習慣。でも、頂いた賀状の多くをしげしげと見ていると、残しても良い習慣かな、とも思う。

 拉致被害者の子供たちの帰国を巡って北朝鮮が再びいろいろ仕掛けてきている。北朝鮮に関しては、この本にあった二つの言葉が頭に残っている。インドへの生き帰りの飛行機の中で読んだのですが、

 「北朝鮮というのはつくづく食えない国だと思った」
 「北朝鮮との交渉では、ほとほと疲れ果てた」

 というものだったと思う。私が言っているのではなく、野中さんの言葉です。正確ではないのですが。平壌まで親が迎えに来れば返すとか。しかし、今の交渉は非政府ベースで行われている。平沢議員らの交渉は突破口になっても、最後はやはり政府間の交渉が必要だと思う。

 核を巡る六カ国協議開催準備に関しても進展はあるが、まだ発表というような状況ではないようだ。とにかく北朝鮮との交渉には時間がかかる。しかし、実際には北は相当焦っているのではないか。フセインは拘束され、便所掃除までしているそうだ。リビアのカダフィはアメリカに全面譲歩した。

 一方で今冬も10万トンほどの食料が不足との報道もある。一方で日本は経済制裁を検討している。そういう全体的な状況の下で、かつ拉致問題は帰ってこられた5人とその子息だけの問題ではない、という認識の下に進めるべきだろう。時間がなくなっているのは北だと私は思う。

2004年01月07日

 (12:09)あらら、成田が開くのが午前6時だとは知りませんでした。デリーの空港を15分くらい早く飛び立ったのです。霧が濃くなると出発できないので、JALがデリーでそう決断した。予定時間より早く出発する飛行機は多分初めて。

 で、本来なら7日の午前6時15分の到着予定が、飛行時間の短縮もあって午前5時45分くらいに成田の上空に着いてしまった。しかし機内アナウンスで「成田は6時から。それまでは待機」と。上空を10分くらい旋回して、6時過ぎての着陸。知りませんでした。成田のオープンが午前6時だとは。

 それにしても、デリーの空港はありゃ役立たない。霧は一月の中旬までとのことですが、その間いつも「飛行機が飛ぶかどうか」を気にしないといけない。実は6日は朝から霧が深くて、「デリーの交通は大混乱」と朝から報じられていたので、心配していた。出発予定時間では、霧で発てなかったかもしれない。

 今回のインド訪問は、XEBEC INDIA(ゼベック・インディアと読む)のチャッタルジーさんの尽力によって可能になったようなもの。サイトはこんな感じ(英語版はここ)で、「もうちょっとどうにかせい...」というレベルですが、仕事はパーフェクトでした。

 何よりも日本の我々にとって心強いのは、彼は日本語が完璧。富山大学に4年間留学していて、日本での生活体験が豊富。私と一緒にいて私の言葉を理解できなかったのは、「インドのトラックは過積載だ」(私)の「過積載」だけだった。ついでに英語も完璧。それに、実に良く喋る。一緒にいて楽しい人です。加えて奥さんが日本の方で、また良い人なのです。大使館にお勤めですが。

 彼に提案したのです。「これからインドを訪れる日本人は増える。証券会社と組んでインド・ビジネス、マーケット・ツアーを企画したら...」と。彼なら出来る。なにせ、何もアポがなかったのに、BSE(ボンベイ株式取引所)の上の方とその場で交渉して取引所の中に入り、私と取引所酒席、おっと「主席」エコノミストとのミーティングを可能にした。あれはインドに通じた人間でなければ出来ない。

 インドを訪問する予定のある方。彼とのコンタクトを推薦します。ただのツアーガイドではないからちょっと高いが、それ代わり仕事は完璧です。インド中のエージェントと契約していて、全土カバーが可能。

 ところで、今回のインド訪問に関してはこのサイトに近く纏める予定です。そう言えば7日の昼頃韓国の姜さんから電話がかかってきて、「インドに行っていたんですって」「近く韓国に来ませんか」とお誘い。韓国なら近い。しかし、インドもアメリカより遙かに近い。

2004年01月06日

 (15:12 インド時間)インドに関する日本人の間の神話の一つは、「そこに行くと必ず下痢をする」というものだ。これは来る前に何人もの人に、そしてものの本で聞かされた。

 しかし正直言って、私は無縁だった。完全でないと思う面もある。それは若干腹がおかしいかな、という日はあったからだが、それも一日きりで後は大過なく、すこぶる順調だった。メキシコに行ったときもならなかったので、小生の腹は特に強いのかもしれない。

 しかしコツはある。いつも信頼できる水を持ち歩くこと、余計なものを食べないこと、むしろ空腹を保つこと、そして火の入ったものしか食べないこと、である。中華やイタリアンは良い。当然ながらカレーはあちこちで食べたが、問題はなかった。

 しかし、意図的に生のサラダや野菜は食べなかった。多分大丈夫だが、何かあれば旅が台無しになる。野菜などいつでも食べられる。水は成田を出るときに二本ボトルを買って、最初はそれを飲み、あとはホテルの用意したボトルを飲んだ。

 レストランでは普通に食事をしたが、必ずミネラルウォーターをもってこさせた。これくらい気を付ければ、後は心配ない。食べ過ぎると下痢をする、疲れると下痢をする、冷やすと下痢をする。余計なものを食べず、水に気を付ければ大丈夫であった。少なくとも、私はそうだった。

 ただし一つ思ったことがある。インドでは結局一回もトイレでウォッシュレットに出会わなかった。ホテルも昔ながらのそれ。TOTOの便器には会いましたが、日本でウォッシュレットに慣れると、紙を使うのが怖くなる。インドでは紙もないと聞きましたが、これはどこに行ってもありました。しかし、かたい。確かにウォッシュレットは便利で気持ちがよいが、海外での、それがない生活が不安になるという意味で、ははは、民族の弱体化(?)に繋がるかもしれない。尾籠な話で恐縮ですが。
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 つらつら思い及んだことが一つ。それは、デリーに一番足りないものは公共交通機関だ、ということです。凄い勢いで人口が増えているのに、圧倒的にバスが公共交通機関になっている。だから、バスからはみ出て人が乗っている。地下鉄も出来たらしいが、まだ市内のごく一部。

 今でも車は多いから、このまま人口が増えたらこの街はパンクしてしまう。解決策は公共交通機関ですが、それがまだ具体化していないようなのです。カルカッタとデリーの間には新幹線の計画はあるらしいが、「予定は未定」。

 この街のすさまじい排ガスを見ていると、この街には「都市計画が必要だ」と強く思いました。それがないと、ディーゼルを走れなくしたくらいでは、この街の環境は壊れてしまう。内陸ですから、空気が動かない。それが問題です。

2004年01月06日

 (12:56)インドは多くの日本人にとって「神話化されすぎている」というのが、今回の旅の一つの結論です。確かにインドは日本から遠い。中国や韓国からは比べものにならないほど遠い。また、中国や韓国のように生々しい、相まみえる歴史の事実を重ねたこともない。訪れた日本人もまだ数少ない。未だかつて日本人にとって「遠い国」なのです。

 もっとも、日本には昔からインドの情報は入ってきていた。しかし、日本人が接したインド情報は間接的な、人伝のものです。言ってみれば、日本人にとってインドは、遠くから蜃気楼の中で見ているような国だった。そして事実として、インドでは数多くの宗教が生まれ、悟りを開いた人々の話が伝わってきていた。日本人とは違った環境の国、という意識が最初から強い。

 椎名誠の「わしもインドで考えた」という本の表題に現れているように、「インドで考えると、別のアイデア、人生観が生まれる」という一種の神話が日本にはあったし、今もあるように思う。「そうだろうか....」というのが、この国を短いながら歩いていて思ったことでした。

 正直言って、インドは日本から来ると異質な国です。多様な民族、多様な言葉、そして多様な習慣。追い払っても追い払っても近寄ってくる物売り。加えてガンジーが「神の子」と呼んだ、日本人が言うことを憚る最下層の人々の存在。そして国全体を覆う目を覆いたくなるような貧しさ。それに対峙するかのように存在する豊かさと、経済の活力。卑近な例で言うならば、「インドに行けば、必ずおなかをこわす」という”神話”も聞いた。

 この国には、人々が宗教的にならざるを得ないような状況は確かにある。しかし、この砂漠に近い環境の世界の住民達、例えばアラブやユダヤの人々にしても、そういう厳しさはあったのだと思う。別にインドに限らない。厳しい環境に住んだ人々は宗教を生んだ。世界共通です。

 「行けば腹をこわす」というのもインドだけではない。メキシコもそうだし、その他の途上国に行けば、柔な日本人は大方体調を崩す。それは例外的に日本という国が急流として流れ落ちる河川を数多く持っている、世界でも特異の、水に関してはほとんど悩むことがなかった国だからです。世界では飲み水にも困る国はいっぱいあるし、それは増えている。

 インドが目指しているのは、西欧が生み、日本もその仲間入りをした「文明」です。「文明の衝突」という誰かの本は間違いだ、という意見をどこかの本で読んだ。文明は「文明の利器」と言う言葉でも示されるとおり、利用する利器であって、イスラム教徒でも、ヒンズー教徒でも誰でも利用できる。インドは超貧困の民達の家の直ぐ近くを、光ファイバーが走る国です。お互いに受容されないのは、相容れないのは「文化」です。確かに日本の文化とインドの文化ではかなり違う。

 しかし、「文化」が大きく異なっているのは、別に日本とインドの間に限らない。隣の韓国とだってお互いにびっくりするほど違う。飛行機に乗っている時間が長いと本が読めるのですが、「韓国人から見た北朝鮮」(PHP新書)という本を読んで、その思いを強くした。

 急速に道路作りが進むデリーの街、高層ビル群が出来つつあるムンバイの街。作り方は違うが、世界のどこでも見られる光景だし、今回ガンジス川の沐浴を見れなかったのは残念だが、それほど神秘的なものだろうか、という疑念が私にはある。それを言うなら、中国の寺院でも熱心にお祈りする民衆の姿を見ることが出来るし、浅草の観音様にだって熱心な信者は押しかける。中野の新井薬師だってそういう意味では信者が多い。貧しき人々の群れも、中国の農村、ブラジルのスラムなど世界中で見いだすことが出来る。

 その国以外の人間にとって、ある国は二つぐらいの象徴的なものでしか覚えられないのではないか。日本は「富士山、芸者」です。日本人にとってインドは「タージマッハールとガンジスの沐浴」でしょうか。そうした代表的事象は誇張される。時に酷く。韓国なら今は「焼き肉とエステ」か。

 しかし当たり前だが、人々の生活はそれだけでできあがっているわけではなく、日本人が「富士山、芸者」と言われると迷惑なように、インドの人々にとっても「タージマッハールとガンジスの沐浴」と呼ばれるのは迷惑ではないのか。タナベさんが、「新しいインドを見たいといったのは、伊藤さんが初めてです」と言っていたが、大部分の日本の方々は自分の既成概念にはまるインドを確認の為に来るのでしょう。

 誰にもそういう面がないとは言えない。私にもそういう面があるのでしょう。しかし、インドを蜃気楼の国、神秘的な国とだけ考えるのは全くの間違いだと思う。そこは実に生々しく多様だし、いろいろな人間がいる。インド人自身が「インド人はずる賢い」という。まあそういう面はあるのでしょう。決して蜃気楼の国、神秘の国ではない。しかし、「ずる賢さ」は逆に言えば商売のうまさに繋がる。それがインドを発展させるとしたら、ガンジス川での沐浴はインドのほんの一部、ということになる。

 「違っている」のは当たり前で、それは日本と世界各国を比べた場合の共通事象なのだが、決定的に言えるのはインドという国が日本と違っているということに加えて「実に面白い」ということです。めちゃめちゃな面がある。車の運転もそうだし、「混沌」と言える社会状況もある。しかし、ケイオスであるが故に、生まれてくるものもあるのだろう。だから私のインドに対する結論は、非常に単純に「メチャ面白い」です。

2004年01月06日

 (08:00)インドで何が楽しいかと言って、「値切り交渉」を置いて外にはない。主な値切り交渉だけで3回やりました。「ダメだ、ここは正価だ」と言ったのはデリーの Saga Department Stores だけ。ムンバイの同じ名前のデパートでは堂々と値切り交渉が出来ましたから、もしかしたら同デパートも欧米や日本のデパートと同じ正価販売主義を取り入れようとしているのかもしれない。デリー店はその一号かも。知りませんが。

 さて、現場再現です。店に入り、少しでも買いたいそぶりを見せると、彼らはあらゆる手だてを使って買わせようとしてきます。まあ良く喋ること。それが日本と違う点。私は日本でも値切り交渉(例えば街の電気店などで)が大好きで、家族に嫌がられる程なのですが、日本ではどうやっても店側の相手は一人です。しかし、例えばインドではこれでもか、といろいろな店員が登場して、次々に商品を披露する。一回買った買い物客に「ありがとうございました」という意識はない。次も、次も買わそうとする。ははは、これと戦うのはタフでないと。

 彼らが何を言うかというと、ある商品に私の目が止まったとする。そうすると、「これの本当の値段はこうだが、もうあなただから一割まけてこれだ....」と電卓で値段を示すのです。私のネゴ方法は、その電卓を「寄こせ...」といって取り上げて、こちらのプライスを示すことから始めるのです。彼らが最初に提示してきたプライスの絶対に半分以下を電卓に打って、それを突き返すのです。

 そうすると彼らは何て言うかというと、「Oh, You Are Cutting My Neck.....」とか何とか言う。それに対しては、「Yea, I Want To Kill You ......」とか軽く返して、相手の提示を待ちます。そうすると、もうちょっと下げてくる。なにかぶつぶつ言いながら。それには、「ノー」とはっきり言うのです。それを暫く繰り返す。何か日本語でぶつぶつ言っても良いし、「旅行者だからカネがない」と言っても良い。

 そうすると彼らは、現金でもキャッシュでも何でも支払い方法は良いと言う。これはいっぱいだとか。交渉の途中で、軽く冗談を交ぜると良い。何でも良いのです。相手が驚愕したり、驚くことを言えば良い。ニヤニヤ笑う。その間にも彼らは、「これは売り物ではないが、凄いだろう」.....とか言って、いろいろなものを見せてくる。「この商品は priceless だ」とか言って。へえ、「priceless なら俺にクレ.....」とか言って、ジャブを繰り返すのです。ジョークは彼らは軟化させる有用な武器です。

 しばらくそれを続けると、そのうちに彼らは「ボスと相談してくる....」とか言って奥に入る。「どうぞ....」といった感じです。そこにとどまっていると「買いたい雰囲気」が出過ぎてしまうので、席を外す。店内の他の商品を見たり、他の店を見たり。この段階で既にある特定の店員と交渉をしているということを他の店員も知っているのには、「これはどうだ、あれはどうだ」と寄ってくるのが笑えるのですが....。

 しばらくすると店員は戻ってきて、少し歩み寄ったプライスを電卓に提示する。それでも「ノーノー」と言って、電卓を取り上げこちらのほんの少し歩み寄ったプライスを出す。そうすると彼らはだんだん興奮してくる。ごちゃごちゃ言うのです。その場合は「じゃ、いらん」と言って席を立ち、店を出ようとするのが良いと思う。そうすると彼らは、「本当に帰るのかな.....」といった雰囲気でこっちをしばらく見る。重要なのは、本気で店を出て行く雰囲気を作り出すのです。

 そうすると、大体において最後の最後になって「わかったわかった」と言って、かなりこっちに接近したプライスを出してくる。直ぐに席に戻らずに、その場でまた電卓を取り上げて、ほんの少し近寄ったプライスをこちらから提示する。そうすると、「oh, no....」とか言って、「じゃ、俺のプライスとお前のプライスのちょうど真ん中でどうだ」と言ってくる。

 それでokしてはダメで、そのプライスと自分の提示したプライスのまた中間を提示するのです。そうすると大体、ちょっと考えたふりをして向こうは「握手を求める仕草」をする。その手は握らずに、確認の意味でその中間のプライスを電卓に提示して「これだな」と確認し、それで良かったら彼の手を握る、という方法です。

 本当の価格がどこにあるのかは知りません。多分それでも店は儲けているのでしょう。しかし、これはゲームですから、十分に楽しむ、ということが重要です。十分値切りを楽しめた、と思ったら買えばよいのです。そう割り切る。私は大体ドル建てで交渉しました。どんな激しい交渉をしても、終わると友達です。まあ一種の演劇を共演したような関係。

 しかし、終わると直ぐに、「じゃ、外にこういうのもあるが....」と必ず別の商品を勧めようとする。私の経験だと彼らは「これが買えたのならもっと高いものを買えるだろう...」と思うらしくて、高いモノをもってくる。そこでも冗談交じりに、「それってタダ....」とかジョークを交わす。これが結構長く続きますよ。

 彼らもこちらがもう買わない、と判断すると、「お前はどこから来た」とか、「あそこには行ったことがあるか」とか、「この前日本の有名な女優が来た」とか、聞いてもいないことを喋る。結構面白い情報が入ることがあるのです。本当かどうかは知りませんが。

 「値切り交渉」という点で言うと、短い滞在ですが結構楽しんだ...という印象。高いものを買ったわけではなくて、おみやげ品程度のことですが、やはり交渉しないと....。私の感覚だと、インド人は商売人です。もちろん、いろいろな人がいますが。
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 あと思い出したいくつかの点。インドでは、例え高級ホテルでもしばしば停電が起きる。冗談ではなくて、です。停電があるのは、上海ばかりではない。途上国共通の現象です。ですから、ホテルにはろうそくとマッチが置いてあるケースが多い。

 私も滞在中に何回か停電に会いましたが、長くは続かない。ホテルはだいたいにおいて自家発電がある。それが駆動するのです。しかし、その間1分とか2分は明かりが全くなくなり、部屋は真っ暗になる。長いのでは5分近いのがあった。ホテルの場合、まず回復するのが廊下で、その次に部屋が回復する。

 しかし部屋の中に一つだけ停電になっても光っているものがあった。ラップトップです。電池を持っていますから。真っ暗になると、ラップトップの光が相当明るいことに気づく。部屋の中を動き回ることぐらいは出来る。途上国のホテルに行ったら、ラップトップを常に付けておくことを勧めます。あとは、日本で売っている携帯のストラップ仕様のライトをもっていくことですかね。

 インドでもチップは必要でした。大体が10%。しかし、この国は日本の一万円札がそうなのですが、500ルピー(1500円弱)以外のお札があまり手に入ってこない。旅行者だからそうなのかもしれませんが、とにかく財布の中はインドにおける高額紙幣のみという状態になる。だからチップには困るのです。「500はちょっとやりすぎだな...」というケースが多い。

 しかし小さい紙幣が欲しいと思って例えば駅の売店などで500を出すと、「ない」と言われる。まあ一番細かい紙幣(5、10、20、50)があるのは、ホテルのレストランですかね。でもそれもチップに直ぐになくなる。
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 ボンベイ(ムンバイ)で買ったMIDDAYという新聞(夕刊紙ですかね)の一面ど真ん中の記事は、女子大生の売春に関するもの。さらに中を見ていくと、新しく市内に出来たショッピング街で若い女性の万引きが多発して困っている、といった記事も。

 良い悪いの問題ではなくて、「世界まあ、同じようなことが起きているな」という印象。宗教よりは、モノの力が増している現実がインドと言えども強いことが伺える。

According to Raja, many girls are tempted into prostitution by observing the lifestyles of some of their more affluent classmates.

“They are overawed by the spending capacity of their friends and classmates and look for ways to make easy money. Most are addicted to cigarettes, liquor, cough syrup or even gutka,” he said. Raja explained that the girls are usually approached at beauty parlours. The college girls usually work part-time and are only accessible through mobile phones.

 赤くしたところがちょっと変わっているな、と思うのですが、こういうモノに取り憑かれて、友達をうらやましく思ってなんてのは、世界共通の話です。インドの社会も良い意味でも悪い意味でも変わってきている、ということです。

2004年01月05日

 (23:54)朝早くに国内線でデリーからムンバイ(昔ボンベイと呼ばれた人口1600万の大都会)に行き、ポイントを絞ってデリーと並ぶ大発展途上の街を見て、夜には帰ってくるというせわしない一日。飛行機で片道二時間ですから、そうとう南に行く。そして降りた瞬間に、「これぞ日本人のイメージにぴったりのインド」と思いました。

 デリーより整然とした町並み、工事もはるかに少なく、古い建物が多い。スラムはどこにもありますが、それはそれで定着しているように見える。何よりも、南国気分で木が大きく立派なのが良いし、海沿いの街なので潮の香りがして、水があるが故に街に潤いがあるのが良い。この街について言うと、空港に降りてドライブし始めて直ぐに、「また来たい」と思いました。

 言ってみれば、デリーは冬は日もあまり差さない寒いハンブルクといった風情なのに対して、ムンバイはもう南スペインの暖かい太陽がいっぱいの海辺の街、といった雰囲気です。そりゃまた行きたくなるのは後者でしょう。デリーよりはるかに洗練された(?)都会です。

 ポイントとはどれか。まずバンダナ・クッラーという新規造成中のオフィス街を見ました。世界の主要企業の大きなオフィスが出来始めていて、その中でひときわ目立つのはまだ建設途上なのですが、世界最大の「ダイヤモンドの取引所」になる予定の大きなコンプレックス。インドは昔から、ダイヤを含めてエメラルド、サファイアなどの宝石の故郷であり、今でも良い店が多い。

 次に行ったのはニューヨークのウォール街に相当するダラーラ街です。チャッタルジーさんによれば、「ダラーラ」とはブローカーを指すそうで、文字通り「株やの街」という意味です。セキュリティーが厳しかったのですが、彼が交渉してくれて建物(取引所)の中に入って、取引所の主任エコノミストと言われる人と暫く話しました。まあ、自信に溢れる表情でした。日本の証券会社がこうした発展しつつある市場にあまり参加する道を持たないのはいかにも勿体ない。

 あとは、「インド門」ですかね。タージという歴史上も重要なホテルの前にあって、近くには船がいっぱい係船されている。潮の臭いのする良い場所です。物売りの多さもあまり気にならない。

 しばらく佇んでいて、この街ならしばらく居て良いな....と再び思いました。冬にこの気候ですから夏や熱いんでしょうが、海の近くにある分だけそれほど温度は上がらないとのこと。デリーの方が暑いそうです。ということは、デリーという街はつくづく魅力のない街ということになる。

 忘れていました。ムンバイではデパートも視察しました。これが面白かったのは、入り口で案内の女性が私たちを見つけて、何階には何があると説明したあとで、上に行く我々に着いてきて、売り場でもずっと「あれが良い、これが良い」とずっと説明してくれることでした。売り場の男性との共演。これには驚きました。「ほかにお客さんもいるだろう....」といったところですが、実はあまりいなかった。

 デパートの名前は、Saga Department Storesというのです。デパートと称していますが、日本の感覚でのでのデパートではない。規模が小さいのです。つまり、何でもは揃うわけではない。例えば食料品売り場がない。最上階から何があったかというと、絨毯、家具、女性用医療、宝石、化粧品などなど。つまり、貴金属店に高級家具屋がひっついた感じ。しかし、それはそれは従業員が販売熱心で、あれに捕まると逃げるのは大変です。

2004年01月04日

 (23:55)  3、4日の二日掛けて、チャッタルジーさんの案内でアグラ(タージマッハール、アグラ城など)とジャイプールを回りましたが、美しさでは前者が写真を上回り、後者は写真を下回る、といったところでしょうか。もっとも簡単に言うが、この二つはかなり離れていて、自動車で飛ばしに飛ばして5時間はかかる。だから、3日にアグラにデリーから4時間かけて行ってタージなどを見て、そこで一泊して次の日にジャイプールに行く、という行動。もうおしりが痛くなるほど車に乗りました。

 タージマッハールは、実物の方がはるかに迫力がある。美しいのに加えて、往事の今は数倍上回るであろう美しさが忍ばれるからです。建設物としても秀逸で、よく考えられていると思いました。これを最初に見たイギリス人が何を考えたか知りたかった。ジャイプールは「ピンクシティー」の名にちょっと恥じる。確かにピンクに統一されているのだが、ピンクという色から想像される艶めかしさはなく、喧噪と猥雑さの集積のような街です。しかしこれも、「往事はなんと素晴らしい城だっただろう」と思わせられるものが多い。

 象なるものにも乗ってみましたが、あれはなかなかスリリングです。象同士が喧嘩して、昨年だかに日本人が一人死んだそうで、リスクもある。崖っぷちの細い道をいくのですから、象同士が喧嘩したらそりゃ上に乗っている人はひとたまりもない。まあ、良い経験ではありますが。
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 今回の旅は、「インドはやっぱしそうか」という私の中にある既存情報の再確認だけの作業はなるべく避けよう、新しい面を見ようというもの。ですから、良く言われる「インドの貧しき人々」に関しては聞いていた通りの凄まじさ、数の多さであって、それについてあまり長く書く気はないのですが、一つ思うのは「(これらの人々の存在は)インドにとっての大きな重荷なんだろうな」という点です。

 「重荷」という意味は、こうした超貧困で、よって子供達を学校にも行かせられない、よって今後も識字も出来ないであろう人々を、うまく経済発展の渦の中に入れて、国全体の発展に繋げるのは容易なことではないだろうな、という意味です。

 私が見た限りでは、貧しき人々はインドのどこに行っても目の当たりにすることが出来る。主要道路の交差点で車が止まると、時として10才に行くか行かないかの、もう何年も風呂に入ったこともないであろう、しかし目は非常に澄んだ子供達が近寄ってきて、車の窓を叩きながら「何かちょうだい」という。

 目線があったら、確実に近寄ってきます。信号待ちの時間を利用して近寄ってくるので、しばらく無視すると次なる目標に移動していなくなるのですが、うっかり窓を開けていたりすると女性の場合はイヤリングをむしり取られることもあるらしい。当然怪我をする。

 デリーからアグラに通じる高速道路(といっても日本の感覚ではない)を通ったのですが、その沿線には名だたるハイテク企業や世界的企業の工場等々が並んでいるところもあるのですが、一方で凄まじい貧しさと人口の異常な多さを感じる場所がいくつもある。恐らくこの人達も「feel-good」と感じるのは、そしてその意味が分かるのにはそうとう時間がかかるだろう、と思える。

 チャッタンジーさんによれば、インドでは大学を出ても国内で職を得るのは容易なことではない、ということで、それはインドの出来る人たちが海外に職を求めて出ていることでも(日本のIT企業にも大勢居る)分かる。独特の身分制度、氏姓制度でやることが決まっていると言っても、それで十分な生活は難しいわけで、これらの人々の所得を上げ、子供を学校にやり....というのは至難の業に見える。かなり長期目標です。

 見かけたインドの乗り合いバスの後ろの宣伝には、「子供を学校にやろう」と書いてある。「子供を学校にやる。しかも全員」というのが、インドにとっての大きな課題であることが分かる。上がる株と大企業に勤めて一気に世界的所得水準に達する人々がいる一方での、子供を学校にも行かせられない貧困な人々の、同じ国の中での共存。

 ?小平が取った「まず豊かになれるものから」という政策は、恐らくインドでも当たっている。皆貧困だったら、経済を牽引する力がなくなってしまう。しかし、それが固定化すると、つまり貧富の差が固定化し、そしてしばしばそうなのですが拡大すると、今度はそれが社会の活力を奪う。インドの凄まじい発展、モノの横溢の兆しを見て、「この国は発展する」と思う一方で、「長期的にはどうなんだろう」といつも自問せざるを得なかった背景はここにあるのです。

2004年01月03日

 (00:55)2日はもっぱらデリー市内を車で移動しました。案内をしてくれたのは、XEBEC INDIA(同社サイトの日本語バージョンはここ)の経営者ジャイヤンタ・チャッタルジーさんの奥さんであるクミ・タナベさんで、彼女は当然ながら私が見たい「新しいデリー」「新しいインド」をよくご存じで助かりました。夕食にはチャッタルジーさんも加わり3人で夕食を一緒にしましたが、3日からはご主人と一緒に行動する予定。

 タナベさんと一緒に7時間以上市内のあちこちを見ながら思ったのは、インドが豊かな人間を中心に西欧型、または日本型と言っても良い「大量消費社会」に移行しつつある、ということです。しかし、「大衆」というにはまだ遠い。

 その何よりの証拠は、市内のあちこちに見ることが出来るデパートやモールの登場です。まずは、最近になって初めてニューデリーに出来たデパートというところに案内してもらいました。日本のデパート、あの巨大な建物を予想したら間違いです。佇まいも小ぶり。しかし、他のインドの都市部とは突出した奇麗な出来上がりです。大きな駐車場があり、そこに多数の車が押し寄せる。週末は大変な混雑だそうです。

 商品の揃いはかなりのもので、中を歩いている分には、それほど違和感はない。違和感があるとしたら、エレベーターに乗るとエレベーターガールではなく、エレベーターボーイ(時にオジさん)が居る点ですが、これには数回乗ると慣れる。タナベさんの話によると、「デパートがデリーにも出来た....しかもそこにはエレベーターなるものがある...」ということで、わざわざデパートを見に、そしてエレベーターに乗るために足を伸ばす人もいるらしい。

 あそうそう、デパートで買い物をしました。インドを、そしてデリーを温かいところと勝手に決めている部分があった。夜寒いのです。で、厚手のパジャマを買ったのですが、買って分かったことはまだサイズは揃っていないものがある、ということです。しかし、レジの女性はよく教育が出来ていましたよ。「あなたはここの会員か....」「入ったらどうだ...」と。

 レジのシステムは日本と全く同じです。こういうそのほかにもモールをいくつか見て回りましたが、近代化されている。日本でも見慣れた名前の店が多い。ドッカーズ、リーボック、マックなどなが。音楽ショップに寄ってみたが、内容はかなり日本に近い。DVDソフトもかなり揃っている。

 こうしたデパートやモールが出来る前、といってもつい最近までインドの人々、たとえ豊かな人々でも買い物をしていたのは、3〜4階建ての商店がこの字型になって道路沿いに出来ていて本当に小さな商店街で買い物をしていたというのです。日本やアメリカでもある真ん中に小さな駐車スペースのあるやつです。そこから一気にインドの人々の買い物の場所は、デパート(まだ数少ない)やモールになってきている。

 印象として言えるのは、インドが足早に大量消費社会に足を踏み入れている、ということです。彼らにとってのウィークデーだったからでしょうが、家庭の中年の主婦と思われる人が多くの場合娘さんを連れ立ってデパートやモールに来て日用品や絨毯などを一杯買って、買い物を大量に載せたまま手押し車に乗せ、駐車場の自分の車まで持って行っている。光景としては、埼玉のモールやニューヨークの郊外のそれと何ら変わらない。

 そうしたデパートやモールでの買い物の特徴は、正価販売ということです。値引き交渉する相手もいない。モノをカゴに入れレジに行くだけ。一方、伝統的というか、昔ながらの商店街もむろん残っている。そこでは、私もやりましたが、あるのは「値引き交渉」です。私は値引き交渉が大好きな人間で、東京の街の電気店でもよくやるのですが、インドでもやって楽しかった。

 それは置き、こうした小さい店が軒を並べ、通りかかるのすごい声がかかる風景は、中国の田舎にもある風景で、一方で懐かしいと思う。しかし、インド社会が豊かになるに従って、人々が買い物をする場所は急速に移るんでしょうね。

 タナベさんや、その後の夫のチャッタルジーさんから聞いたことや、私がもった印象で面白かったことを備忘のために記しておきます。

  1. インドのIT技術者の大部分はITTという全国に六つほどある工科大学の出身者である。ITTのフルネームは Indian Institute Of Technologyで、彼らの出身階級はカースト4階級の上から三番目(バラモン、クシャトリヤ、バイシャ)まで。最下級のシュードラがIT技術者になることはまずない。今の世界のどの国でも、比較的高い所得を得ているのはIT技術に通じたものたち。ということは、インド社会のモービリティーのなさが将来は問題になる可能性がある、ということか

  2. 今のデリーを一日車を使って市内を移動し続けて一番驚くのは、一カ所として工事をしていない主要道路はなかったということ。掘り返し、拡幅しようとしている。その工事の多いこと、年度末の日本の比ではない。ということはインドは中国と並んで「実に巨大なインフラ整備中の国」ということになる。何をしているかというと、道路では中央分離帯の設置とそこへの植物の植え付け。加えて、道路そのものの拡幅がいたるところで。まるで来年デリーでオリンピックがあるかのような喧噪である。

  3. しかしニューデリーの天候はいただけない。とにかく霧とスモッグで日中でも視界がはっきりしないのである。車についてはデリーのある州では数年前にディーゼルが使用禁止になってCNGと呼ばれる燃料が使われているが、それでもけたたましく走る車の出す排気ガスは凄まじく、加えての霧気味の気候が、ニューデリーの冬を重いものにしている。加えてこの霧故に、デリーを発着する飛行機の予定は極めて不安定である

  4. インドの人々の話を総合して言えるのは、バジパイという今のインドの首相は「中興の祖」だということだ。1990年代後半からの彼の時代になってインド経済のグローバライゼーションが始まり、それに伴って大きな経済発展が始まった。その時から世界の資本がインドにも集まりだし、それにともなって経済が活性化し、その活性化がさらに資本を国内に誘導する、という好循環が生まれた。加えて、IT関連でアメリカなどから職が大きく流入して、それがインド経済発展の原動力になっている。昨日も紹介した成長率を見れば、インド経済の発展ぶりは明確である

  5. 経済発展の中で、インド社会が今まで拒否していた事象に対する受容度をかなり変えてきたと思える部分がある。例えば女性の肌に対する許容度。日本で見るインド映画には、女性の肌はほとんど登場しない。しかしこちらに来て見るテレビには、平然とインド女性の水着姿、またかなりきわどいラブシーンを含めて、女性の肌の露出が見られる。「二年前には想像も付かなかったこと」なのだそうだ。飲酒もかなり平然と行われているようだ。つまりリジッドだったインドのシステムもかなり変わりつつある、ということだ
 3、4日はアグラやジャイプールなど、古いインドを見る予定です。

2004年01月02日

 (07:55)到着したのが元旦だったのが良かったのか、この日のインドの新聞はなかなか面白い。ホテルに着いて直ぐにビジネス・センターに行ってその日の英語新聞をもらってきたのです。一つは、「The Pioneer」で、これには「Happy New Year」(皆様に私からも)というインド政府からのメッセージがページ全面を使って載っている。面白いので全文掲載しますね。

You are now stronger and prouder with $100billion shining.

Our foreign exchange reserves have raced past the $100billion mark.We have never been more robst, healthier and radiant.

It's moment that makes every Indian stand proud and tall. From the days of dreaming self-reliance, we have traveled a long way.

It's a figure that inspires the world to applaud our resolve.From just being the world's second populated country, we have now become a major driver of the world economy.

It's a fact that brings a prosperous future closer to us. From a country that needed global aid, India's reserves now cover all outstandings, and even offer scope for financial support to the IMF.

It's a truth that underlines our consistent and rapid progress. From a timid economy and a weak rupee, we now have the fourth largest Forex reserves in the world, with a currency that is stronger than ever.

it's a resource tha lends stability and resilience. It's a beacon that imparts confidence and attracts more foreign investment. And, it allows you more Forex as you travel, easier loans to study, medical treatment abroad, and finance to set up business projects.

But above all, it is a sparkling sign that India is shining, and shining brighter than ever. So go ahead, gain from these good times, have a splendid new year, build your dreams by investing, building and creating. Spread the enthusiasm and make India stronger and shine even brighter.

 要するに「近くは1991年に外貨危機を経験した我が国だが、過去における、ただ人口が世界第二位の国ということだけが注目される惨めな(timid という単語は強烈ですね)存在から、1000億ドルという世界第四位の外貨準備を持つ国、世界経済を駆動する(driver)国になった。インドは今や光り輝いている。この輝きを2004年に繋げ、一段と強くなり、もっと輝こう」というのである。

 むろんこれは、今年4〜5月に総選挙を控えているアタル・ビハリ・バジパイ率いるインド人民党(BJP)の宣伝の臭いがするものだ。しかし、外貨準備が1000億ドルを超えた(私の記憶ではほぼ日本は6000、中国は4000、三位はドイツかな...)ことの嬉しさは良く伝わってくるし、インドの人々の高揚した気分も良く分かる。実際のところ、インドの新聞を読んでいると、「feel good」とか「feel nice」という単語が多い。なぜ彼らは高揚しているのか。

 インドにとって2003年はどういう年だったか、という分析を見るとそれも分からないではない。The Indian Expressの社説には、2003年を総括して「a year of relative quietude」とある。つまり「平穏な年だった」というのである。その理由は、「めざましい、凄まじい事件、事故は国境の外で起きた」というのだ。イラク戦争、フセイン拘束、SARS、コロンビア号の事故、そしてバムでの地震。知らなかったのだが、インドでは2002年までは大事件、惨事が毎年のように起きていたという。2002年のGujaraでの暴動、その前の年の大地震などなど。

 それらに比して2003年は「a period of consolidation and touchy-feely optimism」(touchy-feelyは「気恥ずかしくなるような」)だったと。どうconsolidate してなぜ気恥ずかしくなるような楽観論が生まれたのか。一つは経済。年末に2003年7〜9月期のGDP統計が発表になったらしく、それは8.4%という過去5年間で最高の伸びになった。主因は農業で、良いモンスーンに恵まれたから、という。インドのGDPの25%は農業が占めるから、この天候条件は大きかったと言うことでしょう。これはインドの労働力人口の三分の二を占める農民にとって喜ばしいことです。

 インド政府の見通しでは、今年度(インドの場合は4月始まりの3月終わりのようです)の同国成長率は6.5〜7.0%になる見通しという。前年度が4.3%だったことから考えると、大きな前進と言える。しかし農業が好調だったと言っても、7−9月の伸びは7.4%しかなかったと言われて、その他の部分は主にコンピューター関連などのサービス部門の伸びを反映したもの。

 産業やサービスの伸びを好感したのが、インドの株式市場だ。2003年にはSENSEX(BSE Sensitive Index)で見て72.9%も上がったという。これはアジアでもタイ(116.6)に次ぐ二位。ちなみにそれ以下は、パキスタン(65.5)、インドネシア(62.8)、中国(シンセン 45.5)、フィリピン(41.6)、香港(34.9)、台湾(32.3)、シンガポール(31.6)、スリランカ(30.3)、韓国(29.2)とくる。その次が日本で、24.4%の上昇。日本の下はマレーシア(22.8)、ニュージーランド(17.1)、オーストラリア(9.7)、そして中国でも上海市場の−7.6となる。インドの通貨であるルピーも、2003年一年間に対ドルで5.4%上昇したという。

 SENSEXの2003年の年末の数字は5838.96(2000年2月22日以来の高値)だったそうで、これは年間にして2461.68ポイントの上昇だという。日本の株が少々上がったと言って喜んでいても、世界は広いということでしょうか。で、2004年はどうなるのか。2日早朝現在では、

MUMBAI, JANUARY 1: Dalal Street is now waiting for that special occasion. The benchmark Sensex is just 85 points short of the landmark 6,000-point, three years after bulls rigged up stocks to that level in February 2000. It may also turn out to be a dangerous level, a balloon that is waiting to burst a la the 2000 bull run.

The magical figure could come in a day or two despite warnings from market regulator Sebi against the unbridled rally in stocks. The market made another scintillating gain on Thursday, the first day of trading in 2004, amid hopes that inflows from foreign funds will continue at the hectic pace witnessed in 2003 and the economy will grow at a faster rate.

 という記事があって、これで分かることは6000ポイントは目前で年初に付けるかもしれないが、この高騰と高値に対して懸念も上がっていることが分かる。外資の流入が主な株式相場の押し上げ要因になっているという。インドに投資するならこのバブルがはじけた後の方が良いかもしれないが、それにしても高い伸びだ。

 The Indian Expressは「Four Themes for the next 24x7x365」という社説の中で、その四つのテーマとして

  1. neihggourhood connectibity(近隣諸国との関わり)
  2. 来るべき総選挙
  3. グローバライゼーションと経済
  4. 疑惑やスキャンダル
 を挙げていた。これらについては、これから徐々に調べますが、第一のテーマについていうと、9.11後にアメリカとは関係が良くなった、ロシアとはソ連時代の暖かさが戻った、中国との関係も改善している、ドイツやフランスとの関係も良いというなかで、やはりパキスタンやバングラデシュとの関係をどうするか、どう connect していくのか、というのがインドにとっても大きな課題のようです。南アジアで共通通貨を持とうという動きもあるようですが、それがどのくらい具体化しているのかは分からない。

 まあ、インドの元旦の新聞から読めることは以上のようなことです。なおインドに関しては基礎資料は、ここなどにあります。

2004年01月01日

 (20:55)明けまして、おめでとうございます。日本は既に2日になっているようですが、デリーは1日の午後の8時55分です。どうやら3時間半の時差。シンガポールよりちょっと遠い感じですかね。でもあっという間に着いた。

 空港に到着して、ホテルからの迎えの人と落ち合って、車で空港からホテルまで送ってもらって手続きをして、部屋に落ち着いて、そして今インターネット・アクセスを終えたところ。で、FTPの状態を調べるためにもこの文章をアップしているというわけです。

 到着したらもう暗かったので、何がどうなっているのか分からないのですが、迎えに来たインド人が「インドは危ない、人が多い、ホテルの近くでも夜は出歩くな...」と警告の羅列。「あ、そう」ってなものです。しかし実際に、道には数多くの人が何を待っているのか立っている。車が止まると新聞売りの涙を流した少女が近づいてくる。空港の中はそうでもなかったのですが、外にはすごい数の人。

 何を飲めて、何を食べられるのか。しばらくは試行錯誤ですが、まあ2日の朝に日本から手配しておいた人と打ち合わせをして、どう行動するか決定する予定。空港からホテルに送ってくれたラビンデルさんはシーク教徒で、頭にターバンを巻いている。その中の髪の毛の長さは7メートルだと言っていた。確認していません。英語でしゃべったり、日本語で喋ったり。「俺に任せれば、インドの裏表も案内できる」と早速セールスが始まった。

 ホテルのインターネットの接続を確立するときに、技術者という名前の人だけで別々に5人来たのには驚いた。電源のコンセントのサイズをあわせに来た人、小生のPCをチェックしに来た人、電話線を持ってきた人、そして最後に無線LANを設定しに来た人。結局これはホテル内の無線LANとコンピューター内蔵のwireless lan を接続して使っている。

 このコーナーの読者の方々には、今年一年が良い年であるようにお祈りします。