2004年の3月と4月にそれぞれ5日ほど中国に取材に行きました。3月が成都と上海、4月が大連と瀋陽。急速に成長し、大発展中、インフラ再整備中の中国が世界の資源を、そして時には製品をまさに吸引し始めた感のあった時期。この時期に、中国経済、そしてそこで活動している企業を取材しようと言うのが目的だった。
2004年の春に具体的に何があったかというと、中国の需要故に石油価格から小麦、トウモロコシ、セメントなどなどかなり広範囲の商品価格が、世界的に高止まりを示した。無論、全てが中国ファクターによるものではないが、その全てに「中国の影」が指摘された。中国が「デフレの輸出国」と非難された状態から、「一次資源価格の押し上げ国」として初めて認識され始めた時である。
その一方で中国では、主要都市の不動産、建設など一部セクターで過剰な投資が顕在化し、「中国経済の過熱→バブル破裂→世界経済に対する打撃」への懸念が出始めた時期だった。この中国訪問の最中にその都度感じたことは、day by dayのコーナーの2004年3月22日から27日まで、同じく2004年の4月12日から16日の日付記事に書いてある。これらの散発的な記事の中から今読み返して、これは興味が持てたと感じたことを列挙すれば以下の通りである。
毎年行っている中国だが、今年は企業を直接訪問したり経済政策の立案者に会っている。こうした一連の取材で分かったことをお伝えしよう。日本の強さ、中国が持つ意外な弱点である。それは創造力だ。日本はこれを伸ばす必要がある。ここでも書きましたが、私が中国の企業に関して持った問題意識は、「現在以降」でした。つまり、今は先進国から学び、先進国企業から学び、良い製品を作って世界に売る、それで外貨を稼いで世界中から資源を買って、インフラ整備をし、また一部では投資バブルを起こして経済の活力を高めて世界の成長のエンジンになる。一連の中国訪問で、非常に耳に付いた言葉がある。日本と中国との合弁会社、中国で製品を生産している企業のいくつかで聞いた。「ここでは日本の本社に負けない製品が作れる」「我々は学習している」と。あまりにも繰り返し聞いたので、逆にあれっと思ってしまった。「では一体中国は、日本を越える製品をいつ作るのだろうか」ということだ。
考えてみればずっと中国は「学習する国」だった。毛沢東語録を手に持って主席の発言に学び、鄧小平の言葉を学んだ。そして今は、先進国の企業に学んでいる。手本のあるルートを走っているのである。それでも中国は低スタート台故に、大きな経済発展の渦中にある。
しかし問題は、この「学びの過程」の先の「創造の過程」に入れるだろうか、という点だ。有人宇宙飛行船を飛ばしたが、あれも独創ではない。米ソなど先輩国があり、国家目標として達成したものだ。
対して日本の製品の強さはその独創性、創造性にあると思う。米国にもそういうところがある。身近な例を言えば、日本のソニーのウォークマンがそうだし、それを凌駕する存在となりつつある米アップルの iPod も創造性の産物だ。いずれも音楽聴取の為の創造的な製品で、今日本がその力を発揮しつつあるデジタル家電も誰かに学んだものではなく、技術の集積と創造力の産物だ。
中国もそういう創造力、独創力がなければ、経済発展の「次の段階」に恐らく進めない。「小康社会」(一息つける社会)で一人当たりGDPで三千ドル(現在は千ドルちょっと、日本は三万ドル)を目指しているが、今後労働賃金が上がってくる中で中国の競争力がいつまでも維持される保証はない。やはり、「学ぶ」以上のものが必要だ。
その点気になったのは、中国の政治体制だ。今回の訪問では、例えば四川省の開発改革委員会や同省の社会科学院(省政府や中央政府に経済政策などを諮問する機関)にも伺ったが、そこの話しを聞いていてあれっと思ったのは、地方行政に主体性が見られず、経済政策立案者の頭が依然として「社会主義的思考」のままだ、ということである。依然として「待ち」の姿勢なのだ。
恐らく個人、企業人の創造性も、中央集権的な今の体制の下では十分な発揮を許されないだろう。日本との関係で「新思考」を唱えた馬立誠氏はネットで集中攻撃され、人民日報を離職し、香港への移住を余儀なくされた。自由で、創造的な発言が許されないこうした環境では、企業人が「学ぶ」以上の才能を発揮するのは難しい。
日本は、犯罪に成らない限り、何を言っても、何をやっても許されている。その自由さが、創造力、独創力を生み出す基盤になっている。一連の中国訪問で思ったことは、中国の体制が変わる可能性が少ない中で、中国経済が一段と上のレベルに上がれるのだろうか、というのと、その点こそ日本経済の活力源だということだ。
しかし、その後の中国の企業はどうやって世界で覇を唱えられるだろうか、今の政治体制では問題が多いのではないか、というのが筆者の素直な印象で、それを日本の読者にも伝えたかったわけです。中国がそういう状況、つまり創造性を殺すような状況を続けるのだったら、日本の企業は実はかなり強いのではないか、という印象がした。日本の企業や企業の人々には「創造力」があると思うからだ。国民が言いたいことを言ってどこか統制の取れていないイタリアのような国も、良い製品を作ることでは有名だ。日本の女性が買っているブランド商品のかなりの部分は、イタリア製だ。
中国では金融のセクターも集中して取材した。上海では「交通銀行」を、瀋陽では「工商銀行」を取材対象とした。本店の幹部、支店の幹部といろいろな人にインタビューした。直接の政策担当者ではないので、中国の金融政策(具体的には引き締め策)、通貨政策(具体的には人民元の切り上げ)を聞くには相応しくはなかったが、そうした中でも中国の金融の実体が徐々に明確になった。
中国の金融にとって一番の問題は不良債権である。日本より凄まじい。貸し出し残高の20~40%という規模。一番悪いのは農業銀行で、これは政策的な失敗でもあるのだが、その処理は焦眉の急である。日本は既に2%台から8%台に落ちてきているが、日本の金融当局は8%台についてはこれを直ちに銀行サイドに引き下げるように要求している。
しかし面白いのは、不良債権比率がこれだけ高い中国、金融システムが弱い中国が、年率9%~10%の高い成長率を誇っている、という事である。むろん、中国経済の発射台は低い。国民一人当たりGDPで3000ドルを目指す、というのだからレベルは日本と違う。しかし、不良債権を抱えながら経済の発展を続けることが必ずしも無理ではないことが明らかなのである。まあ言ってみれば、中国は経済の発展の中である程度不良債権が希薄化することを狙っている。
中国の金融に関しては、帰国したあとに私が担当しているラジオNIKKEIの番組「Asia Today」で何回か取り上げて、専門家の意見を聞きながら考え続けている。以下に掲載するのはまず5月20日の放送での国際金融情報センター(JCIF)の石井・アジア第一部部長の話しである。同部長は、「先進国で言われるところの一般的な利上げは、中国が抱える経済問題への正しい対処ではない」との見方を示し、以下のように述べていた。
むろん、「裁量」はしばしば「恣意」につながる。裁量を下す方の人間が優秀なら良いが逆だと悲惨だ。しかし、筆者が今思っているのは「引き締め→利上げ」という先進国的発想は、経済の形が全く違う中国のような国を理解するには間違っているのではないか、という点であり、私が同番組で聞いた次の専門家であるJETROアジア経済研究所の渡邊真理子さんの話しでした。放送は5月27日で、話しの要点は以下の通りでした。
こうした一連の出張、取材、そして専門家からの意見聴取を通じて感じるのは、「今の中国は激しく動いている」ということです。あまりにもの輸入の急増に、中国の輸出入は入超になりつつある。資源も輸入しているが、中国は製品も輸入している。だから日本の企業の一部は中国ブームに沸いている。利上げ論は後退して、実際に進められているのは裁量的な金融政策である。それを渡邊さんのように「残念だ」と表現することが妥当かどうかは別にして、中国の現実は進む。
これらの変化を見間違わないように、この日本の隣国の行く末を見たいものだ。
(ycaster 2004/05/30)