2007年の9月1日から5日間、かねて行きたいと思っていたモンゴルに出かけた。過去何回も中国の各地を旅行したメンバーを中心に15人の大人数でしたが、念願の大草原とそこを吹き抜ける風、そして天空に光り輝く星などを含めて、モンゴルという国と、そこに住む人々に少しでも触れられたことは収穫でした。
その日その日に行ったこと、感じたことなどに関しては、day by day にアップした文章に書いてありますが、そこに書かなかったことで興味深かったことをアットランダムに項目にしてみると、
市内にはいろいろなレストランが出来つつあるように見えました。我々が行ったレストランでも、ウクライナ、中華、和食など。ゲルの食事は乳製品が主。あとは馬乳酒。これは直ちに大量に飲めるようなものではなかった。少なくとも私にとっては。
2007年09月02日(日曜日)
(07:57)知っている都市で何処と似ているか、と問わ れれば、「ベンガルール」と答えますね。旧バンガロール。インドの南のITで有名な都市です。
まず同じように高地にある。ガイドのメグさんの解説によると、ウランバートルは標高1350メートルにあるそうです。相当高い。ペンガルールは確か900メートルくらいだったと思ったのですが、市の中心部まで悪路であり、車が右左と蛇行しながら行き交うこと、土埃が凄いこと、ビルがまばらなことなどが良く似ている。もっとも、ビルの近代化度、高層度ではベンガルールの方が上です。凄まじい資本がインドの街には入っていますから。ウランバートルはまだ巨額の資本が入っているという印象はしない。気が付いた建設中のビルはシャングリラ・ホテルだったりしましたから、これからでしょう。
モンゴルの人口は270万人。うちウランバートルに正式に住所を持つ人間が70万人。しかし、実際には100万人程度がこの都市に住んでいるのではないか、と言われている。つまり全人口の三分の一が首都にいる。広い国土なのにもったいないと思うのですが、それには経済的理由があるのでしょう。建設ラッシュですから労働者は必要です。「韓国の全人口のうち、四分の一がソウルにいる」よりも集中度が高い。
空港に夕方降り立ち、小型バスで市内を移動し、そしてレストランで食事をしてホテルにチェックインし、そこで一端解散。しかしガイドさんを含めて有志4人で夜の街にほんの少し繰り出しただけですが、いろいろ印象はある。
今回のツアーは総勢が15人。旅慣れた人達が多い印象です。新聞記者、その出身者が多いので、まあガイドさんに対する質問が多いこと。ははは、私も相当質問する方ですが、ちょっとメグさんが可哀想なくらいです。
ウランバートルは盆地です。川に沿って出来た街だそうで、当然ながら川に沿って長い。しかし空港に降りてまず感じるのは「ここは盆地だ」という印象であり、さらに言えば山には木が生えていない、ということ。一面が草原です。北京の北の万里の長城の、そのまたかなり北にある街という印象がする。普段はあまり雨は降らないのだそうですが、今年の8月はそうとう雨が降ったそうで、私はそうは思わなかったのですが、 明日行くゲルは通じないそうですが、ウランバートルにいる限り、インターネットや日本からのケイタイは違和感なく通じる。ウランバートルでもケイタイ電話の桁数は8桁と少ないのが良い。私は相変わらず旧ボーダフォンを使っていますが、問題ない。
南の中国と北のロシアに挟まれた国・モンゴル。街のカンバンを見ると、ギリシャ語、ロシア語のような複雑な綴りのカンバンが目立つ。漢字はほとんどない。この国の言葉についてはまだあまり調べてありませんが、草原に無理矢理国境線を引いたような国で、中国のモンゴル自治区と合わせて、いずれ何らかの問題が起きそうな国でもあります。ただし今は国造りに邁進、といった風情。
あと言えるのは、寒暖の差が激しいことでしょうか。昨日は昼間は24度でしたが、やはり夜になるとぐっと冷える。半袖ではちょっと難しいくらい。長袖が夜には手放せない。
2007年09月02日(日曜日)
(08:57)それにしても、この国はなぜ全てが「チンギス・カーン」なんだろうとしばしば思う。
空港の名前から、ホテルの名前、製品の名前、そしてモンゴルに関わる人々の記憶まで、何かといえばチンギス・カーンに絡む。一見したところ、モンゴルの高額紙幣も肖像はチンギス・カーンです。800年も前に生きた人なのに。
理由の一つは明らかです。それは彼があまりのも偉大、有名、悪名高いからです。彼の子孫のその後の活躍も入れると、ユーラシア大陸の三分の二を支配する帝国を作った彼が人並み外れた人であることは明確です。北方諸民族の中でもそれほど強い、大きな集団から出たわけでもないのに、あれだけの帝国を作り上げた。軍事力、政治力が並はずれていることは間違いない。
しかしじゃあ他に人はいないのか、と思う。モンゴルの他のウリはと。多分私が知らないだけなのでしょう。歴史的には一杯面白い人物がいるに違いない。中国の天安門にいまだに毛沢東の肖像が掲げられているのは、彼が偉大だったという以上に、今の中国が政治的求心力を求めようとしたら、彼の悪事も分かっているし、政策の間違いもいっぱいあったが、結局毛沢東という人物に行き着くしかない、という理由があるからで、中国には他に偉人も一杯居る。
モンゴルが独自の書を残さず、当時の彼等が何を考え、どう生きたのか分からないということも影響しているのかもしれない。モンゴル航空の中で読んだチンギス・カーンに関する長い記事によれば、彼は周りの人間誰にも自分の肖像を描かせなかったそうだ。だから今に残っている彼の肖像は、皆想像だというのです。
一事が万事で、あれだけの帝国を作ったのに、書かれた歴史がない。その存在の歴史的な意味合いはあまり論じられない。記録がないからです。中国の歴史書、彼の子孫達に襲われた欧州の記録など、周辺情報しかない。そして凄まじい殺戮の果てに、あれだけの帝国を作ったという結論だけが突出し、攻められた方が野蛮人の集団と呼ぶ。「タルタル・ステーキ」はその名残です。しかしモンゴル人を含めてあれだけの帝国を作ったこと自体を賞賛する人々が世界中にいる。私にもそういう気持ちはある。
それはやはり人類史における偉業だと思う。狭隘な国境の概念を、遊牧民の論理で木っ端みじんにし、貿易を盛んにし、欧州の人々にアジアの存在と技術を、アジアの人々に欧州の存在の思念を伝えたという功績も大きい。しかし、それにしても、なのである。
理由の第二は、少し書きましたが「他に語るべき事がない」ということが大きいのだと思う。馬と騎射は、12世紀、13世紀、そして14世紀、そして軍の機械化、機構化が進むまでは圧倒的な戦略的優位さを保持できた。今でもモンゴルには200万頭の馬がいるそうで、これは人口比では世界でもっとも多いという。
馬と騎射の戦略性が失われると同時に、モンゴルとその帝国は力を失い、そしてそのままずっと現在に至っている、というのが一際チンギス・カーンが目立つ理由でしょう。近代史を見ても、モンゴルをかつての世界を支配した状況から、世界に振り回される存在になってしまっている。
ウランバートルは発展の途上にあるが、都市としては決して魅力溢れるようには見えないし、世界の都市に比べてもまだ貧弱です。モンゴルは地下資源が豊富だと言われて中国の企業が相当進出してきているし、欧米人も多い。しかし、石油は東部の方で少し出るくらいで、資源大国には遠い。
輸出品、おみやげ物は何かと調べると、カシミア程度。それも日本の援助などでやっと工業製品としての存在感を高めている。要するに、今現在で「見るべきモノ」に欠けているのである。無論、この国が今のまま行くとは限らない。しかしそこにこそ、「モンゴルの課題」が見えるような気がする。
そんなことを思いながら、市内観光→ゲル宿泊に行きたいと思います。
2007年09月03日(月曜日)
(23:57)ウランバートルの劇場で、モンゴル大好き日本人に会いしました。短い間の会話だったのですが、非常に面白かった。
その人が最初に来たのは、1995年頃だそうです。新潟の高田でご商売をしている本里さんという方ですが、まだウランバートルの人口が50万人程度。今よりだいぶ少ない。市場経済は始まっていたのですが、まだまだ不自由な経済状態で、「キオスクなんてのは蝋燭で夜は商売していましたよ」とはその人の言葉。まあ今でもゲルにはやっと電球と小さなコンセントが一つあるくらいですから。しかし今のウランバートルの夜は、街灯はないが店のネオンは結構華やかです。
モンゴルの何がこの人をそれほど惹き付けているのか。端的に言って、その広さだというのです。どこまでも続くともしれない草原、そこで馬に乗ったりすれば日本では決して味わえない醍醐味がある、風も爽やかと続く。まあ同感です。それ以来6度いらっしているそうです。今回はお孫さんも連れて。
この方が言っていた、「モンゴルに惹かれた話し」二題。ゲルに関わるものです。
キャンプ場とは、ウランバートルから60キロのところにあるツェベグマー。ゲルでの一夜を体験するためで、ウランバートルを出て、 旭襲山の生まれ故郷の村(街)を過ぎ、チンギス・カーンの生まれた山を左手に見て、がたがた道を2時間以上走って。しかし着いたところは、「ここが中央アジアまで続く大平原の一部か」と実感できる場所の一角。
馬にも2日の夕方と3日の朝に合計2時間半ほど乗りました。モンゴルの馬は、我々が日本で見るサラブレッドとは二回りほど小さい。日本の戦国時代の馬も小さかったそうですが、ここの馬も小さい。しかしポニーよりはるかに大きいし、「力持ちですよ」とメグちゃんは説明していくれる。
その馬の上に一人一頭で15人が揃って乗って移動。直ぐに乗れるようになる。ただし初日は歩きだけ。馬を走らせたり、右左に曲がらせるのはなかなか難しいと感じた。納得がいったのは2目です。馬を自由にして、持っていた帽子で馬の横腹を強く叩いてみた。先導してくれた遊牧民の子供そうやって馬を走らせているのを見たからです。
走り出しました。やはる馬は走らないと、と思いながら300メートルくらい走ったかな。爽快でした。また乗りたいと。少し慣れるともっとうまく扱えるようになるのではないか、と。ちょっと自信過剰ですが。
この馬に乗って、モンゴルの13世紀の連中が遠く欧州まで遠征したとは迂遠な話しですが、歴史的事実でもある。なかなか壮大で、本当にタイム・マシンが欲しい、行ってみてみたいと思う一瞬です。
ウランバートルに戻ってきてからは、日本人捕虜で亡くなられた方の墓地(1500人以上の方が眠っておられる)、市内のデパートを見たりしましたが、特に興味を引かれたのは街の全体的な姿ですかね。急激に発展したということはるが、あまりにも無秩序で、インフラが整っていない。住宅地なのに水道が来ていないとか、どこに行っても土埃だとか。
社会主義の残滓がやはり強く残っているのです。街の発展度の低さといい、デパートの店員の無愛想といい。しかし劇場の役者達はさすがに笑い慣れしていました。悪い意味ではなく。
2007年09月04日(火曜日)
(07:57)モンゴルとはどういう国かの一面を教えてくれる記事に出会いました。モンゴルの言葉は全く分からないので、「UBポスト」という英語の新聞から。
この新聞には「On Saturday,540,000 Children Will Be Going To School」という記事があって、これが非常に面白かった。その記事の骨子は以下の通りです。
私がこの記事でまず注目したのは、54万人という生徒の数です。なにせ総人口が260万人の国で、54万人もの生徒がいる。例えば日本の小中高校の12年間の生徒の数を推定してみると、年平均子供数が130万人だとしても1560万人です。総人口の約12%です。しかし54万人を260万人で割ってみると、約21%。日本に比べれば、かなり子供の割合が多い国だと分かる。つまり子供が一杯いる。
次に印象深いのは、人口の巨大なウランバートルへの流れです。私が昨日であったモンゴル大好き日本人によれば、1995年くらいのウランバートルは人口が50万程度だったそうです。それが今は不法も含めれば100万人にも達しようとしている。ウランバートルの基礎教育学校の一クラスの生徒数が規定の35人から50~60人になるというのも、そして地方の学校がガラガラというのも分かる。国全体がウランバートル傾斜している。
だからこその、ウランバートルの凄まじさです。人の多さ、そして車の多さ。我々はバスで移動しているのですが、なかなか動かない地点が多い。しかも我先きの運転ですから、危ないこと限りない。我々が乗っているバスも「危うく」というのが何回もあった。あと5センチ.....という感じです。いつもバスの最前列に座っていたので、それがよく分かる。
どんな都市でも、そんなに急激な人口増加をうまく吸収できるわけがない。実際の所、スラムとまでは行かないが、市内のあちこちにはここの住環境は悪いな、と思わされる箇所がある。インドや南米のスラムとは違うのです。市の一角に小さなゲルが一杯出来ている。しかしどう見ても綺麗ではないし、やや無秩序。その一方で、市の中心部にはシャングリア・ホテルなどが建設中。しかし道路はどこに行ってもガタガタという状況。
それだけ人が急激に集まったら、私が昨日紹介したような遊牧社会の良さが失われるであろう事は容易に想像が付く。今でも遊牧民の生活はそうかもしれないが、ウランバートルでは気を付けろと本にも書いてあるし、行ったことのある人からもそう聞いた。我々の仲間はまだそういう目にはあっていないが、例えばメグちゃんのお姉さんは警察官で、よくメグちゃんに「夜は一人では絶対歩くな」と警告しているらしい。
そりゃいろんな人が集まってきているのだから、スリ、ひったくり、置き引きなどは多いと想像される。デパートに入る時にも、さんざん「スリに気を付けてください」と言われた。まあガイドさんが予防線を張るときの典型的な警告にも聞こえるのですが、確かにいろいろな人がいるな、という印象。
ウランバートルの人々の服装もまちまちです。伝統的な正装をしている人達も少数いる。年取った人達です。若い女性は、へそ出しルックで東京の原宿となんら変わらない。結構彼女らはダイナミックですよ。少々おなかが出ていても、太っていても気にしている様子はない。男では上下を来ている人はほとんど居ない。ネクタイ姿も見なかった。男は白いノーネクタイシャツにズボンという姿が多い。まあしかし、国民一人当たりの所得が500ドルの国(日本は3万5000ドル)ですから、贅沢なモノではない。その中を、ホームレス風の人が結構いるという構成。日本にあるようなブランドショップはまだ目にしていない。
ガイドのメグさんが面白いことを言っていたな。我々が泊まっているホテルの近くもそうなのですが、大学が市内にはいっぱいある。そこから学生が出てくるのを見ていると女性が非常に多い。「どうして」と聞いたら、「モンゴルでは親は女性を大学に出したがる」と。その論理は、「男は何をしても食べられる。女性には教育を....」と。将来女性大統領がこのチンギス・カーンの国で生まれるかと想像するのは楽しい。
日本に渡って成功した相撲取りのモンゴルでの地位は、高いらしい。日本では朝青龍の事業が有名ですが、ウランバートル市内には旭襲山記念ビルなるものを見ました。彼が国内で集めたお金で作ったそうです。次の選挙では「当選間違いない」という観測で、女性大統領も可能性ありですが、日本で相撲をとった経験のあるモンゴル人が、将来のモンゴルの大統領になる可能性を検討してみるのも面白いかもしれない。同じモンゴル出身の相撲取りでも、日本の女性と結婚したり、日本の国籍を取ると「裏切り者」と呼ばれるのだそうです。
いろいろな意味で、この国は「歪んでいる」と言える。ウランバートル集中がその代表であり、ということは地方の人口は急激に減少しているに違いない。日本流で言えば、都市と遊牧社会のバランスの急激な変化ということです。「格差」と言えるのか知りませんし、モンゴルの人達がどう考えているかは知りませんが、日本人が考えるモンゴルは急激に変わってきている、ということです。
2007年09月04日(火曜日)
(23:57)早いもので、明日5日は早朝帰国の昼頃成田ですから、もう今夜が最後です。最後の日になってメールが受信は出来るのに送信が出来なくなったりとちっちゃなトラブル(原稿が送れないなど)はあるのですが、まあ15人全員無事で明日の帰国になりそう。良かった。大人数ですから、一人くらい動けないほど具合が悪い人が出るかもしれないと思っていたが、これも二人程度の小トラブルで終わった。
最後の晩餐と言うことで、一人1分スピーチをしたのですが、全員初めてのモンゴル。いろいろな感想があった中で、多かったのは夜空の星と草原、そして風、さらに馬でしょうか。私は子供の時にかなり綺麗な星を見た記憶があるのですが、モンゴルの草原の夜の星はこれまた格別に綺麗でした。全員で長いすをかなりの数草原に持ち出して、ひっくり返って天空を眺めましたからね。あれが北極星だ、あれがひしゃくだと。
草原。どこからとなく始まり、そしてずっと先まで限りなく続いているという印象。しかし所々にどうしてこんなところに、こういう形で出来たのだろうという山があり、その山には決まって数々の奇岩が乗っている。今にも落ちそうなのに、落ちないで、まるで人間が磨いたようにある。不思議です。その山の麓を草をなめながら進む羊や山羊の群れ。ヤクもいたな。鞍を付けて。
そして風。最後の4日は3日とも違ってかなり風が秋の風情。あと数日遅くまでモンゴルにいたら、秋のモンゴル、そしてちょっと寒いモンゴルを感じられたのにと残念な気もしますが、それでも頬に当たる風のなんと爽やかなことか。東京のように高層ビルなど遮るものとてない。モンゴルの良い思い出は、その大部分が草原にある。
感想の中には、「この国はいったい何で食べるのだ」というもっともなものもあった。あまりに輝かしい歴史と、それに比しての今の後進性と力のなさ。モンゴルの人々もこの差には悩んでいるに違いない。悩んでも、資本や技術は海外、特に中国はロシアから来る。鉱物資源をもっていかれても、今はなかなか言えない。カナダも大きな権益をもっているようです。
短い間でしたが、充実して実りある旅でした。メンバーが良かった。最後の日には孤児院や自然博物館、民族博物館なども見学した。ちっと買い物もしました。しかし、先日も書いたように、モンゴルが大きな課題を抱えていることは確かです。それは来る前に珍しく推薦された図書を全部読む中で予感がしたもの以上があった。
残念なことはいっぱいあるのですが、歯がゆかったのは言葉が出来ないと言うことです。一つの目標は、「モンゴルの人々と交流する、話しをする」でしたが、出来たとは言えない。最後に運転手の方とメグさんを介してちょっと話した程度。何を考え、何を希望に日々生活しているかを含めて、インドでしたようにモンゴルの人々の生活の実態をもっと知りたいと思いました。この次の課題でしょうか。もっと長距離での馬での疾走と並んで。
食べ物はどうなっているのか、というメール問い合わせがありましたが、またチャットのコーナーに長い、まとまった文章を書くときにアップします。
2007年09月05日(水曜日)
(05:57)多分これがモンゴルからの最後のアップです。全員揃っての夕食後は何をしたかというと、午後9時30分までやっているというデパートに。スカイ・デパートという名前でした。
もっとも、「デパート」と言っても一階から三階までの3フロア。しかも各フロアの面積は日本のそれに比べると大きくない。一階に薄型テレビやステレオ、洗濯機など家電製品とかが置いてあり、二階が化粧品、食関連、時計、民芸品、宝石など。三階が男女の衣服という構成。ちょっとブランドものが置いてあったと思った。
面白かったのは、食品売り場です。デパートの中では見るのが一番好きなコーナーですが、「あるかな....ないだろうな」と思って探した魚のコーナーは全くなく、ただ冷凍のサバだと思ったのですが、数匹置かれていただけでした。袋に入れられて。
「これは凄い」というのは、羊の頭が丸ごと置かれていたこと。鯛の兜ではないのですが、本当に目がくりぬかれて置かれていた。カメラで撮ろうとしたら制止されました。どうやって食べるのだろう。兜煮、それとも焼き? 肉のコーナーは他に比べると充実していたな。鶏肉の唐揚げが美味しそうだった。ケーキは食品のコーナーに置かれていて、結構家族連れが来ていました。
実はスカイ・デパートはウランバートルのデパートとしては二軒目の訪問先。もう一軒は5階まであって、規模も大きかった。しかしガイドさんによると、ウランバートルで高額商品が売っているデパートとしてはスカイの方が上だそうです。もう一つのデパートは5階の民芸品のコーナーが充実していたと思う。
街で気付いたことと言えば、電話の賃貸業が街角に結構あること。売り子が一人いて、その前にタバコと電話が置いてある。最初なんだろうなと思ったのですが、カンバンがあって、「100TG」とか書いてある。「TG」というのはこの国の通貨の略称だから「電話を貸しているのでは」と思って見ていたら、その通りでした。
ケイタイ電話をモンゴル(特にウランバートル)の人々も持っているのですが、プリペイドが多いそうで、しばしば使えなくなる。そう言うときに、「街の電話屋さん」に駆け寄るというわけです。
街で一つ面白いと思った現象は、結構商店街らしいものが出来てきていて、これは1990年の自由化以降の現象だそうです。人通りの多いところのビルの一階は、例え直近まで人が住むアパートだったところでも商店を作った。この結果、こうした場所のビルの一階の賃貸料が上がったというのです。以前原宿にあったあるアパートを思い出しました。
ウランバートルは若者が多い街です。皆結構楽しそうに、ワイワイがやがややっている。カップルが多かったな。結構手を繋いで。日本よりもカップル社会なのかもしれない。むろん、女性だけ、男性だけで食事、飲みをしているグループも見かけましたが、原則はペアリングのようです。印象ですが、多分ウランバートルは大学生が多いのだと思う。9月に入って学生が戻ってきている。
時間の余裕があるので、食べ物のことを少し書きましょう。はっきり言って、食事は日本で出てくるものと変わっているという点で面白い。羊一頭が食用に供されるまでも見ましたが、やはり羊はモンゴルの人にとって主要食のようです。かぶりつきましたが、美味しかった。ちょっと塩を振るのがよろしいようで。あとは馬乳酒。ガイドのメグさんが家のものを持ってきてくれましたが、かなりしょっぱいヨーグルトのゆるいの、という印象がした。モンゴルの男は、あれを大きな入れ物に何倍も飲むのだそうです。
先にも書きましたが、今のウランバートルは90年代の半ばから来ている人に言わせると、「あまりの変貌ぶりに驚いた」そうですから、多分あと5年後に来たらまたさらに大きく変貌しているんでしょうね。道路、水道などインフラがどの程度整うか、交通マナーがどの程度改善するか、など興味深い。
我々が「モンゴルは今のままでいい」と言ってしまうのは、どうかなと思う。文化財に指定された人が非常に窮屈な生活を余儀なくされるようなものです。あの綺麗な草原にしろ徐々に変わっていくのでしょう。もちろん私も残して欲しい景観がモンゴルには一杯出来ました。しかし、そこにはまた人が住んでいることも確かです。
そうですね、五年後くらいにまた来れたら......と。
2007年09月05日(水曜日)
(23:57)窓側だったので出発時のモンゴルの風景と、そして着陸時の成田、それに東京の風景を見ながら、「要するに、日本とは非常に国土の隅々まで手の入った国だと言うことだ」と思いました。逆に言えば、モンゴルとは「手が入っていない国」ということになる。
「手が入っている」という意味合いは、社会システムとか人間関係にも言える。「手が入っている」ことで、安心感を覚えることもあれば、安定感を感じることもある。しかし一方で、その安心感や安定感が物足りなさにも繋がり、時にはじゃまにもなる。もっと荒々しい何かがあっても良いのではないか、そんなものに縛られたくない、という。
モンゴルは本当に「手が入っていない」。草原はそのままだし、誰も登ったことがないだろうと思えるような山がいっぱいある。ウランバートルはどう見ても、「手が入った」都市とは言えない。荒々しい。しかし、それはそれでおもしろ味がある。
まあ場合によってどっちも魅力なんですよ。だから日本に住みながら、「時々モンゴルに行って馬に乗りたい」という人が出てくる。それはそれで分かるし、私もまた馬に乗りにモンゴルに行きたいとも思う。
モンゴルと日本の地理を考えれば、それも頷ける。モンゴルの人は今はモンゴルに住んでいるが、いつでもmovingな人たちです。遊牧とはそういう意味で、ゲルを2トンまで背負える馬やらくだの背中で移動させ、大して財産もない生活をしている。
一方日本の祖先は、結果的にではあるが移動の最終の地としてここに来た。東は太平洋だからもう動きようもなく、また大陸から孤立したことから、帰るわけにも行かなくなった。だから、一所懸命となった。
一所懸命だから、国土にも社会システムにもいろいろ手を入れないといけない。しかし、明日はどこに動くか分からない遊牧民にしてみれば、たまたま居るこの地は、明日にはおさらばする土地です。「手を入れて」いる暇などなかった。ははは、対局で面白いじゃないですか。
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日本に降り立ってPCを開いてauのW03Hで接続を試みたら、全く問題なくメールの送信も出来る。モンゴルでは何がいったいいけなかったのか。メールが送出できない間は、しょうがないので日経ECOマネジメント用の原稿はワードをWebページに変換して、FTPで私のサイトにアップして、それを日本サイドで読み取ってもらいました。私の過去の経験だと、メールよりもFTPの方がはるかに信頼性が高い。
15人もいると、それぞれがカメラを持っているから、入り乱れる。つまり自分のカメラではなかなか自分をではなく、他の人を撮ることもある。そうすると、あとで写真を交換しなければならない。私は途中で、私のPCをベースにしてカメラのメディアのコンテンツ交換をすれば良いと思って提案したのですが、あまり理解してくれる人はいなかったな。
もっとも、最後の日にお一人とはメディアの中身交換をしました。あとあと楽だと思うのですが。まあ、同報メールででもいいんですが、それだとネットワークに負荷にはなる。自分の分の写真は富士フイルムの写真サービスに入れて送ってあるので、6日には出来上がります。
日本に帰ってきた瞬間に凄く汗が。湿度が高い分だけ、日本は汗が出やすいのだと思いました。まあ雨でしたしね。明日は台風の影響で相当な荒れ模様のようです。気を付けないと。
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最後になりましたが、今回の旅行でご一緒できたかが方々は、井上敬一さん、井上登代子さん、高瀬忠重さん、久保田淳さん、戸田修子さん、辻亜土夢さん、辻三千代さん、市岡楊一郎さん、行木恒雄さん、小木曽高佐さん、吉田安伸さん、降旗俊夫さん、工藤憲雄さん、工藤千香子さんの皆さんでした。ありがとうございました。皆さん旅慣れた、気持ちの良い方々でした。
(ycaster2007/09/07)