Essay

<2001年の中国-Cyberchat>

 去年、つまり2000年に行った中国は大連、青島、それに煙台でした。つまり東北部。2001年は中国の南の深部に攻め入り(?)ました。中国は広い。まだ西北部などいろいろ行くところがあるのですが、徐々にしか行けない。しかし、その間にも中国は着実に変わっているという印象でした。この中国訪問が毎年続いて、この近隣の国をずっと見続けられることが出来ればと思っています。

 今回も一緒に行ったのは全日本鍋物研究会とその周辺の方々です。総勢17人。ご夫妻の参加が増えたことが特徴でした。去年の東北部訪問より、今回の方が中国の懐の深さというか、そういうものが判ったように気がする。このコーナーは、毎日書いた day by day とややまとまった中国に関する文章からなっています。

2001年09月03日(月曜日)

 重慶に移動してきましたが、結構遠い。北京にしろ、大連にしろ今まで行った中国の都市は「近い」と感じたのに、重慶はさすがに遠い。というのも、上海で一度飛行機を乗り換えたからです。国際線からドメに。乗換の上海の空港では、子供の少年野球で一緒だった高円寺の中束(なかまる)さんとばったり。

 聞けば、同じ飛行機だった。衣料関係の仕事をしていて、中国でフリースなどを作っているらしいのです。年の半分は上海の生活という。「上海はここ2年で急速に都市化が進んだ。もう東京と変わらない感覚です....」と彼は言っていた。

 少し立ち話をした後、別れて私はドメのデパーチャーに。ちょっとややこしかったし、国内航空に乗るのにまた50元のタックスを取られたのには閉口しました。それにしても、上海から重慶に向かう上海航空の飛行機も超満員。日本から上海に来た時間と同じくらい(2時間半)の時間を上海→重慶で使った。

 それにしても、全く理解できない言葉を持つ人々(私も中国語は全く駄目)に周りを囲まれるというのも、なかなか良いものですな。上海→重慶で隣に座ったおばちゃんが、「時間は何時」というので、判らないながらも教えたりして面白かった。

 結局重慶に着いたのは、午後の8時過ぎ。高円寺から成田に着いたのは12時ですから、延々8時間+「時差の1時間」がかかったことになる。面白かったのは、上海から重慶に向かう飛行機は延々と太陽を追いかけて夕暮れの中を飛行すること。ずっと西に向かって飛びますから。
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  重慶の飛行場からホテルまではバスもありましたが、バスだと市内に着いてからがやっかいだと思ったので、事前にホテルに聞いていて料金もそれほどたいしたことはないことは確認済みだったので、タクシーを拾いましたが、これが結構恐ろしい。非常に小さい車で、走っていたらもう一人の男が乗り込んできた。どうも案内らしい。客は助手席に乗るのですが、その運転の危なっかしいこと。

 まったく言葉が通じない中国人の若い男性2人と私の約1時間のドライブと言うことです。簡単な英単語も通じない。日本の携帯電話を取り出して、ホテルの電話番号などを確認していたら、この二人が異常に興味を示した。彼らが持っていた携帯は、真っ黒で大きい。昔私も使っていたモトローラの色気のないやつ。えらく感心していましたな。「ポケットに入るじゅないか」というポーズ。それを見て、「ああ、こいつらだいじょうぶだ...」と。

 重慶は、英語がほとんど通じない。こちらは中国語が通じない。タクシーを雇うにしても文字を書いて移動する。ホテルに無事着いて、昨日着いているはずの先発隊は食事に行っているだろうからと、私は別行動。これまたホテルでタクシーを雇って、市内で途中で見た「台北石頭火鍋城」(6360-9200)に。ホテルの女性従業員(ほんのちょっと英語を理解)もよく行くというので、そこに。

 「石頭火鍋」という単語に反応してのですが、行ってみたら何のことはない四川鍋。鍋が右左に割れていて。つまり西新橋・趙揚の鍋です。しかし特徴は、大連の店のように中に入れるものがバイキングのように並んでいて、それを自分で選ぶこと。ビデオを回しましたから、機会があれば。

 夜着いて食事をしただけなんで、「街の様子」と言われてもよくわからない。ただし、昨年行った大連などと比べると、「開発途上」という雰囲気が街に溢れている。しかし、活気はある。夜遅くまで、結構な人が歩いていました。私もちょい散歩しましたが。街は所々繁華街化している。しかし、全体的には重苦しい雰囲気がする。

 難渋したのは「重慶」の発音。日本語方式で言っても通じない。英語で「CHONGQING」と書くのですが、現地の人間に判るように発音するのは難しい。大体、上海の空港で「CHONGQING」と行く先を示しても、判ってくれる人は少なかった。

 中国は略字が多くなっている。重慶も「重」はそのままですが、「慶」が大幅に簡略化されている。中が大だけなのです。実際のところ、中国で看板を見ても漢字とハングルが入り交じっているような印象で、何を言っているのか判るのは全体の5分の1くらいです。

2001年09月04日(火曜日)

 長江は、ちょっと強い言葉を使えば汚濁した河です。むろん日本の感覚の川ではなく大河ですが、こういう喩えが当たっているかもしれない。長い河ですから、場所によって違うでしょうが。つまり、長江とは台風の直後にまっ茶色になって流れも速くなり、水も攪拌された状態の、かついろいろなもの(木くずなどのゴミ)が流れてくる大きな河。

 一年中そうなのだそうです。まっ茶色で、常に何かに攪拌されたかのように河が流れている。何千年も前からこういう状態だったのでしょうか。この河を船で下り始めているのですが、汚濁しているのに不思議と河の臭いはしない。あとで書きますが、別の臭いがします。まあ、2日間くらいこの河とおつきあいです。

 同じグループの作家である水木さんが、参加者に出した宿題があったらしい。私は一日遅れの参加ですから、聞いていませんが。こういうことです。2年か3年前にこの長江で死んだ日本人が居た。どう考えても、それは自殺だったそうです。この茶色の流れの激しい河を見てふっと思ったのか、それとも日本を出るときに既にそのつもりだったのか。いずれにせよ、当然ながら死体は見つからなかった。それこそ「大河の一滴」になったのです。

 で出た宿題とは、この日本人の自殺と思われる死を題材に、ストーリーを考えるというものです。うーん、私はまだ考えていませんが。
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  話は少し戻ります。グループのメンバー全員と会えたのは、4日の朝でした。3日に辻、石田両嬢とはホテルの前で会いましたが。去年と同じく鍋研究会の皆さんが主。去年いらっしゃらなかったメンバーも増えて、総勢17名。ガイドの郭さんを入れて18人のグループ。

 短時間ですが、重慶に関する印象をと言えば文字通り「重」いということ。空気が重ければ、印象も重い。昨晩は気が付かなかったのですが、朝起きてみて感じたのは「臭う」。何のにおいかと思ったら、石炭を燃やしたときに出る臭いだそうで、その辺で大量に生産される硫黄分の多い石炭をいろいろなものに使っていることから生じているという。冬はもっと石炭の臭いが強いらしい。

 重慶は世界的にも有名なスモッグの都市ということは聞いていましたが、長江の船の上に乗って岸を見ると、確かにぼやけて良く見えない。霧とその他もろもろでかなり濃いスモッグになっている。乗った船は大きいのですが、それでもゆったりと右、左、上下に揺れる。船の中のホテルで、一階が船員(99人)の居室、2階がフロントと食堂、一部客室、3、4が客室、5階がプレールームでカラオケ、麻雀、社交ダンスなどなど。

 乗客は大部分が日本人で、それも歳を取った人が多い。しかし、ドイツ人のグループがいて、そのガイドとはしばらく話をしました。ドイツのいろいろなところから客を集めて来ているらしい。中国全体を訪れる旅行客の半分は日本人だそうだから、重慶でも日本人が多いのは当然でしょう。この船は、1999年に建造したと言っていたので新しいのですが、それでも国際電話はフロントに行かないと出来ないし、インターネットも理論的には出来るのですがすこぶる面倒そうなのでやめ。

 大きいと言っても船ですから、時に微妙に、時にやや感じるほどに揺れる。自分が酔っているのかと思うときが結構ある。中国のデカ牌を触ってみたくて、麻雀ルームがあったので希望者でほんの短時間4人組をしましたが、しばらくやったら自動に慣れている身としては、疲れてしまいましたな。
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  三峡ダムが完成すると、場所にもよりますがこの河の水位は175メートル上がるらしい。当然ながら水没する街がいっぱい出てくる。長江の沿岸にある鬼山の麓の街(豊都)も完全に水没。70000人の人々が住んでいたアパートやビル全部が水没。そのままにして魚礁にするのかと思ったら、爆破するのだそうです。

 その理由は、ビルをそのまま残せば船の航行に邪魔になるから、だそうです。住んでいる住人にはやりきれない気持ちでしょうね。彼らのためには既に住む場所が用意されているらしい。しかし、そこに移るのは嫌で、重慶とか上海に移り住む人も大勢いるのだそうだ。

 どこでしたっけ、大阪でしたか「思案橋」というのがあるのですが、無論本家の中国にもありました。鬼山に。橋が三つある。行きは真ん中の石橋を渡る。行きは夫婦だったら一緒に手を組んで渡るか、それとも一人一人で渡るかを選べる。男は左足から、女性は右足から。理想的には3歩で渡る。それが無理だったら奇数歩で。

 問題は帰りです。帰りの方向から見て真ん中の橋の左側に「大金持ち」になる橋。右に幸せになる橋。で、迷う、思案するわけです。どちらを選ぶべえ.......と。「思案橋」とはよく考えたものですな。

2001年09月05日(水曜日)

 長江のこの日の夜明けは、午前6時過ぎでした。たまたま目が早く覚めたので6時前から船の一番上のデッキに出て、一部始終を見たり、ビデオに撮ったり。なかなか雄大で良かった。といっても、晴れていないので「鮮明」というには遠い映像になりましたが。

 船は夜の間は河の真ん中に停泊していて、そのまま動き出した。ですから、徐々に両方の川岸の稜線が明確になってきて、その後に両岸(とってもかなり高い山というか崖になっているのですが)にある街の様子が形を持って見えてくる。

 船は午前5時半に汽笛とともに動き始めていましたから、その稜線や景色が変わっていくのを見ながら明るくなるのを待ったというわけです。この日は極少数のお客さんしか夜明けを見に起きてきておらずに、なかなか爽快でした。中に、ビデオをもって来ていた人が居たので、互いをビデオを代えて撮りあったりした。

 河の流れまで完全に見えてきて、もうこれ以上明るくならないという段階になったのは、午前6時45分過ぎですかね。朝に夜明けを完全に撮影することに成功したので、むろん一日を終わらせるために、陽の入りも撮りましたが。
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  この日のハイライトは、まずなんと言っても白帝城でしょうか。長江の岸からそそり立つような崖の上に立てられている城。李白の詩で有名です。日本でもよくNHKテレビなどがやるので見てはいた。本当に急峻な坂の上にある。長江の水位が普通の時で700段以上の階段があり、その階段を自分の足で上がるか、それが駄目そうだったら籠で上がる。

 17人のメンバーのうち、確か6人が籠を選び、11人は私を含めて歩きを選んだ。籠に乗ったことがなかったので迷いましたが、まあ他に機会はあるでしょう....ということで、700段の階段とはどんなものやろう...と。

 ガイドが脅すのです。歩くのは大変ですよ.....と。しかし、実際に歩いてみたらちょっと息は切れたが、結構直ぐ着いた。本当に急峻な階段で、籠の人の方が危なっかしい印象。籠は前と後ろの二人が担ぎます。見ていると登りよりも下りの方が危険そう。李白の歌があちこちに様々な書体が書かれていて、そのころから籠はあったのでしょうか。知りませんが。

 この籠担ぎ達の仕事も、あと数年です。水位が上がり始めたら、わずか200段かそこらで上(白帝城)に着いてしまう。200段でも足の悪い人が白帝城を見ようと思ったら乗るかもしれないが、あれだけの人数はいらない。
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  次は三峡でしょうか。上流から瞿塘峡、巫峡、西陵峡とあって、最初と最後だけは熱心に見ました。どうも巫峡は知らないうちに過ぎてしまった。要するに狭くなっている。河がです。しかしただ狭くなっているのではなく、両方の岸壁が普通ではなく急峻というか、そそり立っているのです。

 あまりに狭いので、船は両面通行が出来ない。時間帯で分けているらしい。上り、下りで。うまくその時間に行かないと、長く待たされる。われわれもかなり待ちました。動き出すと、その狭さよりも河の両岸の景観に驚かされる。垂直に岩が切り立っているのです。

 よくここに河が出来たなと思う。自然が徐々に掘り下げていったのでしょうが。瞿塘峡が一番印象残った。最初だったし、昼間で一番良く見えましたから。西陵峡は夕暮れであまり良く見えなかった。

 これもあれも、三峡ダムが完成すると景観は一変するのです。急峻な崖なんてものはかなり水没する。中国では珍しくこのダムに反対が多かったのは、李白の時代から多くの詩作の舞台になってきた景観を失う事への中国の人々の反対が大きかったと言うことでしょう。確かに洪水は大問題だし、発電も、灌漑もしたい。しかし、古代から人々が愛してきた景観が変わり、三峡下りという観光業さえ危うくなると言う環境では、もし日本だったら大問題になったでしょうな。

 この旅を企画してくれた今泉さんなどと、2009年にダムが完成した後に、使用前、使用後でもう一度同じところを見たいというような話をしました。まあ、かなり変わっているでしょうね。
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  最後の見所は、神農渓でしょうか。少数民族の土家族(どかぞく)が住む峡谷につながる風光明媚な渓谷。やはり河を移動するのですが、大きな船は入れなくて、土家族の壮健な男子5人(前3人、後ろ2人)が漕ぎ、そして舵を取る土船に分譲して乗る。

 ここも凄いところです。土家族は歌が好きだそうで、2曲ぐらいうたってくれた。見た目には漢民族と変わらない。本当は土家族の住んでいる村に行ってみたかったのですが、「もうちょっとで見れる」というところでU-ターン。

 しかしこの渓谷も観光に使われだしたのは1990年代に入ってからで、それまではあまりに急峻な崖でいろいろ落ちてきて危ないと言うことで観光も禁止されていたという。また来たいところです。夜は船の旅の最後と言うことで、さよならパーティーが開催された。ちゃんと芸を用意してきている日本人の団体がいたのにはびっくりしましたな。

2001年09月06日(木曜日)

 この日のハイライトは、早朝、午前6時30分前後に約15分をかけて通過した三峡ダムの工事現場です。どう進められているかというと、1997年に水を迂回させるための川幅35メートルの人工の川が作られた。しかしこの川はダムの完成と同時に埋められる。乗った船は、人造河川を通過、工事現場を見学するという形でした。

 ものすごい数のクレーンが林立している。ほぼ24時間体制で動かしているのだそうです。日本からも専門家が何人か来ていると言っていた。ただし日本は発電機の入札では失敗したらしい。ドイツとアメリカの機械が来ていて、ドイツは8機だと言っていたと思う。

 完成すると、全中国の発電量の8%を生産することになるし、ダムによって出来る湖は中国最大の自然湖(なんとかと言ってました)より大きくなると言う。ダム建設の目的は三つです。一つは、長江、下流の揚子江での水害防止。つまり治水です。第二は、発電。これは上記の通りで、期待は大きい。第三は灌漑で黄河と結ぼうという計画もあるらしい。90年代の半ばにも大きな水害があったらしい。狙いはナイスですが、下に掲載するエンカルタが書かれたときでも既に強い反対があったし、今でも快く思っていない人が多いと推測できる。

 面白かったのはガイドが挙げたダム建設のデメリットの五つ。順番に言うと彼はこう言った。

  1. ダム建設による天災発生の可能性。例えば、水位が変わることによって山が崩れ落ちるとか。彼は「地震」と言う言葉を使っていましたが、まあ全部まとめてダムを造ることによって逆に起きる災害ということです
  2. 次に、「ダムは格好のミサイルの攻撃目標」になるという国防上の指摘。攻撃されてダムが決壊すれば、下流に住む何千萬人の人間が逃げ場を失うことになる、とガイドは説明
  3. いろいろな遺跡や歴史的建造物が埋没する、それをどうするか(これは下のエンカルタの記述でも明かです)
  4. 上流の住民を移住させねばならないコスト(これは既にかなり進んでいる印象。河の175メートル上に不釣り合いな新しい集合住宅、アパートが行列を作って建設されていた)
  5. 流れてくる土の処理をどうするか
  実は最後の問題が一番重要なのではないかと思う。政府サイドは流れてくる土砂を逃がす方法は検討したと言っているらしい。しかし、河の色を見てもものすごい量の土砂が流れてくることは容易に想像できる。それを本当にうまく逃がせて、ダムを当初予定した通りの価値あるものとすることができるかどうか。

 以下は、恐らく1990年頃に書かれたと思われるエンカルタの三峡ダムに関する記述です。この文章によれば、三峡ダムは最初に考えたのは孫文だと言うから、構想としては古い。全体主義国家だったから反対は無かったのかと思ったら、決める段階でも相当反対が強かったことが判る。

三峡ダム さんきょうダム 三峡は、中国の西陵峡、巫峡、瞿塘峡の3つの峡谷を総称したもので、長江(揚子江)中流域の観光地として有名な場所である。中国第1位(世界3位)の大河・長江は、中国を東西につらぬく大河だが、その上流、湖北省宜昌市の西北約40kmの三斗坪村に建設中のダム。

 治水、発電、灌漑などが目的で、完成は2009年を予定している。そのほか、大型船の航行を可能にして、長江を輸送路としても利用していくことになっている。計画どおりの水路ができると、1万トン程度の船舶が重慶市まで航行できるといわれる。

 長江は、中国の歴史の中でも、たびたび大きな洪水をひきおこしてきた。その水をコントロールして、農業生産を増加させ、工業開発も同時にすすめようとする計画案は、古くは、孫文が1919年に発想したものだといわれる。国民党政府時代には、アメリカの技術コンサルタントが提出した計画で、設計に着手する直前までいった。

 革命後は、1950年代に周恩来が建設計画を検討し、59年に策定された「長江流域総合利用計画」の最重要計画とされた。70年代末から本格的な建設に着手したが、国内での反対論も多く、建設の決定は中断したままになっていた。

 ダムは長さ1983m、高さ185mで、完成しているダムでは世界第1位といわれるイタイプ・ダム(ブラジル)のおよそ2倍のコンクリートをつかう計算になる。完成した後のダム湖は、長さ約600km、総貯水量は393億m3で、水力発電は出力70万kWの発電機を26基、合計1820万kWの発電をおこなう予定。このうち14基は海外から調達し、ほかは外国のメーカーから技術を導入して、中国国内で生産する予定になっている。

 1991年夏に長江流域に大きな被害をもたらした大洪水があり、92年の全国人民代表大会(全人代)では、建設案が採決された。しかし、大会出席者の約1/3が反対または棄権に票を投じた。全人代で、これだけ多くの反対票があるのは、当時としては異例で、強い反対意見の存在も明らかになった。95年12月に本格着工となった。

 水没予定地域では、住民約180万人が退去しなければならない。流域には、ヘラチョウザメや揚子江カワイルカ(→ イルカ)といった、世界的に貴重な水生動物が生息しているが、かなりの種が絶滅する可能性がある。また、長江がはこぶ大量の土砂が堆積(たいせき)して、短期間のうちにダムが機能しなくなる危険性も指摘される。さらに、巨大なダムは、反中国的なテロ活動の標的になる危険がある、といった反対意見も国内にある。三峡地区は、古代中国楚の愛国詩人である屈原の故郷に近く、渓谷の後方に山がつらなる奇観は、白居易もたたえたみごとなものであるが、ダムが完成すると、景観は大きく変化する。

 中国の調査では、ダムの建設によって水没などの影響をうける古墓、遺跡、古代の建築物などの文化財は、湖北、四川両省に少なくとも600カ所、国家や省の重点保護文物が6カ所もある。その中には李白の詩文に、その美観をたたえられた白帝城や、長江の川底の自然石に、詩文や魚の絵などを彫刻した「白鶴梁題刻」、三国志の英雄張飛が水軍を訓練したといわれる「練兵台」や張飛廟(びょう)などもある。可能なものは移設する予定になっているが、かなりの文化財がうしなわれる危険ものこる。

 日本はすでに1985年に日中経済協会が「協力委員会」を設置して、政府も資金協力の検討を約束し、中国側からの資金要請に対応する体制がつくられている。96年末とみられる水力発電設備の国際入札にむけて、日本の重電・重機械メーカーと大手商社が連合して、応札する構えだが、ヨーロッパのABBなどの企業連合も活発な受注活動を展開している。また、内陸部への船舶航行については、96年中にも、日中共同で海運会社を設立する方向で協議されている。三峡ダム建設は、水力発電設備だけでも1000億元、総工費は、2340億元(1元約12円として、2兆8000億円余り)と巨大な額になる。

2001年09月07日(金曜日)

 三峡ダムを通過したのは6日の早朝で、その後は宣昌(ぎしょう)で下船し、三国時代の古戦場の後などを見学。今度は陸路で武漢に向かったのですが、総じて言えることは中国の歴史の古さです。物語は大袈裟にしてあるのでしょうが、それにしても「あのときはこうだった」「ここでどうした」と史実が山ほど残っている。

 三国時代は紀元220年から280年ぐらいまでを言うのですが、まだ日本では神が入り交じった歴史しかないころです。その時にこの国では、どこで誰が戦ったとか、ちゃんと歴史に残っている。

三国時代 さんごくじだい 後漢滅亡後の220~280年に、中国には、魏・呉・蜀の3国が分立したが、この時代を三国時代とよぶ。

 184年におきた黄巾の乱は、すでにおとろえていた後漢王朝の支配力をまったくうしなわせ、以後、私兵をもつ豪族が、各地で抗争をくりかえした。その中で、黄巾討伐軍の将のひとりだった曹操が頭角をあらわしてしだいに勢力を拡大、本拠地である(ぎょう)に献帝をむかえ、3世紀初めには華北東半の諸勢力を平定した。

 その後曹操は中国の統一をめざして、南方へ出兵したが、208年の赤壁の戦で孫権・劉備の連合軍に敗北し、その計画はならなかったが、215年には漢中を制して、事実上、華北の支配者となった。いっぽう、劉備は益州(現、四川省)を攻略して領域とし、独立した勢力となった。すでに孫権は長江下流域を領しており、ここに中国は曹操・孫権・劉備に3分された。

 216年に曹操は魏王となったが、彼はあくまで漢の臣下という立場をとりつづけ、また孫権と劉備も同じように漢の臣下と称したため、漢朝は形式的に存続した。しかし、220年に曹操が死去すると、子の曹丕(そうひ)は献帝に帝位をゆずらせて文帝となって、魏王朝をひらいた。前漢景帝の子孫を名のる劉備はこれに対抗し、221年に漢を再興するとして帝位につき、蜀漢、いわゆる蜀を建国、さらに孫権は一時魏に臣下の形をとって呉王となったが、229年に彼もまた即位して皇帝を名のった。

 こうしてしばらくは3国が鼎立(ていりつ)したが、234年に蜀の宰相、諸葛孔明が亡くなると、魏の圧力をささえきれなくなり、263年に首都成都が陥落し、蜀は滅亡した。その後、華北の魏と江南の呉が対立する時代がつづいたが、265年、弱体化していた魏では、権臣の司馬炎が帝位について晋王朝をひらき、魏は滅亡、呉も孫権の死後は内部抗争によって国力がおとろえ、280年に、首都建業(現、南京)が晋軍の攻撃によって陥落し、三国時代はここに終結した。

  ということらしいのですが、私たちが見たのは彼らが跳梁跋扈した時代の跡ということです。史跡や遺跡がいっぱいある。まあ私には諸葛孔明のように忠誠を尽くしたということだけで歴史に名を残している人を中国人が尊敬しているのが理解できなかったのですが。で、中国人に聞いたのです。何で諸葛孔明のような人が尊敬を集めるのかと。そしたら、その中国人の答えは「戦略家として頭がよい」「心も尊敬できる」と。
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  でこの日のハイライトは、私の忘れ物でした。なんと船のホテルを朝下船して、さんざん移動し、もうその日も終わりでもう少しで武漢に着くと言うときに船のホテルのセーフにパスポートを忘れたことを思い出した。船も下りを続ければ武漢に近づくはずなのですが、ガイドの郭さんに調べてもらったら沙洲というところで下りをやめて、今度は三峡上りになると言うことが判った。次の停泊地は、三峡ダムそのもの。

 でこうしました。夕食は皆と一緒に食べる。その後ホテルのタクシーを雇って4時間を飛ばして宣昌に戻って、そこのホテルにチェックインする。その上で、船の翌日の停泊が午前10時から11時の間なので、その間にその停泊地に行く。結構長いのです。中国の高速道路は揺れる。また揺られるのは大変だと思いましたが、まあタクシーの運転手とガイドの簡さん(帯同するガイドとは別に、現地ガイドが付きます)の中国人二人と小生でまた珍道中も良い....と。セーフのカギを持ってきてしまったので、私が行くしかない。

 武漢を出たのは午後の10時頃。高速道路をずっと走ったのですが、驚いたのは中国も車社会になったというかガソリンスタンドは開いているし、ドライブインもある。むろん数少ないのですが。食事はまずいのですが、それでもコーラや知っている食物は売っているし、その他のものも食べられそう。

 宣昌に着いたのは午前1時30分くらいでした。それからインターネットをしようと思ったが駄目。しかし、翌朝のホテルから三峡までの車での旅は、凄い峡谷の間を上がったり、下がったりでスリル満点の旅でした。まあ、多くの日本人が三峡ダムを見ている、三峡の景観を楽しんでいるのでしょうが、山道を通過して見に行ったのは(?)私くらいでしょう。

 助かったのは、完全に中国が「携帯社会」になっていたことでした。ほぼどこに行っても、電話が通じる。私は中国語を話せませんが、ガイドの簡さんが全て連絡してくれて非常に助かった。

 北斗号が停泊予定地に接近したときに、ちょうど私たちが乗ったタクシーが停泊地に接近した時。なんという正確な。北斗号のホテルの船長が待っていてくれたし、二日もいましたから、船員も覚えてくれていた。再び北斗号の中に入って面白かったのは、三峡上りのお客は西欧人が多い。日本人は「三峡下り」が有名な中で、「下り」を好み、西欧人は三国志もしらないから、三峡の上ってくるのかもしれない。

 パスポート事件は、まあ私にとって「オプショナル・ツアー」のようなものでした。武漢→宜昌、宜昌→三峡ダム、その逆と全てタクシーを雇って移動しましたが、日本の感覚からすれば決して高くはない。金曜日の午後には武漢の観光をしていた一行に短時間ですが合流。

2001年09月08日(土曜日)

 リユニオンしたのも短時間で、金曜日の夕方からグループを離れて一人で武漢から上海に移り、上海には約20時間近くいました。ホテルで高木君と長谷川君が待っていてくれて、そのまま軽く食事をして、中国経済や上海に進出してきている日本企業の動向などに関して話をした。

 携帯電話関連の動きが早いようです。それは中国政府の部品の中国国内調達比率の引き上げ(50%程度への)方針を背景とするもの。部品調達比率が低いメーカーは、周辺の部品メーカーの中国進出を促さざるを得なくなった。従って、日本を含めて各国の企業の動きは活発なようです。

 上海の街の様子を見ても活気はあるのですが、中国経済そのものは鈍化の兆しを見せているという。今年下半期の中国の輸出はかなり落ちるだろう、との見方が強いらしい。1ー6月はまだ景気は良かったようです。欧州がそうであったように、アメリカの景気悪化の影響は、他のアジア諸国、日本などを通じて中国にも影響が出てきている。

 少し話した後、有名なバンドと呼ばれる一帯の夜景を見に行きましたが、確かに綺麗だった。ビデオをホテルに忘れたのが残念でしたが。普通は夜10時半までライトアップされているという。しかし今週は「観光週間」とかで、夜の11時まで。横浜正金銀行、香港上海銀行などの金融機関の上海支店(といっても立派な)が並ぶ。立派な建物で、「文革中もよく壊されなかったものだ...」と。
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  20時間しかいなくても結構時間はあるもので、9日の午前中に頃合いを見計らって「上海老街」(ローチェ、旧市街)に行きました。別に昔からあったものではなく、市が昔の雰囲気を出そうとして意図的に作ったもの。土産物店街です。しかし、それなりきの雰囲気はあって、ビデオ撮影の対象としてはなかなか良かった。

 老街を歩いていて気づいたのは、新旧がかなり旨く混ざり合っている点。スターバックスの店もあったのですが、うまく街にはまっていた。この街の建設を最初から見ていた高木君によると、シンガポールが街に深みを持たせるために古い市街を立て直したように、上海も旧市街を改めて作った意味合いがあるという。しかし、雰囲気もあって、おみやげ物店が多い点で、観光客には便利です。
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  出発が午後3時過ぎなので高木君と空港の近くの楼外楼(1848年から営業している老舗らしい 6262-6789)で食事をしながらいろいろ話していたら、面白かった。またまた中国の人たちに諸葛孔明がなぜ受けるのか、という話をしたら、彼の解説が面白かった。こういうのです。

 つまり、中国人は3年間つきあったから判るが、基本的には中華思想、自分中心の思想、考え方の持ち主である。しかし、そうした中で諸葛孔明は徹底して自分を捨てて国の為、君の為に尽くした。中国の連中はそこに、つまり自分にないものに憧れをもって尊敬しているのではないか、と。

 諸葛孔明は日本で言えば黒田官兵衛です。しかし、日本では織田信長だったり、太閤秀吉が人気がある。日本人は会社人間を見てもそうですが、最初から滅私の部分がある(異論があるかもしれませんね)。だから、それを突き破った人間に憧れるが、逆に中国では皆がそうだから逆に滅私に走った諸葛孔明に人気があると。ははは、この議論は面白い。
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  結局、成田に着いたのは午後の7時過ぎ。月曜日に重慶のホテルで24.5でインターネットをして以来、全くネットはしませんでした。メールも全部はチェックできず。ネットに繋がったホテルもあったのです、なにせスピードが遅すぎて役に立たない。遅いネットを扱ってみると、ISDNでもADSLでも日本にいる我々がいかに速いネットを当然として扱っているかが判る。また判ったのは、重い添付資料が多いメールが多いと言うこと。開けたらなんと300通近いメールが貯まっていた。

 改めて思ったのは、成田エクスプレスの中でこのメールを全部 i mode でチェックできたのには驚きました。添付資料は最初から読み込まない。個人の連絡用としてはそれで十分なんです。ニュースもチェックできる。優れたシステムです。

以下の文章は2001年09月10日にnews and analysis 用です。中国訪問のまとめの文章となっています

《 China as a part of world economy 》
  9月8日に上海のホテルで手にした「CHINA DAILY」の別刷り特集には、「APEC TODAY」(今日APEC)と大きく印刷してありました。そして、その一連の記事の中にはAPECそのものに関しては「Avoiding global economic slide」(グローバルな景気後退の回避)という見出しが、また中国の世界経済に占める位置に関する海外諸国の懸念に対しては、「'China threat'theory groundless」(根拠ない中国脅威論)という記事がありました。

 この二つの記事の見出しには、今の世界経済が直面している二つの大きな問題が凝縮されている。先週の世界的な株安は、世界経済の同時不況への懸念の強まりを背景とするもの。当然ながらAPECはこの「slide」(景気の悪化)を回避することを討議した。これは先週末にアメリカの雇用統計が大きく悪化して、ニューヨークの株価が大幅に下げたことから一段と現実味を帯びた。

 こうした世界的景気後退の中で囁かれ始めたのが、「中国脅威論」。世界的なデフレの源になり、輸出で他の諸国の競争力を削いでいる、という見方(懸念)。この懸念は、日本にもアメリカにも、そしてアジア諸国にも台頭しつつある。CHINA DAILY の「'China threat'theory groundless」という記事は、こうした懸念への中国サイドの反論である。筆者は先週一週間、重慶、宜昌、武漢そして上海と、中国の安い労働力の供給基地にある都市(重慶など)から、この国ではもっとも先進的な街である上海までを急ぎ足ながら見る機会がありましたので、今回のレポートはその話を中心にします。

 体験論に入る前に、「中国脅威論」に対するCHINA DAILY の反論は以下の通りです。

  1. 世界的な経済のグローバライゼーション加速の中で、中国は海外諸国の製品と投資にとって安定した、そして拡大を続ける市場となった。これは、アジア地区全体の発展と繁栄に寄与している
  2. 過去20年間に、中国は年間平均で8.3%の成長を達成し、中国の対外貿易は規模で22倍に増えた。中国の対外貿易は、今や世界第9位に位置する。2000年には、中国の貿易額は4743億ドルで、これは1980年の66億ドルから急増といえる。昨年の中国の輸入は2251億ドルに達し、この輸入の36%はアジア諸国からだった
  3. 過去20年間に中国とアメリカの貿易量は毎年18%づつ増加した。アメリカと他のアジア諸国は、中国との貿易で大きな利益を受けている。エネルギー、運輸、通信、環境保護などの分野で、中国は諸外国の企業に大きな投資機会を与えている
  4. 中国は一貫して国際紛争の解決手段としては武器や威嚇の使用に反対してきたし、1997年のアジア通貨危機の際には元の切り下げを行わずに近隣諸国の危機脱出を助け、時宜を得た援助を行って責任ある国家であることを立証してきた
  5. 「中国脅威論」、特にアメリカの一部の政治家などが好んで口にする脅威論は、根拠のないものであり、興隆する中国は他の諸国にとって何ら脅威ではない
  この記事のポイントは、中国は輸入を増やしている、1997年のアジア通貨危機に対しても「責任ある行動」を取ったというものです。「責任ある国」だから、脅威ではないという主張です。今週はたまたま中国のWTO加盟を巡る会議も開催されるが、これに関連して8日の上海の新聞には米商工会議所の会頭の言葉として、「(中国がWTOに加盟し世界市場に参加することに関連して)我々はまるで出走直前の競走馬のように興奮している」という発言が紹介されていた。

 確かにそういう面はあって、例えば長江の名所である三峡の一つ西陵峡の近くにある三峡ダム(2009年に完成予定)の建設現場を見たのですが、そこで活躍していた建設機械、使われる発電機などは海外製品が多かった。中国では内陸部での鉄道建設など今後も大きなプロジェクトが続く。こうしたプロジェクトは、海外の大手企業にとって大きなビジネスチャンスであることは間違いない。あとで触れますが、携帯電話など民生品の分野でも大きく伸びている分野もある。中国で売られている携帯電話は、モトローラ、シーメンス、ノキアなど大部分が海外諸国製です(日本の会社のシェアはごくわずか)。携帯電話がそうなら、他の民生品でも中国が大きな輸入国になる可能性はある。

《 pool of cheap labor 》
しかし、日本の日曜日の日経新聞が報じているとおり、8日に蘇州で始まったAPECの財務相会合では、根強い「中国脅威論」が聞かれたようです。

 APECの会合そのものは、今年春からの国際経済会議(サミットも含めて)がそうであるように、お題目(構造改革、金融緩和の進展、アメリカ経済の復活など)だけを唱えるあまり意味のないもの。日本の構造改革の進展、アメリカの景気リバウンドへの期待が中身で、このレポートが何回も指摘している通り、そのようなお題目の復唱だけでは世界経済の回復には役立たず、結果的に世界経済の回復にはかなりの時間がかからざるをえないと予想できるものです。

 筆者が興味を持ったのは、第一に日本のデフレの背景ともなっている中国の安い賃金が今どうなっているのか。なぜなら、「デフレの震源地」と見られる中国の強い競争力にとって最大の強味となっているのは、安い賃金だからです。第二は、中国が強調し始めている「輸入をする国としての中国」の現状と、今後の展望です。この二つが分ければ、世界経済の今後の姿の描写もかなり違ってくる。

 実は、中国には去年も行きました。去年の場合は大連、青島、煙台など東北部。今回はかなり内陸部に入った重慶などと、中国で先端を行く上海。中国は広い、実は多様な国で地方によってかなり賃金なども違うのでしょう。しかし、去年聞いた話と、今年聞いた話はほぼ同じでした。

 宜昌のガイドである簡さん(大卒、サッカーばかりしていたと言っていた)の話によると、最近の中国では大卒の普通の月給は600元、24才の会社の寮に入っている彼の給料は800元だというのです。1元は15円ですから、大卒の初任給は9000円、簡さんの給料は12000円となる。これは14~5万円行っている日本の大卒新卒給料の15分の一以下です。確かに安い。これは大きな都市の大卒の話です。

 対して、依然として中国国民の大部分を占める農村部の農家の収入はもっと少ない。大都市近郊の農家だと年収が1万元に行くのも珍しくないのだが、田舎に行くと年収が300元とかいう家もあるらしい。300元と言えば、5000円にも満たない。物々交換経済だから生きていけるのでしょうが、それにしても依然として中国が低賃金国であることは間違いない。

 ユニクロを初めとする日本の企業、それに世界中の企業にとってこの低賃金は明らかに魅力です。これも重慶のガイドが言っていましたが、極度に低い年収の中国の民は、中国の中でも大移動を繰り返している。重慶には毎年農閑期になると30万人もの近郊の農家の人々が「担ぎ屋」として働きに来て、その数は30万人に達するというのです。幅1メートルくらいの竹の棒を持って、お客の依頼に基づいて各種の荷物を運ぶ。荷物の種類、距離によって違いがあるが、大体一回の仕事(荷物担ぎ)から得られる収入は2元が標準だというのです。つまり、30円です。それでも、農村にいるより現金収入があるから稼ぎに都市に出てきているということでしょう。この手の働き手は、億の単位で居る。

 そういう意味では、中国の安い労働力のプールは巨大です。日曜日にテレビを見ていたらある評論家が「中国は年々大きく経済成長していても、労働賃金が上がらない」といった話をしていた。確かにそういう面はある。中国国民全体の賃金水準が上がってくるには時間がかかるでしょう。それは確かです。年8%も成長しているのですが、それでも中国の労働賃金の上がり方は少ない。

 しかし、中国の人たちが豊かになっていないかというとそれは明らかに違うように思う。例えば、私が中国に行っている間に発表されたようですが、中国の携帯電話普及台数は1億2000万台と、アメリカを抜いて世界一になったらしい。人口比では少なくても、数から言えば世界一の「携帯大国」に中国がなったということは、なかなか面白い現象です。

 日本と同じように、携帯電話の価格は中国でもかなり変動している。しかし、携帯に関しては「依然として高い」と中国人達も言っている。数年前まで一台1000元はしたそうです。つまり、1万5000円。まあ国際価格でしょう。しかし、大新卒が14万円もらっている国の1万5000円と9000円が初任給の中国の大卒新卒にとっての1万5000円は意味合いが違う。本来だったら、決死の覚悟での買い物と言うことです。

 しかもどうもそうでもないらしい。驚いたのは、中国の人たちが携帯を使うことをそれほど躊躇している気配がないと言うこと。つまり、電話代を普通の支出として受け入れていると言うことです。私は5日間中国にいましたが、本当に周りは携帯電話を普通に使う中国の人たちが溢れていた。

 これが何を意味するのか。上海に駐在している高木君の解説が面白かった。つまりこうです。中国の人たちは、公式統計とは別に様々な形で所得を得ているのではないか....と。上海で土曜日の昼に彼と結構良いレストランで食事をした。二人で確か350元でした。しかし、そのレストランの顧客は大部分が中国人で子供を何人もつれてきている連中もいた。つまり、彼らの消費力は公式統計が示す数字以上にどうやら高いのです。彼らはレストランの中でも大きな声で携帯を使っていた。

 携帯電話だけでも国民10人に一人に行き渡り、それをバシバシ使う国民というのは、例え10分の一であろうと「豊かな消費者を抱えた国」と言えるでしょう。中国が主張するように、「輸入大国としての中国」の素地は徐々に出来てきているという感じはする。繰り返しになりますが、携帯電話がこれだけ伸びると言うことは、他の家電製品などにしても、中国が大きな市場になる可能性は大きいということです。「デフレの震源地」というだけではなく、確かに中国が先進国の企業にとって「競馬を待つ競走馬」を自覚せざるを得ない状況はある。

 高速道路網も中国はかなり整備が進んでいる印象です。今回はいろいろな事情もあって、各地の都市でタクシーをかなり使った。二日連続で4時間近く借り切って高速道路を走ったりしたのですが、全運賃(チップ、高速道路代を含めて)が800元とかで安いのです。「車社会」とは言えない。私が乗っている車の前後に一台も車がいなかったことがしばしばあった。主要都市間の高速の整備はかなり進んでいる。片道2車線の立派な道路です。道路が整備されてきたと言うことは、いつか中国も「車社会」になるでしょう。

 余談ですが中国の道路で面白いのは、携帯電話をしながらフォルクスワーゲンを運転している連中も結構いるのです。その横を昔の日本で言えばミゼットのような三輪車で干し草のようなものを山盛りにしてゆっくり運転している農家の人もいる、というコントラスト。これは次の話に繋がります。

《 big contrast 》
  では中国の対外収支が赤字になったり、中国全土の労働者の賃金が直ぐに上がり始めるかと言えば、それはかなり時間がかかると予想することが出来る。とにかく中国は「驚くほどの対象性、コントラスト」を持つ国なのです。本音としての資本主義国として突出している部分と、恐ろしいほどの封建制・後進性が同居している、という意味です。これが解消するには相当時間がかかる。

 突き抜けていると言えば、本当に驚いたのは上海でカラオケに行ったときです。女性のいるカラオケで、まあ日本で言えば銀座のバーでカラオケをする印象。しかし、顔見せがあるのです。その時に空いている女の子が10人でも並んで、客の前に立つ。選んでくれ...というわけです。選ばれると、その日は客から200元(約3000円)のチップがもらえ、それが彼女らの収入になると言うシステム。

 では選ばれなかったらどうなるか。店からは一切のギャランティーがない。逆に洋服の支給代を取られる。ということは、なんとか選ばれないといけないし、一度付いた客には気に入ってもらわねばならない、ということです。基本的には客の隣で一緒に歌を歌う程度のことしかしないのですが、一定のノルマがあって、指名が一定期間に一定回数にいかないとクビになるらしい。人気のある女の子だったら、例えば一晩300元稼いで20日働けば6000元。年間では100万円以上。中国では他の仕事などばからしくやっていられない収入がある。人権もへったくりもない超資本主義的なシステムです。

 著しい後進性や暴力性も明らかです。今回行った中国の各都市ではタクシーを極めて頻繁に、しかもかなり長距離利用したことは既に述べましたが、どの都市でもタクシーに乗ると分かるのですが、ドライバーのプロテクト措置が大げさに行われている。効果の程は怪しいのですが。上海では、運転手そのものを厚いプラスチックボードが覆っていて、わずかにお金のやりとりが出来る程度の空白しかない。奇妙なのは、助手席と運転席の間も仕切られているのです。

 武漢や宜昌のタクシーは、運転席、助手席が一帯となって後ろの席と隔てられているという形。その間に何があるかというと、鉄格子なのです。一見して治安の悪さが判る。私は世界各地に行きましたが、これだけタクシーの運転手を徹底して守らざるを得ない状況は、1980年代のアメリカしか記憶にない。なぜか。それはいろいろな人が解説してくれましたが、ヤクザのような連中を含めた不逞の輩の増大です。お金が第一の社会で、建前とは別に凄い社会格差がある。一攫千金を思い描いたら、身近なお金を持っている人を狙う、というのが流行っているからでしょう。

 タクシーの運転手も命がけと言うことです。しかし、運転手の偽物も多いらしくて、なぜ判ったかというと乗って暫くするとどの運転手も頼みもしないのに「このホテルから証明書をもらった運転手だ」とか、「もう自分は経験が何年もあって、表彰もされているとか」自己証明を行いたがること。目の前に証明書があっても、改めてそれをやる。

 後進性と言っていいのかもっと驚いたのは、今でも「人身売買」が結構頻繁に行われているというのです。しかも、都会で拉致されて、そのまま売春婦にされたり、嫁も来ない農村に売られたりするらしい。農村に売られた女性は、夜は檻に入れられるというのです。逃げないように。これは最近重慶に行った高木君から聞いたのですが、街に看板が立っていてそこには、「最近婦女子の誘拐が多いので注意しろ」と書いてあったそうです。日本では誘拐は金銭目当てですが、中国ではそのまま売ってしまうらしい。

 話を少し本題に戻しましょう。先ほど携帯電話の話をしました。中国製はほとんどなく大部分が米欧のメーカーが支配している世界なのですが、中国がどういう措置を取っているかを見ると、この国が容易に「輸入大国」になるのは難しいことが分かる。

 これは上海の長谷川君から聞いたのですが、最近中国政府は携帯電話の部品調達比率の引き上げを通達したというのです。つまり中国で携帯電話を売りたかったら、一定部品を国内調達しろと言うものです。中国国内にはそういう部品メーカーはないわけだから、それぞれのメーカーは関連部品企業の中国進出を促さざるを得ない。当然これら企業の対中投資は増え、雇用も生まれる。つまり、何かの商品の輸入が増加するとしても、規制やルールを設けて一方的に輸入が増加しないような措置を取っているということです。

 WTO加盟で中国が今後どう変わるかは、大きな関心項目です。こうしたグローバル経済への組み込みの中で、中国は徐々に変わってくるかもしれない。しかし、中国の消費者が豊かになって購買力が付けば付くほど、中国の世界経済におけるステータスは増大する可能性が強い。そういう意味では、「中国脅威論」は中国側の否定にもかかわらず、今後もくすぶり続けるでしょう。

 こうした中で、中国の通貨「元」を巡る議論は今後高まるでしょう。中国が輸出入で巨大になればなるほど、その国の通貨の水準は世界経済全体に大きな影響を与える。今回の中国への旅を通じて、そうした印象を持ちました。

《 changing image of China 》
  中国に行ったのはこれで4回目でしょうか。しかし何度行っても、「3000年の歴史」と言われる割には、本場の中華料理は推薦できるものではなく、はるかに香港や東京の方が美味しい。やはり味が死んでしまったのでしょうね。文化大革命の時などに。

 食というのは豊かさの一定期間の持続の中で作り上げられるものですから、一朝一夕には戻らない。重慶の貧しい民を見れば、国全体が豊かになるのは時間がかかると分かるし、彼らの舌が肥えてくるのにはもっと長い時間がかかるでしょう。

 本文でも書きましたが、大きな都市をいくとも訪れました。しかし、「大都会」としての可能性を感じたのはやはり上海です。この都市は、私が行ったどの中国の都市とも違う。まあアメリカで言えばニューヨークでしょうか。他と違う。有名な川縁の景色を見にM on the Bund(http://www.m-onthebund.com/)というオーストラリア人経営の店に行きましたが、この店は非常に雰囲気があって良かった。まあ、カンパリソーダは作れても、ワインクーラーは作れなかったといった従業員教育の問題はありましたが。

 聞いていたスカイスクライパーは、新宿など比ではない大規模なものでした。開発が進む浦東の周辺も、まだまだ可能性を感じることができた。今すぐにでも、もう一度行ってみたい都市です。「上海だけを見て中国を理解したら間違い」と言われたと昨日のテレビ番組で平沼・経済産業大臣が言っていましたが、確かにそうで私が宜昌から三峡ダムの建設現場に行く途中で目にした農村部の人たちの生活ぶりとは隔絶している。しかし、今後面白い都市になることは間違いない気がする。
ycaster 2001/09/10)