Essay

<チベット=栄光と圧政を抱く民族の故郷、そして尖閣-Cyberchat>

 「今自分が書こうとしているチベットと、2010年に中国の漁船が日本の巡視艇にぶつかったことから日中間の強い緊張関係に発展した尖閣諸島問題とは、同列になったのか....」という思いでこの文章を書き始めている。というのは、この文章を書いている最中の10月03日の時点で、香港の新聞サウスチャイナ・モーニングポストが中国外交筋の話として、『同国が今年、尖閣諸島(中国名・釣魚島)のある東シナ海や、ベトナムなどと領有権を争う南シナ海を、国家の領土保全にとって最重要な「核心的利益」に属する地域とする方針を新たに定めていた』(朝日新聞の記事)と報じているからである。

 もう少し同紙の記事を続けよう。『「核心的利益」とは従来、台湾や独立運動が続くチベット、新疆ウイグル両自治区に限って用いられ、中国はこの地域での主権を守る上で一切の妥協を許さないとの立場を取ってきた。東シナ海が同じ位置づけに格上げされたとすれば、尖閣諸島での漁船衝突事件で見せた中国側の強硬な態度を裏付けることになる。』

比較的接近した右サイドから見たポタラ宮。左右対称でないのがよく分かる  『南シナ海については2010年3月、中国外交を統括する戴秉国(タイ・ピンクオ)・国務委員(副首相級)が、訪中した米政府高官との会談で同海域での権益確保などを主張した際に、「核心的利益」に属すると米側に伝えたとされる。ただ、東シナ海については、これまで具体的な言及はなかった。』

 2010年9月の尖閣列島を巡る日中間の緊張増大の背景に、中国の外交政策の再策定、領土・領海に関する方針変換、それに伴う防衛ラインの引き直しがあって、もしこの香港紙が報じるように中国が本当に尖閣諸島をその中に入れたとしたら、日本が当然の権利として行った衝突漁船の船長と船員の「拿捕、拘留」に対する中国側の態度、すなわち

  1. 丹羽大使に対する礼を欠いた再三の呼び出し
  2. 高官級レベルでの日中間の交流拒否、それに続く中国旅行者・国民への日本への旅行に対する自粛要請
  3. レアアースの対日輸出の事実上の一時停止(その後解除と報じられているが、実態は不明)
  4. 日本の中堅建設会社フジタの社員4人の中国国内での「軍事管理区域に立ち入った」とする逮捕・拘束(その後この文章を書いている時点で3人を釈放)

 など一連の事態は、日本では「過去の中国の行動と比べた場合の予想外の強硬姿勢」と映っていたものの、中国側としては「自国の核心的利益」に日本が触ってきたのだから、南沙、西沙諸島と同じような対応をした」と理解出来る。むろん、国際法と日本の尖閣諸島実効支配の現実を無視した一方的な措置だが。

 南シナ海の南沙諸島を巡る領有権争いでは、1988年3月に中華人民共和国とベトナムの海軍が衝突、「赤瓜礁海戦」と呼ばれる海の戦いが発生した。このときは中国が勝利し、ベトナム側に水兵70人という死者が出たとされる。

 尖閣諸島は歴史的にも日本の領土であり、海上保安庁の巡視船が常時監視をする日本の実効支配の対象であり、アメリカも同諸島は日米安保条約の適用範囲内と言っているので、直ちに南沙諸島での中国対ベトナムのような争いが起きるとは限らない。

 しかし、中国がもし本当に東シナ海についても「中国の核心的利益」に位置づけ、その中に日本の領土である尖閣諸島が入ったとするならば、軍艦を改造した漁船監視船が日本の巡視船と併走しているような緊張関係の中では、「いつ衝突が起こってもおかしくない状況が生まれている」と考えるのが自然だ。

 二カ国が領有を主張する世界の場所では、決して多い回数ではないが戦争状態が発生してきている。中国・インドでも、英国とアルゼンチンでも、中国とソ連の間でも、そしてベトナムと中国の間でも、それほど頻繁ではないし、両国の本格的な戦争にはならないものの、歴史を見れば「小規模戦争」は起きてきたし、それによって両国関係は一時非常に緊迫化する。そして歴史を見れば、正当性は別にしてその戦いに勝った方が、その後紛争地に対する強い支配権を国際的に主張できた過去がある。

 もしサウスチャイナ・モーニングポストの報道が正しいとしたなら、日本と中国はそういうことがいつでも起こりうる関係になった、ということだ。これは戦後の日中関係の大きな転換点を迎えたことを意味する。

 むろん、1988年に「赤瓜礁海戦」を戦ったベトナムと中国の関係がどうなっているかというと、お互いが国境を開き、トラックの往来を許す関係になっている。両国の経済関係は深まっている。しかし、両国の国境に行けば、日本にいて決して経験することのない緊張関係を感じることが出来るし、今でもお互いに良くは思っていないだろう。

《 中国の孤立化? 》

 2010年9月に中国が日本に対してとった一連の姿勢・態度は、国際的な批判を呼び起こした。この文章を書く直前には、フランスの有力紙であるル・モンドが、尖閣諸島沖での中国漁船衝突事件をめぐる一連の対応で、中国は「粗暴な大国の顔をさらした」と批判する内容の社説を1面に掲げた。

 「中国の海(東シナ海と南シナ海)に暴風警報が出た」と題する社説は、19世紀末以来、日本の実効支配下にある尖閣諸島の領有を中国も主張していることを紹介したうえで、漁船衝突事件の経緯に言及。日本の丹羽宇一郎駐中国大使に対する度重なる呼び出しや対日交流の打ち切りなど、中国政府の一方的な対抗措置について、「その攻撃的姿勢は、沿岸に恐怖を呼び起こした」と指摘した。

 同紙は、中国が、ベトナム、フィリピン、マレーシアなどとも領有権をめぐって対立していることに触れ、「中国自身のイメージと国益に反する行動」の結果として、「沿岸諸国は米国との戦略的関係を緊密にする」と予測した。

 当然アジアの周辺国では、中国に対する警戒意識が強まっている。ル・モンドが指摘するように、周辺諸国の方がより警戒心は強い。直ちに軍事衝突にまで発展する危険性もあるからだ。私が知っている範囲でも、シンガポール、オーストラリアなどの有力紙が中国の2010年に入っての行動に強い警戒感を示す記事を載せている。

 アメリカでも中国に対する警戒感が強まっている。アメリカには、中国が南シナ海、東シナ海を「自分の海」とし、この地域に重大な権益を持つアメリカに挑戦しようとしているように見える。実際に中国は海軍力を増強していて、空母も持つ計画もあるとされる。

 アジアの成長に関与したいアメリカが「自己主張」とその背景になる「軍備増強」を強める中国に警戒感を抱くのは当然だし、「尖閣諸島は日米安保の対象内」というクリントン国務長官の発言もその判断からだろう。

 世論も中国に批判的だ。2010年9月末に米有力紙ワシントン・ポストは「最近数週間の中国の行動は世界に対して、同国が依然として民族的、領土的不満を抱えた権威主義的な国家であって、その経済パワーを政治的、軍事的にどう使うかに関して独自の考え方をしている国であることを思い起こさせた」と書いた。

 同紙は、「WTOなど国際機関に入れたり、中国の経済発展を促進するという普通の対応をアメリカがすればするほど、中国はより平和と安定を求める勢力になるという仮説がアメリカ側にほぼ一貫してあった。しかし、今回の事でこの仮説は崩れた」とし、「(中国は)19世紀タイプの重商主義国家」と断じている。

 こうした国際的な批判が、今年決めたとされる「東シナ海も中国の核心的利益」という中国の立場(香港紙が報じている)の転換に繋がるのか、転換はなく運用方法・手法に変化が生じるのか、それとも2010年9月に見せた「粗暴な大国」(ル・モンド)の姿勢を今後も続けるのかは不明だ。

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 改めて書くが、中国は世界の基準から見て「普通の国」では決してない。成長はしているが、異形の国である。それはいろいろあるが、読者の方々があまり知らないであろう事実を、2010年9月の初め時点で言うと、

  1. 世界中の多くの人が楽しんでいるツイッターがインターネット・プロバイダー経由では使えない。つまり普通の中国人は、自宅のコンピューターでツイッターが出来ない
  2. 私が日本でのコンピューター作業に非常に便利に使っているクラウド・サービスである dropbox が中国では使えない。世界で利用者が多い、非常に便利なサービスなのに
  3. 上海や北京の街を夜歩くと、立派なマンションが一杯建っているが、その大部分の部屋には決して明かりが灯っていないことに気が付く

 などだ。「1」については、なぜかiphon4に入れたツイッター・ソフト 経由ではツイッターは自由に出来た。理由は分からない。コンピューターを使って何度も利用しても出来ず、それなのにiphone4をソフトからはいつでも出来た。中国ではスマートフォンが普及していないことと関係しているのかもしれない。中国政府の措置は明日にでも変わるかもしれないから分からないが、言えることは中国では通信の自由、国民の自由な意志疎通が阻害されている、ということだ。

 「2」については、その後の取材で「中国が国内でのdropbox の利用を許さなくなったのは2010年5月頃」と判断される。とにかくデータの保存や出し入れに私が一番使っているクラウド・サービスが中国で禁止されていたショックは大きかった。「なぜ」という印象だ。しかし何回も言うように、中国の方針は明日にも変わるかもしれない。しかしこのこと一つをしても、中国のクラウド・サービス全般に対する警戒感は分かる。つまり情報の自由は流通が怖いのだ。

 「3」に関しては、日経BPエコマネッジメントにいくつも長い文章を書いているので、それをお読み頂きたい。いまだに選挙が国政レベルで行われていない中国は、いろいろな意味で異形の国なのだ。むろん、一人一人の中国の人は良い人が多い。しかし、国家としてはなんともやっかいな存在なのだ。それを2010年9月の一連の事件が示した。

《 悲嘆の民 》

 前置きが長くなった。その中国の中にあって、新疆ウイグル自治区とともに直近で暴動が起きたのがチベットである。大勢の死傷者、逮捕者が出たとされるが、その実数は今でも分からない。そのチベットに2010年8月末から9月初めにかけて行ってきた。日中関係が尖閣諸島を巡って緊張する直前だった。

 この文章を書いているのは2010年10月の初めだから、ちょうと一ヶ月前だ。その間に尖閣諸島を巡る一連の事件が起きた。私たちの旅は、ラサを根城に海抜4700メートルのヤムドゥク湖など地方にも少し足を伸ばす、という旅だった。

 それから約一ヶ月が経過したが、今でもこの目で見たチベットでのいくつかのシーンを鮮明に思い出す。ポタラ宮の荘厳さと、しかし工事の積み重ねによって結果的に出来上がったのであろうその宮殿の不思議な形状、ラサの街のあちこちで見かけた銃を構えた中国中央政府の兵士の姿、チベット仏教の世界の各地に伸びたパワーや魅力と、弾圧下で生きるチベットの人々の信心深い顔や困った顔、悲しげな顔。

 日々の印象は後のデイリーの記述にもありますが、そこに書ききれなかったこと、一ヶ月の間に頭にまとまったチベットのイメージなどを記録として残します。そして、チベットの将来に対する私の簡単な予測も。

 第一に書きたいことは、チベット、もっと具体的にはラサという街が、極めて大きな緊張感を強いられている場所だったと言うことだ。行くことによって、それを身をもって感じた。私が旅行者や取材対象として訪れた世界の街で、これほど圧迫感、緊張感を感じた場所はなかった。いつ何が起こっても不思議ではない印象が漂っていた。街全体が緊張しているのだ。人々は高地故に東京より遙かにゆっくり歩いているのに

 何よりもそこには「むきだしの銃」が存在する。ラサの街のあちこちには銃を構えた中国兵士が、一グループ数人で街を移動しながら、そして時に定点で人々を監視している。その銃には間違いなく実弾が装填されている。2008年春のチベット暴動のあと監視体制が強化されたという。

 そしてガイドが、「間違っても兵士にカメラを向けないでくれ」と頼む。見つかると、場合によっては逮捕、最低写真の破棄を求められるという。旅行客なのに、自由にカメラを振れない。間違って兵士が入ってはいけないので。おまけに中国では大きな橋は全部「軍事施設」だ。これも撮影禁止。つまりとっても神経を使う街なのだ。日本人逮捕事件の発生と同じ月にチベットにいた私としては、フジタの社員が捕まった状況も、こうした特殊中国的な状況の中で起きたと思える。つまり中国が言うような意図はなかったと。

 次に指摘したいことは、チベットが持つ文化的、宗教的なパワーだ。2009年に行ったブータンも、2007年に行ったモンゴルも、人々が深く信仰するのはチベット仏教だった。実際の所、チベットでは人々の生活に、そして歴史に深く大乗仏教に属する自前の仏教が深く根ざしている。食べるものも、その教えや習慣によって決まっているのだ。山にも街にも宗教施設が一杯ある。つまりチベットでは宗教が人々の生活に根ざしている。

 そしてその宗教が地域の枠を超えてインドの北部、ブータン、ネパール、中国のモンゴル自治区、そして独立国モンゴルなどユーラシア、インド亜大陸の広い部分に広がっている。私はチベット仏教の教義ははっきい言ってあまり知らないが、「それだけ広い地域の多くの人々に信仰されている」という事実が重要だと思う。つまりチベット仏教にはパワーがある。あのチンギス・ハーンの孫であるフビライ・ハーンも晩年チベット仏教に帰依した。

青海チベット鉄道の途中の停車駅で  第三に指摘したいのは、チベットが今の世界地図の中では中国の一部であり(自治州)、チベット人と中国人が我々から見てそれほど違わない外見をしていても、中国人とチベット人は全く違う文化的背景を持つ、ということだ。チベットの歴史も、中国のそれとは全く違っている。つまりどう見ても違う文化的、政治的歴史と現状を持っているのだ。

 例えばチベットの人々はあとで紹介するように水葬があるので、絶対に魚を食べないという。だから中国人がチベットに大量に入ってきて、街の中の池で魚を捕って食べてしまったら、ラサは大騒動になったという。チベットの人々は、鳥葬があるから鳥もあまり食べないが、鶏肉を中心に中国人は大量に食べる。

 チベットの人々は宗教心が強く、輪廻転生を深く信じる。であるが故に、五体投地までして来世の自分や親族の良い転生を祈る。対して中国人はチベット人のような強い宗教心を総じて持たない。そもそも社会主義の建前は、「宗教は麻薬」というものだ。

 「文化的違い」というなら、そもそも言葉が違う。チベットの人たちはチベット語を喋る。文字も発音も全く中国語とは違う。「ラサ」を「拉薩」と書くのは中国語表記なので、私は一貫して「ラサ」と書いている。チベットで使われている文字はインド系に近い表音文字で、右から左に書く。表意文字の中国語とは全く違う。

 そのチベットの独自の言語と文字が、今危機に立つ。チベット語が学校での授業も減らされ、チベット人の間でも「徐々に中国語に取って代わられてしまうのではないか」との懸念が強まっている。とにかく中国支配下のチベットでは中国語が出来なければ就職でも役所での出世でもいかんともし難いからだし、無論これは中国中央政府の意図的政策による。

 「今の中国中央政府の教育方針がチベットで貫徹されれば、チベット語を使う人がいなくなってしまう」とチベットの人たちは懸念している。中国によるチベット浸食は着実に進んでいる。

《 will be tense again 》

 緊張と、そしてあまりにも違う中国人とチベット人。「自治」という名前を与えながらも、ラサの街のあちこちに兵士を立たせなければ収まらない中国によるチベット支配には、どうやっても無理がある、という印象が強かった。

 それは宗教とか信条とか言う問題だけではない。ラサではこの数年に著しく車が増えて、道路の事故は人口比では異常に多かった。事故が激増しているのだが、増えた車の所有者は大部分が中国人だという。次々に出来るホテルなどの観光施設も中国資本のものが多い。チベット資本は規模も小さいから雇用の創出能力も少ない。よって、チベットの人たちは職を得ようとしたら中国資本の会社で働くことになる。

 つまり使う身の中国人と、使われる身のチベット人という形になっているのである。経済格差は拡大している。それはラサの街を歩いて見ても分かる。これはほっておいても対立感情が高まるのが自然だ。自分の故郷なのによその地から来た利益優先の人たちの下で働かねばならない宗教心の強いチベットの人々。随分と屈辱が溜まっている筈だ。

 実際の所、チベットの人たちに「ニイハオ」とか「シェーシェー」と中国語で言っても、決して良い顔はされない。「タイデレ」「トゥジェチェ」と言えば顔がほころぶ。つまり全く違うのだ。今の中国はチベットに対して民族浄化に等しいようなことをしているが、それが今後も問題なく進むとは思えない。チベットの人たちによる怒りの爆発が一定のインターバルを置いても繰り返される気がする。その先は中国全体が将来どうなるかに関係しているが、やはり分離の方向だろう。

 中国は、そのリスクを承知し、それに対処しているように思える。青海チベット鉄道は、景色としては雄大ですばらしい。それはあとで紹介するとおりだ。世界でも乗る価値のある上位の鉄道に入ると思う。

 しかし一方で、軍用品を含めてチベットに資材と人員を敏速に送り込むために中国が作った鉄道が青海チベット鉄道であることも確かだし、中国はもう一本のチベットに繋がる鉄道の建設を計画しているとも言われる。青海チベット鉄道で、中国はチベットを経済的、軍事的によりがっちりと組み込むことに尽力しているように見える。

 また、まだ行ったことがないので分からないが、新疆ウイグル自治区でも中国人の移住が進み、地元の人たちと争いが生じている。チベットではその現実をあちことで目にすることが出来る。大きな土産物店は中国資本、そこで働いている人はチベット人なのだ。

 中国は戦略的にはチベットをしっかりと領土の一部とし、資源も含めて国家経営に役立てていこうという方針だろう。チベットの土地には豊かな鉱物資源が眠っているとの説もある。しかしこれはチベットの人々にとって、自分たちの資源が中国人に持ち去られることを意味する。

 大きく言ってチベットと中国の争いの根底には、以下のような要因があると筆者は見る。

  1. 歴史的にもチベットを押さえておきたい中国の大国的発想(歴史を見ても、かつて「吐蕃」と呼ばれたチベットと中国の王朝の間にはずっと緊張があった。唐は王女をチベットに人質に出したこともある)
  2. 信仰厚きチベットの人々と、信仰が薄い(社会主義は宗教を排斥する)中国の人々との根本的な違い。チベットの人々を送れた人々と見る多くの中国人の態度
  3. 資本を持ち、利益を追求する中国の人たちと、利益より宗教上の教えに忠実なチベットの人たちとの考え方、生き方の違い
  4. グローバライゼーションを経済には進める中国と、宗教観に基づく生き方を続けたいチベットの相克

 チベットの土地に資源が眠っているとの見方もあるが、もしそうだとしたら中国はきっとそれも視野に入れて動いているだろう。南シナ海、東シナ海を巡る中国の強硬姿勢の背景にも「資源」がある。この問題に関しては、一連の文章が参考になるかと思います。

 チベットが何を産業として食べているのか。はっき言って二つだそうだ。「農業」と「観光」。つまりあの美しい景色は、チベットにとって資源そのものなのだ。

 しかしその観光は、2008年のチベット騒動から一年間は全く禁止されたという。チベット経済が受けた打撃は大きい。

 加えてその後のリーマン・ショックによる世界的な景気後退だ。チベット人の日本語ガイドさんたちは、「最近日本の方々が来なくなったので、私たちの仕事が減った。だから英語を学びたい」とも述べていた。

 私は思った。「チベットに来ることは、チベットに進出している中国資本などを利することになるかもしれない。しかしそれを避けてチベットに行かなければ、働いているチベットの人たちの収入は減る」と。やはり実際にその場に立つと分からないことがある。ジョカン寺を監視する中国の兵士たちの威圧感は、行って見たものしか分からない。

 チベットの同列になった尖閣諸島を持つ日本の人間として、チベットに今回行けたことは良かった。私としてはより多くの日本の方々にチベットを訪れて欲しい。普通の観光客として行くには、カメラの方向さえ気をつければ総じて問題はない。ツイッターやdropbox はあきらめても、チベットという地とそこに住む人々、彼らが置かれた環境を見る価値はあると思う。

 行ったが故に、「この緊張がこのまま続くはずがない」「それは中国という国の今後とも深く関わっている」と考えた。チベットには魅力のある。2,4,9、10は「に、し、く、じゅう」と読む。日本と全く同じだ。何かの縁を感じる。「墓がない」など日本と大きく違う点もあるが。とにかく、人も景色も素晴らしい。

 ところで、チベットのパワーは一つは僧侶が率いる。セラ寺で僧侶たちの問答を見たが、それはそれは迫力があった。彼らはチベットにとってパワーだ。ビデオで撮ってきたので、それを他のビデオと一緒にアップする。映像はとっても大きいので、ダウンロードとバッファリングに時間を要します。遅い回線の方は覚悟下さい。早い方にも時間がかかります。しかしとっても良い映像です。

 セラ寺でのお坊さん達の問答
 チベットの踊り子たちの踊り
 チベットの踊り子
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 以下の文章は、チベット滞在中に書いたものですが、諸般の事情によって帰国までアップを控えていたものです。それで「delayed」とある。日々のチベットの記録です。


2010年08月31日(火曜日 delayed)

 (23:30)すみませんね、8月31日から9月6日までの文章はほぼ毎日書きためていたのですが、中国滞在中は結局一回もアップしませんでした。いくつかの理由があります。

  1. 衛星通信用のマシンのドライバーが「7」で動かないために、古い「XP」を持ち出して行ったのだが、「C」が目一杯で、それを削って「D」に移す作業をしていたり、dropboxなどいくつかのソフトウエアの調子も悪くて(ネットサイドの問題だと思うが)なかなかうまく作業が出来なかったこと
  2. 特に初日から2日間は、ケイタイはドコモ、iphone4とも時々繋がる状況でツイッターは出来たが、とにかく青海チベット鉄道での移動中は新幹線のように無線LANがあるわけではなく、まとまった文章をアップできる環境ではなかったこと
  3. 一番長く滞在したチベットのラサは2年前の騒乱の後遺症もあって街のあちこちに兵士の数も多く、チベットの人達は特に外国人との会話に制限があり(そこら中に目と耳があるらしい)、それは私たちのガイドさんも同じ事なので、要するに込み入った話が滞在中は出来ない。となると、要するに自分の目で人々の表情、街の様子を見るしかないという事情があったこと
  4. 写真撮影にも数多くの制限があって、なかなかうまく撮れない場所もあったし、チベットからのネット通信は監視されているとの話しもあったので、そんな中で敢えて通信をするというのも気が進まなかった

 など。ネット環境そのものは泊まったホテル(アメリカ資本系)が良かったのか、非常に良好で、ケイタイもローミングながらよく繋がった。ちょっと時間が経過しましたが、各日の文章はそれぞれ移動先でその日をメドに書いたものです。

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表示は西寧発ラサ(拉薩)行き、午後10時40分発を意味している  8月31日。何と言っても嬉しかったのが「羽田集合」でした。午前6時半が指定の時間。成田だったら大事だった。国際線ターミナルが早く出来て欲しい。10月末でしたっけ。飛行機はCAで、出発は午前8時半過ぎ。9人のうち誰も遅れないのは良いことだ。北京は約3時間半後。

 窓から見た北京(数年ぶり)は、田圃がまるで山形のそれのように区画整理されていて、革命から60年たったことの成果を感じさせる。その合間に住宅街。高速道路が走っているが、車の数は日本と比べると圧倒的に少ない。

 しかし感心したのはそこまで。何よりもがっかりしたのは、飛行機の窓から見て北京の空気が相変わらず淀んでいること。それに河が緑に変色して汚いこと。これだけ見ても、北京の環境問題は深刻だ。東京の綺麗な空から来たので、余計印象が強かった。

 北京空港で3時間ほどの待ち。それを経てまたCA機で西寧(せいねい)に。私にとって初めての都市です。ここでは空港から出てバス移動して青蔵鉄道(別名”青海チベット鉄道”)の東の起点である西寧駅に。

 私の今までの中国の西の限界は成都だった。西寧が砂漠の中の都市だと思うのは、飛行機の窓から見ても下は正に街の直前まで砂漠で、砂が波打っている様子が分かる。緑がなく、無論木もない。そしてやっと西寧が近づくと緑と家が突然増えてくる。

 西寧は建築ラッシュでした。建てかけのマンションが一杯。ちょっと不思議なのは、我々が西寧に着いたのはもう夕方で、そのせいかもしれないが、どのビルも建設作業を続けている様子がない。普通、中国は時間に関係なく工事をやるんだが。

 人口230万の街だそうだが、もともとはイスラム、ウイグルの街。もしかしたら、成都あたりまで来ていたラッシュがここまで来たのか、それともブームの早い終焉でビル建設が止まったのか、その辺は不明だった。

 西寧は海抜2600メートル。5000メートルで空気中の酸素の量が海抜0に比べて半分だと言うが、とすると目の子で75%。やはりちょっと頭が重いので、急いで深呼吸をし、そして水を飲んだ。「水と10回ほどの深呼吸」が高山病の特効薬だそうで、確かに楽になった。

どえらく長い列車でした。多分17両編成  市内のレストラン(結構混んでいた)で食事をした後、バスで西寧駅に。暗い。人の顔がやっと見える程度。それに結構凄い数の人。大きな荷物を抱えたチベットの人達や僧侶もいる。さあ改札が開いたとなると、絶対に並ばない彼等は入り口に殺到する。もう夜の10時だというのに壮絶です。

 考えたら強行軍です。早朝に羽田を発ち、北京で乗り換えて西寧に。着いたらもう夕方ですよ。そこで一泊するんじゃないんです。食事をして直ぐに青海チベット鉄道に乗ってラサへの24時間の鉄道の旅に出発。「一晩出発に備えて西寧で寝て、体力を蓄えてさあ24時間列車」というのではない。まあその事情は後ほど。

 羽田は海抜0メートル。青海チベット鉄道の最高地点は5070メートル。それをほぼ一日半の間で上がる。結構強行軍でした。あとで聞いたら、青海チベット鉄道では、それが直接の原因かどうかは不明だが、かなりの数の日本人の死者も出ているという。

 青海チベット鉄道は2006年の開通です。西寧とラサの1946キロを走る。日本で言えば、北海道から九州までを時速90キロくらいで走る感覚。列車に乗り込んだら、私は荷物の整理をして直ぐに3段ベッドの2段目に潜り込んで寝ました。同室者は今回の旅の仲間4人。先に寝た方が勝ち?

 だって夜明けが見たいじゃないですか。夜の列車の窓からは何も見えない。


2010年09月01日(水曜日 delayed)

 (23:30)青海チベット鉄道は、以下の特徴を持つと多く 青海チベット鉄道の窓から見える氷河 の案内書やサイトには書いてある。

  1. 世界最高所の標高を通過(海抜5072m のタングラ/唐古拉峠)
  2. 世界最長の鉄道(全長1946 km)
  3. 世界最高所の高原凍土トンネル(風火山トンネル 海抜4905m)
  4. 世界最長の高原凍土トンネル(崑崙山トンネル 全長1686m)
  5. 世界最高所の駅(タングラ/唐古拉駅 海抜5068m)
  6. 世界最長の鉄橋(清水河特大橋・全長11.7キロ)
  7. 世界最高所の鉄橋(三岔川特大橋/海抜3800m)

 どえらい列車でしょう。どえらいことは他にもある。具体的に言うと以下の点だった。
  1. 我々が本来乗る予定の列車は、実は当初は09月01日の午前の列車だった。しかし直前になって「国務院の視察が大規模に入ったので、その列車の軟座(まあ日本で言えばグリーン)は使用不可となった」ということで、約半日の前倒し、つまり31日の夜10時40分の列車になった
  2. 「軟座が確保できる」という事情から31日夜という強行軍的な予定になったのだが、出発の直前になって確保した筈の列車の軟座も多くの国務院の方々が乗ると言うことで、結局我々は「硬座」に押し出された
  3. 世界最高所の標高を通過(海抜5072m のタングラ/唐古拉峠)ということで車内は「気圧制御」が出来ていると聞いていたが、実際には乗客が勝手に開けることが出来る窓もあって、我々の仲間が持っている腕時計タイプの気圧計測器から図れる標高は、各所で案内書通りの標高を示した(写真)。つまり気圧制御が出来ていなかった
列車には実にいろいろな人が乗っている。くつろぎタイム  など。常にこういうことが起きるのかどうかは知りません。しかし日本では「泣くこと地頭には.....」と言うが、中国ではやはり党と政府には勝てないということでしょう。

 実際に乗って感じたことは、「堅牢な作りをしている日本にはないタイプの列車である」「揺れは思ったほどではなく、その中で簡単に寝られる」「実に長い。我々は15号車に居て、食堂車は8号車で二回往復したが、その長いこと」など。

中国人のおじいちゃんが書いてくれたメモ。ここは塩田だぞ.....と  軟座、硬座という区別以外に6人がけと4人がけの左右に配置された椅子席というのがあって、そこで24時間を過ごす人もいる、ということだ。多分安いのだろう。沢山の荷物を抱えた親子連れなどが乗っていた。

 私は寝台車に乗ったのはこれが初めてだったので、他との比較は出来ない。しかし、三段のベッドの二段に入っていつも通り直ちに眠りに入ったし、その後も9人がコンパートメントを行ったり来たりしながら、まあ面白かった。

 景色は雄大です。雄大も長く見ると飽きて来るというのが今回判ったが、何と言っても「氷河」が見れたことが良かった。昔に比べてだいぶ小さくはなっているのでしょうが、それでもやはり存在感がある。多分飛行機の上からは沢山氷河は見ている。しかし、列車の窓から見たのはこれが初めてです。 硬座で我々が使った二つのコンパートメント以外はほとんどが中国人(二人欧米人がいた)だったが故に、面白い出来事もありました。私が廊下で外を眺めていると、中国人の老齢に近い男性が近づいてきて、中国語で「今走っているところはこういうところだ」(多分)と説明を始めてくれた。

 私は中国語がとんと判らないので、書いてもらったのが写真のメモです。要するに「この辺は標高は高いが昔は海で、それが隆起して今は全て塩田である」と一生懸命説明してくれているようだ。あとで西寧から乗ってきたガイドさんも入って会話をしていたらそういうことらしい。

 中国の普通の人達の生態が分かって面白かったな。なにせ24時間一緒にいるわけですから。例えば、車内のあちこちには鼻に入れると酸素が出てくる設備がある。そこにチューブ式の吸引機を差し込むのですが、それは有料です。しかしそれを我々が廊下サイドに使わずにつるしておいたら、中国の人が何の断りもなく使いに来た。「ノーノー」ってなもんです。

 青海チベット鉄道も、西寧を出て3時間もしてちょっと起きたら、携帯が一斉に繋がらなくなっていた。「ああもうずっとダメか」と思ったら、時々ドコモが使えたり、iphone4が使えたり、auが使えたり。日本からの電話がかかると、「ああここは使えるんだ」と。むろん、全部ローミングです。

 同室の人々四人の寝息、イビキはあまり気にならなかったな。多分私が最初に寝入ったので、私もしていただろうし、むしろこの空気の薄いところでまだみんな生きているという証拠になる。寝たり起きたり、車窓を眺めたり、トランプをしたり、列車の中を歩いたり。停車すると外に出てみたり。

社内は調整されていたはずだが、窓が開いていたりして仲間の標高計は5070を指す=世界鉄道最高所 そういう意味では、硬座は良かった。

 24時間と言っても、なんだかんだ時間は過ぎるものです。結構話すこともいっぱいあるし、メンバーの一人が持ってきたトランプを楽しみました。だって、景色だけを見ていたのでは飽きる。

 日本では決して経験できない4000とか5000メートルですから、「高山病」の症状は出る。私に時々起きたのは頭痛。急いで水を飲み、深呼吸を繰り返した。それである程度収まる。あとはちょっと思考能力が落ちること。他の人達の症状では、目眩、立ちくらみ、食欲減退、眠りが浅くなる......などなど。高山病についてはまた書きます。

 終着駅に着いたのは、9月01日の夜9時50分くらいかな。予定より早かった。さすがに閑散としている。暗い。西寧もそうだったが、中国では駅が暗い。パンフレットなどには綺麗な駅舎が映っているが、そもそも写真は綺麗に映るし、昼間撮っている。夜の中国の駅舎は不気味です。

 ははは、ちょい緊張。閑散としているのに、あちこちに迷彩服を着た兵士の姿が見える。一つの兵士がツアコンの女性に近づいたので、「検査があるのか」と思ったら、その兵士はやおら荷物をもってバスまで運んでくれた。緊張が和む一瞬。

 そのままホテルへ。荷物をアンパックし、とにかくシャワーを浴びて、水を飲み、深呼吸を繰り返したら眠くなった。3年前に出来たホテルだそうで、小ぶりに見えて瀟洒な感じ。ベッドも良い。ネットの接続を確認し、メールに返信して、直ちに爆睡。

 ツイッターは青海チベット鉄道の中でも時々やっていましたが、インターネットはほぼ40時間程度不接触。私としては極めて希有な事態でした。


2010年09月02日(木曜日 delayed)

 (23:30)ラサ(敢えて漢字表記すると”拉薩”)は海抜が3600メートル。富士山のてっぺんが3775メートルと言うから、ほぼその標高の所に都市がある、ということになる。人口は15万人。その7割がチベット人で、残り三割の圧倒的部分が漢人、あとは回教の人達。

 街のあちこちには2年前の暴動の残滓が見て取れる。街のそこかしこに3人、4人、5人一単位でそれぞれ別角度を監視しながら、銃を構えている迷彩服の兵士の姿がある。交差点にはあちこちにカメラが設置されていて、この街が依然として監視・緊張状態にあることをうかがわせる。

今でも綺麗に整備されているダライ・ラマ14世の使用館  3年ほど前から急に車が増えたそうだ。車を保有するのは、漢人の若者が主だそうで、確かに新車を数多く見かける。中国国内とあって、見知らぬ車(車種が多い)がいっぱいある。道路は広く、車はあまり信号がない街中を、時に喧噪に、時に静かに移動している。私の記憶違いかどうか判らないが、とにかく信号の数は少なかった。

 ラサに到着して真っ先に主催サイドから指摘(注意)されたのは、次の二点です。

  1. 街の中の彼方此方にいる制服の兵士にカメラを向けてはいけない
  2. 兵士を指さすような行為も行けない
  3. いつ誰何されるか判らないから、街の中を移動するときは例え団体であろうとパスポートを常に携行すること

 いつもどこを歩いても、何を撮影しても、誰と話しをしても良い街を歩き慣れている身としては、これはかなりの制約要因です。兵士は中国の中央政府から派遣されていて、街の様子を監視している。というより、銃を構えていていつでも戦える状態にある。監視の対象は、不満分子、騒動を起こしそうな連中であって、制服兵士の他に監視カメラがあり(東京やその他都市にもあるが、目的は違う)、そして実に数多くの私服警官がいると聞けば、気持ちは良くない。

 ラサは観光と農業の街なので、沢山の人に来てもらいたい。観光がなければこの街は成立しない。その一方で、新疆ウイグル自治区とともに、中国では民族的にも大きな問題を抱えた街としてある。

 日本から一緒のツアコンの方が、「ガイドさんはチベット人です。そのチベット人を困らせるような質問はよして下さい。最近はバスにも盗聴マイクが仕掛けれレているという話しもあります」と、これまた注意。これには困った。聞きたいことの半分も聞けない。まあその分は、じっと自分で見るしかない。

 長旅の後なので、2日の午前中はゆっくり休んで、午後から行動開始。見たのは

  1. チベット博物館
  2. ダライ・ラマの夏の離宮であるノルブリンカ 博物館にあった女体で示されたチベットの地図
 だった。博物館は中国の中央政府がチベットの各地方に散らばっていたチベットの歴史的価値のある文物を集めた博物館で、視点はチベットと中央政府の融和にある。1990年代の後半に作られたにしては結構古びた建物で、歩き回るにも苦労する。広くて。

 見ながら思ったのは、5000年も前の文物とかいろいろ展示してあって、「一体人類はいつ頃からこんな高地にまで上ってきたのだろう」といった現実離れした発想でした。石器とか土器に文様を付ける櫛など、興味深い展示物はあった。

 一つ言うと、チベット語(中国語とは全く違う)の2(に),4(し),9(く)、10(じゅう)の発音は、日本語のそれと全く同じだという。日本人の起源については、雲南に住む民俗だとかいろいろ説がある。日本人といっても縄文系と弥生系は違う。だから複雑なのだが、10までの間の数字の4つまでが一緒というのは、何らかの紐帯を感じざるを得ない。10が一緒なので、「じゅうに」「じゅうし」「じゅうく」なども一緒。

 ノルブリンカに関しては書きたいことがいっぱいある。ダライ・ラマはこの館からインドに亡命した。厳しい雪の道を通って。今の14世が使っていたいろいろなものが残っている。館そのものも綺麗に保存されていて、綺麗に色とりどりの花が飾られている。何十種類もの世界中のお札が置かれている。世界中から来た人が置いていったのだろう。日本円もある。

 ここに佇むと、チベットという民俗が置かれた今の状況を考えざるを得ない。是非多くの日本人に訪れて欲しい。説明によると、3年前までは日本のお客さんが本当に多かったそうだ。しかし暴動のあとはさっぱり。暴動の前は多かったのに、その後はさっぱりだそうだ。

 チベットのガイドさんの基本月給は1300元(2万円)くらいで、ツアーが入るごとに追加で一日30元、ヒマラヤ近くのラサから遠方だと60元とかもらうらしい。それにしても少額だし、お客さんあってのガイドだ。今チベットの日本語ガイドさんの中には、英語を勉強したいと思っている人が多いという。日本人の旅行客が減っているからだ。

 しかし一方で思う。我々が支払ったお金のどのくらいが本当に現地の人達の懐に入っているのかと。しかし行かなければゼロだ。日本人として何が出来るのか考えてしまう。

 チベットで恵まれているのは公務員だそうで、月給は普通は3000元だと聞いた。退職してからもかなり優遇されているという。

 ところで、そろそろ「高山病」の事を書いておきましょう。これは実にやっかいな病気です。私は頭痛止まりだったが、進んで吐き気にとらわれ、結局2日の市街ツアーに出られなかった人も出た。「高山病」をネットで調べると、例えばこのサイトなどもそうだが、大体が富士山登山における高山病対策が出てくる。しかし青海チベット鉄道は最高標高地点は5000を超えるし、チベットの中心であるラサはそもそもが回りから降りてきても3600メートルある。

 高山病はまずまず頭に来るらしい。頭痛がしたり、頭が重くなる。回りの人を見ていると、それに加えて顔がペイルになって、しばしば唇が青くなる。そしてむくむ。これらは高山病の一種である。そういう意味では、行った9人が全員が頭痛には取り憑かれたという意味では、高山病にかかったと言える。

 面白いのは、その頭痛も収まっても、あとで波を打つように戻ってくることが多いこと。つまりバラツキがある。人によって「ああ今日は良さそうだ」という人と、「今日はちょっと調子悪そう」という人が出てくること。これは予測がつかないそうだ。要するに酸素不足なので、それを補うことが最大の対策なのだが、吐き気まで行くとあとが大変そうだった。

ホテルの部屋にあった酸素吸入器  対策の一つは写真のような器具を使って酸素を時々補完してやることだ。ホテルの部屋には写真のように二本用意されていて、一本が35元と聞いた。ホテルの近くのちょっとした店では5元で売っていた。いずれにせよ、酸素を吸うとすっと頭は軽くなる。

 あとホテルにはもっと本格的なボンベで酸素を急速にかつ持続的に供給してくれる装置がある。メンバーの何人かはそれのお世話になって、体調を戻していた。しかし駄目な人も居たのである。

 きついのは、体を動かすときだ。歩くのも標高の高い所では疲れる。私のように、早期に高山病を乗り越えた人間にも、ラサでの移動はきつかった。東京の早足は、ラサでは通じない。あんな事を観光客がしたら倒れかねない。

 もっと大変なのは階段を上がることだ。「ぜいぜい」「どきどき」と、心臓が信号を出してくる。高所では何事もゆっくりしないと命に関わる」ということでしょう。一つ私が発見したのは、ゆっくり時間をかけてシャワーを浴びると、少し頭痛が治まると言うこと。それって、人間の体がシャワーの湯から酸素を吸収している証拠? 

 まあでも、食事も美味しいし、何と言ってもめったに来れない場所にいるのだから、本当に良い経験になる。大体夜明けが午前8時30分ですよ。日暮れは午後8時半過ぎ。チベットの人は「北京と二時間くらい時差があってもおかしくない」と言う。あの広大な国土が一つの時差ですからね。あえて言えば香港と同じ。

 笑えたのは、2日の夜食べた「きのこ鍋」の店。なんと店の名前が「人民公社」(サイトはhttp://www.dianping.com/shop/2317933)というのです。はいるとどーんと毛沢東の肖像が飾ってある。店員は皆人民服。二階に上がると、スターリン、レーニンなどなどの写真。

 「ここでは会話の内容にも気を付けねば」とか話していたら、これは文化大革命の記憶も多くの中国の人々、特に若い人々にとって「遠い過去」となる中で、「人民公社」や「毛沢東」が一つのファッションとして蘇ってきた証だという。結構混んでいましたよ。東京の銀座にも「キノコ鍋」を売り物にする店が出来ていますが、うーん、ブームの予感。


2010年09月03日(金曜日 delayed)

 (23:30)東京は猛暑続きで悪いような気がするが、ラサ 入り口のサイドから見たポタラ宮 は言ってみれば夏の間は「エアコンシティー」です。これは、インドのIT都市であるバンガロール(今のバンガルール)に付けられた名前ですが、私は一日ここで過ごして直ぐに、「ここももう一つのエアコンシティーだ」と思った。

 ホテルの部屋に入ったとき、エアコンががんがん入っていた。設定温度は19度だった。23とか24に上げようとしたが、21度以上には上がらない。ホテル全体の設定がそうなっているそうだ。「そうだ切ってしまえ」と思って切ったら、その後快適になった。それ以来、ホテルの部屋でエアコンは使ってない。夏でも最高気温はせいぜい22度程度。夜は10度前後。夏は「エアコン」具有の街でしょ。しかし冬は寒いらしい。雪は積もらない。紫外線が強くて直ぐ解けるという。

 ラサは日中外に出ると日差しが強い。ちょっとの時間でも焼ける。空気は爽やかだが、日差しがあるところは熱い。それが普通のラサですが、9月03日は起きたら雨だった。日中の雨は極めて希だそうだ。

 こうした中、市内観光で行ったのは

  1. ラサ観光の目玉である世界遺産のポタラ宮殿
  2. ラサという都市誕生の切っ掛けとなったジョカン寺(大昭寺)
  3. 時計回りが暗黙の了解となっているジョカン寺を取り囲む商店街の八廓街
  ポタラ宮の前の広場。依然はここにチベット人の商店街があったが、撤去された。その前の道路は北京東路 まずポタラ宮だが、日本に伝わっていない一番重要な情報は、前庭に作っている博物館が完成すれば、今のようにポタラ宮に入ることは出来なくなるという点だ。つまり、今後2~3年でポタラ宮は実質的に閉鎖されるということだ。見たい人は急いだ方が良い。大量の観光客を入れると城が傷むということと、かつてチベットの政治・宗教の中心だったこの宮殿を博物館化してしまおうという中国政府の意向もあるのだろう。

 日本で販売されている観光案内所にも書いてあるが、ポタラ宮はもともと「観音菩薩の住む場所」の意味で、よってその化身であるダライ・ラマの住む場所、つまりチベットの政治・宗教の中心地だった。しかし現ダライ・ラマ14世が亡命に追い込まれて以降は、中国中央政府の監視下に置かれていて、博物館下への道を歩んでいるとされる。

 その行き着く先にポタラ宮の閉鎖と前庭への宮殿文物の移管、博物館建設があると思われる。今でも公開されている部屋は、全部で999あると言われている宮殿のごく一部だが、それでも城の中の見学は迫力がある。歴代ダライ・ラマの霊廟などもあり、それが今後見れなくなると言うのは、極めて残念なことだ。

 この「宮殿」を観光客の一人として正面からつらつら見て判ることは、「この宮殿は事前に設計図を書いて建設していったのではなく、もともとの建物を継ぎ足していったら現在の形になった」ということだ。下から見ると極めて荘厳だが、実際には酷く左右が非対称なのです。そして出来上がったのは、「きっとダライ・ラマも迷っただろう」と思われる複雑な内部構造の建物だ。

 もう一つ書いておかねばならない事がある。それは階段を上がって城の中に入るのだが、それが高山病の後遺症に悩む人には非常に辛い、ということだ。日本から観光に訪れる人には事前に警告しておきたい。私は他の人に手を貸すほど余裕があったが、何人かは本当に踊り場で休み休みでしか上がれなかった。苦しそうだった。

お寺の前で五体投地する人々  最初は全部で階段が何段あるか数えようと思っていたが、上がるのに難渋している方々に手を貸していたら数えるのを忘れた。多分350段くらいはある。海抜3600メートルのサラ市内から一番上では160メートルくらい上がる。建設された歴史的経緯などは、案内書やネットのサイトを読んで頂きたいが、一つ思ったのは「人間の余剰生産力とは凄まじい」ということだ。

 ジョカン寺に行き、さらにそれを取り巻く八廓街を歩いて判ったことは二つだ。

  1. このお寺がチベットの人々がもっとも重視する巡礼の対象であること
  2. しかし寺院もその回りの商店街・八廓街も中国政府軍に完全監視・制圧されている

 の二点だ。書いておきたいのは、このお寺の回りには実に大勢の兵士、警察官が配備されている、ということだ。半数はAK47カラシニコフとも思われる銃を携行している。ちょっと緊張したのは、我々が兵士二人にカメラチェックされたこと。仲間の一人が実に立派なカメラを持っていたのです。たまたまカメラを向けた方向が悪かったのだと思うが、兵士に誰何され、直近2~3枚の絵を見せろと要求された。

 一団で寺の前を歩いていた時の事です。実際には映っていなかったのだが、もし兵士が映っていたら”削除”を要求されるのだそうだ。その場面をカメラに収めるわけにもいかないので写真はないが、「そこまでやらなくても」と思った。

 実際に50メートル置きくらいに兵士の集団がいる。通りを見渡せるビルの上にも。ヘルメットをかぶり、迷彩服を着て、そしてほぼ例外なく迷彩服の兵士はサングラスをしている。顔を隠すためだろうか。

 ジョカン寺はチベットの人々が一番厚い信仰を集める場所、心情が純化する場所だからか。しかし、これは長い目で見ればチベットの人々の気持ちを傷つけると考えた。あれは凄まじい威圧だ。観光客である我々も強い嫌悪感を抱く。

 青海チベット鉄道の車窓からも五体投地で聖地を目指す人々を見かけましたが、私が見た限りジョカン寺が一番多かった。子供達も五体投地をしている。見よう見まねで。仏教の一番正式な、きちんとしたお祈りの方法。私もブータンでは三回やってみた。今回はスペースもなくやらなかった。

ジョカン寺から見た寺正面の風景  ジョカン寺の彼方此方には、延々と五体投地(グーグルで画像検索して頂ければと思います。凄まじい絵が出てくる)を繰り返す人々がいる。彼等は真剣だ。顔を見れば判る。来世を祈る人が多いという。通常は108回と言われているそうだが、聞くと「気が済むまで続ける」とも。しばし見とれてしまう光景だ。

 チベットに行くに当たって聞いていたのは、「とにかく臭いが酷い」ということだ。ポタラ宮もジョカン寺も。確かにジョカン寺にはマスクをした人もいた。蝋燭をともし続けるのにバターなどを使ったりするので、いろいろな臭いが確かに混ざっている。チベット人自身もあまり風呂に入らないと聞いた。しかし、たまたまかもしれないが、私は街や観光スポットでそれほど臭いが強いと感じたことはなかった。そもそも、臭いに直面するのも彼の地を理解する一つの方法だと考えている。

 この日の最後に面白い話しを。メンバーが買い物をしている間の土産物店で、そこのマネージャーや店員と私の三人で話しをしていたときだ。お互いにつたない英語で喋っていたら、突然マネージャーがチベット語と中国語が両方印刷してある新聞(8ページくらいしかなかった)を持ってきて、「日本の政治はどうなっているのか」と。その写真では、菅、小沢の両氏が頭を下げている。

 私が日本人だと判っているのでこの話題を持ち出したのだろうが、彼が「トップが3ヶ月で変わる国は珍しいですね」と。こっちは、「いやまあ決まったわけではない」としばし日本の政治論議。チベット人も関心を持つ日本の政治の混迷。世界中の人が見ているんだ、と。そう言えば、イタリアの印象も首相がころころ替わったときくらいに定まった。

 「商売はどうだ」と聞くと、「悪い、ダメだ」と。「なぜ。暴動のせい」と私が聞くと二人は顔を見合わせて、「世界的な景気後退、リーマン.....」と説明した後、「special situation もあったし」と。この「特殊事情」がラサの暴動を指すことは明らかだが、そうは表現しない。あの暴動は、当然だがラサに住む人々には凄くセンシティブな問題なんだと判る。

 暴動以後1年間のラサでは、むろん商売は上がったり。観光客も来なかったから。「観光と農業」のラサには痛い。酷いのはその一年間は五体投地も禁止されたというのだ。チベットの人々の命なのに。


2010年09月04日(土曜日 delayed)

 (23:30)昨日の朝から全く頭痛がしない。昨晩など大阪のホテルに居るのと全く同じような状態。お部屋は快適です。ラサでこのホテルだけだそうだが、NHKがライブ(ほぼ?)で見れる。番組はちょっと違う。土曜スポーツがなかった。日本の対パラグアイ戦勝利を見たかったのに。多分「放送権上の制約」で最初からダメだったでしょうが。もっともラサでNHKを見たのは全部で20分程度。外の方が面白い。

カムバ・ラ峠からヒマラヤの方向を臨む  話しが飛んでしまったが、それ以前は高山病の軽い後遺症で時々頭痛がしていた。しかしもう酸欠状態には慣れたのだろう。ナイス。その後も高山病の症状は出なかった。標高800メートル(諏訪)で生まれたから、というのは関係ないらしい。直近にどこで、つまり標高何メートルのところで生活していたかが重要だと。そういう意味では、素早く高山病を克服できるかどうかは、ひとえに体質・体調による。そういう意味では私は高山病で重い症状にならずにラッキーだった。

 旅のメンバーはいろいろな対策をして来ていた。東京で処方してもらったダイア...なんとかと言う薬を飲んでいる人もいた。酸素を盛んに吸飲している人もいる。しかし水をよく飲み、深呼吸が常なる薬だ。他のメンバーも徐々に軽くなっているようだ。ただし4日の朝はまだ頭が痛いと言う人が結構いた。

 9人のメンバーのうち3人が男、6人が女だが、今回のケースでは総じて男は強かった。もっとも男三人のうち、一人は高山登山が趣味の人で、キリマンジェロまで登ったという。もう一人は、いつも海外に出かけている屈強な元記者。それに風邪もめったに引かない私。

 女性は6人と数が多いだけ、今回はいろいろあった。女性メンバーの中の半分は対高山病の薬を日本を出る数日前から飲んでいたらしい。それでも夜中に鼻血が出ていた人もいる。一昨日一日を棒に振ってホテルで過ごし、昨日もポタラ宮殿に上るのに非常に難渋した女性もいた。高地での階段の上がりは、彼女だけでなく皆同じに厳しかった。

 日本人の場合、通常は10人がチベットに来ると3人は重い症状の高山病になるという。確率的に。割合から言うと症状が強く出るのは男性が多いという。年をとった方がダメかというとそうではなく、細胞が若い方がなりやすい、つまり若い方が高山病が悪化するケースがあるという。

ヤクにも乗ってみました。海抜4000メートル以上にしか住めないこの動物は、清い水、清い草を食べることで、チベットでは一番人気の動物。一頭500元すると聞いた。ヤク持ちは金持ち  こうした中、4日の午前中は海抜4700メートルのヤムドゥク湖が見えるカムバ・ラ峠までバスツアー。インドやブータンほどではないが、酷い道だ。しかもあちこち土砂崩れで修理中だ。これでも数年前に比べれば非常に良くなった道だそうだ。バイクが我々のバスに追い越される形で何台も登っていく。運転している人の顔を覗き込むと、コーカシアンだ。

 バスの中で聞いた話によると、ヨーロッパの連中の間ではチベットやネパールを自転車やバイクで走破するのが流行っているという。自転車やバイクは持ち込むケースもあるが、現地でレンタルするケースもあるという。ナイス。いつかバイクでやりたい。

 4日は生憎朝から曇っていて(時々軽い雨)、「峠では晴れてくれ」と祈ったが叶わなかった。それでも着いた直後はヒマラヤが見える方向は明るかった。それが上の写真です。それにしても、ヤムドゥク湖は綺麗な湖です。中国でこれだけ澄んだ湖を見れるのは希有でしょう。

 しかしこの綺麗な湖は緊張に包まれている。峠を見渡す一番良い場所には公安の施設がある。そして、そちらの方向にカメラを向けてはならない。この景色の良い地帯は、チベット人のインドへの亡命の通過点になっているとも言われている。だから中国中央政府の監視所がある。暴動後に出来たらしい。

 亡命に失敗して捕まると、チベット人はどうなるのか。そのまま監獄に入れられて一生出てこれないとも言われている。景色は綺麗だが、ダライ・ラマも亡命の時にこの峠を通過したということで、とても緊迫した場所なのである。

 午後はセラ寺でお坊さん達の哲学問答を見ました。セラ寺はもともとお坊さんの教育機関。その教育の一環として、月曜日から土曜日までの午後の一定時間に、寺の庭の一つで、お坊さん同士で哲学問答を展開。それが実に見応えがあるのです。

 片方(通常立っている)が問題を投げかけ、アクション豊かに相手を問い詰める。答えるサイドは通常は座っていて、投げかけた問いに対する答えが満足できなければ、立っている方はとことん突き詰めていく。この問答に関しては動画を撮ってきましたので、一本のチャットのコーナーの記事にしたときにアップします。

旅の途中にあった水葬場  それにしても、ラサは交通事故が多そうだ。旅行中に2件の事故を目撃した。さもありなん、と思う。とにかく運転が荒い。我々が乗ったバスの運転手もそうだった。良く前を見ずにどんどん追い越しを掛ける。黄色二本線の「追い越し禁止」場所でもお構いなしだ。ラサの空港で別れたときには、ほっとした。

 恐ろしい、そして想像を絶する数字を聞いた。それは日本で一年間で交通事故で亡くなる人は確か5000人強だが、人口15万人のラサだけで半年に事故死する人が3000人に達したという。直近の発表だそうだ。人口比では凄まじい割合でラサでは事故が起きていることになる。

 私はこの数字が信じられずに何回も聞いたが、「そうだ」とチベットの人は言う。思い当たる節もある。そもそも信号が少ない。そこに運転に慣れない運転手が急増し、しかもこれはアジア共通だが、横断歩道にも車が突っ込んでくる。我々もしばしば危ない目にあった。駐車場というものがない。止まっている車は全部歩道に乗り上げている。歩道に駐車の赤いマークをしてある場所もあるが、まあ無秩序だ。交通規則が守られているとはとても思えない。

 奇妙なことに、道の両サイドに白線が引いてあって、最初自転車用かと思ったら、誰も自転車に乗っていない。そもそも自転車の数はラサでは少ない。他の中国の都市に比べると。そこを大勢の人が歩いている。車の直ぐ横を。車から見ると、その先に街路樹などが植えられている。つまり車の直ぐ近くが歩道なのだ。事故が起きて不思議ではない。

 もうちょっと詳しい話しをすると、そもそも免許を取れる学校がラサでは少ない、足りないのだという。で車が欲しい若者はどうするかというと、まず買うのだそうだ。四輪のセダンは60万円ほどからある。買って運転を始めてから、免許はお金で後で買う、というのだ。これでは事故が多くなって不思議ではない。

 バスの中で面白い話しを聞いた。チベットでの葬儀について。これについては、調べたら既にサイトがあるが、私が聞いたのは以下のような内容でした。鳥葬に関する内容もかなり違う。
  1. チベットには5つのタイプの葬式がある。塔葬、鳥葬、水葬、火葬、土葬。「塔葬」は、歴代のダライ・ラマなどが葬られた形で、遺体を乾燥してミイラ化させる。ポタラ宮には歴代の霊廟があり、黄金で作られた座の上には今でも歴代ダライ・ラマのミイラが入っている

     

  2. 一般庶民の葬式は、大部分が「鳥葬」である。場所はセラ寺の裏側の山の斜面など決まっていて、死んだ人の体を完全に解体し(だからチベットでは解剖学が非常に進んでいるらしい)、骨など食べにくい部位から鷲に食べさせる。鷲は山の上から飛び降りてくる。最後は肉で、その順序で出さないと鷲が最初に満腹なって骨まで食べないそうだ

     

  3. 鳥葬は専門の人の集団がやり、その値段は決まっていないため(日本の寺に対するお布施もそうだ)、結果的に結構コストがかかるらしい。かつ、チベットでは死んだ人が身につけていたものを死んだからといって外してはいけないという。首飾りなど宝飾品の数々。家族・親族にお裾分けできず、葬儀に当たった専門の人の所有となる。それやこれやで、鳥葬を専門にやる人達は経済的には豊かだという

    チベットの道沿いの岩山に沢山ある階段。天上の死者に降りてきてもらうために沢山書いてある

  4. しかし、チベットの女性もそういう人達を「こわい」と考え、あまり結婚相手には選ばないそうで、そういう専門の人は生涯独身の人も多いという。一つ興味深いことに、お酒やタバコを好んだ人の内蔵は、鷲も嫌がって食べないために、鳥葬を専門にする人は鷲に提供する順番などに工夫を凝らすそうだ。とまれ、鳥葬があるが故に、チベットの人は鶏であろうとあまり食べないという(対して漢人は鶏肉が好きだ)

     

  5. 12才以下の子供は「水葬」にふされる。鳥葬をするお金がない家族も「水葬」を選ぶという。チベットでは葬式は特殊男性的な儀式で、例えば12才以下の子供が死んだ場合、それが例え母親であれ水葬の場には女性は参列できないという。「水葬」があるが故に、チベット人は決して川魚を食べない(中国人が入ってきて食べたとき、大騒動になったそうだ)

     

  6. 伝染病でなくなった人など鷲や魚に食べさせるのも憚られる場合には「火葬」にするという。伝染病者以外にも、高僧などが火葬にされるケースもあるという

     

  7. 最後は「土葬」で、日本も昔はこれが圧倒的だったが、チベットでも「過去の埋葬方式」となったようで、今ではほとんど行われていない、という
 私が詳しくチベットの葬儀方式に関しては書いたのは、その民族の特徴、人を葬るときのその土地独自の考え方が示され、それには合理性があると思うからです。ブータン旅行記でもこの点には触れました。鳥葬、水葬を考えて頂ければ良いのですが、ブータン同様、チベットにも「墓」と呼ばれるものはない。塔葬の塔は墓とも言えるが、それは極少数の権力者の霊廟。庶民の墓はない。日本が何処に行っても墓があるのとは全く違う。数字の数え方が似ていても、違う点です。

 しかし死者との紐帯が切れるわけではない。家族や親しい人は、死んだ人の死んだ日をよく覚えていて、49日の法要、三回忌、七回忌などなどをきちんとすると言う。写真のように、チベットの道を走ると、道沿いの岩山に白線で沢山の階段が書いてある。先祖や死者をたたえる祭りのおりなどに、沢山の死者に降りてきてもらうために描かれた階段だそうだ。

 生きている人々の気持ちが天に昇るための、そして天上から死者が容易に降りてこられるように書かれた階段。人々の思いが詰まった白い階段です


2010年09月05日(日曜日 delayed)

 (23:30)チベットのラサを離れて成都で乗り換えで、今夜は北京です。ラサを離れるのはかなり残念。本当は自分の目の前でヒマラヤ山脈を見たかったし、チベットという非常に興味深い民族の奥深いところを知りたかった。決して最後まで分かりはしないだろうが、一ヶ月いたら相当面白いレポートが書ける気がする。

異様だが荘厳ではあったポタラ宮殿にさようなら  ラサ空港でビックリしたのは、搭乗ロビーで全く偶然に朱建栄さんに出会ったこと。これにはビックリした。テレビの番組、具体的にはNHKのBSディベートでご一緒したことがある。上海に向かう途中だという。同じ時期にチベットに居たことになる。

 成都も北京も久しぶりです。成都は乗り換えだけなので、空港の外に出られなかったのが残念。。麻婆豆腐の元祖・陳麻婆豆腐の本店と、街角で麻雀をしているご老人の多さが印象に残っている。むろんニョキニョキと伸びるビルも。窓からちょと見えた。日本の企業も一杯進出していて、取材もしたことがある。成都空港では食事をしたが、やはりうまかった。

 北京は、スモッグで酷い天候でした。西寧に行くときも乗り換えで通過したが、その時も空の空気は酷く汚れていた。ついでに言うと、河の水色も酷かった。緑になっていた。今回は降りて食事場所まで移動し、そのまま北京泊だったのですが、日曜日の午後遅くと言うことで、郊外に出かけていた車が一斉に帰ってくるのとぶち重なって、酷い渋滞。北京空港のサイドから北京市内に向かう高速道路は、一本しかないそうだ。

 渋滞と言えば、内モンゴルから石炭を運ぶトラックなど1万台が引き起こしている中国の北部の大渋滞は、「420キロに達している」と、China Dailyという新聞に書いてある。その見出しは、「Monster traffic jam......again」となっていた。

 今回の旅行の中で一つ確認したかったのは、中国の銀行制度の健全性(?)チェックだ。2004年の4月の取材の折りに、確か北京の南京街だったと思ったが、中国工商銀行で作った人民元、日本円、米ドルのそれぞれ少額の預金がどうなっているかを、久しぶりに調べたかった。

 極少額だから、カレンシーに対する思惑があったわけではなく、とにかく当時中国のバンキングを調べるために実際に作ったのです。取材陣と一緒に。今回、それをラサで調べた。ごく最近出来たという中国工商銀行のラサ支店で。実は口座の暗証番号を忘れてしまったので入金も出金も出来なかったが、残高がどう動いていたかは調べられた。忘れていたが、口座維持には年間10元かかっていたそうだ。

 しかし毎年5元程度の利子が付いて、人民元口座の残高は30元ほど減っていた。日本円は1万2000円入れていたのだが、多分金利が低い状態が続いていたからでしょう、利子はなく同額だった。米ドルはほんの少し増えていた。いつか思い出すと思うので、しばらく口座はそのままにしておくつもりです。日本にもICBCの支店はあるが、中国で作られた口座はハンドルしない。口座は取材を許可してくれた中国の担当部署の担当者も帯同で作ったもの。

 今回の訪問では、いろいろな言葉も覚えました。まず「面子住宅」もその一つかな。中国の道は日本のそれと違って、敢えて走っていけばインドへも、パキスタンへも、そして遠くはヨーロッパまで通じている。チベットを走っている国際道路も多い。

 沿道の家々がみすぼらしいと国の権威に関わると、中国の中央政府は沿道の住民に1万元ほどを貸して立派な住宅を造るよう奨励するのだそうです。チベットの海外諸国に通じる大きな道の沿道の住宅は確かに立派です。私が三峡ダムを目指して田舎の道を一生懸命車を走らせた時とは違う。

 しかし中国でも住宅は1万元では出来ない。為替レートにもよりますが、1万元とは14万円弱ですから。いくら何でも無理。最低15万元はかかるそうです。で、1万元もらった住民は残りを借金して家を建てる。沿道の農家や、遊牧民、半農・半遊牧の民達です。見ると、どれもよく似た色形をしている。しかし、現金収入の少ないチベットでは借金を直ぐ返せなくなる。

 その結果は、立派な「面子住宅」も、中に入れる家具などあるのは一階部分だけ。二階は何も置いていない。確かに車から見ると、二階はスケスケ。窓も入っていないように見える。しかもお父ちゃん、お母ちゃんは借金返済の為に出稼ぎでおらず、家にいるのは祖父母と孫だけという家が多いのだそうだ。まだまだ貨幣経済に慣れていないチベットの人達が、陥りやすい落とし穴のように思う。

 高山病と並んで日本から数多くの問い合わせがあったし、私も興味があったのは「ラサ、さらにはチベット全体の通信事情」でしょう。日本でも大きく報じられたラサ暴動の後、チベットやラサの通信事情がどうなっているかは日本には伝わっていなかった。だから、BGANも持って行った。

 まずケイタイですが、これはコンテンツを含めてかなり自由に、スムーズに使えた。これはやや予想外。もっと規制されていると思った。ドコモもソフトバンク(私の場合はiphone4)も、メンバーの一人が持っていたauも、かなり角度高く繋がる。どこでも。ローミングですが、ラサやその近郊はほとんど問題がない。私は数年前にパスポートを三峡下りの船のセーフに置き忘れて中国の道なき道を忘れ物を取りに移動したが、その時でもケイタイは中国のどこでも通じた。今回もほぼそうだった。

 もっとも、今回はさすがに青海チベット鉄道のかなりの部分では「圏外」が出た。それは人住まぬ場所を移動するからで、自然でしょう。ケイタイではツイッターも楽に出来た。3Gだからちょっと遅いが、不自由はない。もっとも、データ量が多い写真は重い。通話は、声がちょっと遠いが、まあ言ってみれば「日本の感覚」でケイタイは使える。

 一番心配していたのは、ホテルのネットだ。「暴動後どうなっているか」については、日本でも情報がなかった。で対応策としてBGANをもって出かけたが、行ってみたら我々が泊まったホテルは「無料・使いたい放題」だった。一部の人達が、「伊藤さんのサイトは中国では見れない」と報告してくれた「http://www.ycaster.com」や「http://arfaetha.jp/ycaster/」も問題なく見れた。

さらばラサ、さらばチベット  我々が泊まったのはアメリカ資本と中国資本の半々の出資によるホテルだそうで、そういう環境もネット接続には有利だったのかも知れない。ラサで唯一らしいが、NHKも見られた(しかしラサで見れたNHKは、北京では見れなかった)。サッカーのパラグアイ戦は「放送権上の制約」で見れていないが。

 では日本のようにネットをフルに使えたかというと、それは違う。日本では私はツイッターのためのいくつかのPCに入れたtweetdeckを頻繁に使うが、ラサではついぞそのコンテンツが表示されることはなかった。ソフトウエアは起動するが、内容が出ないのだ。

 繋がらないという意味では、「http://twitter.com/」のオフィシャル・サイトも同じで、「Internet Explorer では twitter.com に接続できませんでした」と出てくる。要するに遮断されいるのだろう。なぜケイタイ(iphone4ではtweetdeck を使っている)を通じた通信ならokで、ホテルのネットを通じたネット通信では「no」なのかは知らない。このtweetdeck やツイッターのオフィシャル・ページのネットとケイタイの関係は、北京でも同じだった。つまりケイタイやスマートフォンでだけ、中国ではツイッターが出来る。

 「伊藤さんがラサに居る間、あまりツイッターをしないのは、きっとホテルのネット設備が悪いからだ」との書き込みがあったが、だからそれは違う。ちゃんとダライ・ラマ関連情報以外は99%のサイトを問題なく見れた。FTPも問題なく出来た。かなりの写真をサーバーに送ったから判る。

 しかしPCを使ったインターネットでのツイッターの通信は遮断されていたのだから、問題はあったし、不自然だった。恐らくダライ・ラマがツイッター・アカウントを持っいることは知られていて、ネットでの制限を掛けているのだろう。その一方で、チベット(というより中国)ではケイタイやスマートフォンを使ってツイッターをする人はまだ少ないからだろうか。

 ケイタイやスマートフォンで出来るのに私がラサ滞在中にあまりツイートしなかったのは、そのiphone4やケイタイを通じたツイッターが、ラサでか北京でか監視されている可能性が高かったからだ。そんな監視された環境でツイートしたくないし(最低限のツイートはしたが)、そもそもツイートするより街や人々を見て、例え短い会話でも現地の人と触れ合いたかったからだ。

 それにしても、乗り換えを含めてラサ、成都、北京と移動し、ラサでは郊外も走り回ったが、数年前に比べて劇的に車が増えている。道路を走っても、沿道にはディーラーの店舗が所狭しと出店している。その店の数の多いこと。しかし売れれば売れるほど、中国の渋滞件数は増加する。

 そういう意味では、「成長の隘路」に中国は直面しつつある。北京の市内で見かけた大きなマンションの窓は、その多くが夜は真っ暗だった。


2010年09月06日(月曜日)

 (14:30)今日の午後、北京から羽田に帰ってきました。やっと遅れを解消し、その日のday by dayをその日にアップできるようになった。久しぶりな気がする。チベットに向けて出発した8月31日以来です。

 物理的にはチベットのラサからでもアップは出来ました。昨日も書いたように、ネットは繋がっていたし、多分FTPも問題なく出来ただろう。その日にあったことは、文章としてはその日に書いていましたし、いつも通り写真も自分で撮ったものが大部分でした。そうした方が良かったかもしれない。

 しかし、以前から「中国ではycaster のサイトが見れない」という報告もある中では、そして中国における全ての通信が監視されていると噂され、特にチベット関係はうるさいとされる中で、特にラサでは今回はその日その日のアップはしないことに決めていた。行く前からです。

 第一に団体旅行ですから、何かあってはいけない。何もないと思うが、今の中国にとってはチベット問題はセンシティブな筈です。それは私がこの目で目撃してきた。しかし、そうだからこそ、私は思ったままを書きたかった。だから「delayed」にした

 一日一日の印象を書きつづったday by day とは別に、近く全体の印象記をまとめる予定です。正直、今回チベットに行って良かったと思う。行って見るのと、見ないのとでは全く違う。チベットは、なるべく多くの日本の方に訪れて欲しいと思う。

 それにしても、ラサの街の彼方此方や郊外で見かける兵士は威圧的だし、チベットで一番神聖とされるジョカン寺が、中国政府の制服兵士に制圧されているかのように見えたのは、私にとっても衝撃だった。恐らく、チベットの人には屈辱だろう。

  1. 3年前のモンゴル紀行
  2. 昨年のブータン紀行
 に続く今回のアジア極地旅行。あくまで日本から見た「極地」のイメージ。しかし、チベットはアジアの中心、そうでなくても一つの大きな核だったことがある。日本が世界史の表舞台に出てくるずっと前から。

 その点を日本人は忘れがちだ。チベットは、大陸のど真ん中に位置する。チベット人が作った吐蕃王朝(7世紀初めから9世紀中ごろ)は時に唐を凌駕し、王女(文成公主)を人質に取った。今でもチベット仏教はアジア全域に強い影響力を持っている。チンギス・ハーンの孫であるフビライ・ハーンはチベット仏教に帰依した。だから今のモンゴルでもマニ車がいっぱいある。

 去年行ったブータンでも、人々は深くチベット仏教を信じていた。地理的に近いから当然と思う人もいるかもしれないが、それはやはりチベット仏教にそれだけの魅力があったのだろう。踊りなどはブータンとチベットでは良く似ている。良い悪いは別にして、宗教を忘れてしまった日本とはかなり違った世界だ。日本と違う。だから、面白い。

 また来年もどこかに行きたいものだ。「先進国を訪ねてもちっとも面白くない」と思っている私にとっは、非常に刺激を受けた旅だった。

 旅の最後の最後の北京で。北京の旅行業者の間では、チベットの評判が悪いのだそうだ。標高50メートルの北京から行くと、多くの旅行業者が高山病で倒れてしまうからが一つ。もう一つは、「恐らくラサで街を歩いている人の半分は私服警官で、そんなところには行きたくない」ということだそうだ。中国人が言っていた。

 本当かどうか知らない。しかし多くの人が「恐らくそうだろう」と言う。チベット人同士が、仲間内の会話にも気を付けている、という話しは聞いていた。だからあり得ない話しではない。チベット人でも、中央政府の味方をする人はいるだろう。しかし、普通に観光しているぶんには、何ら問題はないし、多くのチベット人が観光業でメシを食べていることも忘れたくない。

 ポタラ宮殿もあと3年で閉鎖される。それを知らないで行ったが、たっぷり見れた。それが良かった。また行きたい。


2010年09月07日(火曜日)

 (02:30)チベット旅行中に「これは役立つ」と思ったのは、「クラウド」でした。特にリコーさんのquanpは非常に有効でした。撮った写真や動画は、毎日自分のquanp アカウントに投げていました。投げてしまえばもう安心。守られますから。

 それは第一に、「旅行中にはカメラや、そこから写真や動画を移すPCに何があってもおかしくないので、quanpに投げておけばもう安心」ということが大きいが、チベットの場合は「予想されない事態への対処」(例えば写真や動画の押収など)という理由もあった。

 皆さんもそうだと思うが、旅行中の写真や動画は直ぐに溜まる。枚数が多くなりますから。撮影余地の残すために、私はメディア(例えばカードやUSBメモリー)を数多く持っていくことはせず(小さいからなくす危険性あり)、文章を書くためなどに持って行っているPCに移していた。今までは。

 しかし今回はクラウドとしてのquanp を多用しました。まず、その日の撮った写真や動画はその日のうちにquanp 内に旅行名とその日名義のプレース(フォルダに相当)をもうけて、可能なときに転送した。ネットはホテルの部屋でただで使えましたから。加えて、このday by day の文章を必ずquanp に投げておいた。それは、何があるか分からないラサで、写真・動画と文章データを安全に保護するための措置でした。カメラやPCの中に残しておけば、いざというときに危険にさらされる。

 実際に旅行中にはメンバーの一人が立派なカメラをもっていたが故に、「直近の数枚を見せろ」と兵士二人に誰何された。ジョカン寺で我々全員の前でです。世界を見ても、日本ほど何を撮っても怒られない国はない。チベットでは、空港内は当たり前ですが、大きな橋は軍事的理由からどれ一つとして絶対撮ってはならない。撮ると直ちに押収される。どこかで見ているのです。山の上から、双眼鏡で(?)。

 クラウドとしてのquanp は、ネットが通じている世界中で有効に使えると思う。まあ、国内でも同じだと思うが。今回それを実感した。「(quanpに)投げれたらもう安心」と思ったものだ。quanp に day by day のテキストファイルも投げたのは、やはり現地的には問題のある文章もあるかもしれない、と思ったからです。

 だから、こういうことも考えた。「撮った写真をファイルとして残すのではなく、直ちにquanpなどクラウドに投げるカメラ」があったら便利だ、ということ。写真の出来具合は、あとでゆっくり確認すれば良い。技術的には問題なく出来る。すっごく安心じゃないですか。

 同じクラウドでも、dropbox はちょっと怪しかった。といってもソフトウエア、サービスとしてのdropbox が怪しかったという意味ではない。チベットを含めて今の行政区分としての中国にいる間中、dropbox の「同期完了の緑マーク」が一度として付かなかった。なぜだか分からない。日本でdropbox を使っていてPCで同期作業が終わるとdropbox のフォルダにも、その中のファイルにも必ず緑のチェックがつく。

 それが中国にいる間ずっと、まず同期作業をしている様子がなく、従って同期完了の緑マークが付かなかった。ずっと不思議だった。ネットは通じているのに。何かがおかしいのです。中国のネットワークが同期を阻止しているとしか思えない。日本に帰ってきたらちゃんとデータ同期の緑マークは付きましたから。

 それにしても、帰ってくるとやることが一杯ある。頼まれていたこのサイト用の原稿を、大部分は北京からの飛行機の中で書きましたが、ファイナル・タッチに仕上げ、day by day の文章をアップし、来ていた郵便物を処理し、NHKオンデマンドで不在中のゲゲゲを見て(以前より面白くなくなったが、水木さんにスランプがあったのが意外).....と。

 あーあ、今日からまた暑い暑い日本で。「アジアのエアコンシティー」は良かった。

ycaster2010/10/03)