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2012
09/07
Fri

2012年09月07日(金曜日) 消えた民の話

day by day
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(17:35)当面の中央アジア最後の日とあって、空港に出発する前のほぼ一日をホテルの中庭で遅い朝飯をしたり、街に出てカフェーで佇んだり、ショッピング・モールやデパートを覗いたり、お腹が空いたら現地の人達に混じって軽い昼飯を食べたりという時間を過ごしました。

大半のメンバーは山に行ってケーブルカーに乗るという最後の日程をこなしに行ったのですが、私と数人はホテルに滞在した。私はどこに行っても、「現地の空気を感じる、feelするのが大事だ」と思っている人間なので、滞在を選んだ。

本当はサマルカンドでそれをしたかったのです。古い街ですから。タシケントは1966年の地震で一回街が生まれ変わっている。しかし、妹がつい最近4ヶ月日本に行っていたというホテルのマネージャーと話し込んだり面白かった。日本のイメージは「地震と高層ビル」だそうで、やはり3.11が世界の人々に与えた影響は大きかったと思った。そう言えばサマルカンドでも「日本に行くのは地震があるから恐い」という母親がいた。娘は気にしない風情だったが。

街では美味しいコーヒーとアイスクリームを探したのですが、なかなかなかった。コーヒーを出す店をハシゴをしたので、出てくるコーヒーを何杯かちょこっと飲みながら街をや行き交う人々を見ながらいろいろ考えたのです。とりとめのないことを。

  1. こちらの人のお腹は、どうして日本人より高い確率で男女問わず膨れているのだろう
  2. この国の10年後はどうなっているのだろう。警察官が威張っているような今の政治体制は続いているのか
  3. サマルカンドの南の地域を中心にかつてはシルクロードを実質的に支配したと言われるソグド人はどこに行ってしまったのだろう
などなどです。肉付きについては、やっぱり良く食べるのだと思う、ウズベキスタン人は。見ていてそう思った。主食は常に肉で、その前に野菜をたっぷり、そしてお米と麺。やっぱり量だと思う。綺麗な女性も結構お腹にだけ肉が付いている。

経済格差という点では、まだまだ「酷い」というほどではないと思う。軽く見ただけで即断はできませんが。しかしその兆しはある。街の中心部では結構名前の通ったブランド店が出来つつある。人はあまり入っていないが。チムール広場とナボイ劇場の間などに。しかし田舎の暮らしは実に質素というか、土に塗れている。

ソグド人は前から知っていましたが、その存在の大きさを改めて感じました。言ってみれば「絶滅民族」です。イラン系の農耕民族だが、商売がとてもうまく、シルクロードの実質的覇者だった時期がある。紀元5世紀とかそれ以降。しかしこの地域のアラブ化の中でちりぢりになった。

逃げたり征服民族に同化したりで、言葉を失い、結局アイデンティティをなくした。つまり民族としては歴史に消えた。しかし中国ではそもそもソグド人を含めて西方の異民族を「胡人」と呼び、特にソグド人を「胡商」と言ったらしい。ソグド人の中国名は他に「安」とは「石」という名字に残っているという説がある。

今の中国のトップは胡錦濤さんなので、もしかしたら彼は西の民の末裔かも知れない。「石」という名字は日本にも中国にもある。そういえばタシケントは「石の町」という意味だ。「石さん」はもともとタシケントの人? サマルカンドは「道が交差する街」という意味だそうだ。日本の学者の中には、ソグド人は群馬県まで来た、という人がいるという。

でも来て本当に良かったと思う。中央アジアは今まで私にとって正直「曖昧模糊」の世界だった。どの国がどこにあるかもあまり定かでない。今回ウズベキスタンとタジキスタンの仲違いも知ったし、その上にはカザフスタンがあること、更にキルギスタンとトルクメニスタンがあることも知った。その下はイランだったりアフガニスタンだったり。

そういう意味では、面白い地域です。今夜の夜の便で北京に飛び、そこで乗り換えて土曜日の昼頃に成田に戻ります。写真をアップしなければ。写真は

  1. 朝のタシケントで撮ったチムール像から上がる朝陽。テムジンの像がモンゴルのどこに行ってもあるように、チムールの像はウズベキスタンのどこに行ってもある
  2. チムール像から伸びる広い道路の先に、芸術家が出している露天があった
  3. タシケントで志半ばでなくなられた日本人の方々の墓地


 

21:37
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