Essay

「終わり、始まる」

                                香西 春明 

第一部 終わり

一九九七年一月二十二日。一本の電話がかかってくる。この電話が始まりだった。

「古畑さん、で、ん、わ。」あごを突き出して、西田京子がいたずらっぽく私をにらむ。

「外線かな?、内線かな?。」いつものように私はぶっきらぼうに尋ねる。内線なら出るつもりはない。外線だってロクなことはない。電話は良い知らせを運んではくれない。別れた女房の戯れ言を聞くつもりもない。こんなオフィースに電話は不要だ。電話さえなければ、「同室者」のひがみっぽい電話の会話を聞くこともない。

「が、い、せ、ん・・・。古畑さん、聞こえてるの?。ボーとしないでよ。なんとかっていう外国の名前の会社の人から。」京子のからかうような大声が部屋に響く。このオフィースで元気なのは京子だけだ。

「う、うん。」とうなづいて、口の半分で笑う。

「ドミナント・モローの北野といいます。私のことは御社の人事部の方からお聞きになっているでしょうか?」

一呼吸おいて私は、「いいえ。」と答える。良くは分からないが、来たな、というのが第一印象だった。

「そうですか・・・。それでは改めて・・・人材コンサルタントの北野巌(きたのいわお)です。」電話の声は落ち着きはらい、無色透明だった。ワンルーム・マンションの押し付け販売やゴルフ会員権業者のようなへりくだったところがない。今の私には、カンにさわることのない、暖かいバリトンの質感。

その日、寝る前に見たボクシング中継はひどいものだった。実力もないのに二度も世界チャンピオンに挑戦させられる日本人の若者。負けるに決まっているのに、ファイトの最中は私も拳を強く握り締めていた。「起て!、起て!」心の中で叫んだ。若者は二度倒されて、マットの上で伸びた。タオルを投げ込むな、それだけを考えていた。テレビカメラは倒れた若者を大映しにする。若者は、動かない体に不器用にくっついている頭を少しずらして、マットを舐めた。行き場のない悔しさが、私の心の中でザラついた。寝床にもぐりこみ、きょうあったことを思い出していた。

「いったい、どういうことなんだ。」北野という男からの電話を切り、会いたいという男の言葉をゴクンと飲み込んでから、私は人事課長の長井に電話をかけた。考えてみれば、内線電話をかけるのは一ヶ月ぶりのこと。その時も長井だった。「同期会には出ないぞ。」とぶっきらぼうに電話を切った手の感触が今も残る。

怒っても仕方ないと分かっているのに、声の震えを消すのに苦労する。

「あー、そのことか。忙しくてな、言うのを忘れていた。」

「言うのを忘れていた?。」私は言葉を継ぐことができない。冷酷な奴!おまえはいつも、私にだけは無神経な言葉を投げつける。社内の他の人間には、あれほど人事部然として如才ないくせに!」

「怒るなよ。十一時半だよな。少し早いけど、飯でも食おう。おまえの嫌いな社畜食堂じゃないよ、もちろん。西海亭でうなぎでもどうだ。今すぐ出よう。」

うなぎはご飯の上でだらしなく尾っぽをさらしている。

「おまえは、モルモットなんだよ。」

「モルモット?」私は繰り返すことしかできない。

「うん、なにね、うちの会社ね、知ってのとおり調子悪いだろう。商社冬の時代は、日常化しちゃっていよいよ大リストラだ。何を減らすったって、こんな労働集約型産業じゃ人しかいないってことだ。大手みたいに五十才で一億円、はい早期退職っていうわけにはいかないんだ。俺だって、人事課長なんて名ばかりだよ。俺の今の仕事は、人を評価して人事を決めることなんかではなくて、どうやって人を減らすかってことだよ。見てくれ、このごろめっきり白髪が増えてきてな。前は、三十台半ばくらいって見られてきたのに、今じゃ、年相応の四十一才の汚ならしい厄年のサラリーマンってことだ。」

「エリート課長が何をグチっているんだ。俺だって髪の毛は、こんなに薄くなっているさ。」私は笑ってしまう。怒っていた自分が馬鹿らしくなる。長井の髪は私の眼には堅く、黒々と見え、とても悲しくなるものではない。長井には、何を言っても人を安心させる、間の抜けたニュアンスがある。嫌いなタイプではなかった。かっては一緒に、過酷なマーケットと戦ったこともあった。それだけでも許せる仲間だった。

「それで、俺をどうやってモルモットにするんだ。」

「電話してきたドミナントという会社な、あれ、人材アウトプレースメントの会社っていうんだ。」

「アウトプレースメント?」私は口の中で英語の感触を確かめる。

「今雇っている会社の方から金をもらって、人の再就職を斡旋するんだ。」

「肩たたきのアウトソーシングってわけか。」

「そういうことだ。相変わらずうまいことをいうな。肩たたきだけじゃない、親身になって再就職の世話をするんだ。お前がファンドマネージャーをやっていた時に会っていたヘッドハンターとは違う。引き抜く会社が金を出して、採りたい人間にコンタクトする前向きの会社がヘッドハンティングの会社だろう。アウトプレースメントっていうのは、辞めさせたい会社が要らない人間のはめ込み先を探す、思いっきり後ろ向きの会社だ。」

「要らない人間か、言いにくいことをはっきりと言いやがるな。そんな言い方して、お前、よく人事課長が務まるな。陰険なポジションの人間はもう少し言葉を選ぶもんだぞ。」私は、自分が怒りながら笑っているのを感じる。

「古畑、よく聞け。お前には外で十分やっていけるだけの実力がある。俺は、この会社の内実を良く知っているが、この七年間の会社の痛みは相当ひどいぞ。やるべきことを先送りしてきたツケでもうにっちもさっちもいかない。七年前くらいだったらまだやりようがあった。いや、三年前でもまだ何とかなったのかもしれない。残る俺と、出て行く者とでどっちが幸せか、それだって分かったもんじゃないさ。お前は会社へのロイヤルティも元々希薄だ。しがみつく必要もないだろう。会社だって、お前が第一号でうまくはまれば、続ける展望も開けるというわけだ。」

「ふざけるな。俺は今、会社と闘っているんだ。人事部の悪だくみには乗らないからな。組合は何て言ってるんだ。」

「組合だと、あんなに組合を毛嫌いしてきたローンウルフのお前が、今さら組合だと、ハハハ、恐れ入ったぜ。」今度は長井が笑っている。

「組合とはもう話しがついている。労働協約も変更する予定だ。この構造不況のさ中、背に腹は代えられないってことだ。」

入口には、見慣れた海坊主が入ってくるのが見える。私たちを見つけて少し驚いたような顔をする。私を憎々しげににらむ。彼にとっては、私のような跳ね上がりサラリーマンは見るのも嫌なのだ。

「おい、お前の上司だ。人事部長様の合田。飯がまずくなった。俺はこれで帰る。もう一度言うが、俺はお前らの言う通りにだけはならない。無駄な努力はやめるんだな。」

 

その日は何もする気にならなかった。ロンドンエコノミストを斜め読みし、いつものように五時きっかりに会社をあとにする。

 

自分のことを人に話すのは好きではない。悩みごとならなおさらだ。自分を見ているのは自分しかいない。話したって分かってもらえるはずなんかない。だからいつも聞き役になる。人には役割と言うものがある。私は聞くのが好きだ。自分は行動する。自分のことは文章にする。人に会う。人の話しを聞く。時には人のためを思って助言もする。助言は無意味であることも知っている。それでも、したほうが良いことも知っている。

毎日日記を書く。書くために書く。読み返すことはめったにない。別れる前、女房に非難されたことがある。でも、書くことをやめなかった。日記を書くことは夫婦にとっては一つのリスクだ。幸せな夫婦は日記など書かない。私が死んだら、棺の中へ入れて灰にして欲しい。私の中にある数限りない妄想や他人にたいする批判や嫉妬や、そして少しの感動と一緒に私は灰になる。だけど、生きている間に火事や地震で家から焼け出されたら、これ以外持って出るものがない。十八才の時から書き出して今年で二十四冊になる。

日記の中に、時々小説風の文章を書くことがある。仕事や夫婦生活に疲れだしてから書きはじめた。自分のために書く。今は家を出た妻のために書くこともある。死んだかっての上司のために書くこともある。ジャズを聞きながら書く。新しいジャズではない。何度も何度も聞いてきた五十年代や六十年代のジャズ。レスター・ヤング、コールマン・ホーキンス、アート・ペッパー、スタン・ゲッツ・・・・。今言うと笑われるような古臭いプレーヤーたちだ。古いけれど、いつも新しさを感じさせてくれる。ジャズでも聞かないと文章を書けないと言うことかもしれない。生身の自分と向き合わなければならない。ドラッグ漬けになりながら、音楽を切り拓いていったプレーヤーたちの遺していった記憶が、書くためには必要だ。

書くことは、いつももう一つの営みだった。

ゴールドラッシュの五年間だった。時代の風に吹き上げられて駆け抜けた。一九八五年から一九九0年の五年間について、そろそろ書いておかねばならない。ようやく書けるようになってきている。これまではとても書ける気がせず、放っておいた。だから、不幸な男や不幸な女の話ばかり書いてきた。ラストは必ず、少しだけ希望が見えて終わる。しかし、本当に読んで苦しくなるような心の底の底は、わざと書かないで済ましてきた。

でも、今なら書けるような気がする。幸せな生活を送る者が小説を書きたいなんて思うわけがない。不幸のどん底にあるものも小説は書けないだろう。

小説なんて悲しみの玩具でしかない。

机の上にムンクの展覧会で買ってきた絵葉書を並べてみる。有名な「叫び」ではない。晩年の力に溢れたムンクの絵だ。ムンクは幼くして肉親を亡くし、愛する姉を亡くし、愛する幼なじみの女性を親友に奪われた過去を持つ。そして、独身のまま長生きし、死んだ。「叫び」を書くことによってムンクは癒されていった。そして、「叫び」が完成を見た時、すでにムンクの中にある心の乱れには決着がついていた。

私はムンクの晩年が好きだ。若い頃の絵はいたましくて見ていられない。いかに凡庸だと言われようと、人の目ををひきつけるものを失っていようと、私には見える。苦しみを乗り越えたムンクの力と輝きを。私は凡庸な晩年のムンクが好きだ。

小説の骨格をカードにまとめる。エピソードを盛り込んでいく。万年筆がせわしなく紙の上を走る。

自分のために書くのだ。だから、書くのが苦しいと思ったことはない。悲しみを書き込むときも、書くことによって捨てることが出来る。すべてを笑って捨てられる日を待ちながら。

ストーリーの中では、毅然としていられる。日記帳に書かれた小説は、日記の中にある真実と混じり会ってあってわけがわからなくなる・・・・・。

 

 

 

地下室の、天井も壁も床も白く塗られた部屋を出て、二階のリビングルームに上がる。一杯のコーヒー。

窓の外からピアノの音が聞こえてくる。バッハ?、だと思う。曲の名前は良く分からないが、たしかにバッハに違いない。規則的に並んだ音の配列が、私の心にさざ波をかきたてる。セピア色。かなりの技がありながら、うまくなろうと練習している音ではない。何かを表現しようと弾いているのでもない。自分の心の中にある哀しみを淡々と紡いでいる。本当の哀しみは重ねる日々の中にある。ピアノの音は日々の営みを思い出させる。私の心の中にある重油が、聞いているうちに、スーっと引いていく、そんな気がする。

一つのことに思いあたる。トラックが止まっていた。きのうの土曜日に真向かいの家に引っ越してきた家族のこと。近所の人とは、会えば挨拶をする、それ以外には私には何も意味を持たない風景の一つでしかなかったのだが。それにしても誰が弾いているのだろうか。

「アウトプレースメントっていうのは、いったいどんなことをするんですかね。」

約束通り応接室に現れた北野巌に、私は尋ねた。協力を徹底拒否するという手もある。しかし、私にはもう失うものがない。どうせ朝の十時に出社して、新聞や雑誌をチェックし、インターネットで世界中の情報データベースにアクセスして情報を集めるだけなのだから。使ってもらえるかもらえないか分からない経済見通しや、金融市場に関する調査レポートを書き、社内に配信する。時には日中読書することもある。きょうも机の上には、これ見よがしにアゴタ・クリストフの小説が置いてある。自分では、筋の良い情報を集め、斬新な切り口のレポートを書いているという自負はある。だからこそ少し疲れたとき息抜きに小説を読んだってやましいところはない。どうせ会社の役にはたっていないのだから。

心はアゴタ・クリストフの小説に出てくる亡命者のようだ。亡命者は、心は清くありたくとも、軽蔑すべき人間にたいしては悪も平気でやる。それでいて何事にも執着しない。

「いや、なにね、ビジネスと言えばビジネスなんですけれどもね、ボランティアみたいなところもあるんですよ。結果的に人助けってことになるんです。人事部から聞いたところによると、あなたには私みたいな人間は本当は必要ないですね。自分で職を探そうとすれば、きっと自分で探せます。ただ転職すればいいというものではない。新しい会社で何が出来るかが問題です。いい加減な気持ちなら転職なんてしないほうがいい、本来ならば。でも、それでも同じ会社にいるよりも転職することによって少しはましなビジネスライフを送れる人も多いんです。それだけ、今いる会社の中で働く場所のない人が増えているんですよ。あなたの場合ははっきりしている。実力のある人が、何の理由か良く知らないけれど、こんな状態でくすぶっていちゃいけないでしょう。会社だって、あなたに出て行ってもらいたいようです。」淡々と北野は言葉を切る。

「随分はっきり、おっしゃいますね。」私は苦笑いをしながら、この男は、好きなタイプの人間だな、と感じる。物言いが素直で、嘘が無い。それでいて心根は優しい。

「普通、私が会社から頼まれて再就職の斡旋に来たと告げると、それだけでそのビジネスマンはノイローゼ状態になって大きく落ち込みます。」北野は、一言一言はっきりと言葉を置いた。

「自分は会社から必要とされているって、どんなに冷や飯を食っているビジネスマンでも思ってるんですよ。もっともね、それが日本の会社の原動力だったわけですけど。このリストラばやりの世の中では、本当に優秀な人だって、目の前にいつ私のような人材コンサルタントが現れるかわからない。どんな会社も今、土俵際に立たされています。とにかく人を減らしたい。優秀な人でも適切なポジションを会社で用意できないような人については、何とかしたいと考えているわけです。」

「会社が人を大事にするなんてことは、幻想だってわかっていない人間が多いってことなんでしょうね。」私が口を挟む。どうも私たちは、人材コンサルタントとそれを受ける人間との通常の関係とはちょっと違っているようだ。そのことを二人とも感じながら話をしている。

「落ち込んだ人達を勇気づけ、元気を出させること。転職を会社から勧告された人に対してのケアの仕事が、私の最初の仕事です。どうやら、あなたには必要なさそうですけどね。・・・・・」

「私の場合、落ち込むっていうなら、もう五年以上も落ち込みっ放しで、もう落ち込み疲れしてきている。」

「ハハハ。そりゃいい。」北野が笑う。

「『そりゃいい』じゃないですよ。」今度は私が笑う。「私は私で大変なことを背負いながら、毎日会社に来ている。この六年もの間、何とかして私の方から『会社を辞める』と言わせようとする会社と、昔の、バブルの頃の役員や部長たちの悪行や失敗を知っていることをちらつかせて、それを拒否する私との闘いがあったわけです。あの人事部長の合田にしても、普段は紳士づらして露骨なことはしないが、陰険な手練手管で取締役になった男ですよ。目的のためには手段を選びません。社内でたてる巧妙な風評、そしてそれを、わたしの家族にまで知れるようにした。『あいつが資産運用で失敗したから会社の財務状況はボロボロになった』ってね。自分たちのやってきた失敗や、責任あるものとして本来やらなければならないことを何一つやらず問題を先送りして、私のような男をスケープゴートにする。私にとっては、会社に来て、今みたいにきっちり十時から五時まで仕事をし、自分なりに精一杯のレポートを書き続け、人事異動を拒否し、日々を重ねること、それが会社へのささやかな反抗ってわけです。」いつしか私は真顔になってしまっている。

「今じゃ、こんなことをいつまでしていたって仕方がないかなと思うこともあるんですがね。でもね、私には忘れられないんです。私と同じ様にバブルの崩壊で責任を問われた私の上司は、ひどい精神的な打撃を受けて、くも膜下出血であの世に行ってしまった。私だって、暖かくはなかったけど帰るべき家庭を失ってしまった。これは、紛れもない事実なんですから・・・・・。」言った後で後悔がこみあげる。自分のことを、それも本当のことを、自分を哀れんでもらうようなことを、無防備にしゃべることは、どんなときも後悔で終わる。四十一才にもなれば、経験的にわかっていることだ。それでも、まだ今日はそんなに後味は悪くはない。相手が、こちらを包みこんでくれる北野だからなのだろう。

「実は、私にも古畑さんと同じ様な経験があるんです。」

「えっ。」不意を突かれて私はうろたえる。

「古畑さんとは、これからしばらく付き合っていくことにならますから、追い追い話しをしていきますよ。きょうはこのへんで。ほかにも会わなきゃならない人がいるもんで。また、あした来ます。」私よりも七、八才ばかり年上の五十がらみの紳士は、親しげな微笑みを残して去って行った。

「おとうさん、おとうさん。奈都子ね、おとうさんのヒミツ知ってるよ。あのね、おとうさんにはチンコが三個あるんだね。」奈都子が湯船の中で、自分だけが発見したことを得意になってしゃべる。あの時の奈都子は五才。今は、七才になっているはずだ。五才まで年々可愛さが増していった娘の姿が、私の中では、この二年間、そのまま五才で塩漬けになっている。会いたい。心からそう思う。なじられてもいい。理性で抑えている。会ったっていいじゃないか。「もう会わないで。」という麻子の言葉に同意はしなかったのだから・・・・。

奈都子の寝顔は天使。手を招き猫のように鉤型に曲げたまま寝ている。そして今度は寝返りをうって両手を手枕にした・・・・・・。

ここで目が覚める。幸せな気分。そして、すぐに喪失感。会いたい、でも麻子は電話口で必ず拒否するだろう。気持ちをかき消す。幸せだった気分が苦く半分になる。

のろのろと寝床からはい出す。朝になって冷えた湯たんぽを抱えて二階に上がる。奈都子をはさんで、麻子と私と三人は川の字に寝ていた。一軒家は冷えるという麻子の嘆きで、私が近くの吉松屋で湯たんぽを三個買ってきた。奈都子は、一つだけあったオレンジ色のプラスチック製のを抱えてはしゃいでいた。「あったかいよ、あったかいよ。奈都子、これから毎日この湯たんぽでぽっかぽっかなんだよね、おとうさん。おとうさんとおかあさんは、おそろいの鉄の方を使いなよ。奈都子はオレンジのプラスチックだもんね。寝るのが楽しみだよ。」そう言いながら奈都子は、いつも熱くて湯たんぽを無意識に蹴飛ばしてしまうのだった。

パンを食べる。紅茶を飲む。三十年以上続いている。おやじやおふくろと暮らしていた頃からの習慣。麻子はいつも言っていた。「パンや紅茶みたいな日本人の体質に合わないものを毎日食べ続けていたら、かならず体に悪い影響が出てくるって、食養の本に書いたあったわよ。なんで毎日同じ物を食べるのよ。」麻子はこう言いたいのだ。「あなたは、どうしてあなたなの。毎日どうしてあなたなの。」その時の妻の無表情な顔に、少しの悪意を私は見出していた。私はもう一度心の中でつぶやく。理由はない。三十年もの習慣なのだから。私はいつも私でしかないないのだと。

屋上と一階の花だんに水をやる。奈都子が一緒だった頃には、奈都子が、「私が水をやる。」といってきかなかった。やらせてやると毎日喜んで水をやった。でもしばらくすると飽きてしまった。麻子の方は、はなから水などやる気がなかった。結局私の仕事になった。そして、今も私の仕事だ。この家には、今私しかいないのだから。

この家には思い出がしみこみすぎている。

八時四十五分。いつもと同じ時刻に家を出る。八時五十五分に豪徳寺で新宿行きの各駅停車に乗るために。少し早く出たり、遅く出たりすることがある。いつも一人の女性とすれ違う。早いときは、マクドナルドの前あたりですれ違う。遅いときは、駅から少し離れた豆腐屋の前だ。二十代後半の美人。整った顔立ちに、シンプルな服がいつも良く似合っている。名前は知らない。もちろん話したこともない。ただ、毎日すれ違う。むこうも私と毎日会うことを知っている。会ったときの顔で分かる。少しはにかんだような顔をする。あるいは、そんな気がするだけなのかもしれない。私はそんなことでも楽しくなる。歌の中にあるように、人間は一人の方が良いのかもしれない。素直になれる。

私は、いつでも、どんなことにも楽しみを見つけることができる。この性格は、朝から晩まで働きづめだった、母親から受け継いだ才能なのかもしれない。

駅の改札では定期券を駅員に見せる。自動改札は通らないことにしている。手袋をしながら定期券を出し入れさせるのは、鉄道の側の横暴である。これは私の暴論である。どちらでもいい、面倒なのだ。私の手袋は紺色。傍目には毛糸のように見えるかもしれないが、保温力のある絹で出来ている。絹の気持ち良さは正真正銘の本物である。しかし世の中バランス良くできているもので、一シーズン使うと大体どこかが破れてくる・・・・。

ああ、時々いけないと思う。四十を過ぎると、自分のスタイルができすぎてしまっている。変えることができない。本当は変えられないと思い込んでいるにすぎないのに。

きょうも十時に北野が会いに来ている。ほとんど毎日のように会う。話す。

北野はフラストレーションの溜まるこの仕事について話す。北野は自分のフラストレーションのはけ口を私に求めているわけではない。北野の目には手負いの獅子を射すくめるようなところや、弱い人間を見下すようなところが微塵もない。私はひたすら相づちを打つ。コーヒーを二人ですする。そのうちに、北野は暇乞いをする。別の傷ついた男のために出かけるのだ。

「第二調査部」と札がかかっている。ふざけた名だ。会社の経営のためにある「調査部」とは違う。第二調査部ができても、本家の調査部は第一調査部とはならない。会社の経営のためにならない人間たちの、もう一つの部。平均年齢五十才の男たちが二十人ほど在籍しているはずだ。それと一人の派遣社員の女性。二十人ほど在籍している「はず」だというのも、私自身全員で何人いるかわからないからだ。興味もないし、部の運営もいい加減である。多分、私が一番年下なのだろうと思う。大概の男たちは朝から新聞を広げている。会社や元の同僚の悪口を言いながら、会社に立派に食わせてもらっているのだ。

私は朝、職場に入って来ても、他の男たちに挨拶はしない。墓場の中で礼を尽くしたって知れている。会社の悪口を言いながら、実は会社のことがたまらなく好きで、会社に縛り付けられていることにも気付かず、会社以外の世界には出ていこうとしない人間たち・・・。そんな人間とは距離を置く。彼らの中では、「あの、会社に背いて会社に大損させた男」である私は煙たいだけの存在でしかない。傷を舐め合わない男は同僚にも入れてもらえないのだろう。私の方もそれで結構なのだが。

パソコンのスイッチを入れる。インターネットで世界中の新聞や資料をチェックする。世界は、日本の片隅のちっぽけな会社の、社内の様子などとは無関係に毎日ダイナミックに動いている。世界夫人、誰かが昔、世界をそう呼んでいた。私は、高貴で気紛れな世界の経済について、ウイークリー・レポートをまとめる。

日本に関する悲観論が日本自身をむしばんでいる。一度地獄に落ちて、日本はそれまでいた場所がいかに優しい場所であったか気づくだろう。もう後戻りできない。血を流す勇気だけが日本を救える。世界を動かしているのはやはり、アングロ・サクソンであり、ユダヤである。そう考えた方が物がわかりやすい。ルーレットで勝つコツは、美人ディーラーはどんな時でも自分の望む数を出せると考えて賭けることだと誰かから聞いた。世界のエスタブリッシュメントの目に今の日本はどう映っているのか。円安に誘導し、株を売りたたいて、土地神話をたたきのめして、日本人がぐうの音も出なくなってから、彼らは荒れ地に水を引く善意の使徒として降臨するだろう。勤勉な日本人が戦後五十年をかけて築きあげてきた成果をいとも簡単に奪うことも出来るだろう。気がついたら、日本の株と土地には外人の資本が大きなウエイトを占めているだろう。その時、世界は日本を、「普通の国」と呼ぶようになるだろう。バブルの崩壊は紛れもなく一つの一時代の「終わり」であった。

ビッグバンは、また一つの「始まり」であり、経過点である・・・・。

いつものように妄想が頭の中をかけめぐる。

一時間かけてまとめたレポートを電子メールで経済関係の出版社に送る。あさっての週刊経済誌にこのレポートが載る。記事の署名は「新畑夏夫」。娘の「奈都」からとった署名だ。前は、本名の「古畑優夫(まさお)」で出していたのだが。私のことをうっとおしく思う会社の圧力で、最近私は社外にレポートを発表するのを禁じられている。理由はない。ただ私を少しずつ追い詰めていき、私の居場所を無くしていこうとしている。私は闘うだけだ。見ればすぐに私とわかるペンネームでウイークリー・レポートを出す。読者の評判は良い。同じ記事を、今度は本名で社内のLANで関係部へ送る。いずれ、これにも必ず圧力がかかるだろう。その時はその時で考えがある。

二十年弱もの間一つの会社にいれば、会社の恥部とも言うべき秘密の一つや二つは知っている。バブルの頃にはどの会社も随分荒っぽいことをやった。そうしたことのいくつかをパソコンのファイルに記憶させてある。事がおこれば、この文章をインターネットで日本中の出版社や新聞社、そして英文で作った文章は世界の通信社や反日的な政治家に、五秒あれば届けることができる。世間の倫理感はうつろいやすい。法律だってそこら中で時代遅れになっており、普通に商売していたって法律を杓子定規にあてはめれば法律違反ということだって結構存在する。普段ならそんな事実が露見してもどうってことはないが、一度社会的指弾の風が吹けば、どんなことだって悪事ということになる。私の文章が公になればニュースショーではキャスターたちが、常識家ぶって一斉に非難を始めるだろう。大衆という名の得体の知れない力は、容易に操作されて知性の衣をまとうだろう。わたしだって、そんなことはしたくないし、本当はするつもりもない。ただ会社が不誠実ならこちらも警告を発するだけのことだ。

電子メールでウイークリー・レポートを送った後に、受信ファイルをチェックする。西田京子からのメールが届いている。「古畑さん、また誘ってください。 京子」私は顔を上げ、ついたてを隔てた京子の顔を見る。京子は口元にかすかな微笑みを浮かべる。京子もパソコンとモデムを持って来たんだ。周りの人間は京子の微笑みを気付かない。

他にも古い友人からメールが届いている。最近は、社外からの連絡はできるだけ電子メールでしてもらうようにしている。電話はリスクが大きい。部の中にもスパイがいて私の言動を監視しているかもしれない。電子メールも、会社のLANを使うとメールをのぞからてしまうかもしれないので、モデムを買って自分でプロバイダーと契約している。

この部の他の人間は、電話で休日のゴルフの相手を日中ずっと探している。私は無言でパソコンに向かって調査レポートを書いている。

本当はデジタルなものは嫌いなのだ。デジタルは限りなく本物に近い偽物。大量生産されるレプリカントだ。規格化された偽物だからこそ代わりに新しい生命を獲得した。その身の軽さが気に入らないのかもしれない。音楽でもCDは聴かない。中古レコード屋でLPレコードを探す。パソコンも電子メールとワープロとしてしか使わない。デジタルは乾いている。

「いやいや、まいりました。きょうの午前中も自身喪失気味の技術者と会っていたんですよ。」

北野がきょうも来ている。

「私は普段は技術系の人は担当しません。技術出身の同僚にまかせているんです。でもこんなに不景気な世の中じゃ、こちらにとっては商売繁盛ってことなんですが、引き合いが多くて、はっきり言って手が足りないんですよ。企業の側だって、今までは社内で飼い殺しにしてきた人を放置しておけなくなってきたわけです。きょう会った人は超の字がつくほどの大企業で、開発の仕事をやってきた。若い頃にはそれなりの成果を挙げたようですが、技術の世界もせいぜい三十代です。四十になるとマネージメントをすることになる。でも、誰もがマネージャーに適しているというわけではない。その人なんかT大を出ているのにマネージャーとしてはかなりズレていました。」

「その人は何才なんですか。」

私も、北野とは既に心が通いだしていた。

「それがもう五十二才なんですよ。飼い殺しで十二年間もたいした仕事もさせてもらわないできたっていうわけです。その話しを聞いて私は、怒りさえ感じました。」

「それで再就職の見込みはありますか。」

「かなり難しいでしょう。それほど専門性が高くないのに、プライドばかり高い。『あなた、うちの会社の×××知ってるでしょう。あれは、私の部下だったんですよ。』なんて、今は偉くなった社内の固有名詞を出してくる。会社の中だけの有名人なんですよ。だけど私には分かりませんよね。会社にスポイルされてるくせに、会社の中でしか生きようとしないんですよ。」

「たしかにズレてますね。本当に会社にスポイルされきっている。」

私は北野と話しながら、私と会社というものの距離の広さを測っていた。広くなるばかりの距離を。そして自分の立っている位置のことを。豆腐のような、いつ壊れてもいい危うさの上に立っている。しかし、私だけではない。すべてのビジネスマンは、豆腐の上に立っているのだ。ある日なにかの理由で急に両目が見えなくなったら・・・、両手両足が麻痺したら・・・、失語症になってしまったら・・・・、それだけで、会社にいられなくなってしまうだろう。そのことを私はただ、人より強く意識しているだけなのだ。

 

「あのね、奈都子ね、おとうさんが隠していること知っているよ。」

「えっ、何のこと、奈っちゃん。」

「おとうさんの、世界で一番好きな人は誰?」

私は、少しドキマギする。何を知っているというのだ。でも、すぐに気を取り直す。一番大事な人間は決まっている。

「奈っちゃんに決まっているだろう。」

「おとうさん、いつもそう言ってくれるね。それはそれでいいの。それじゃ、この世の中で一番嫌いな人は誰?」

「人を嫌いになるってのは、あまり良いことだとは思わないな。」

「でもね、奈っちゃん知っているの。おとうさんが一番嫌いな人は、おかあさん。私をしょっちゅう怒ってばかりいる人。どう、当たりでしょう。」

「奈っちゃん、何を言ってるの。おかあさんが嫌いなわけがないじゃないか。おかあさんが、そんなこと言っていたの?」

「ううん、違う。おかあさんはそんなことは言っていない。でも、奈っちゃん、知ってるの。」

その時、私はふっと振り向いて奈都子に聞く。「どうして、そんなこと言うの。」

奈都子は微笑みをたたえている。「あたしの一番好きな人はおかあさんだって知っているでしょう。でもね、あたしの一番嫌いな人もおかあさんなんだもの。」

そう言った子供の言葉が耳に残っているようだ。それでも娘は、母親にくっついて、家を出た。

私はいつも、竹をわったようなさっぱりした女を好きになった。知的で感情を抑制出来る女だった。そんな女は一度男を嫌いになると、すべてを否定する強さを持っている。泣いたり、喚いたりはしない。冷静な顔を装いながら、心は醒めきっている。いや、知的な女なんて幻想なのかもしれない。知的に見えるだけの女と言うことかもしれない。それとも知的だからこそ怒るのだろうか。知的に見えても、怒るときは、やはり泣き叫ぶ。

男はいつも高を括っている。状況が元に戻ってくれることに希望を見出す。しかし、女は移っていく。変わっていく。戻らない。

京子もそんな女の一人。彼女の知性をこちらに向かせるのはたやすいのかもしれない。四十一年生きて来て、私が好きになった女は大概、私のことが好きになった。いや、少し横暴な言い方だったかもしれない。少なくとも好意は持ってくれた。今は京子のことが気にかかっている。京子は、去年の誕生日にあげた赤い花束のことを、私に何度も言う。「あんな素敵で、うれしい花は生まれてから今まで一度ももらったことがなかったの。」と言う。しかし、私には分かっているような気がする。彼女と暮らしだしても、必ず破局の日が来るということを。本当は母のように包みこんでくれる鈍感な女の方がいいのかもしれない。しかし、感受性が強くて、愛敬があって・・・・・、知性があって・・・。そんな女をいつも私は愛してしまう。

北野と初めて話しをしてから一か月が経つ。最近ではまともに話しをする相手は北野しかいない。もっともそれ以前はまともに人と話しをしていなかったのだから、北野と会って、久しぶりにまとめて話しをしたということになる。京子とは月に一度くらい会って映画を見たりする。映画は話しをしなくていい娯楽。一度死んだような男にとってはありがたいもの。映画の後は、酒を飲みながら、話しをする。私は聞いてばかりいる。私の言葉は古い引出から引っ張り出される出し物ばかり。彼女には面白いのかもしれないが、話す自分自身はうんざりしている。

「あなたは何を考えているの。いつも私の話を最後まで聞いてくれるけど・・・・。私の話、つまらない?」「俺は、あまりしゃべるタイプではないんだ。人の話を聴くためにうまれてきたみたいでね。ごめん。」私は答える。気が向けばキスをし、抱きしめることぐらいはする。言葉では埋まらないもどかしさのために・・・・・。

本当の言葉は心の底から絞り出される。口からは出てこない。文章でしか表すことができない。でっちあげの文章の中に自分がいる。日記は心そのものをでっちあげた自分である。小説はでっち上げの中にちりばめられた自分である。でっち上げの中に真実がある。ディテールの記述に自分がいる。

今、ようやく書けそうな気がしている。「あの時代」。ある書家が言う。バブル・エコノミーとは、「泡沫経済」と書くべきであると。

私は中堅商社である「あの会社」で、財務部を振り出しにサラリーマン生活をスタートさせた。物の本質を見抜く目の鋭さから、入社三年目にして既に「灰色の脳細胞の男」と言われるようになる。三年経った八十年代初頭、私はロンドンに派遣された。商社が得意な商品相場の売買やプロジェクトファイナンスに加えて、金融そのものが大きく発展する時代を見てくることが、経営陣の私に課した宿題だった。

八十年代は金融の時代であり、金融の時代に世界に追い付いて商売をやっていけるのは若い力である、経営陣の私に対する期待は大きなものがあった。

当時のロンドンではサッチャリズムが吹き荒れていた。徹底的に締めあげられサッチャーに追い詰められる労組の断末魔。国営企業のぬるま湯と親方ユニオンジャック体質の労組に決然と鉄の女が勝負を挑む。矢継ぎ早に国営企業を民営化し、公務員を削減する。パンクスの歌う「ノー・フューチャー」。ストリートガールを表通りから締め出す。そして、大幅な減税を実施し、外国企業の生産工場を英国に誘致した。

十五年ほど経って私は思う。すべてはサッチャーから始まったのだと。財政削減、資本主義の再生。つまり、敗者ばかり作り出す世の中から、少数の勝者を作り出す時代の再来。これに金融の面から加担したのが、米国連邦準備銀行総裁ポール・ボルカーのインフレ・キルの政策だった。一九七〇年代までに溜まってきた資本主義のウミが八十年代初頭から一気に切開される。米国でもレーガンが登場してサッチャリズムを模倣した。資本主義の活力を取り戻すためにありとあらゆることをする。高金利政策と放漫財政のポリシーミックス。高所得者に有利となるような所得減税・・・・。一九八〇年代前半にはインフレ心理の息の根は止められ、世界はディスインフレ一色に塗りつぶされていった。

一九八五年のプラザ合意によって、米国は世界経済の盟主の座をいったん放棄し、経済的エゴイズムをむき出しにする。ドルを下落させ、活性化の途上にある企業を輸出によって、さらに育成しようとした。

ドルの下落は、同時に日本にとっては大幅な円高をもたらし、資金は日本に滞留することによって、「バブル」として日本中を沸き立たせた。

八十年代後半にはゴルバチョフが登場する。レーガンの、肉を切らして骨を切らせる放漫政策は、マクロレベルでは米国自身の国家財政を窮地に陥れたが、ミクロレベルでは企業経済を大いに活性化し、結果として、ソ連、東欧の社会主義政権を地滑り的に崩壊させることになった。

その間私は金融の世界で戦っていた。商社が得意とする商品相場のディーリング、日本株の仕手売買を一歩踏み出し、インベストメント(投資)のプロフェッショナルとして、為替、世界の株式・債券に投資し、そして当時としては物珍しかったスワップ、金融先物、オプションなどのデリバティブにも手を染めた。あらゆる収益のチャンスを狙っていた。

世界の政治、軍事、経済のトレンドを良く見ていると、人よりも半歩だけ先が見えてくることがある。常に為替だけというように、一つの相場だけで勝負していると、自分で良く分かっていなくても勝負にいかざるをえないことがある。それなりに収益をあげなくてはいけないからだ。しかし、何にでも投資できることになると、その時に自信のある相場にだけ賭けることができる。為替にしたって、ドル/円だけでなく、マルク/円もあれば、ポンド/スイスフランもあるし、アジアの通貨だってある。株は世界中に何万種類とあるわけだし、債券だって世界中に大変な数がある。商品では、金、銀などの金属だけでなく、オレンジジュース、豚肉などもシカゴの商品先物市場でやった。そして、すべての相場は相互に関連しており、すべての相場を追っかけていれば世界で今起きていることも、これから起こりそうなことも、人より少しだけ良く分かる気がするのだった。いくらでも収益のチャンスはあった。その時その時で一番動きの良さそうで、自分の相場観に自信のあるものだけに、機動的に投資していく。思っているようにいかない場合は、サッと損切りをして、次の相場物に移って行く。少しずつ手を広げて行くことによって、自分の相場観が出来上がっていった。突然、南アフリカの金鉱株が上がり出すと、しばらくして金の先物が上がり出す。そのあとには、インフレに弱い債券が売られだし、為替も動き出す。一週間後に、中東で政変が起きて軍事衝突の緊張が高まる・・・・・・。

相場物全体の中で、妙な動きがあると、それは必ず何かに連鎖し、しばらくして何か世界を動かすような事件が起きたりする。その時に始めて人は後講釈で、それまでに起こって来た予兆の存在に気付く。しかし、世界中のプロフェッショナルは、皆が気付いたときには儲かったポジション(投資の持高)を静かに利食ってしまっているのだ。私は、世界の相場を相手にすることによって勝つ味を覚えていった。勝ったり負けたりしながら、相場の中に息づく人間心理の強さや弱さを理解するようになっていった。特に、負けることによって自分の中にある弱さを鍛えていった。

為替では、八十年代の前半の円安、後半の円高のトレンドの中で大きく張って、多大な利益を得ることができた。ある月には、会社の一年分以上の営業利益と同じくらいの金額を、私の為替のディーリング益で儲け、次の月にはその半分の損を出し、またそれから三ヶ月続けて大きく儲け、また次の月にに大きく損すると言った具合だった。とにかく、八十年代の為替は良く動き、気付いて見ると累積利益では、会社の営業利益の十年分くらいの儲けを出していた。

為替に限らず、投資する時の私の売買のタイミングや考え方は、他の日本人のやり方とはかなり違っていた。

逆のポジションを取る孤独、そこで勝った時の快感、私は時の経つのも忘れて相場にのめりこんでいった。

為替での大成功に味をしめた経営陣は、為替売買を私の部下だった男に任せ、当時すごい勢いで上がり出していた日本株を私にやらせようとした。ミクロの個別企業のことはよく知らない私だったが、80年代の後半はとにかく大きく張れた者が一番の勝利者となった。私は経営陣に背中を押されながら、大相場の中で日本株を買いまくり、また会社の何年分もの利益を一人であげていった。低迷する本業を尻目に、金の卵を産み続ける私。会社は私の収益を当然のものとして回りだしてしまっていた。いずれ破滅はやってくるであろう。頭の隅では悪魔の声が私をおびやかした。しかし、私は、悪魔の声に耳をふさいで、ポジションを増やしていかざるをえなかった。いつしか私の売買は日本株だけになってしまっていた。それが手っとり早くもうけられるという経営陣の望みだったし、時間的にも物理的にも私はそうするしかなかったのである。

買えば上がり、上がると売ってサヤを抜く。即座に買いを入れ、また上がると売ってサヤを抜く。短期の売買を繰り返しながら、相場を張る持高は膨らんでいった。一時は、東京証券取引所の一日の売買高の半分を売買したこともあった。買えば面白いように上がっていった。時には下がることもあったが、その時は担当役員に頼んで、許される持高を増やしてもらって買いまくった。いつしか私の売買には、提灯がつくようになっていった。つまり、私が買ったという噂が流れると、それだけで相場は上がっていった。逆に、私が売ったという噂は、買い方を利食いに走らせることになった。こうなると儲けるのはさらに容易になる。私は、日本株市場で最も有名なプレーヤーになっていた。

特に一番儲かったのは鉄鋼株である。プラザ合意後の構造変化の中で、大手の証券会社はシナリオ営業に走った。つまり、自ら相場を作るように、未来の日本将来像を示して、特定の株を推奨した。鉄鋼大手の持つ広大な土地の再利用を材料にして鉄鋼株の大相場があった。私は、その極めて初期の段階にこのシナリオのスケールの大きさに魅了され、いち早く買いまくった。私には、将来日本がどうなるのかは自信がなかったが、為替をやって人々のセンチメントは理解できるような気がしていた。このシナリオは人の気を引き、必ず一回は大相場になる予感があった。

値段が上がるにつれて、元は単なる大ボラだったそのシナリオに輝きが増していった。最初は、そこにただ広い遊休の土地があるだけだったのに、その地面に夢が吹き込まれて株が上がる。上がるとまた新しいシナリオが産み出された。そしていつしか、はじめはそんなことを真面目に考えなかった企業の方もその気になって、土地の再利用を考えはじめた。証券会社、投資家、企業家が同じ夢を見て知らないうちに夢に実体が伴っていく。このとき、私は鉄鋼株を高値で売り抜けることが出来た。大成功だった。有頂天になるほどの大成功だった。企業の側も相場にあおられるように新たな開発計画をスタートさせていった。私が売ったあと、社内の他の人間が、「もっと上がるんじゃないのか」と言った矢先に鉄鋼株の相場が終わった。鉄鋼株は急落した。私は味をしめた。社内の人も証券会社の人も私を讃えた。私は鼻高々だった。経済新聞に名が出るような、金融・相場の専門家として金融界全体での有名人になっていた。企業の開発計画は既に後戻りできなかった。一度産み出された夢は簡単には捨てられないからだ。夢は、実現に向かって全速力で走り出していた。東京湾の埋立が始まり、日本中にリゾート地建設の計画が出来上がった。

私は猛烈に勉強をした。世界中の新聞、雑誌を読み、世界の政治、軍事、経済、金利、為替、景気の分析をした。市場の著名なアナリストやエコノミストと意見を毎分といったペースで交換していた。日本株しかやらせてもらわなかったが、やはり日本株だけを見ていては不安だったからだ。

有頂天になっていたころ、一緒に株を売買していたのが、長井だった。長井も相場の動きに一喜一憂しながら私とともに戦っていた。役員が私の成功にほれこみ、私の収益目標を2倍の一千億円にし、持高を4倍にしたころ、長井は私とペアを組んでいた。私は一千億という数字を聞いただけで頭がくらくらした。そして、強欲な役員、経営陣のことを二人で呪ったものだ。二人とも、好調さがずっと続くとは思っていなかった。いつか相場が急落して身動きがとれなくなると思っていた。でもやめることはできなかった。会社も完全に私たちの収益をあてにして回り出していた。

試しに買った店頭のベンチャー株が半分になった時も、私に損切りさせたのは長井だった。「こんなに儲けてるんだから、今のうちに損を出しても売った方がいい。株価というものはひとたびおかしくなると、坂を転がるように落ちていくものだ。」そう言ったのが長井だった。私が長井の言う通り損切りしたその一週間後にその会社は倒産し、その株券は紙くずとなった。長井はいつも私の助言者だった。

世界中の情報を集め、売買を繰り返す生活のおかげで帰宅時間は遅くなった。家にいても売買海外で売買を行い、家と会社でのけじめがなくなっていった。

ロンドン市場やニューヨーク市場が動いている夜も、寝ていて相場のことで目が覚めた。そんなある日、起きた時に胸騒ぎがし心配になってニューヨークに電話をすると、アメリカ株が急落し、金利が急低下していた。87年の、あとでブラックマンデーと名付けられた日のことだった。私は電話で、ロンドン証券取引所での売買を仲介することのできるロンドンの証券会社に電話し、なじみの日本人セールスマンに「日本株を売れるだけ売ってくれ、売ってくれ!」と祈るように叫んでいた。電話口の向こうでは、「わかりました。」と震える声が答えた。鬼のようにこわばった顔で、魂を吸い取られた私の姿を見て、妻はおびえと軽蔑の表情をした。私は、何も言えず、ふとんに入った。トロトロと浅い眠りで陽が昇ると、朝食も食べずに会社へ向かった。浅い眠りの中でやるべきことは決まっていた。朝一番で、きのう売った大量の日本株を買い戻しにかかった。上がり下がりの大きな1日だったが、私の考えは正しかった。日本では、場の始まりこそ大きく下げたが、途中から下落をはね返し、ブラックマンデーは1日で終わった。私は、1日で200億円もの収益をあげ、同時に日本株の強さに対する私の信頼感はさらに増幅された。私の成功を聞きつけて経済雑誌が特集を組んだ。私の日本株に対する楽観的な見通しが成功物語として論理的に語られた。その論理は人々を納得させるのに十分な力強さを備えていた。その雑誌の記事を書いたことによって私の、日本株と日本経済に対する信頼感はますます強固なものになった。そして、私は自分自身の論理の力強さに、逆に囚われることになった。一度書かれた文章に縛られて、二度と冷静で柔軟な相場観を持てなくなっていくのである。

ブラックマンデーを境に家庭を省みることが一層少なくなっていった。私は相場の魔力にからめ取られていったのかもしれない。桁違いの大きな売買をする私に会いたがる金融関係者は後をたたなかった。国内、海外のエコノミスト、ストラティジスト、アナリスト、証券マン、銀行マン、為替のディーラー、ポートフォリオマネージャー、ファンドマネージャー、株屋、マスコミ…ありとあらゆる名前を持つ職種の人間が私をめがけて集まって来た。。

私のスケジュール帳はランチも夕食もアポで埋まっていった。断っても断っても新たなアポが舞いこんできた。どうしても会わなければならない相手が重なり、ビジネスランチを二回食べることすらあった。経済、金融、相場の話で私の頭の中は一杯だった。しかし、私には、好きで接待を受けているわけではなく、情報交換をしているという思いが強かった。私の上司である部長や役員は、証券会社や銀行の役員におだてられていた。「古畑さんが頑張れるのも、あなたのような立派な上司の方がいるからこそですね。今度ゴルフでもいかがですか。」「そうですな、ハッハッハ。」そして、次の月曜日には、「○○証券に××株発注しておくように」というメモが回ってくる。最初は仕方なく言う通りにしていたが、回数が多くなるにつれ、私は無視することにした。情報をくれる対価として発注を出す。私は体を張って稼いでいるのだからと。私は自分の責任と相場に純粋だった。あの時に言うことを聞かなかったからだと、後で言われるようになることも知らずに……。とにかく私は純粋だった。私はゴルフも酒も極力断っていた。私だけは違っていたと思っていたが、今思えば同じことだったのかもしれない。だた、私が少しばかり浮かれていなかっただけのことなのかもしれない。

来客が増えて名刺がまたたく間に2000枚集まった。名刺の数は、私の持ち高や市場における声望の高まりとともに急カーブを描いていった。名刺ケースだけでは入りきれなくなって、段ボール箱を使ったが、それも一箱、二箱と増えていき、ついにはパソコンで管理をしなければならなくなった。私の名刺の管理とアポをさばくために女性がアシスタントとしてついた。ひっきりなしにかかってくる電話に応対しながらランチとディナーのアポを入れていった。

しかし、その頃にはもう、私の体はにむしばまれていたのだった。89年には、首が後ろに回らなくなった。首が重たくなって後ろが振り返れなくなったのだ。体の左半分に力が入らなくなっていた。ある時、ボーリング場で久しぶりにプレーをして愕然とした。体のバランスが保てずガーターが続出し、点が百点を越えられなかった。変調が具体的症状で体の方々に現れてきた。私の心の変調はさらに深く、そして、追り来る相場の変調も日一日と近くなっていた。

そして、ついに、90年代に入り、すべてが暗転した。株は暴落し、円はさらに値を上げ、何をやっても損は増えていくばかりだった。相場の反転を待って小刻みに売買をしならが、持高はそのままにしていた。91年の半ば頃までは、市場参加者は、この下落は一時的なもので再び日本株は上がり出すと信じて疑わなかった。本当に戻るのか、値段が下がるに連れ膨らむ不安を理由をつけてかきけした。今思えば確かにおかしなことなのだが、その時は誰もが日本株は不死鳥だと信じていたのである。

私と私のポートフォリオの息の音を止めたのが、イラクのサダムフセインによるクウェート侵攻だった。日本株は大きく下げた。相場のプロたちは、しこっていた買い持ちの「投げ」を期待した。投げてくれれば売り玉も減り、相場の反転も期待できる。しかし、大きく下げたあとの戻りは小さかった。日本株の反転上昇はずっと、ずっと先であることが明らかになった。私はこの時はじめて自分の敗北を悟った。それまでは何とかして取り返せると思っていた心のより所をすべて捨てざるをえなかった。部長、役員に頭を下げ、すべては終わったことを告げた。全身から力が抜けていった。体が少し軽くなったような気がした。それまで自分を縛ってきたがんじがらめのロープからの開放感だったのかもしれない。とにかく私は、完全な敗北者であった。

家に帰って妻に、その日あったことを話した。妻は、「そう。終わったの。私も一つ話があるわ。子供ができたの。もう一度やり直したいわ。」と泣いた。私は彼女の体の重さを胸で受け止めながら、天井の木目の模様を見つめていた。

あれはバブルだったんだ。バブルに踊った人間が悪かったんだ、人はそう言う。たしかに冷静に事態を見つめれば、相場全体が短期間に、二倍、三倍になるのは異常である。しかし、第二次世界大戦後の五十年間は、こうした異常が正常になってしまう歴史でもあった。戦後ゼロからスタートし、今は大会社になっている会社も、必ず一度や二度はあえて異常な賭けをやってきたのだった。賭けに勝った会社だけが生き残り、勝った会社よりはるかに多い負けた会社が消えていった。賭けに勝った会社だけが成功に彩られた社史を残し、敗れ去った会社は人々の記憶からすぐに消え去る。勝った会社でも重大な賭けをやった人間たちは既に会社を退き、昔のバクチは正当化されてバクチではなかったものとして語られることになる。そして今は大会社となった会社には、昔を知らない官僚タイプの能吏が溢れているだけの話である。日本人たちは西洋人のような千年単位の、歴史観を持っていなかったということでしかない。バブルをバブルと気付くことが出来なかった。

日本の再生には、正しくバブルの総括をすることが必要不可欠である。

バブルは通過儀礼であった、と私は自分の調査レポートに書いた。けして過去の自分を許すがために書いたのではない。日本人が刀を下げて関ヶ原の戦いをやっていたころ、欧米人は東インド会社によって植民地収奪を行っていた。有名な千六百年のこと。富の蓄積が、ようやく二十年前から始まった日本と、何百年もの資産運用の歴史を持つ欧米人とでは時代認識における差が歴然としている。失敗してあたりまえだった。

問題は今だ。残った負の負債をどう処理し、未来につなげていくかだ。焼野原から立ち上がる勇気を持つことだ。当時の責任者である私に冷や飯を食わす、それもいいだろう。必要だ。しかし、それだけでは何にもならない。新しく何かを作り出すこと、それが重要だ。

 

毎日同じ時間に家を出る。同じ朝食をとり、同じ時間に同じ局の天気予報を見、同じ時間に国内ニュースを見る。同じ時間にBBCとCNNのニュースを見、毎日、日経新聞をカバンにつめこむ。朝の行動は無意識に流れていく。一つ一つの行動こそが、私が生きている証である。駅の近くの美容院の前で、例の美人とすれ違う。きょうは髪を後ろに結んで一層凛々しく見える。私の口元が少し緩む。彼女も私が彼女を見ていることを知っている。それだけでも幸せな気分になる。私は毎朝会う彼女に「朝美」という名を勝手につけることにした。

きょうも北野が来ている。

「そろそろ北野さんの昔の話をしてもらってもいいでしょう。この商売の前は、何をやってたんですか。」わざと私はぶっきらぼうに聞く。

「証券会社ですよ。」あっさり北野は答える。

「外資系のね。三十人程の部下を持って、アメリカ系証券会社の取締役営業部長をやっていました。その時から、あなたの勇名は商売柄聞いていました。」

知らなかった、と私は思った。だから、金融マン専門のコンサルタントをやっているのだ、と合点がいった。

「それがどうして、今こんな商売を?」

「こんな、とはごあいさつですね。」

「そりゃまあ、人のふんどしで仕事をする奴は汚いというけど、あなたは人のふんどしを洗おうとしている。汚いやり方ではないけど、くさい作業ですよ。」

「ははは。うまいことを言いますね、古畑さん。実は、こんなことをやるようになったのにも経緯があります。私はいつも血の気が多すぎるのですよ。四大証券の一つであるZ證券のアメリカにある現地法人をやめた時もそうでした。」

「随分会社を変わられたんですね。」

「ええ、まあ。Z證券をやめたのは、自分の都合です。アメリカの大学を出て、人の紹介があってZ證券のアメリカにある子会社に入ることになった。ニューヨークでの現地採用でした。得意の英語と、そして持ち前のバイタリティでアメリカ中を飛行機で飛び回り、日本株を売りこみました。七十年代のことです。最初は、相手にしてくれなかったアメリカのクライアントも二度三度と足を運ぶにつれて話を聞いてくれるようになる。そういう所はアメリカ人は本当にフェアです。どこの馬の骨でも、とにかく話だけは聞いてくれる。当時のアメリカ人にとって日本株は、今で言うタイやインドの株と同じだったんでしょう。儲かりそうだけど、きちんと説明してくれる人がいない。私はアメリカ人に対しては、ちゃんと財務データを用意し、論理的に話をしました。カラーペンでカラフルに塗り分けられたプレゼンテーション資料も工夫して作りました。当時そんなことを真面目にする日本人セールスマンは少なかったんです。そうしたら、アメリカの年金基金では五本指に入る教職員組合の年金基金の日本株アドバイザーに指名されちゃった。指名された時は、正直言って震えてしまいました。だって世界中に鳴り響いている大投資家から二十五才の若造がアドバイザーに指名されたんですから。他の日本の証券会社のように、はったりだけの情緒的営業にあきあきしていたらしいんです。愚直だが、私の誠実さを評価してくれたというわけです。それからはいもづる式でした。評判を聞きつけて、説明に来てくれというクライアントも出てきた。無我夢中で七年やりました。契約もどんどん増えました。でも、ある日一つのことに気がついたんです。どんなに私が数字をあげても、あるレベル以上には昇格させてくれないし、給料もそれほど上がらない。本社から派遣されてくる上司ばかりが日本に呼び戻されては偉くなっていく。現地採用は駄目なんです。だからある時、クライアントの一人に相談してみたんです。どう思うか、って。そしたら、そのクライアントが、そりゃアメリカでも名の通った年金基金のキーパーソンですからね、アメリカ中の証券会社の人間を知っている。一人腕のいい日本株のセールスがいるんだが、雇う気がないかって、手当たり次第電話をしてくれた。そしたら、米国系証券会社M社の東京支店が日本株営業のヘッドを探していることがわかった。それで日本に帰ることになったんですよ。」

「何年に日本に帰ってきたんですか?」

「一九七九年ですよ。」

「ああ、私がこの会社に入った年だ。」

「そうです。サッチャーが政権についた年です。」

「それから十二年、前にもまして馬車馬のように働きました。日本株も山あり谷ありでしたが、傾向としては常に右上がりで、おかげで私自身もいい目を見ました。」

いつもは落ち着いている北野の顔がキラキラ上気している。

「私自身も日本株に絶大な信頼を置いていました。日本という国も、天井がないほど伸びていくすごい国だと思いこんでいました。何しろ、買っていれば儲かったのですから。十二年間ぶっ通しでの成功体験を疑えっていっても、当時はほとんど無理だったと思います。今から思えば、本当におかしな話なんだけど、あと何十年も日本株は上がり続けると誰もがみんな信じていたんです。信じていなかったのは、外人たちでした。資産運用の長い歴史を持つ、イギリス人ユダヤ人やスイス人などは特にそうでした。

そして、ついにバブルが崩壊したのです。」

北野は、ふと、ため息をついて窓の外を見る。窓の外に遠くそそり立つ摩天楼を見る。私も彼の目の中にある寂しさを見る。そして、すぐに目をそらし、北野の視線にある窓の外を見る。窓に近付くと、窓の外には皇居の緑が見えている。彼もまた、一人の敗残兵なのだ。

「話を続けて下さい。」

少しあらたまった口調で私がうながす。普段優しい眼をしている北野のまゆが険しく波打っている。

「一九九〇年に日本株が急落したあとも、私自身は仕事の上では健闘していると思っていました。私の会社はアナリストも質の良いのを揃え、機関投資家の顧客も増えていましたから。日本株が下がり出しても、何とか人件費など経費を差し引いた日本株部門の収益はトントンを維持していたのです。その時は、バッサリ米国の本社が日本株部門を切ってしまうなんて夢にも思わなかった。でも違ったんです。考えてみれば本社にとってみれば何十億円もの金額を投資しているのだから、収支トントンじゃ満足できないわけです。投資に見合った成果が得られないならやめろ、万事合理的な西欧人ならみんなそう考えます。日本株市場の将来性についてはわかっていても、それだけで何年も我慢する日本人とは、全然違います。サダム・フセインによるイラクの湾岸戦争のあとでした。それまでは、この下落も一過性のもので、いずれまた右肩上がりの元気な日本株に戻ると皆思っていたわけです。それが、あの湾岸戦争による日本株の急落で、これは何だか変だぞと、世の中既に変わってしまっていることにようやく気付いたんです。もう日本経済の強いファンダメンタルズは失われていた。つまり、日本株の敗北は誰の目にも明らかになりました。ダメを押されたっていうわけですね。」一気に北野が話す。

「そう、サダム・フセインでしたね。」

私がうなずく。北野は続けた。

「そうしたら、本社が言ってきました。日本株の人員を二十名から半分の十名に減らすと。ついては責任者である私に、退職候補者十人のリストを作成しろというんです。しかし、これは私には本当に辛いことでした。その時の二十名は全部私が面接して採った人間です。特に半分の十名は私が直接こちらからコンタクトして、来てくれと頼んだ人間ですからなおさらです。私は悩みました。何とかならないか本社にかけあいもしました。しかし、無駄な努力でした。何度もリストを作り直し、そして二週間の期限日である、その日の朝方、ふとんの中で私は心に決めたのです。リストを本社に出すのは止めにして、私自身が辞めることにしようと。『私には出来ない。だから私が先に辞める。』と。そうしたら、他に辞めざるをえない部下たちも、きっと納得してくれる。そんな風に思ったのです。日本的ですね、私。潔くスパッと辞めました。一応本社にもわかってもらいました。給料が高い私が辞めることから、私を含めて人員減は5名にとどめてもらいました。そして、縁あって今の会社に入ることになったのです。人のことで悩んでいた人間が、人の再就職のお手伝いをする、全く不思議な因縁です。」

ここまで一気にしゃべって北野は深くため息をついた。私も心の中でため息をつく。ここにもバブルの嵐に翻奔された人間が一人。私と北野の関係は、今や一人の人材コンサルティングと一人のビジネスマンの関係ではなかった。

豪徳寺からの帰り道、私はきょう北野から聞いた話をもう一度思い返していた。何度も思い返して、ふと視線をずらすと、夕暮れ時の民家の壁の上に、うす桃色の梅の花が咲いていた。豪徳寺の隣の駅には梅の名がついている。「梅ヶ丘」には、梅の季節に梅祭りという祭りがある。私は梅の花が好きだ。梅の香りは春の訪れを予感させてくれるゆかしさがある。匂い起こせよ梅の花・・・。

家の前までくると、またあのバッハの曲が聞こえてきた。きょうはどこの家から聞こえてくるのか、はっきりした。思った通り。引っ越してきたばかりの真向かいの家だ。曲は淡々と繰り返され、続いた。私が家の鍵を開け、ドアを閉めても、ピアノの音は小さな音で私を追ってきた。私の耳には繰り返し弾かれていくバッハのその曲が刻みこまれてしまう。嫌ではなかった。弾いているのは間違いなく女性であると思った。

その夜、夢を見た。私は追われていた。足音が背中の方で響いている。どんなに速く走っても逃げおおせないとわかっていた。場所は・・・・・・間違いなく会社の中だった。誰もいないオフィースの机の上には書類が散乱し、パソコンには見慣れぬ画像が踊っていた。私は走りながら一つの部屋に逃げこむ。ドアをあけると人事部長の合田の顔があった。常務の坂井の顔があった。みな恐い顔で私の弱さをなじっていた。まゆ毛をつり上げた顔で、自分たちは歴戦の勇士であると勝ち誇っていた。私の中では恐れの気持ちと同時に、すさまじいばかりのどす黒い怒りが吹きあがり、合田や坂井の鼻柱をたたきのめしてやりたい衝動が体を貫いた。こぶしを握りしめていた。そして、突然夢から覚めた。体中に汗を感じた。

私のこの十年は紛れもなく、バブルの発生と崩壊のためにもてあそばれた十年だった。バブルは急速に拡大し、続いた。続いているうちに皆、神経がまひした。そしてそれに続く突然の崩壊。この十年間で、仕事の亡者となっていた私から去っていった友人とのことがとりわけ悲しい。そして妻や子との別離・・・・。

麻子の顔は、既に意志を固め、揺るがぬ強さを外に放射していた。私はもう何を言っても無駄だと思った。

「会社に大損させた男」「バブルの頂点でいい気になっていた鼻持ちならぬ男が、今は地に這いつくばっている」「女もいるらしい」・・・・。

いくつかは嘘ではなかった。だけど大半は意図的に作られ、社内に流されたものだった。手口は陰湿だった。表面上は何の処分もなかった。しかし、酒の席で、社内のちょっとした立ち話で、うわさは巧妙に流布されていった。私は自分から否定をすることを放棄していた。会社の論理としては当然すぎる帰結である、閑職への明らかな左遷。同僚は私に話しかけることをやめた。上司からそうせよ、と言われたのだ。

たしかに調子に乗って大きく張りすぎていた、と反省していたこともある。それに、もう全ての事にうんざりしていた。そして、ついに会社に出てくることが靴底をなめさせられるように思えてくる。並の神経だったら、とっくに会社を辞めていた。でも私は必死に流れと逆方向に歩こうとした。そして、会社の中で、亡命者のように生きていこうと心に決めた。それでも家にかかってくる無言電話の回数は減らなかった。社内に出回る私についての中傷文書を妻宛に送られた。頭痛、血尿、吐き気。そして、何より、私自身が精気を奪われた顔をして、家でも自室に閉じこもりっ放しだった。

妻はじっと耐えていた。何年か経ち、かさぶたが出来かけた頃を見計らって突然妻は言った。意気地なしの夫の、心の傷のかさぶたをひきちぎり、傷口に塩を塗るように言った。

「私たち、実家に帰ることにしたわ。あなたが自分を可哀想がるだけで時間がどんどん過ぎてしまうの。」

私は、しぼり出すように言った。

「すまなかった。行かないでくれ。俺はまだ駄目なんだ。」

「誤解しないでよ。今のあなたの、その辛そうなのが見ていられなくて、別れようと思っているだけではないわ。あなたが、有頂天になっていた時から、いつかこうしようと思っていたの。」

「奈都子は何て言っている。」

「どうもこうもないわ。子供は母親が面倒を見るものよ。慰謝料はいらない。この家もあなたが住めばいい。この子の養育費として毎月十万円、私の口座に振り込んでちょうだい。」

私には返す言葉が無かった。ここに奈都子が今いたら、「おとうさん。」と私に抱きついてくれるだろうか。私にはよくわからない。わかるのは、毎月振り込む十万円が、私と奈都子をつなぐ唯一の絆になるということだった。私は全てを奪われたと思った。すぐに離婚届けが麻子から送ってきた。はんこを押せという。私はそのまま放っておいた。麻子から電話があり、しばらくして二度めの離婚届が届けられた。私はまたそのままにしておいた。そのうちに何も言ってこなくなった。彼女のことだ、三文判を買ってきて役所に提出することだろう。

もう二年半も前のことだ。

きょうもバッハを弾いている。三時間も弾き続けている。日曜日の午後に、バッハの音に心奪われコーヒーを三杯飲んだ。二階の南向きの窓から、向かいの家の様子をうかがう。あの家からは、五十がらみの女性の出入りしか見たことがない。あのオバさん然とした女性と悲しげなバッハの曲とは全く結びつかない。もっとも、平日の日中は私の方がこのあたりにはいないわけだが。

疑問はあっけなく氷解する。その日曜日の午後のこと。冬の終わりの春めく陽気に誘われて私はカーテン越しに外を見ている。その家から父親におぶさって高校生くらいの女の子が出てくる。続いて、車椅子を引いて母親が出てくる。女の子はこわばった表情で車椅子に座る。二言三言父親が声をかける。緑色のビロードのワンピースを着た女の子は、ぎこちなく笑う。そして、その狭い三メートル道路に止まったまま、あたりを見渡す。照りつける太陽をまぶしそうに見つめる。久しぶりに太陽の光を体に浴びるように。手を太陽にかざす。右手を上げて風の強さを手のひらで感じ取る。

そして、突然大輪の笑顔を浮かべる。柔らかな笑い顔が、彼女の端正な目鼻立ちを際だたせる。大人びていて、二十才にも見える。気持ちの強さを周りに照射している。思い出したように車椅子が動き出す。私の家に近付く。私はカーテンから後ずさる。ちょっとした後ろめたさと好奇心に心は惑わされている。少女はくるりと車椅子をUターンさせる。そして、もう一度太陽に向かって伸びをし、父親にまたおぶさって家へ入っていった。

私はその五分あまりの時間を何度も何度も頭の中で再現する。たった五分のことで私は一時間物思いにふける。彼女の生い立ち、ピアノのこと、私の生活とのあまりの隔たり・・・。彼女と私の接点は、近くにたまたま住んでいるということと、同じ人間である、ということぐらいしかない。

私は私を私の外から見る。私も何かしなければいけないと思う。家に閉じこもってバッハを弾き続ける少女。閉じこめられたつもりで自分を閉じこめている自分。何かをはじめることも必要だ、と思う。

北野がまた来てくれた。彼はかつて、「本当は私には彼は必要ない」と言ってくれた。でも、私には彼と話をする時間がとても重要なものに思えてきている。北野には、人を包みこむ何かがある。

「古畑さん。古畑さんは何か健康法みたいなことをやってますか?」

「健康法?そんなもの、やってるわけないでしょう。今はあまり飲みませんけど、酒を飲んで、酔ってくるとまた飲まずにいられなくなる。吐くまで飲んで悔しまぎれに『これが俺の体の鍛え方だ。』なんて息まいていたことがありましたけどね。」

私は、北野のこの質問に遭遇して、はじめて、この六年間といった月日の間、体の不調の原因を探し、身の不幸を嘆くばかりで積極的に体を健康に向かわせるためには何もしていないことに気がつく。

「前向きな発想が人間の免疫力を強くするとか言いますけどね。私がやっているのは、『絶食』というやつですよ。」

「絶食?」

いぶかしがる私に北野は続ける。

「そうです、絶食ですよ。土曜日は朝から晩まで水と塩だけにし、他は何も食べません。普段、栄養過多の生活をしていますからね、週に一日、何も食べなくったって人間は平気です。いや、むしろ、何も一日食べないことによって、体が浄化されれいくのが体の底の方から良くわかります。日曜日の朝、断食開けをフレッシュな野菜ジュースからスタートするんですが、軽い朝食のあとにジョギングをすると、徐々に体に血とエネルギーが充ちてくるのが良くわかるようになるんです。たんぱく質など栄養の摂り過ぎで風邪になるという説もある位で、私はこの健康法をやりだしてから病気一つしなくなりました。その上、絶食をしている土曜日というのは、血が胃腸に行かず頭と体に行っているから、頭が本当に冴えわたっています。困難な問題を考えても、次から次へと具体的な妙案が浮かんできます。それに、絶食しているときは、心も落ち着き、心が優しくなる。これまで受けてきた人の親切にも頭が行くようになり、本当に言うことなしですよ。」

北野はいつも自分の体験を話す。とりとめなく話す。しかし、話すのには意味がある。私は気づいている。相手の今の状況に役に立つことを心がけながら、人を前向きに仕向けることに心を砕いている。最初会った時に、「古畑さんには私みたいな人間は必要ない」と言ったのは本音ではなかった。私は土気色の顔をしているに違いなかった。過去にこだわり、過去に縛られている自分。彼は毎日のように私に会いながら、「元気を出せ、まだ終わったわけじゃない。早く気付いて、立ち上がるんだ。」と心の中で叫んでいるに違いないのだ。

 

 

始めたばかりの腕立て伏せがようやく二十回できるようになった。毎晩風呂に入る前にすることにしたのだ。それまで体の左側にあったしびれが引いていったことが実感できる。間違いなく体調が戻りつつある。私だって、やり直したい。現在を精一杯、もう一度生き直したい。力が、弱々しかった力が、体の奥の方でうずいている。

同時に一つの言葉が頭の中で領土を拡げている。開き直ること。もう失うものは何もない。やるだけやるのだと。

 

 

 

 

第二部 始まる

雨が窓をたたいている。春の雨が優しく感じられるのは何年ぶりだろう。北野が訪れるようになって一ヶ月が経つ。

その間、朝は毎日、朝美とすれ違い、目を少しそらすようにしながら細く伸びた足を見る。時々そっと振り返り、ショートヘアーがちょっとかかる襟足に見とれる。

そして会社では5時までの間、気ぜわしく調査レポートを執筆する。西田京子と軽口をたたく以外はほとんど自分の中で完結する。

しかし、北野との関係は大きく変化している。私は北野と毎日のように話をしながら、一つの「たくらみ」について考えていた。自分の能力も決して捨てたものではないと思い出していた。東京市場の為替ディーラーやポートフォリオマネージャーたちが皆、一挙手一動を注目していた男であった過去の自分を思い出し始めていた。

もう一つ変化したことがある。四十才を過ぎて最近新しく始めた趣味のことだ。アルトサックスを始めた・・・・。

前から楽器を一つ始めたいと思っていた。できれば吹くものをやりたかった。

子供の時に、母親の望みでピアノを嫌々練習した。いや、家にはお金が無かったのでオルガンで練習したというのが本当の話だ。上手になったらピアノを買ってもらいなさいと女の先生が言っていた。そのうち私は、野球やサッカーに夢中になりピアノのレッスンをやめ、我が家にピアノが来ることはなかった。私の学生時代稽古事として唯一経験したことだった。

中学、高校ではギターを弾いていた。フォークギターをベッドの上に座りながら弾いていた。あまり上達しなくて、大学三年頃には弾かなくなり家が引っ越した時にギターを古道具に売った。

あれから、いつか違う楽器をやりたいと思ってきた。吹き物は良い。腹式呼吸で息を吸いこみ、体の中に取り込んだ全部の息をしぼり出す。

アルトサックスを選んだのは、一番音が出やすいと聞いたからだった。昔、予備校へ通ったお茶の水にある楽器専門店で買った。ケースや付属品が全てついて8万円。ケースを持って地下鉄のお茶の水駅の長いエスカレーターを降りていく時心が躍る。家が火事になったら日記を放っておいて外へ持って出る物がようやく出来た、と私は思った。

一日目から音が出た。自分でも驚いた。毎朝朝食を食べたあとで三十分練習する。教則本を見ながらの練習。三十分吹くと唇が痛くなる。低い音ではのどを広げて息をゆっくり目に吹き込み、高い音ではのどを狭めて息をスピーディーに吹き込む。教則本の言葉を、そのまま素直に実行した。こんなに物事に真っすぐぶつかることは久しぶりだった。腹式呼吸が少しずつ出来るようになった。音が少しずつまろやかな音になっていった。半音の指使いがやればやるほどスムーズになった。少しずつだが上達していくのがわかった。体の中に力が沸き上がっていくのを感じる。音と共に、体に充ちていた血液が戻ってきている。まだまだ力は十分ではないが、体が動き出している。私は、外に音があまり漏れることのない地下室を、この家に作っておいた幸運に感謝した。

「北野さん、僕ね、職探ししてみようかと思ってるんですよ。」

その日、私はサバサバした顔で言った。北野は私の顔を見つめ、ちょっとほほえんだ。

「いや何ね、このままいつまでも会社と闘っていたって、何の足しになるか、って最近思い始めたんですよ。こんなつまらない会社を相手にして、勝った負けたと騒いでみたって、自分が惨めになるだけだって気付いたんです。まだまだ四十才そこそこじゃないですか、これからひと花もふた花も咲かせられるんじゃないかと思ったんです。」

じっと聞いている北野の顔に赤みが射している。そして、ひとこと、

「やりましょうよ。あなたが、もうひと花もふた花も咲かせられる職場を二人で探しましょうよ。」

それから三日間は、北野による職探しのオリエンテーションを受けた。転職の時のポイントというのは、「自分自身のアドバンテージを徹底的にみつめること」だという。私がこの年になって誇れることといったら資産運用に関すること以外にない。会社村の狭い世界での人間関係操縦術、部下をしかったりなだめたりの管理術・・・・・私の苦手なこんなスキルは転職の時のアドバンテージにはならない。もっと具体的な体験、ノウハウでないと値段はつけてもらえない。国内外の株の運用、債券の運用、為替、そしてそれをすべて統合するポートフォリオマネージメント、誰が見ても私のアドバンテージはそのことしかなかった。

北野は私に具体的指示を出した。一つは、知り合いの中で最も信頼できるヘッドハンターを、一社だけに絞って職探しを依頼すること。二つ目は、金融業界の知人のうち、物が頼める人の名前を出来るだけたくさん書き出して、訪問を始めること。その際、職を紹介することに後ろ向きな知人には職の斡旋を無理強いせず、「それでは、職を紹介してくれそうな知人を3人紹介してもらえませんか。」と言うこと。これで二十人に会えれば、ねずみ算的にチャンスは広がっていく。私は、北野の教えてくれた方法に加えて、インターネットを活用してみた。投資顧問会社の中にもホームページを作っているところがいくつかあって、インターネットを使うことによって容易にコンタクトがとれる。こちらのキャリアとニーズをファイルで作っておいてメールで送りつけるのだ。中には、バブルの頃の私のことを覚えていて、サジェスチョンの情報をくれる人も多かった。

世界の中で見れば、私の場合はかなりラッキーだったと言えるだろう。何百年もの資産運用の歴史がある欧米に比べ、日本では資産運用のビジネスがようやく軌道に乗りかけた時期でしかない。私ぐらいの経験のプロフェッショナルでも今の日本ではそうは数はいなかった。さらに、企業年金、投資顧問などについての規制緩和で、経験のあるファンドマネージャー、ポートフォリオマネージャーに対する需要は少しずつ上向いていた。生命保険会社、信託銀行に加え、銀行系や証券会社系の投資顧問会社、外資系の銀行、証券、投資顧問会社が、パイの急速に広がっていく企業年金市場や個人向けの投信市場での優位性確保を狙っていた。

しかし、私自身はありきたりの職場には、あまり興味がなかった。バブルの時に感じていた身を切るような緊張感を感じることが嫌だったわけではないが、今度は、違うアプローチ方法で形を変えてもう一度トライしてみたかったのかもしれない。私は大きな組織の中で、単なるワン・プレーヤーとして相場の切った張ったをすることにはもうそれほど魅力を感じないようになっている。サムシング・ニュー。新しいことをはじめるのだから、思いっきり新しいことをやってみたい。

新しい運命は一つの出会いから始まる。一つに絞ったヘッドハンティングの会社から面接の連絡が入る。外資系大手の独立系投資顧問会社が日本株のファンドマネージャーを探していて、私のことに興味を示していると言う。実は、かつての私の実績を知った上で採用に乗り気だと言う。日本株運用のヘッドであること、給料も最近の転職環境では珍しく、今よりかなり金額がアップするという。話を聞けば聞くほど良い話のようだった。少なくとも客観的には。

しかし、ひとたび新しい職が容易に見つかりそうになると、心の中に自分自身というものがむくむくと大きくなっていく。割り切れない何か。

指定されたSホテルのロビーで私は待った。外資系投資顧問会社の日本法人の、ナンバー2であるその男は趣味の良い黄色いネクタイに紺のスーツで現れた。資産運用部門の責任者であるという。互いの自己紹介のあと、男は単刀直入に一つの質問をした。

「古畑さん、ファンドマネージャーにとって最も大事な資質や経験は何だと考えますか。」

関根良一(せきね りょういち)は、黒縁メガネの下からクールな目で私の目を強く見つめた。私は少し考えてから、口を開く。

「これまでの自分自身の経験から、私はこう考えます。ファンドマネージャーが長くファンドマネージャーを続けていられるためには、過去に、大きな損、それもとてつもない損をした経験が必要だと思います。地を這いつくばり、周りの人から指弾されるような屈辱的な失敗、そしてその失敗が容易にリカバーされてしまったのではいけない。心の傷として、ずっとその人間の行動に影響を与えていく、そんな風でなくては、危なっかしくて資産運用など任せられません。」

関根は、うんと小さくうなづき軽く笑った。

「私にも良くわかります。私も過去にそんな経験をし、そして今の私があります。」

そしてたたみかけるように言う。

「もう一つファンドマネージャーに重要な資質は、すぐに納得しないで反対のことも考えてみる、眼の鋭さです。そういう面からは、さきほどのあなたの答えにはこう言い返すこともできる。つまり、逆の面も私はあると思うんです。一つはツキです。災難が向こうから避けていくようなツキを持った人、中にはそんな人もいますよね。それから、心や体の根っこの所では常に全てを疑って、臆病に自分と向き合うことが要求されますが、日々の仕事の中では小さな勝ち負けにこだわらず、失敗をすぐに忘れて、気持ちを立て直す強さも必要だと私は思っています。どうですか。」

この男は百戦錬磨の男である。私は、背中に冷たいものを感じる。しかし負けたくもない。淡々と口を開く。

「そうですね。つまり、この仕事、複雑な人間でなくては出来ないってことですよね。」

私と関根は共感し合える所があった。関根も日系大手の証券会社系投資顧問会社で二十五年活躍し、五年前にこの外資系の会社に移ったと言う。三十年の年月は上がったり、下がったりのすさまじい道のりだったのだと思う。

「実は、私があなたを気に入って面接しようと思ったのは、あなたのその失敗の経験に興味があったからです。バブル華やかし頃、私自身は比較的堅実な投資スタンスを貫いていた。理屈では、顧客の希望に合わせて大きく張っても良かったけれど、私の体の中にある何かが、私にそうさせなかった。そのために私は会社の中で臆病者のレッテルを貼られました。バブルが崩壊して、私の方が正しいと証明されても私に貼られたレッテルははがされることはなかった。会社の方針に盾突いた男としてのみ記憶されました。それに引きかえ、バブルの頃にムードに流され大きく賭けた同僚は栄達のキップを手にし、さっさと運用担当者からマネジメントに変わっていった。そしてバブル崩壊時には、自分の失敗を他の人間になすりつけるか、ほおっかむりするかして、今でもマネジメント層として会社を動かしているわけです。そして、あの時は誰もが皆んな間違ったんだって、自分を許しているんです・・・。言っても仕方のないことではありますけれど・・・。」

「いえ、いいんです。私のいる会社でも同じようなことが起こりました。私は、自分の失敗は失敗として自分で責任をとりました。いや、いや応なくとらされた。手ひどい形で……。責任をとることによって、心の中はかえってすっきりしたような面もあります。」

「そうですか。ところでどうですか。私どもの会社で日本株のチーフファンドマネージャーをするという気はありますか。」

迷っていた。関根に対する個人的共感はあった。しかし、私の心は決まっていた。

 

「お断りします。」きっぱりと言葉が出てきたことに自分自身驚く。

「関根さんと話をしながら私はずっと考えていました。たしかに関根さんのように経験もあり、人間的にも優れていて、共鳴できる人と働けることは私のためにもなることだと思います。しかし、私はきょう、家からここに来るまでの道すがら割り切れない何かを感じていました。それは多分、かつて失敗した日本株運用でもう一度勝負していくことへのひっかかりかもしれません。会社組織の中で、一つの部品のようにして自分の職務は全うする、そんなことにもう嫌気がさしているのかもしれない。相場は、それはそれですごくエキサイティングです。政治や経済の流れに敏感で、常に自分の相場観を持って日々それを修正していく。とてもダイナミックでやり甲斐のある仕事です。でも、今の私はもう、かつての私では無い気がするんです。市場を表すベンチマークである東京証券取引所指数と競争して、何%勝ったの負けたのって、そんな風にして年を重ねていくのが恐いんです。面白いだけに恐いんです。わかっていただけるでしょうか。」

関根は、ポケットからタバコを取り出して火をつけた。一分間ほど沈黙があった。私には十分間以上の重みがある。そして口を開く。

「わかりました。きっぱりあきらめましょう。この話は無かったことにしましょう。」

 

私は少しほっとすると同時に、関根のあまりにも淡泊な言葉に違和感を感じていた。

「外資系投資顧問会社である×××社としての話はもうおしまいということです。ところで、これから先は、私個人、関根良一の話として聞いてほしいことがあります。」

「どういうことでしょうか。」

落ち着いた声で私は反応した。

「私と一緒に会社を作りませんか。」

「…………」

「実は、きょう私は×××社の日本法人の取締役としてあなたに会いにきていたわけだが、実は、近々この会社を辞めようと思っている。自分で会社をはじめるためにです。今の会社での私の後継者になる人を探そうと思っていたんですが、あなたはあの会社が用意しようとしていたポストには興味が無いようだ。むしろ、私がこれからやろうとしていることに興味があるんじゃないかと思うんです。私も本当の所、心を同じくするパートナーが欲しい。」

休日の午後、サックスの練習をしながら、私は先週あったとことを振り返っていた。サックスをはじめてから、三ヶ月半経っていた。ロングトーンの練習、つまり、高音のE、つまり「ミ」の音を、3分間、吹いていく。小さい音、大きい音、だんだん大きい音で、そしてだんだん音を小さくしていき……。息が音に変わっていく感覚をしっかりつかむのだ。小さな音でもぶれずに安定した、きれいな音を出そうとする。サックスは同じ音を唇や息のスピードや量で微妙に変化させることができる。それだけに初心者には音を安定させることが難しいのだ。

最初にマウスピースをくわえる時に、できるだけ下唇を広くあてる。上の歯で直接マウスピースを押さえ、下の歯は唇でしっかりリードをつかまえる。最初のころに比べると、奥行きや深みのある音が少しずつ出せるようになっていた。低音のドレミファソラシド、オクターブ上のドレミファソラシド、ト長調、ヘ長調、イ長調…シャープやフラットの指使い、シンコペーションに三連符。腹式呼吸、指のスムーズな移動、と独習も徐々にピッチが上がってきた。ハ長調の簡単な曲なら一応音をなぞること位わけなく出来るようになっていた。そこで私は、もう一冊独習書を買った。CDで模範演奏の付いている曲を練習してみることにした。一曲目はホエン・セイント・ゴー・マーチイン、聖者の行進。これは簡単なのであっという間にパス。二曲目の模範演奏に聴きほれる。フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン。月への飛翔、とでも訳すのだろうか。流行っていたエバンゲリオンでも使われている曲だという。CDを聞きながら自分も演奏してみる。ジャズ独特の、ためを伴うリズム変化がたまらなく好きになる。唄うような音のつながりに快感を覚える。リードも良く鳴るものが、一つや二つ見つかっている。吹きながら時の経つのを忘れる。地下で吹いているから、外にはそれほど大きな音が漏れていないはずだ。オーディオでジャズを最大ボリュームで流しても家の外からはメロディーラインだけが辛うじて聞こえた程度なのだから。

初心者なので、三十分も吹いていると、口が疲れてくる。まだ口の作り方が下手なせいかもしれない。練習が終わると絹の布で入念に唾を拭き取る。布の次は吸い取り紙でキーのゴムの部分の唾を拭き取る。最後に布で、いくつしむように金色のボディを拭いて、ケースにしまいこむ。しまいこみながらも関根の話を思い出していた。

関根が話してくれた新会社の内容はこうだった……。

今、日本は未曽有の変革期にある。八十年代の後半にピークをつけた経済力を今一度高めるためには千二百兆円と言われる個人資産を有効活用し、活力ある企業に資金を供給する仕組みを作ることが国として不可欠である。活力ある企業……、それは新日鐵や三菱重工では無い。つまり、成長分野における新興企業、つまりベンチャービジネスだ。

アメリカでは、八十年代前半のレーガン政権のもと、多くの新興企業が勃興し、その勢いは留まるところを知らない。サンマイクシステムズ、インテル、マイクロソフト、オラクル、コンパック…ハイテク企業をはじめ米国経済、世界経済を引っ張る企業が続々と輩出されてきている。

日本には、こうした文化はまだ根付いていない。ベンチャー意識に充ちた経営者がまだ少ない。そうした経営者を育成するための教育の場も乏しい。ある程度出来上がったベンチャー企業に投資したがる機関投資家は多数いるが、本当に海のものとも山のものともわからない段階で、リスクを取って投資し、企業家とともに会社を育てていこうという、目の肥えた一流のベンチャーキャピタリストが少ない。

そこで関根が考えたスキームというのはこうだ。まず、リスクを取ってでも大儲けしたいと考えるような自営業を中心とする個人の投資家を組織する。同時にベンチャーキャピタリストと一種の契約を結び、ベンチャーキャピタリストが必ずある金額を投資し、残りを一般投資家が投資する投資信託を作る。ベンチャーキャピタリスト自身もリスクを負うことによって、ベンチャーキャピタリストをも鍛え、投資家にも安心感を与えるのである。その投資信託は、規制が緩く税金の安い海外での発行とし、全額日本に持ち込むこととする。国内での配当課税を避けるために配当は一切出さず、剰余は全て新規の投資に回す。大半は組織化した個人投資家に販売するが、流動性を持たせるために、日本で取引所(東京証券取引所の店頭市場)売買が可能であるようにしてしまう。

問題は個人投資家の組織化である。大衆を参加させるにはメディアの活用が最も実効性が高い。まだやり方が固まったわけではないが、インターネット、週刊誌での宣伝、そして機関誌を発行し、その中で各々のベンチャー経営者の経営観を示し、出資しようとするベンチャーキャピタリストの意見、機関誌としての中立的な格付け評価を掲載する・・・。

しかし、このような手だてを行っても、そうした個人投資家は一朝一夕には組織できないのは分かっている。まずは通常の投信と同じように証券会社のチャネルで大口の投資家に販売し、徐々に裾野を広げていくのだ。投資の経験が成功として一つずつ積み重なっていき、富裕層を中心とする個人投資家グループが出来てくる・・・・・・、それが関根の考えだった。一歩一歩進んでいく。十年、二十年のスパンで考えていく、それがむしろ、この変化の激しい時代に必要なことなのだ。

このスキームを根付かせるには、取引所での売買を実現できるようにしなければならない。他にも色々難題は多いが、一つずつ体当たりで解決していく。規制緩和の追い風は我が方にあり、恐れるものは何もないのだから……。

「わかりました。やりましょう。」

ホテルのロビーで私は短く答えた。関根の話はまだ全部済んでいないはずだった。出資金はどうするのか、スタートする時の社員は何人か、誰が社長で、私の役割は何なのか、オフィースはどうするのか、いつから営業を開始するのか…。疑問は山盛りにあったが、私は話を聞きながら、いつのまにか腹をくくってしまっていた。面白そうじゃないか。細かなことはどうでもいいではないか。いや細かなことではなかったが、こだわらなかった。関根は少なくとも信用だけは出来そうだった。それだけで良い。関根と一緒に、関根のやりたいようにやって、行く所まで行けばそれで良かった。関根には、人の心を暖かくする体の厚み、心の厚みがあった。そして一人者の私は実に身軽だった。白状するとそんなことは自分で自分のためにこしらえた弁解でしかない。

「もうどうでも良かった」のだった。七年もの間、「会社」というものと闘ってきて、もうどうでも良くなっていた。七年間闘って、その月日の重さが、もう関根の話を途中でさえぎって、「わかりました。やりましょう。」と言わせた。今の自分を過去の自分として葬りさるために。私は変わりたいのだ。

その日私は、いつものように夕方五時に会社を出る。しかし、きょうは真っ直ぐには帰らない。何ヶ月に一度しか行かない店へ行く。代々木上原にある店。バーボンの水割りとキャベツとベーコンのスープ、それに唐辛子のスパゲッティを注文する。      

何度も来ているが、オーナー兼シェフの男やアルバイトのウエイターと注文以外で話をすることはない。店は適度に混んでいる。この店に来るようになって十年ほどになる。別れた女房と入ったのが最初。その頃は一年に一度来るくらいだった。それが、最近の三、四年では三ヶ月に一度ほど来るようになった。

この前は、M商事のKと来た。商社の業界で唯一の知り合いだった。M商事は私の勤める商社とはケタ違いの大企業だった。この店に友人と来るのは初めてだった。代々木上原の駅で偶然見かけた、数年ぶりに会う大学時代のクラスメート。三年生のときに産婦人科の娘の家庭教師を世話してくれた。それ以外に、とりたてて交際はなかった。同じ線で通っているためか、社会人になってから時々出会ったが、なぜかその時に声をかけてこの店に入ったのだった。

「元気かい、大手の会社はいいな。五十才でたんまりもらって、退職できるんだろう。」

「そんなに簡単じゃないさ。五十才で新しい商売始めるわけだが、会社勤めが長い人間がそううまく独立できるわけでもないんだよ。」

「そうかもしれないな。」私は、少しほっとした気になった。

「問題はどうやって、それまでに実力を貯え、人脈を広げるかだよ。」

Kの言葉が残像を結んでいる。

「俺たちも、もう人生の半分、会社人生の半分を終えたことになるよな。」私は言った。

「まてまて、もし五十才になっって退職するなら、サラリーマン生活なんて、俺にとっては最短あと九年だ。人生観が違ってくる。あと九年で頑張れるだけ頑張って、退職金の一部で住宅ローンを返済し、独立して、食いっぷちをかまなっていくのさ。会社なんて器でしかないないわけだ。」Kは、そう言って笑ったのだ。

それから、一月たってKはニューヨーク転勤になって日本を離れていった。三ヶ月も前のことだ。ニューヨークでたくさんの人脈を作ってみせるとKは言葉を残していった。

Kのことや自分のことを考えながら、めったに酒を飲まない私も、きょうばかりは鈍になりたかった。久しぶりに自分のために決断することの快感を感じていた。しこたま飲んで酔いつぶれることも出来た。でも私はいつものように、少しだけ酔って店を出る。私はこれでいい。ドラマチックな小説と私の物語は少し違うのだ。

駅から家への帰路、朝美に会う。夜の十一時。こんな遅くに彼女に会うのははじめてだ。私は朝美に気付きドキマギする。朝美は妙に落ち着いていた。その自然な仕草が私をほっとさせる。しかし、いつもと違うことがある。男と肩を並べている。楽しそうに男と笑いながら歩いていく。同僚?恋人?目の前の二人は共通の秘密を作りかけているようだった。

梅の花、桜の花、そして今の季節は薔薇の花。花が女なら、女は生殖のために生きているということか。折々の花が散り、日々を重ねていく。五月の中旬になっていた。

暑いような休日の午後の陽ざしが、窓から射しこむ。あれからもう二ヶ月が経っている。辞表を出した。厚生年金の手続きをした。住宅ローンを会社の社内融資から銀行ローンに切り換えた。形ばかりの退職金を受け取った。人事課長の長井がほっとしたような顔をした。

「お前には、その方が似合ってるんだよ。」

長井が言った。

これまで会社に縛り付けられていた自分が一挙に解き放たれた。住宅ローン、年金、給料……。物理的に会社が私を縛り付ける仕組が消え失せると、体だけではなく心の中からも会社というものが消えてしまった。身軽になって「生きる」ということは「自分で行動する」ことだとわかる。

二階のリビングルームからカーテン越しに南側の道路をぼんやり見つめる。斜め前の空き地に生えた竹の子が、いつのまにか三メートルほどの背の高さの立派な竹になっている。柔らかな竹の子が堅い竹に変わったのだ。長い間竹の緑をながめている。

ふと気付くと竹を見ているのは私だけではない。道の真ん中から、竹を見つめている車椅子の女の子。家のほんの近くなら一人で車椅子を動かせるようになったらしい。

彼女は随分考え込んでから、車椅子をそろそろ動かし、竹の所におそるおそる近付く。空き地の中に入っていく。竹をさわる。堅さに驚く。竹を胸で抱きしめる。十分位、ずっと竹の所にいた。そして自分の家に入って行こうとして、私の家の方をちらっと見る。私の影が見えたに違いない。車椅子の動きが少し早くなる。彼女が竹と戯れていたときも、私が彼女を見ていたことを、彼女は知っていたような気がする。向こうの家の窓からも竹の木が見える。私の家の窓も見えるはずだ。私は、もう一度わざと窓に近付く。彼女にも見えるように……。

一週間後、竹はもっと大きくなった。隣の二階建ての高さにまで伸びている。すさまじい早さで、竹は地面の水や栄養分を吸い尽くして大きくなる。いつでも、食べる側の動物よりも、食べられる側の植物の方がたくましい。種ならじっと何十年も時には千年も待っていられる。枯れてもまた生えてくる。油断しているとそこらに広がっていく。家の前の空き地に小さな黄色い花が咲く。名前は知らない。本屋や図書館で名前を調べるつもりもない。ただ、きれいな、きれいな黄色い花。

このひと月の間に、投資信託のスキームを必死で考えた。関根とも議論をし、納得もしてもらった。会社を辞める決断をするにあたって、私は自分の勘だけを信じ、関根の力と誠実さに賭けた。関根は新会社に出資してくれる「エンジェル」を探すことにした。私は、私の相棒となり、運用を実際に行うプロを探すことにした。ヘッドハンターを雇うお金はない。私が直接会って口説くことにする。

私が作った投資信託のスキームはこうだ。投資資金の50パーセントをリスクの少ない債券で運用する。残りの50%分でベンチャービジネスに投資する、これが基本スキームだ。しかし、これだけでは元本に対する保証は50%程度にしかならない。日本の投資家達はベンチャー投資というものに慣れていないから、50%と言わずもっと高い比率での元本の保証を望むだろう。デリバティブ(金融派生商品)を使って、何とか元本の保証水準を70%や80%に出来ないか、ベンチャー投資とデリバティブの結婚。つまり、冒険心とリスク管理の微妙なバランス、それが私たちの望む、新しい投資のスキームだった。実現させたい。走りながら方法を考える。

ゆくゆくは、投資信託全体の儲け、つまり、時価総額の増加分の10%を成功報酬として「ニューエイジ・アセットマネジメント」が受けとり、儲けが出ない時は我々の会社への報酬はゼロとすることにしたい。投資信託で成功報酬という考え方は、外国ではそれほど珍しくはないが、日本では非常にまれなことだった。ニューエイジという名前は私が発案したものだった。妙に思う人がいるだろうことも承知の上だった。カリフォルニアを中心とし精神世界を探求するニューエイジの動きには前から興味があった。そして「新しい時代」という言葉が気に入っていた。

最初は腕のいいベンチャーキャピタリストを探す。信頼できる友人が一人の男を紹介してくれた。日本人離れした面白い男だという。男の名は木津田進(きずたすすむ)。人呼んで「しゃべりまくるベンチャーキャピタリスト」。自分の見込んだベンチャービジネスを多くの投資家に紹介して出資をさせる。金を集めることよりも、とにかく良い会社を見つけ、育てていけば金は集まってくるという考えの持ち主だった。資金を集めてくることが商売である我々とは共存できる相手である。木津田が投資家達に信頼されているのは、たとえ百万円だろうと、自分の紹介するベンチャー企業には必ず自分も出資することだった。金がなければ借金してきた。

「俺は、経営者とはじっくり話をすることにしているんだ。前歴、つまりこの世に生まれてから、その企業を創業するまで何をどうやってきたのかを根掘り葉掘り聞く。人間、それぞれ行動スタイルがあって、一度失敗した人間というのは必ずもう一度同じ失敗をしがちだよ。だけどね、中にはね、一回、二回と失敗しながら学んでいく奴もいるんだ。俺はそんな男をいつも探しているんだ。一つの会社が創業して軌道に乗るまで、それこそ二度や三度、正念場が訪れる。そこでリスクを取って、戦略的にディシジョン出来る男、判断は冷静だが、行動は恐ろしく大胆な男、そんな男にしか俺は賭けないんだ。経営者と二人で、深夜までへべれけになって飲む。そして経営についての考え方を徹底的に聞く。飲めば必ず女の話になる。色を好まない人間に経営なんか出来ないと俺は思っている。ベンチャー企業なんて普通の人間には出来ないんだ。古畑さんっていうのかい、あんた。俺は多分あんたみたいな人がベンチャービジネス起こすから出資してくれって頼まれたってビタ一文も出さないって思うよ。今回はあんたたちの会社への出資じゃないもんな。俺のキャピタリストとしての眼を貸してくれってことだよな。あんたは女に溺れるタイプじゃないって顔に書いてある。ちょっとは遊びはするが、心底女を愛するって感じはしないな。はっきり言えば、あんたは面白味のない人間だ。組織に背を向けながら組織の中でしか生きられない。どうだい、図星か?」

私は笑い顔を保つしか出来ない。

「よく私のことがわかりますね。さっきこの事務所に来てから、あなたは一人でしゃべっているだけで私には何も話させてくれない。私が言いたいのは…」

「いいんだよ。俺はもう、あんたと関根さんのことはみんな、人から聞いて知っている。ベンチャーキャピタリストはカリスマ性があって資金を引きつけられる人物じゃないと成功しないけど、同時に事業計画を見る眼も大事だ。事業計画は数字と常識の世界だ。論理的に考えれば答えは出てくる。あんたたちの会社はいい所に目をつけている。」

「そうですか、一流の人達の協力を得られるかどうかで事業が成功するか失敗するか決まると思っています。」

木津田は、金のネックレスに趣味の悪いブレスレットをしている。お世辞にも品の良いしゃべり方とは言えない。しかし、この男は見かけとは裏腹に、CPA(米国公認会計士)の資格も持っているのだし、CFA(米国公認証券アナリスト)も持っている。ベンチャーキャピタリストの仕事の傍ら、CPA養成講座の学校教師も務めている超インテリなのだ。

「古畑さんっていったな、あんたは霊の存在を信じるかい。」

「信じます。」

私は即座に答えた。

「俺はね、信じるも信じないも、霊に取りつかれていたことがあるんだ。若い頃、空手の教師をやっていて世界中を転々としていたんだ。ハワイに行った時、ひょんなことからハワイ島での不動産売買を頼まれた。ある日本の会社からハワイで家を買う交渉をしてくれというんだ。社員用の別荘だという。弁護士を使って指定の家を買ったはいいが、買ってからわかったんだけど、その家の売り主っていうのは、どうも日本のヤクザだったらしい。ヤクザといったって別に脅しに来たわけじゃない。ただその家には秘密があったってことだ。霊が住んでいたんだな。誰が泊まっても毎晩ヒューヒュー音がして、誰かのしゃべる声が聞こえる、そして見えないものに体を押さえられたりするんだ。みんな恐がったのなんのって、買い主ももうこれはいけない、とその家を転売する気になったんだな、二束三文で。やめた方がいいって買い主に言ったんだけど、あんまり安いからってどうしても買いたいってきかないんだね。それで買ったってわけだよ。やくざの立てたハワイの弁護士と交渉してね。でもね不思議なんだ、俺にだけは、その霊は一つも恐い目にあわせようとしないんだ。何かあるな、って俺は思ったが、わからない。そして不思議なことになった。話が決まり、俺がハワイを発って一時日本に帰ろうとした時、その霊も俺の体にとりついて一緒に日本に帰ったらしい。何だか体の中に、何かもう一人人間がいるような気がして成田の飛行場に降り立ったんだ。リムジンバスで東京に着いた頃には体が軽くなったような気がしてね。きっとその霊も日本に帰りたかったんだな。そしたらハワイから連絡が入った。俺がハワイを発った次の日から、ハワイの別荘にはお化けが出なくなったっていうんだ。変な話だろう。」

「へー、そうですか。」

私は、話に引き込まれてしまって、そう言うしかなかった。

「さらに不思議なことなんだが、それからというもの、俺の仕事はどれもこれもうまく回るようになったんだ。体に入りこんだ霊が、俺の体を浄化して悪いものをみんな持っていってくれたのかもしらん。あっ、ところでだ、気に入ったベンチャー企業が出てきたら、必ずあんたの所にも連絡するよ。俺としても、金持ち相手の商売に少々飽きてきていたんだ。あんたたちが一般投資家の金を持ってきてくれるなら俺はウエルカムだ。」

木津田は終始しゃべりっぱなしで、商談はたわいなく終了した。

帰ろうとした時、木津田が私を呼びとめる。「あぁ、ちょっと待った。俺が今やってる仕事の話を教えてやろう。グローバルなベンチャーファンドのことさ。実は、世界で有数の投資銀行であるIVVが、世界のベンチャー企業へ投資するベンチャーファンドを作ろうとして、日本でのベンチャーキャピタリストに俺を指名したんだ。世界の主要20か国のベンチャーキャピタリストによるグローバル・ベンチャー・ファンドさ。今週中に私の選んだ100社の詳細を英文でIVVに送らなきゃならない。まぁ日本では俺にしかできない芸当だとは思うが、翻訳に手間どってね。あんた、英語も金融知識もOKだそうだな。少しアルバイトしてくれないかな。勉強にもなるはずだ。」断定的な口調は私にうむを言わせる余裕を奪う。流れに身を任せることは快い。私は承知した。

恵比寿の高級マンションの一室。長くニューヨーク勤めをしていた関根の奥さんは、今年二十二才になるという息子と十八才の娘とともにアメリカに残っている。二人の子供は日本に帰国しても日本の学校になじめず、一ヶ月でニューヨークに戻ってしまったと言う。恵比寿に買った豪華マンションは関根の逆単身赴任には広すぎた。今度のニューエイジ・アセットマネジメントは、出資者が見つかり資金ができるまでの間、このマンションの一室をオフィースとする予定である。オフィースと言っても、電話が二台とパソコンが一台あるだけの八畳の部屋。私は電話をかけまくり、旧友からの情報収集に忙しかった。関根は、私たちの会社への出資者探しに出払っている。

木津田のための翻訳を終え、私は今、デリバティブの専門家探しをしている。候補が徐々に絞られてきている。デリバティブはオプションやフューチャーなどの金融派生商品のことだ。金融派生商品とは、実像に寄生する虚像のこと。今や金融の世界では虚像なくして実像は存在しえなくなている。もともと金融自体が実物経済に対する虚像であり、デリバティブは虚像のまた虚像なのだ。バーチャルな金融機能の究極の姿でもある。高度の数学や統計学が用いられる。しかし、それだけでは実務に役立たない。デリバティブの専門家にとっては、マーケットでの実務経験こそが重要なのだ。ノーベル賞級の知識を持ったロケットサイエンティストが、アメリカでは衰退産業である宇宙航空産業から金融に流れこんでいる。ノウハウで言えば、欧米のレベルを大学院生とすれば、未だ日本人のレベルは幼稚園児のレベルでしかない。それでも日本中を探せば有能な人間はいる。私たちの目的は、数学を駆使した摩訶不思議な投機的商品やヘッジファンドの開発ではない。最低保証利回りを達成するためのリスク管理が目的だ。マーケットの様々な変動リスクを横断的に数量化し、コントロールしていく技だ。これなら、日本人のトップレベル程度でもなんとか事足りる。我々が求めているのは一芸のナンバーワンではない。組み合わせ技の優秀さだ。

日本の金融機関でも最近では、デリバティブスペシャリストが育ってきている。しかし、彼らが現在の処遇で満足しているかというと、そんなことはありえない。ウルトラ・コンサーバティブな日本の金融機関で、専門職が生きていくことは容易ではない。専門職を外部から探そうとしている日本の金融界のエグゼクティブや人事の人間はこう思っているのだ。今度探している人間は出世のポストを用意しなくて良いのだ、と。採用のための稟議書には、取締役クラスよりも高い給料もありうるという文書が、最初は入っていたのに根回しの過程でいつのまにか、そうした覚悟とともに文言が消えてしまう。既に社員の心の中からはかなりのレベルで失われてしまっているはずのロイヤルティで、まだ会社というものにつなぎとめられるという幻想が日本の金融界のお偉方には残っている。だからこそ日本の金融機関による中途採用は必ずといっていいほど失敗してきた。

処遇と誠意と、そして夢さえ示せれば、私たちのもくろみに参加したがる若者は必ずいるはずだ。私は情報収集をしながら、確信を探めていく。

「ピン・ポーン」

家に帰ると、ほとんど訪れることのない来客が現れる。ドアフォンのテレビ画像に映った顔を見て驚く…・西田京子。

「あたしね。古畑さんが会社辞めたらね、あの超むさくるしいオジさん達に囲まれている自分が急に惨めになってね。一週間で辞めちゃったんですよ。これまで、半分遊びながら職探ししていたんですけどね、なかなか就職の状況も厳しいみたいだから、もう高望みしないことにしたの。とりあえず、派遣会社に登録したら、さっそく半年の約束でインドからのコンピューター部品を扱う中堅の商社の仕事が来たんです。それを古畑さんに報告しようと思って…。」

人はそれぞれドラマをしょって生きている。時々西田京子も二十八年間の人生を私に語ってきた。しかし私は自分の過去はめったに話さないことにしている。京子の過去についても大半は聞き流している。

「どうして私の過去を聞いてくれないの?私に興味がないの?」

二度目のデートの時に京子が聞いたのを憶えている。私は答えた。

「興味がないわけじゃないよ。聞かなくったって人は親しくなければ互いを知るようになるのさ。」

生返事をしながらも私の潜在意識はもう既に京子のデータはインプットされてしまっている。秋田に住み、若い時に東京に出たかった母親がつけた「京子」という名を持つ女。目立たない学生で、大学は東京の短大を出、アトリエ派と呼ばれるデザインを重視する建築家の一人の建築事務所で秘書をしながら、そこの妻子ある建築家と恋に落ち、奥さんの一喝で恋人も秘書の仕事も捨てた女。しかしそれでもいつも、前を向いて今を生きている女。

その日の私は、気分が少し高揚していたような気がする。そしてなにより、前日、木津田に言われた「女に溺れないタイプ」という言葉に引っかかっていた。一度踏み出してわかることもある。本当は恐れることなど、ほとんど無いのだと言うことを示したくて仕方がなかった。私はその日、久しぶりに、女の心からの笑顔を見た。

朝、豪徳寺の駅に着く時間はマチマチになった。電車は使わずバスで渋谷に行くことも多くなった。しばらく朝美とも会わなかった。最後に会った時の男のことも忘れていた。

ものすごい雨の日だ。私の指定したイタリアン・レストランは多木の勤める長信銀からは大分歩かなければならない。あまり近い場所で転職の話などは出来ないのだ。少し早いランチのせいか、店はまだすいていた。ぽつんと一つだけはずれた席で私は多木美雄(たき よしお)を待った。

多木が現れる。透明なビニール傘をぶら下げている。想像は裏切られるように出来ている。だから人生は面白い。デリバティブの専門家というとオタクのイメージがあるのに。やせていない。眼鏡をかけていない。気弱そうには見えない…。

私の話に、無口な多木が低い声で答える。

「私ももう三十才になりました。古畑さんの言う夢も良くわかる。だけど私の心に響くのは、人間はどんな時でも報われたい、ということだけです。今の会社でも責任ある仕事を任されています。そりゃあ、処遇にまったく不満がないわけではありませんけど……。問題は給料じゃありませんし……。もう少し考えさせてください。」

多木は思慮深い青年。趣味は、バイオリンとパソコン。バイオリンは玄人はだしで、大学のオーケストラのOB会で年に二度はステージに立つ。寮の部屋では大きな音が出せないから、平日は筋力を維持するために左手だけの練習をしていると言う。私は、私の家の地下室と、始めたばかりのサックスの話をする。

多木は天才肌。パソコンは活用する道具以上の存在となっている。彼はパソコンの中で女の子を育てている。アメリカの数学科の大学院に会社から派遣されていた頃から育てている。そのプログラムは多木自身が作ったもの。本当に良く出来ている。一年に一才しか年を取らない。多木は育てながら、次の年のプログラムを作っている。今五才の女の子は、あと十五年で二十才になる。多木は育てながら、人間について学ぶ。本当の世界で出会った女から女の心理を学ぶ。学んだことをパソコンの中に反映させる。育てながら社会の仕組みを学ぶ。

「こうでもしないと僕のような人間は社会からズレズレになってしまいますからね。」

多木は笑う。純な心と、人の何倍もある頭脳。そして、自分を表現するための音楽。音楽と相場は似ていると言う。見えない法則が支配している。数字は秩序をコントロールしている。しかし、リズムの微妙な遅れを人間は人間らしさと感じる。相場は時としてコントロール不能になる。人が法則を見出したとたん、相場は法則をぶち壊すように動く。パソコンの世界に遊んでいるのに、多木には現代人が忘れた自然な心が残されている。

私は多木に興味を抱く。毎日、地下室をバイオリン練習場として提供する。音色に聞きほれる。しかし、多木とは一緒に夕食を食べに行ったり、飲みに行ったりはしない。小さくして両親をなくし、厳格な祖父母に育てられてきた彼の心の闇は思いのほか暗い。私も誘わない。夜に現れ、一時間弾いて、すぐに帰ってしまう。私とは5分位話す。主に、パソコンの中で育つ女の子のこと。

一ヶ月が経つ。私は辛抱しているわけではない。彼の決心を待っているわけでもない。成り行きにまかせている。きっかり一ヶ月目の帰り際に多木がつぶやく。

「いつでも古畑さんのいい時に、銀行に辞表を出すつもりです。」

昇進の夢では若者の心を充たせず、幻想のようなロイヤルティでも引き留めることは出来ない。勝者が敗者に施すパイの大きさも減ってしまった。会社はどこへ行くというのだ。いや、会社などという共同体幻想は一度御破算にした方が互いのためだ。

今晩も多木は、地下室でバイオリンを弾く。私は曲名を知らない。曲名を聞きもしない。

外からはピアノの音がしてくる。またバッハを弾いている。淡々と音が積み上がる。前に聞いたときは淡々としたさびしさに聞こえた。近頃は少し喜びのニュアンスを感じる。最近時々道に出て、車椅子で陽なたぼっこしている少女。心が少し明るいのか、それとも聞き手の私の心情のせいか。

多木はじっとピアノの音を聞く。ため息をつく。急に地下へ行ってバイオリンを持ってくる。ピアノに合わせてバッハを弾き出す。ピアノの音は急に凍りつく。かまわずバイオリンは奏でる。三十秒ほどの沈黙のあと、ピアノは違う曲を弾き出す。多木はバッハをやめる。

「誰ですか。」

多木は聞く。私は話す。テレビのドキュメンタリー番組のナレーターのように言葉を選びながら。年長者として声の抑揚を押さえる。とたんに芝居がかった調子になる。

「そうですか。」

多木がつぶやく。興味は顔までは出ない。

多木は必ず十時までには帰っていく。

新聞にはビッグバンについての記事が洪水になっている。規制緩和を促進させようという勢力と、押しとどめようという勢力が同じテーブルについてモノローグを繰り返す。外圧が、無責任なマスコミの力を借りて守旧派にプレッシャーをかける。マスコミは市場を開放したくない者たちを、守旧派と決めつける。マスコミは、わかりやすい批判には提灯をつける。改革派としての立場を確保できるからだ。変革や改革という言葉は使われているうちに輝きを失い、人々はさらに過激な表現を望むようになる。守旧派の人々も、自分たちよりも保守的な人々のことを守旧派とレッテルを貼り、自分たちを改革派の中に置いたことにする。自分の主張の根本も枝葉も、他人を批判しているうちにいつのまにか訳がわからなくなる。そして切り離したかつての盟友を守旧派と批判することだけに力を注いでいく。かくしてりっぱな新改革派がそこいら中に出来上がる。いつしか言葉が一人歩きする。言葉につられて事態が急に動き出す。動き出すと誰にも手がつけられないほど大きく動き出す。

私は、リビングルームに一人腰をかけ、N証券とD銀行の総会屋スキャンダルをテレビで見る。何十人もの取締役が一挙に退任するというニュースを見て、ようやく金融トップにも第二段のバブルの総括が訪れたと思う。四十代や五十代の若い経営者がトップにつくと言う。成否や善悪が問題なのではない。変わることに価値がある。変わり身の早さを自慢してきた男達にも、いずれ勘定書が回ってくる。勘定書には、大きな利息が加算されている。

関根の自宅である仮のオフィースで、私は事業を開始する際に必要な役所宛の申請書を作っていく。関根はまだ、会社設立の資金提供をしてくれる出資者探しに日本中を飛び回っている。私は毎日のように官庁の担当者の所へ行き話をする。役人は、忙しさを理由になかなか会ってくれない。事は遅々として進まない。役人は審査に時間をかけるために時間をかけている。私は関根と相談する。どこの馬の骨かわからない人間たちであるのがいけないと。こうした人たちが一番弱いのが、権威。役所やマスコミにも影響力のある人間を出資者の条件とすることにする。関根はこれまで以上に日本中を飛び回る。しかし彼は仕事を楽しんでいる。長年の自分の人脈をフルに活用し、人に会い、自分の情熱と事業の将来性を語る。ニューエイジ・アセットマネジメントの出資者を探しながら、投信への投資家も発掘していく。

いつしか私は前と同じように朝早く起きて規則正しく電車に乗るようになる。十八年間動き続けてきた体内時計が再び動き出す。また毎日朝美と会うようになる。彼女は一段と輝きを増している。楽しそうに、「あの男」と一緒に通勤している。最初の頃はスラックスで二人の距離も少し離れて見えていた。近頃ではスカートから、きれいな細い足がのぞき、服装が派手になっている。化粧にも念が入っている。二人は密着するように話をしている。男が一つ話すと、彼女が二つ話し、二人が楽しそうに笑う。私の方をチラっとだけ見るが視線は乱れない。

深夜、チャイムが鳴る。しつこく何度も鳴る。ドアホンに出ると、酔った男の声がする。

「俺だ、長井だ。開けてくれ、俺だ、長井だ。頼む。」

驚いて開けると玄関に長井が倒れこむ。顔を何度もひっぱたいて背広を脱がせる。一階の畳の和室に運びこむ。目の下に隈を黒々とつけ、髪の乱れ切った四十男が畳の上でだらしなく倒れこんでいる。いくらひっぱたいても起きない。人事課長殿にふとんをかけ、私は再び寝床につく。目覚ましを三十分早く合わせることにする。

朝の六時三十分に起きる。私はいつの日にも増してゆったりと朝食の用意をする。パンをパン切り包丁で切る。いつもは2枚、きょうは4枚。

「おい、起きろ、長井。」

顔をひっぱたいて長井を起こす。

「おっ、古畑か。もう朝か。」

寝ぼけきった顔で長井が口を開く。

「水をくれないか。」

「そこの水差しポットに入っている。勝手に飲め。」

長井は言われた通りに水差しの水をたて続けに三杯飲む。

「あー、うまい水だ。ミネラルウォーターか。」

「違う。浄水器の水だ。」

「そこにあるのがその浄水器か。」

「そうだ。アメリカ製でな。週に一度、七十度の熱湯を二十分間逆流させて汚れを取るんだ。女房がいた時は、なんでこんなこと俺がやらなきゃならないのかって思いながら日曜日の夜にやっていたもんだが、一人になると全て自分のためでしかなくなる。今は、怒ることもなく生活を重ねている。女房がいた時もこんな気持ちでいられたら、どんなことでも許せたような気がするってわけだ。」

話しながら私は長井のことをにらみつける。鉄仮面……。

「また馬鹿なことを話してしまった。俺をたたき出した人事課長よ、食い物なら、そこにお前の分のパンがある。そこのトースターで焼いてくれ。それも女房がこだわったアメリカ製だ。パンを入れれば勝手に下がっていき、焼けると勝手にパンが出てくる。みんな物にうるさい麻子の欲しがったものだ。お前は飲み物は無しだ。この紅茶は毎日俺が、たっぷり飲んでる分だ。どうしても飲みたいなら、ポットを洗って入れ直し、お湯を沸かして勝手にやってくれ。お前のために何かしてやろうという気には俺はなれん。パンにはその無塩バターに天塩をかけて食ってくれ。そのパンは国内小麦を使った特製品だ。あまり余計な物をつけない方がうまい。」

パンをトースターに入れながら長井がつぶやく。

「おい、古畑、聞いてくれるか。俺はなぁ、最近駄目なんだよ。」

「何が駄目なんだよ。エリートコースに乗っている将来の役員候補が…。秘書部の美人をたぶらかして幸せな家庭を築いている良きパパが…。」

私の言葉には、相手をもて遊ぶような稚気が満ちている。

「駄目なんだよ。会社なぁ、ついにな、露骨な肩たたきをする所まで追い詰められているんだ。俺の仕事ときたら、30%の人員削減のために、辞めさせたい人間をリストアップし、会社命令で四十、五十の大の大人に集金業務やひどいのになると北海道に長期出張させて漁師の仕事をさせるんだ。手っとり早く人減らしを請け負う会社に手伝いに行かせて、その実態はひどい肉体労働をさせるんだ。我慢できなくなって辞めるまで待つってわけだ。一つ間違えば訴訟ざただ。現に、会社を相手取って起こされそうな訴訟が二つ。それなのに合田部長ときたら、人員削減の結果だけを自分の手柄のように吹聴しまくっている。やってられないよ。あんまり俺がストレスが大きく、毎日アルコールでベロベロになるのを見て、女房の奴、子供二人を連れて田舎に帰っちゃったんだ。」

「何を弱音はいているんだ。」

私は反射的に応える。そう言って私は一つのことに気付く。そう言えば、長井がグチるのを聞くのは、入社以来はじめてのこと。

「で、どうしてここへ。」

私は少し違うことも考え出していた。

「ただ聞いて欲しかったんだ。飲んだ帰りのタクシーの中で、どうせ酔っ払ってドタっと倒れるなら、誰もいない家よりも、お前の家の方がずっといいと、酔っぱらった頭で考えたんだ。」

長井はトーストをさもうまそうに食う。便所で五分かけて排せつをする。

「おい、古畑。時々来てもいいか。ここへ。」

意外な言葉に、俺は0.5秒たじろぐ。そして、

「勝手にしろ。」と言い放った。

その日から私の家に頻繁に訪れてくる人間に、多木、西田京子に加えて長井も加わることになった。多木は毎日のように現れて、一時間ほどバイオリンを弾いていく。西田京子は気まぐれのように時々訪れて、掃除をしたり、手作りの総菜を置いていく。きれい好きな私は、週に二回は掃除をするのだが、やはり女の掃除は男とは違う。台所回りやテーブルの上のほこりがすっかりきれいになる。それでも、家に泊まることや、家の台所を使うことは私が拒否している。彼女は必ず零時の前には帰っていく。

長井もウイークデーの一日はこの家を訪れる。必ず酒を持参して私にも飲むように強要する。私は適当につき合う。三人の異邦人は時々顔を合わせるので、いつのまにか顔見知りになっている。時々、三人が私の家で私抜きで楽しそうに酒を飲むこともある。

私は、今でも細々と小説を書き続けている。零時までの一時間、自分に課した仕事として書いている。これは、日記であり、生きている証であり、過去の清算であり、私の私自身に対する遺書でもある。文学の衣をまとった私小説であり、完全なるフィクションである。会社を辞めて以来忙しさは何倍かになったが、書くためのインセンティブはもっと大きくなっている。文章は最初の構想を超えて、原稿用紙千枚になっている。

アルトサックスの方も、始めてから五ヶ月になっている。渋谷にある大手の音楽スクールに日曜日の夕方通っている。我流を正し基本を身につけるためのチェックとして、プロのジャズミュージシャンに習う。通い出すと、それまでの自信が、全く我流の自信に過ぎなかったことがわかる。口の作り方、タンギングという舌の使い方、息の吸い方…全てを直される。他のクラスメートに比べて音が出ていかない。先生からは、マウスピースを音の出やすいS社製に替えるように言われる。替えてみると、それまでのように力まなくても音が出ることがわかる。随分違う楽器に替えたような気がする。まろやかな音色で吹けるような気がする。人には教わるものだ。通い出した一ヶ月は苦痛も感じたが、今ではほとんど毎朝30分間、地下室で、進歩する気持ちを感じながら練習をする。

この頃、晴れたウイークエンドに私は、屋上に出て読書をするようになっていた。生活は地下室を出て外に広がり出す。外気のさわやかな空気を体一杯に吸い込むことは、体の浄化作用を促進してくれる。しかし、それが本当の目的ではない。屋上からは、車椅子の女の子が、前の道で父親と陽なたぼっこをするのが見える。少女の表情は、当初のこわばった顔から、最近ではこぼれるような笑顔に変わっている。傍らに立っている父親に話しかける回数も増えている。

関根はその日いつになく上機嫌だった。

「古畑さん、ようやくって感じだよ。」

「出資者の目処がたちましたか。」

関根の顔が少しほころぶ。私の方へ向き直り、近づいてくる。紺のブレザーに、トレンドマークの黄色いネクタイ。きょうの黄色いネクタイには品の良いベイズリー模様が浮き出し、黄色いポケットチーフと良く合っている。関根はこれまで、何人もの事業家に会い、いつもの洗練された口調で、心をひきつける情熱で、話をしてきたはずだ。実を結ぶことはなかった。そして、ようやく見つかった。

「古畑さん。神谷高志だよ。」

「えっ、あの神谷…。」

「そうだよ、あの神谷高志だ。」

神谷高志(かみや たかし)と言えば、この業界では伝説的な人間だ。日本の銀行や証券の人間で、ニューヨークで少しでも暮らしたことのある人間なら知らない者はいない。役所の人間だって、ニューヨーク駐在や出張者を通じて知らないものはいないはずだった。私も同僚から話を聞き、その存在は承知していた。ニューヨークに日本人が数えるほどしかいなかった頃から、日本の金融機関相手に外国の債券や株式を売るセールスマンから身を起こし、その豪腕で米国で一、二を争う証券会社の役員をやった伝説的な人物。自分の実力で全米有力企業本体の役員に任ぜられた数少ない日本人である。晩年は悠々自適に、日米の金融エグゼクティブの交流の架け橋をしていた。もうとっくに引退したと聞いていたのだが。

「古畑さん、僕はね、神谷さんとはもう二十年来のつき合いなんだ。命の恩人と言ってもいい。何度も仕事上の危ない所を助けられている。僕らの会社は、まだまだどこの馬の骨かわからない会社だろ。出資してくれそうな人を探したけど、結局なかなか難しいんだ。資金を持っている人はたくさんいるけど、金融業というものを何か、得体の知れないものと思っている人が大半だ。出資者になってもいい、有望な会社に投資したいという人は今はハイテク企業、通信事業に目を奪われている。金融ノウハウみたいに目に見えないものの評価は難しいと言うんだ。それに長い目でゆっくり成果を出していきたいっていう、私の方針が面白くないらしいんだよ。そしたら、一週間ほど前、たまたま神谷さんから別件で僕に連絡があった。そうだ、神谷さんなら今度のことはわかってくれる、そう思ったんだよ。」

関根はかつては日本の証券会社に勤めていた。大学時代から英語の得意だった関根は、その英語力を見込まれて、ニューヨーク派遣が決まる。二十年以上も前の話だ。支店勤務でくすぶっていた関根は抜擢されたわけだが、関根は会社に対して一つの条件を出す。派遣するなら最低十年は置いて欲しいと。当時、いや今だってそんなことを言う日本人はいない。関根は日本人の島国根性というもののつまらなさを感覚的に嫌悪していた。通勤電車の中での余裕のないサラリーマンの仕草、平日は仕事に没頭し、会社帰りは同僚と酒を飲んで人間関係を確認し合う。休日にも同僚とゴルフをする。若い関根は三十、四十才の先輩たちを見て、あんな風になるのならアメリカに渡ってアメリカ人と仕事をし、国際人として生きたいと思ったのだ。

関根は、自分と神谷の因縁を話す…・。

ニューヨークで関根は、まず米国国債の売買をやった。当時、アメリカでは金融先物市場の拡大が目ざましい勢いで進んでいた。関根は先物市場の中心だったシカゴで金融先物の勉強を必死になって行った。その頃シカゴ市場で、取引所の会員券を持っている日本人が一人いた。それが神谷だった。

神谷は、今から四十年以上も前に日本の大学を飛び出してニューヨーク大学で数学を学び、アメリカで現地の会社を転々としながら米国一と言われる証券会社にたどりついた。証券ビジネスのあらゆる仕事を経験し、関根と出会った頃にはシカゴの取引所で会員権を持って、自分の資金でトレーディングをしながら、日本の金融機関相手のブローカー業務を行っていた。当時四十代だった神谷は二十代後半の関根にとってあらゆる点でまぶしい存在だった。アメリカ人に対する堂々たる態度、怒らず、あきらめず自分の夢を実現しようとするファイティングスピリット…。

神谷はついには巨万の富を築いて十年程前に第一線から退いていた。神谷は関根の中に自分の若い頃の姿をずっと見ていたのかもしれない。神谷と関根は離れていても定期的に連絡を取り合っていた。

関根は、パートナーである私を、恵比寿のオフィースで、一時帰国中の神谷高志に引き合わせてくれた。神谷はとても七十近くには見えないエネルギッシュな男だった。

私が握手のため右手を差し出す。神谷の手は、鋼鉄のようにぶ厚くて、指が太く、その太い指が私の手を力一杯握りしめた。こちらも外国流にならい力一杯握ったつもりだったが、かなわなかった。神谷のみけんには、生き馬の目を抜く北米市場で生き抜いてきた勲章である、厳しいシワが刻みこまれている。同時に口元から常に笑いをたやすことはない。両肩を使い、両手を大きく使って話す情熱。インターナショナルであることはまず形が身についていなければならない。

「大事なのは大衆に対するわかり易さだと思います。裏では他人にマネの出来ない複雑なオペレーション。そして表では思いっきり単純でわかり良いコンセプトとすること。千二百兆円と言われる個人金融資産を取りこむためには、裏と表のバランスが必要だと思います。」関根が口を開く。

「ほほう、関根さん、この人があなたのパートナーかい。」

「はい、古畑さんって言います。」

この男の大きさは何だろう。私は自分の存在感や言葉の軽さを思い知っていた。三十年後、私はこの男位の大きさになれるのだろうか……。

「ああ、バブルの崩壊でちょっと火傷したっていう…、人間誰しも失敗することが大事です。私なんか若い頃何度失敗したかわからない。会社を作っては潰し、就職しては上司や会社にかみついて会社を辞め、そして今の私がいます。証券ビジネスからはきれいさっぱり足を洗っていますが、今度は郷里の神戸でレストランとニューヨークテイストのブティックを開店しようと思っています。なあに、ハリウッドで仕事をしている娘を婦人服のバイヤー代わりに使っているんだが、時々日本へ呼ぶための口実に店をやるようなもんです。はっきり言って道楽ですな。あなたたちへの出資も一種の道楽だが、あなたたちにとっては真剣勝負だ。せいぜい頑張って下さい。」

神谷はこう言うと、関根と近況について二、三話をし、私たちの事務所、つまり関根の自宅を出ていった。

しかし、これで神谷がすべて納得したわけではないことはあとですぐにわかる。このあと、関根と私は10回ほどのミーティングを持つ。神谷は私たちの事業計画の甘さを徹底的に突いてくる。私たちはQ&Aを500作り、会社の内容・投資計画、投信商品のコンセプト、販売方法、そして役所への届け出の方法…、あらゆることを神谷に試された。神谷は検察官にして、金融機関を監督する役人、経営指南のコンサルタントにして、良きアドバイザーだった。私たちは神谷と話をした濃密な一ヶ月の間徹底的に鍛えられた。

実際問題として、神谷とのディスカッションが無かったら、ベンチャー投資とリスク管理という水と油のようなスキームを完成することはできなかっただろう。関根と私はデリバティブを用いたリスク管理については、ポートフォリオ・インシュアランスという手法を使えないか、と漠然と話し合っていた。しかし、このスキームの欠陥をいち早く突いてきたのが神谷だった。ポートフォリオ・インシュアランスは、相場の動きによってヘッジ金額を少しずつ変化させていく手法で一年といった短期間のヘッジには適している。しかし、ベンチャー投資は10年といった長期間での評価が重要であり、短期間のベッジは難しい。しかも、市場価格の無いに等しい未上場ベンチャー株では、ヘッジポジションを決める際に必要な時価でさえ、はっきり把握できるものではない。さらに制度面でも、日本のベンチャー株の多くは、上場までの間は株主に安定的に株を保有してもらって落ち着いた経営ができるよう、上場前の他者への売却制度が付いているものが多く、ヘッジのための売却が難しいのだ。

「神谷さん、多木君とも話をしたけれど、いい智恵が見つかりません。ベンチャー株とリスクヘッジを共存させることは無理なんでしょうか。」

頭を抱える私の言葉に、神谷は少し考えたあと口を開いた。

「私の古くからの友人で、WW銀行にいるデリバティブの世界的権威に相談してみることにしよう。」

私は神谷からの連絡を待っていた。次の日も、その次の日も連絡は無かった。「神谷さんなら、何とかいい智恵を授けてくれるさ。」関根は努めて明るく振る舞っていた。しかし、私は内心これは困ったことになった、と思っていた。こんなことなら、多木にももっと前に詳細な検討を指示しておけば良かったと一人後悔した。リスク管理については少し後退したスキームにする、多木のデリバティブノウハウは別途、違う商品で活用する……、そんなことまで考えていた矢先、一本の電話がかかってくる。

「古畑さん、ようやく友人にコンタクトすることができました。バハマの方でバカンスを楽しんでいるとわかって、電話で呼び出しました。彼はこう言うんです。一つ一つのベンチャー株をヘッジすることはできないけれど、多数のベンチャー株で構成されたファンドであれば中長期のプット・オプションを相対(あいたい)で出す業者がいるかもしれないってね。ただし、もちろんそのファンドに入っている個別企業の内容を精査した上でないと、オプション取引を業者はやらないと思うけど、ってね。とにかくアメリカのオプションハウスにコンタクトしてみろ、とその友人は言っていますよ。」

神谷のヒントは福音となった。私は、「そうだ。」と躍り上がる。木津田が関わっているグローバルベンチャーファンドだ。木津田をベンチャーキャピタリストに指名したIVVと言えば世界で名が通っている。そのIVVの設定するファンドに入ってくる日本のベンチャー株100社で作ったファンドならば、オプションを出してくる業者がいるかもしれない。多木は、さっそく自分のデリバティブの人脈をフル活用してオプションハウスに打診をはじめる。木津田の作った英文の会社概要書が大いに役に立った。多木の、ネイティブと聞き違うような流暢な英語は説得力に満ちていた。

中長期プットオプションによるヘッジスキームが固まった。プットオプションとは、ファンド全体をあらかじめ決められた価格で売ることのできる権利である。たとえば今100の価格のファンドがどんなに暴落しても、75で売る権利を保有しておけば75以下になってもオプションを行使することによって75以下になることはない。逆に75以上であればプットオプションは保険なのだから、権利を行使しないで「保険のかけ捨て」をすることによって値上り益を確保することができる。ただ問題は保険料、つまりオプション料である。中長期のオプション料は非常に高価となる。一年間の保険料よりも10年間の保険料の方が高い、と説明されれば何となくわかったような気になるだろう。オプション料を少しでも安くするために私と多木はこう考えた。値上り益にも上限をこしらえようということだ。つまり100に3つ、1000に3つと言われる大化け株によってファンド全体で劇的に時価総額が増加したとしても投資額の3倍以上は、他人にくれてやるということである。これをコールオプションの売り、カバードコールと呼ぶ。つまり300という価格での買う権利を相手方であるオプションハウスに渡すということになる。上値を放棄して、プレミアム、つまり保険料をもらうのだ。ネットでの実質支払保険料はこのコールオプションの売りにより少し軽減される。このスキームでは、結果的に100でスタートし、「最低が75」、「最高が300マイナス、ネットの保険料」という、上と下をカットしたパフォーマンスレンジとなった。IVV社のベンチャーキャピタリストに指名されたという木津田の教えてくれた情報が、私たちのスキーム完成に一役買ったことになる。

さあ、これで出資者、デリバティブスペシャリスト、ベンチャー企業の情報を提供してくれるベンチャーキャピタリストがそろった。投信のスキームも固まった。売買事務などのバックオフィースワークは全て外資系の信託銀行に任せるつもりだった。

日本の金融機関は自前主義の幻想に陥って失敗している。内部で出来ないこと、効率の悪いものは気軽にアウトソーシングすれば良い。会社運営は社長の関根。CIO、つまりチーフ・インベストメント・オフィサー(最高資産運用責任者)が私で、同時に投信商品の設計及び実際の運用統括も私がやる。残るは一つのポストだけだった。開発した商品を個人投資家への販売チャネルである証券会社に営業したり、通販などを利用して個人にダイレクトに販売していく営業部門の責任者である。

信頼に足る人間と組みたかった。私の心の中に意中の人間の名前が一人だけあった。私が会いたいと言ったその日、北野は約束の時間に少し遅れて到着した。きょうも打ちひしがれたかつてのエリート社員と会社回りをしてきたところだった。私は率直に切り出した。あなたの力を貸してくれないかと。

北野は、「いいですよ。」とさらりと答えた。

「人助けのアウトプレースメントもいいけれど、自分の力でもうひと花咲かせるのも悪くないと思いますよ。しばらく人を会社から会社に動かす仕事をしてきたから、今度は自分が人に動かされるのも新鮮な気がします。」

目は笑っていないが、北野の口元は緩んでいた。

「ところで古畑さん。あなた、また一皮むけましたね。私が会った半年前のあなたは軽い自暴自棄だった。無用なことにいきりたち、エネルギーを内に内にばかり向けていたように見えた。でも今のあなたは違う。実に建設的だ。ビジョンを描く喜びに充ちている。私も手伝いをしてみたいと思います。」

会社の骨格はそろった。きょうは一九九七年の六月二十二日だ。日曜日。しかし、最近は土曜日も日曜日もない。あたりまえだ。会社はようやく株式会社として設立したけれど、未だ関根と私は手弁当状態で、資料作りや証券会社など金融機関をはじめとする営業に忙しかった。光陰光通信。

この日曜は月に三度のアルトサックスのスクーリングの日だった。忙しい合間を縫ってサックスは続けている。

渋谷の大手楽器店の三階では十室ほどの防音装置付レッスン室がある。先生はジャズミュージシャンの高木守雄。ぎょろ目の優しい先生は、あまり練習をしてこない生徒を叱りもせず、それゆえに人気があり、したがって生徒は上達も遅いが、楽しみながら長続きするので楽器店側にとっても都合の良い先生だった。

マウスピースを代えさせられ、息の使い方、舌の使い方(タンギング)をすべて直されることによって、音は全然違う繊細な音に変わったが、今では、さらに音色を少しコントロールすることが出来るようになっている。高木先生は、私の吹く実力の向上を見て、マウスピースをS社のものからM社のものに代えるように言った。S社の初心者用マウスピースは音は出やすいが、音に深みが乏しい。M社のマウスピースに代えることによって音量のコントロールが容易になる。

生徒は、ミュージシャンを夢見るフリーター、ジャズが好きなサラリーマン、何かをしたいOL…、あらゆる階層の人間が集まっている。だた、仕事に没頭しているサラリーマンはほとんどいないだろう。アルトサックスなんて、普通のサラリーマンには過激すぎるのだ。

ただ上達する喜びに加え、私は練習することにもう一つの期待を見い出していた。あの少女のこと……。

家に帰るとたて続けに電話が四回かかってきた。四人とも家の近くで待っていて、私が帰ったらすぐ訪れようとしている。まず多木、次が西田京子、三人目が長井、そして最後がビジネスパートナーの関根。

最近、日曜の夜は、こうした連中が来ることが多くなった。みんなラフな格好で現れ、勝手に酒と食べ物を持ってくる。

長井は勤めていた頃の西田京子のことを知っている。しかし、今は何の関わりもない。ただ、私という人間と何らかのつながりのある人間同士でしかない。そして、普段の生活に充足しない気持ちを共有するあたりまえの人間でしかない。

「リーン、リーン」

古めかしいダイヤル式の電話が鳴る。北野からの電話だ。ベンチャーキャピタリストの木津田と出資者であり会社のパートナーである神谷を誘ってやってくると言う。日曜日の夕方に突然の訪問だ。会社勤めの頃なら嫌な気がしただろう。でも今の私は違った。仕事を楽しみながら、生きることを楽しみながら、一緒に生きていける人ならいつでも会いたい、という思いが強くなっている。

こんなことは初めてだった。休日の夜に、リラックスしながら仕事の夢を語るなんて。関根は、力強く言った。

「三年後に私たちの会社の株式を上場することを一つの目標にしよう。みんなの出資金とストックオプションが三年後には百倍となるようみんなで力を合わせて働こう。」

長井はうらやましい気持ちを隠さず、ストレートにしゃべった。京子もニューエイジ・アセットマネジメントに参加したいと言ったが、「最初は給料は出ないよ。」との私の言葉に、「それじゃ私、食べていくために夜はヘルス嬢でもやらなければならないかしら。」と応酬する。とりあえず会社が軌道に乗るまでは最小のメンバーで行くという関根の言葉が京子を黙らせた。みんな適度に酒を飲み、食べ、各自ゴミを持ち帰り一日が終わる。

この日曜が事実上の会社スタートの日となった。一ヶ月後に業務は開始した。

業務が開始したと言っても、何もかもが急に動き出すというわけにはいかない。神谷が五億円の出資金を振りこんでくれたということだ。株式会社としての登記、投資顧問会社としての登録、投信会社や証券会社への営業の開始、情報端末の導入…仕事は束になって襲ってくる。

私の脳細胞は覚醒していた。毎晩遅くまでドタバタ働いているくせに朝の五時には必ず目が覚める。新しい投信商品のアイデア、運用方法、証券会社への売り込み方…色々なアイデアが頭の中をかけ巡る。すごいアイデアを思いつき、またウトウトするとそのアイデアがまた色あせて見えてきたりする。思い込みが右脳で旋回し、そしてバランスを失って増殖していく。こんな時に考えつくアイデアは、左脳の論理回路でチェックされ一つとして実用化されることは無いだろう。それほど独創性に富んでいるということだ。ウトウトしているうちに、起きてもいい時間になる。体には力が充ちている。

「まあ、話を聞いてみて下さい。」

関根が言葉巧みに話を進める。

「日本には千二百兆円にものぼる世界一の金融資産がありながら、一般の人々はそれをゼロパーセント台の預金金利に置き、国の成長に使っていません。世界の先を走るアメリカのように、この世界一の金融資産をリスクマネーとして、ベンチャー企業など、新興の成長企業に投資することが日本全体にとって必要です。そのための仕組みが必要なのです。本命はやはり投資信託です。しかし、投資信託って言ったって、何でもいいわけじゃありません。東京証券取引所に上場しているような成熟企業に投資したって無駄です。外国流の進取の気性で造られた中堅、中小企業に投資する投信を作ります。最近言われている『グローバル・スタンダード』とは、つまるところ『アメリカン・スタンダード』です。アメリカでは、シリコンバレーを中心として、ハイテク、通信関連の企業が設立後あっという間に世界的企業にのし上がるケースも稀ではありません。日本はいつでもアメリカのあとを行く。日本でも必ず、こうした流れになります。しかし、ベンチャー企業への投資は大きなリスクを伴います。アメリカでも、新規に設立されるベンチャーの3%ぐらいしか成功しません。残りの会社は衰えてつぶれてしまいます。成功するその3%が、とてつもない利益をもたらすのです。私たちが、御社のために設計する投信は、今までのベンチャー企業への投信とは全く違います。まず、一流のベンチャーキャピタリストが選別した会社にだけ投資します。二番目のポイントはリスク管理です。弊社には日本でも有数のデリバティブの専門家がおり、独自のリスク管理を行っています。」

「そのリスク管理方法とはどんなものですか。」

頭がツルツルに光っている山本証券の常務がたずねる。山本証券は、先見性では評判の中堅証券であり、会社を引っ張っているのが、見かけによらずやり手のこの常務なのだ。私は説明する。

「まずは、分散投資です。それから、デリバティブを駆使したヘッジ手法です。手法としては、プットオプションの買いとコールオプションの売りとを行います。こうすれば、アップサイドのポテンシャルは一部放棄することになりますが、割安なコストで最低利回りは確保できます。」

私は、聞き手の顔色を見ながら続ける。

「もう少し具体的に、最低保証の所を説明してもらえませんか。」常務はポイントを突いてくる。

私はグラフを使って説明する。

私は懸命に話をした。嘘は無かった。運用のプロにとっては非常にチャレンジングな運用手法だ。ベンチャー企業への投資というリスキーなものと、デリバティブによるリスク管理を一緒に行う。世界的にも類を見ないスキーム。練り上げられた運用プロセス。新しさがあって、国の政策にもうまく合致している。顧客ニーズを掘り起こすことも可能だ。人は誰でも一攫千金を夢見ている。マイクロソフトやインテルの株を、まだ創業時に手に入っていたらと、思うだけでも楽しくならないか。しかし、ベンチャー企業への投資にはリスクがつきまとう。投資に二の足を踏むのが普通である。そのリスクをデリバテイブを使ってコントロールするのだ。

「そんなことが可能なんですか。」

赤ら顔の投資信託部長がけげんそうな顔をする。

「十分可能です。」

自信をもって関根が答える。

「でも、その最低保証っていうのは、投資家に対しては保証するけれど、私ども証券会社サイドがリスクは取るってことなんでしょ。」

心配そうな部長の質問に答えるようにと関根が私の方を振り向く。

「プットオプションはオプションハウスと取引しますので、心配ありません。ダウンサイドのプライスリスクはオプションハウスが取ります。御社のリスクはオプションハウスの信用リスクだけですが、これについても相手の信用を考えれば問題がないと考えていただいて結構です。なにせトリプルAの格付けなのですから。」

私も断定するように話を続ける。相手の目をじっと見つめる。手ぶりを入れて自信を表に示すのだ。

約30秒間の沈黙のあとに、常務がやっと口を開いた。私にはこの30秒が何時間にも感じられた。

「もういい。良くわかりました。良い決断は5分で下さなければなりません。ビジネスにはリスクはつきものだ。今はとにかく資金を集める器が欲しい。ベンチャーファンドなら手数料も高く取れる。話を進めさせてもらうことにしましょう。」

最後には、私たちの自信が醸し出している信頼感が常務を動かした形となった。細かなことは分からなくても、自分たちのリスクとリターンさえ、熟知していれば金融マンはやっていかれるものなのだから。

この証券会社には三度足を運んで、成約となった。一件目の取引成立、新しい投資信託の誕生だった。関根と私はその晩に二人だけで祝杯をあげた。最初に大物を釣り上げたことによって、今後の営業がやり易くなる。北野が、この成約を前面に押し出して他の証券会社、投資信託会社、機関投資家にセールスを展開するだろう。

営業成績は順調にあがっていった。第一弾の投資信託は、百億円の販売。0.75%の手数料で七千五百万円の収益。北野の人脈と頑張り、そして関根の地方行脚のおかげで、さらに百億円があっという間に販売できた。それだけ、ベンチャー企業への投資意欲は強かったということだった。私たちは幸運だった。大衆も機関投資家も普通の上場企業への投資には飽き飽きしていたのだ。みんなアメリカでの成功を自分の目で、自分のお金で試してみたかったのだ。気持ちだけでも、成長の美酒にもう一度酔ってみたかったのかもしれない。新しく始めた投資顧問会社としては大成功だった。この成功はバブルの頃にあった押し寄せるような成功ではない。着実に積み上げていくための成功なのだ。

銀色の金属で覆われた私の家は、いつしか寂しい心を持つ男女のたまり場となっている。ニューエイジ・アセットマネジメントの面々、西田京子とその女友達、そして長井。西田京子は、郷里から東京に出てきている学生時代の女友達三人を時々連れてきた。みんな、私の家に来たい時には電話をかけ、留守番電話になっている時には私が帰宅していることを知っていて訪ねてきた。一人暮らしの私の手をわずらわせないように、自分で飲み食いするものは自分で持って来る。ゴミも各自持ち帰る。これは、長井が決めたルールだった。みんながこのことを守った。西田京子は土日のうち一日は来て、そうじをしていく。そうじ、洗濯、ふとんの乾燥、靴磨き…家事はたいがい自分でやっていたが、ついにそうじだけは西田京子がいつしかすべてやることになった。ただ、私の家に泊まることだけは今も固く断っている。派遣で会社を渡り歩くことと、私の家に遊びに来ること、それ以外の京子の私生活について私は良く知らない。あるいは本当に普段の夜はヘルス嬢をやっているのかもしれない。彼女には、男には御しがたい奔放な所がある。ニューエイジの動きに関わることによって、閉じられていたつぼみが一気に開いていくように京子も一段と華やいでいった。京子にとっても過去が去ってしまったということかもしれない。

営業成績の方はさらに順調だった。橋本首相により金融ビッグバンの青写真は日一日と明確になっている。銀行は、インターネットをはじめとする情報通信の進歩により、決済ビジネスの優位性が失われるという現実を認識せざるをえない。なにより、デリバティブをはじめとする金融技術について、海外金融機関との力の圧倒的な差を認める以外にないのだ。これまで儲かってきた資金調達サイドのビジネスが重荷になってくる。高いコストで資金を集めてきてもペイしなくなってきている。しかし、運用サイドのビジネスでは海外勢においしい所は全部取られてしまうことは明白だった。どぶ板営業で資金を集めることを成業としていた地銀、信金は資金コストが上昇しても資金調達のビジネスにこだわらざるをえない。一方、都会にしか店舗のない都銀は逃げ場のない窮地に立つ。規制と市場原理の差を享受してきた長期信用銀行も、市場原理の浸透によって、打つ手がなく混乱していた。総会屋とのスキャンダルで地にまみえた証券会社も、株の低迷をはじめとして収益力の低下に悩んでいた。「ラップ口座」、つまり個人向けの一任運用勘定が期待の星だった。日本の証券会社にしてみれば、成長が見込まれる投資信託同様、質の高い外国の運用機関を見つけ、アウトソーシングするしか道はなかった。しかし、力のある海外勢は既に独自のディストリビューション・チャネル(販売網)を確保しており、遅れて参入する銀行、証券、信託、生保は、力のある運用会社と商売できるなら、百億円単位で即、資金を預けるしかないのである。私たちのように日本の実情を十分理解した上でユニークな運用を提案できる日本の会社はほとんど無いのだから。私たちは自信を得て、様々なスキームの運用商品を開発していった。

七月六日はひどく暑い日曜日だった。きのうの土曜からうだるような暑さが続いていた。私は二階でジャズのLPレコードを聞きながら、ぼんやり自分が運用しているファンドの現在のポジションと会社の現在の状態のことを考えていた。大手の証券会社を使って順調に資金は流入してきていた。ビッグバンの時代には、金融機関の軸足が調達から運用に移ってくる。競争の激化によって調達ビジネスのマージンは急激に減っていくはずだった。ニューエイジ・アセットマネジメントは、調達については大手の証券会社に全面的にアウトソーシングしている。もっとも証券会社の方では、運用ビジネスを私たちにアウトソーシングしていると思っているのかもしれなかった。少なくとも昔なら証券会社の考え方が正しかっただろう。しかし、今は違う。調達サイドよりも運用サイドに主導権は移っている。風は自分たちの背中から吹いているのだ。私にはそんな確信がある。

新聞では、大蔵省高官の為替についてのコメントが出ている。昔なら、為替のディーラーとしてニュースを聞いたとたんに売りなのか買いなのか売買のイメージを作っていた。今はその必要はない。木津田の選んだ株を買い、多木のデリバテイブの技術でファンドは運用されていく。自分は運用の結果が予想の範囲に収まっているのかをチェックし、顧客宛の運用状況コメントを考えるのだ。

外からはバッハを弾くピアノの音が聞こえる。いつものように……。最近は音に透明感が出ている。悲しみを沈めていくのではなく生きる喜びを淡々とつづっている。私は、彼女の弾いている曲の名前を知りたくなった。今度、多木に聞いてみようと思った。

規則正しい時刻で会社への通勤が毎日続く。会社といっても、関根のマンションの一室に事務机を四つ詰めこんでいるだけだ。何時に家を出るのも私の勝手だが、私はかつての会社と同じ出発時間を選んでいる。朝美に会うことも一つの理由である。

最近はまた朝美と会う場所で、朝の時刻が分かる。山下家具の前で会う時は八時五十分頃、ちょっと駅に近いマクドナルドのあたりで会うなら八時四十五分頃だ。朝美は八時四十三分豪徳寺着の小田急線各駅停車に毎日必ず乗ってくる。日本の電車は狂わない。

毎日一人の女を見ていると、女は何人もの女になれるものだと思う。髪を伸ばし、髪をたばね、そして切る。それだけで何人もの女になれる。化粧を変える。厚塗りのメイク、目だけを強調した薄化粧、青いアイシャドウ……。そして何よりも心の持ち様。悲しい気持ちの時、浮き立つような心の時。男との関係で顔が変わる。この頃の彼女の顔には精気がない。化粧も投げやりで、彼女の中の女そのものが体の外に出ていかない。清楚な白いワンピースの中に彼女は閉じこめられている。

その日は雨が降っていた。

私はいつものように駅を目指して歩く。途中まで歩いた所で女が全速力で走ってくるのに出会う。……朝美だ。男が追っている。

「やめてよ。もう関係ないんだから。」

「まっ、待ってくれ。」

朝美は私の目の前で立ち止まる。少しほっとした顔になる。

「助けてください。」

そう言うと彼女は私の体を盾にして男と向き合う。

「アンタ、誰だ。」男が叫ぶ。

私はとっさに口を開く。

「古畑と言うものだ。彼女とは最初に会ってから、もう数年が経つ。」

我ながら妙なことを口走る。言い終わらないうちに朝美が叫ぶ。

「私はこれから会社へ行くのよ。あなたは会社を辞めて、他で働く力があるけれど、女の私はあそこの会社よりいい所で働くことなんか出来ないのよ。しがみついて生きていかなきゃならないのよ。私にまとわりつくのはもうやめて。もう私とあなたは終わったのよ。お願いだから、こんなのもうやめて。待ち伏せなんか金輪際やめて。電話をかけるのも、留守番電話に声を吹きこむのもやめて。お願い。」

男はじっと立ち止まっている。私は男の髪が雨でぐしょぐしょになっているのを見る。朝美が私の腕を押さえる力が、スーと弱くなっていく。男はひとこと漏らす。

「わかった。もうやめるよ。」

男は去る。潔い男の心の中ほど苦しいものはない。朝美は礼を言う。コンビニに走ってビニール傘を買う。私は見つめている。朝美は会釈を軽くして、去っていく。じっくり話をする機会を逃てしまった。名前さえ聞いていない。

それでいいのだと思う。彼女についての伝説や物語が終わってしまわないのだから……。

私はまた毎朝彼女の美しい顔と姿を見られるのだ。

七月十九日。海の日という、理由にはならない理由を持つ祭日をはさんだ三連休の初日は、昼から客人たちが訪ねて来る。

「どうだ、お前。最近この家に酒持って飲んでばかりで、まともに話しもしていないが、調子の方は?」私は長井に話しかける。長井は答える。

「ああ、この家に来だしてから少し変なんだよ。週に二、三回来て、多木氏のバイオリンを聴くだろう、それから、西田京子と、前ならつまらないと思ったような世間話をするだろう、北野のオヤジの大人の体験談を聞くだろう、体中にエネルギーが充ちているような関根さんの力強さを感じるだろう、そんなことをしているうちに会社でやっていることが……俺な、馬鹿馬鹿しくなってきてね。最近はな、毎日のように飲みに行っては、人間の品定めをしているような合田部長と一緒にいるだけで、虫酸が走るような気がしてきてね。」

「ほー、人に合わせるのが天下一うまいお前がそんなことを言うなんてね。」

「会社の人間と飲みに行くのには理由があることが分かったんだ。つまり、その、会社の人間とばかり飲んでいると、会社のことを考える時間が長くなるわけだ。会社の外の人といれば、そんな小さなことどうでもいいじゃないかということをな、会社の人間と飲みながら深夜まで綴り言のように何度も、何度も、話すだろう。そうやって、確認するんだな。自分が会社に対してロイヤルティーを持って頑張って仕事をしているということを。飲みに行く相手のことを身内として尊重しているということも。一度社外の風に当たれば、ガラガラと崩れてしまうことを、知っててわざと気づかないように、余計な考える時間を互いに与えないように飲みに行くってことだ。」

「お前も、ようやく気づいてきたっていうことだな。」私は笑った。

「本当のところ、会社はドロ舟のようで、もう沈みかかっている。その中でも人事部は聖域のように守られているわけだ。人事部出身者は、異動しても昇進は約束されている。でもな、お前たちを見ていると俺も何か、本当に意味のあることをしたいって思い出したんだ。」

「そうか。だがな、お前、人事課長じゃないか。会社の枢要ポストだぞ。合田や坂井常務に反対されたって、やれることは一杯あるじゃないか。」

「お前、また一昔前みたいに、とびきり建設的なことを言い出したな。」今度は長井が笑った。

その日の長井は十年ぶりだと言って、ピアノを弾いた。体育会系の長井は、高校でバレーボールの方を選択し、それまで努力してきたピアノを捨てたと言う。

「楽譜ぐらい読めるからな。」長井はそう言うが、読めるどころか相当の腕前であったことはすぐ分かる。

長井の家はカトリックを信じる家庭で、両親とも大学教授、ピアノの基礎は体に染み込んでいる……。長井とは二十年近くのつき合いなのに、こんなことも知らなかった。そして驚いたことがもう一つあった。その日西田京子も歌を歌った。くつ下を脱いで、リラックスしながら、「はだしで玄人はだしをやります。」と言って皆を笑わせる。私が、「ララバイ・バード」をサックスで吹いた。これまで「マイナスワン」の音楽CDでカラオケ演奏はしていたが、自分の演奏で人が歌うのは初めてだった。京子は歌詞を暗記していた。

「どうして歌詞を覚えているんだ。」

私が聞く。

「古畑さんが練習している曲はみんな歌えるわよ。本屋で楽譜集を買って、時々家で練習しているのよ。楽しいわ、歌を歌うの。」

その日も夜は快活にふけていった。地下室の宴は十一時頃までにぎやかだった。

仕事の方はすこるぶ順調だった。木津田が、

「そんなに資金を集めてこられても、投資に値するベンチャー企業はそんなにすぐには現れないんだからな。」と文句を言う。しかし、まんざらでもない。木津田の方も、ただ単にベンチャー企業を探してくるだけではなく、ベンチャーキャピタル周辺のビジネスにも手を広げていた。まずは、ベンチャー企業に対する情報収集、情報提供の強化。ベンチャー企業のために、インターネットでホームページを開設し、ベンチャー企業のクラブ組織を作り上げる。企業経営の悩みについて情報交換の場を提供し、自らも経営指南を行った。豪快で、しかもマメマメしい気配りで、木津田のもとに集まってくるベンチャー企業家は日増しに増えていく。評判を聞きつけて、木津田の組織する「VMF」(ベンチャー・マネジメント・フォーラム)への参加企業は今では千社を数えるほどになった。来るものは拒まず、木津田は怪しげなベンチャー企業の入会も無審査で許した。

「VMFは単なる親睦組織だ。倒産するも、合併するのも、されるのも、その企業の勝手。俺はこの狭い日本にダイナミックな企業家魂を育てることに使命感を感じている。そのために俺は、アメリカでCPA(公認会計士)と弁護士資格を取ったんだ。本来、企業家魂はリスクを恐れない、力強いものだ。しかし、俺がやっているベンチャーキャピタルの仕事は、ベンチャー事業そのものとはちょっと違う。道楽や勢いだけで出来ることではない。慎重に、伸びる企業と駄目な企業を選別しなければならない。自分の金と他人の金を突っこむんだからな。どんなに可愛い企業でも、事業自体に見込みがなかったり、経営者の足が地についていなければ投資は出来ない。慈善事業をやっているわけじゃないんだ。」

木津田は言う。しかし、ベンチャー企業に投資したい資金が増えてくると、木津田としても、ただ単に良い会社に投資するだけではなく、可も不可もない中間の会社の尻をたたき、一生懸命成功のためのアドバイスをして、のし上がらせるということもやっていかなくてはならなくなっていた。企業を起こすためのノウハウ本を出版したり、テレビや新聞に何度も登場し、人々の企業家精神を鼓舞するようになっていた。いつしか、木津田は日本で最も有名なベンチャーキャピタリストということになり、彼のもとに集まる企業家は、ついに三千人を超えるようになった。VEFは、企業家のための登竜門、学校のようなものになった。木津田の名声と同時に、木津田が社友をつとめ、木津田自身が投資先を推奨するニューエイジ・アセットマネジメントの声望も高まるばかりだった。

「ピン・ポーン」

「はい。」

「あの、突然ですが、斜め向かいの山中と申します。」

中年の女性の声がする。ん、山中さん?、あのバッハを弾く女の子の家の表札。あの子の母親が何の用事だろうか。

「どうぞ、お入り下さい。」

山中さんのおばさんは話し出す。玄関に置かれた椅子に座りながら。言葉を一つ一つかみしめるように。時には涙ぐみながら。

「私の娘のことはご存知だと思います。山中和津子(やまなかかつこ)といいます。今年十六才になります。実は三年前より、歩くのが困難になって、病院に連れていったら、骨髄と小脳が冒される難病にかかっていると言われたんです。中学二年だった娘と、そして両親である私と夫の、そう医者に宣告された時の悲しみは、もうたとえようもないほどでした。この難病は、ゆっくりと進行し、徐々に手の運動障害、言語障害と続いていき、十年から二十五年を経て心不全や感染症などの合併症により死亡に至るという恐ろしいものです。そのことを知った娘は、もう学校に行くのも嫌になり、部屋にとじこもりっきりになりました。」

「原因は何なんですか。」

「原因はわかっていませんし、治療法も確立されていません。対症療法でその場しのぎの症状緩和を図りますが、現代医学では直せないのだそうです。遺伝的な病気によるという研究もあるそうですが、確かめられていません。私の家系にも、夫の家系にも、そんな難病の人間はいないのですが…。」

「そうですか。」

私は、急に現れたこの婦人に重たいものを肩に乗せられたような気がした。交通事故か何かで車椅子に乗っているわけではなかったのだ。

「いつもバッハの曲を聞いています。さきほど、手の運動障害とおっしゃいましたが、ピアノは弾けるのですね。」

「ええ、ピアノは幼稚園の頃からはじめてピアニストになるのが、あの娘の夢だったんです。音楽系の大学の付属中学に入り、これからという時に難病が発病したんです。」

「今、学校はどうしているのですか?」

「この病気は神経難病といわれるものの一種なんですが、体がどんなに動かなくなっても運動神経以外の知能は普通の人とまったく変わらない、いや、体が動かないだけ知能は高いかもしれないんです。本当にあの娘は小さい頃から聡明で、自慢の娘だったんです。ですから、体育以外はやればいいのにって言ったのですけれど…、行きたがらなくて…。気持ちが落ち着くまでは、学校の方から長期の休学扱いにしてくれるといったんですが。きっぱりとやめることにしました。だって、もう治らない病気なんです。休学したってあの子はもう学校へは戻らないでしょう。ここに引っ越してくる前までは、ふさきごみ方が、それはそれは激しくなって、それで、気分を変えるために引っ越してきたんです。近くに養護施設もあるって聞いて、将来のことも考えて…。」

「でも、バッハの腕前は立派なものじゃないですか。」

「ええ、発病する前はそうじゃなかったんですけれど、発病してからというもの、なぜかバッハなのです。まるで、『まだ腕が動くのか』を調べるために弾いているようにも思えるのです。それが、また不憫で…。」

「そうですか、お気の毒です。」

そうとしか言えない。他の人間だってそうだろうと思う。突然の母親の訪問、そして、悲しい物語が降ってくる。分別のあるはずの四十過ぎの男でも、こんな言葉を言うことしか出来ない。ふがいないことだが…。

「ところで、何か御用でも?」

「実は、一つお願いがあるのです。」

若い頃は美人だったのだろう。細身の山中さんは真顔になって私の目を見つめる。

「一度皆さんと一緒に娘を演奏させてもらえないでしょうか。」

「演奏って…。」

「時々私が、この家の前を通ると、地下から楽しそうな笑い声とバイオリンの音、サキソフォンっていうんですか、あのラッパみたいな音、ピアノの音、歌を歌う声が聞こえてくるんです。ある時私が和津子に話をしたら、あの子、車椅子に乗ってこの家の前まで来て聴いていたんです。『私、ここの家の人知っている』って言って、そして、『前に一度、このきれいなバイオリンの音を聴いたことがあった』と言ったんです。そして珍しく、『私も一度、あんな人の笑い声の聞こえる雰囲気の中でピアノを弾いてみたい』って言うんです。あの娘が積極的に人の中に入っていきたいなんて発病以来なかったことなんです。ええ、そりゃ突然で、不躾だって思います。でもあの娘の病気、治らないんです。歩けなくなって、その次には、両腕が動かなくなり、ついには喉の筋肉が動かなくなりしゃべることも出来なくなるんだそうです。症状はゆっくり進んで心不全や感染症で死んでいくんだそうです。今のところ手の方は何ともないんですけど、いつ手も動かなくなるかもしれないんです。何年もつかわからないけど、動くうちに願いをかなえてやりたいんです。」

このあとも、山中さんのお母さんは、少し油は切れているが絶え間なく弾を発射するマシンガンのように思いのたけを一気に吐き出した。その間三十分間……。介助の大変さ、家庭の中に難病の娘のいるつらさ…。でも彼女の漏らしたのは、現実の重さの内のほんの少しを言葉にしただけなのだろう。私は重い口を開く。

「もちろん、いつでも家に来てください。みんなで車椅子を地下に運びますよ。地下にはもちろんピアノもあります。パーティーをやりましょう。近々何かの記念日でもありませんか。娘さんの誕生日とか、退院一年目の記念日とか…。」

「さ来週の土曜日が和津子の十六才の誕生日です。」母親の顔が明るくなる。

「そりゃいい。誕生会、やりましょうよ。」

自分の声が踊っているのに気がつく。何も出来ないという後ろめたさから解放されたからかもしれない。山中さんが深々とおじぎをしている。

その晩私はテレビを見る。衛星放送で海外旅行記をやっている。毎週見ている。この番組に出てくる旅行者は、いつでも遠い異国を旅しているようで、本当は自分の心の中へ、中へと旅をしている。物見遊山ではない。壁にぶちあたっている芸術家や、今は大家となった評論家が若かかりし頃訪れたルーツの地を再訪する。壁にぶつかっている現実から離れ未来を切り開くために、あこがれの地を訪れ、思索する。この日は一人の画家がブータンを訪れる。山あいの道で、老婆が手におもちゃのようなものを回転させている。回すたびにお経を一度唱えたことになる。

画家は聞く。

「どんなことを考えているのですか。」

老婆は答える。

「道行く人のことを見ながら、その人が幸せになってほしいと祈っています。」

画家は驚く。

「自分のことを祈っているのではないのですか。」

老婆は淡々とした顔つきで言う。

「自分のことを祈ったことはありません。」

番組の最後の所で旅を振り返って画家が泣く。鼻水をすすりながら泣く。

「自分は今まで人のために何かを祈ったことがなかった。」と。

この番組では、有名人たちが泣く。かつてベ平連を指導した男が、ナチスの作った処刑場、何の罪もない市民を処刑した場所で泣いた。ドキュメンタリー映画の監督が、死なせてしまった自分の子供を思って泣いた。大泣きをするのは必ず男。男は泣くのに慣れていない。だから大泣きする。

私は大泣きをしない。しかし自分よりずっと年上の男たちの涙に共鳴してしまう。私は心が弱い男だ。しかしこんな時は自分の弱さが嫌ではない。泣いている画家を見て私も考える。何年もこだわってきたことについて…。

時が過ぎても心の傷は癒し切れない。自分自身が変わらなくては心の傷は癒せない。内なる自分に語りかけ、本当の自分に近付くのでなければ癒したことにはならない。いや、むしろ自分に向き合い、考えるためにすべてのトラブルは与えられている。私は変わったのだろうか。今なら人のために祈れるだろうか。人の心のさびしさを理解しているだろうか。そして、自分の心のさびしさに素直でいられるだろうか。

週が開けて事態は急変する。出力されたファンドの運用状況を注意深くチェックする。放漫経営がたたったベンチャー企業Y社の倒産がきょうニュースに流れたことがきっかけだった。インターネット関係のコンテンツビジネスで名を馳せたベンチャーの雄も、ソフトの世界を逸脱し、通信機器のハードへ進出するための投資で火だるまになっていた。Y社は店頭上場しており、株券は紙クズ同然となった。木津田はY社のことを当初から良く思っていないかったから、ニューエイジ・アセットマネジメントが関係しているファンドにはY社株は一株も入っていない。しかし、Y社の倒産による連想売りで、日本中のベンチャー株とベンチャーファンドは全般的に大幅に下げていた。

「多木君どう思う。ベンチャー株の値段はどれ位下がるんだろう。」

「そうですね。ポイント&フィギュアをはじめ色々なチャートで見ると、半分位になってもおかしくない値動きですね。」数字に強い多木はいつも合理的で歯切れがいい。

「ベンチャー株が半分になるということは、僕らのファンドも基準価格が半分になる、って考えるしかないな。」私が言葉を継ぐ。

「えぇ、それに不安心理が強まればファンド自体を売却したがる投資家も出てきて、ベンチャー株の市場は一層混乱するでしょう。」

こうした局面で、起死回生の有効策はない。ファンドを購入した投資家のために状況を正確に説明し、ファンドの狼ばい売りを防止することぐらいしかできることはない。私は状況を関根に説明し、対策を協議する。多木に投資家向けの説明資料の作成を命ずる。出来た資料をファンドを販売した証券会社に送付し、至急投資家に直接ファクスしてもらうことにした。そして大口の投資家に対しては、関根、北野、多木、そして私が手分けをし、証券会社の営業マンと一緒に説明のための訪問を行うことに決定する。

目の回るような3日間が過ぎた。投資家は私たちの話を良く聞いてくれた。ベンチャー株市場のパニックは一時的であること。日本のマクロ的な状況から考えてベンチャー市場の回復は夢ではないこと。木津田の選んだベンチャー株は良質な会社が多く、個別の株としては心配ないこと――。

終わってみれば売却意向の投資家は10人に1人の割合であった。ファンド運営に支障がない程度に収まった。しかし、売りたい人間が出てきたことは確かである。基準価格に基づいて売却処理のオペレーションを行わなければならない。

しかし、この嵐のような3日間、私の心には一つのわだかまりもなかったのだ。それというのも相談に言った時の関根との会話が私に安らぎを与えてくれたのだ。

関根はこう言ったのだ。

「古畑さん、僕らは十年以上続けるんだよね。十年の間、ずっと大きなバクチをやって勝つ確率は非常に低いだろう。地道にやるんだ。多少、資金が逃げていったっていいじゃないか。顧客にきちんと説明できることをやっているのだから。これが、アカウンタビリティ、説明責任ってことじゃないのか。」

私は、完全にふっきれていた。

デリバティブを含んだ売却のオペレーションは困難を極めた。ベンチャー株の売却にも骨が折れた。

すべてのオペレーションが終わったところで、深いため息が出た。

「資金が集まり、滑り出しは良かったけれど、なかなかベンチャー株は難しいですね。」いずれ、そんな同業者の皮肉の声が聞こえてくるだろう。しかし、我々は強くならなくてはならないのだ。必要なのは冷静な計算に基づくしたたかさである。

「多木君、しばらくは新しいファンドの設定はお休みだね。」

「なかなか思った通りに市場は動いてくれませんね。」

「そんなものだよ。一時的に、評判は悪くなるかもしれないが、危険を察知したらすぐにアクションを起こしたんだ。関根さんの言うとおり、僕たちはポツと出て、ポッと消えていくってわけにはいかない。ベンチャー企業への投資というリスクの大きい運用をしているのだから、危機管理は手堅く、手堅くいかなきゃならないんだ。」

「そうですね。十年どころか、何十年も続いてくれる会社じゃないと意味ないですものね。」

私は、「成熟」という言葉の響きを心地良く思っていた。昔なら静観するか、賭けて出るか、二つに一つだったような気がする。一度大きな傷を負って、そして考える時間があって、そして今があった。資産運用は一に忍耐である。二、三は何だったのか………すっかり忘れてしまった。

八月三十日。和津子の誕生パーティーが開かれた。和津子の車椅子はピアノが弾けるように座る高さが変えられる特注品である。その車椅子の車輪をゆっくり手で回しながら和津子が我が家に近づいてくる。和津子は顔を少し紅潮させている。白いTシャツにピンク色のスラックスがさわやかに似合っている。

土曜の昼間だというのに来そうなメンバーは全て揃っている。北野、関根、多木、そして長井、西田京子、京子の友だちである雅美や由香。既に、長井と多木は演奏の小手慣らしをしている。

長井はピアノの勘をすっかり取り戻していて、多木のセミプロ級のバイオリンと並べて聞いてもそれほど遜色のない実力を示していた。

持ち寄られた料理は二階のリビングルームの畳一帖ほどのダイニングテーブルに並べられている。

和津子は良く食べ、楽しそうにみんなとしゃべり合った。人々は私の家の中で一つの共同体らしきものを形成しつつあった。それぞれの過去と経験を背中にしょいながら、ここでは自由な一人の人間として存在している。何をしなければならないということもない。最初に戸惑っていた山中和津子と母親も、みんなの心遣いで少しずつ馴じんでいった。和津子は、こんなたくさんの人の中にいるのは何年ぶりだろうと思った。私は、最近の運用実績の不調のことを考えていた。しかし、相場の上下に対しては時には鈍感になることができるようになっていた。明らかに七年前とは違う。

一時間が経つ。本日のメインイベントが始まる。和津子は多木に、きょう弾く曲の楽譜を渡していた。

地下に降りた長井のピアノ演奏がはじまる。和津子はみんなに車椅子ごと運ばれて地下室へ降りる。

「これから弾く曲はバッハです。」

予想外にはきはきとした和津子の声が弾く。十六歳とは思えない凛々しい表情が光る。

「ひとこと、あいさつをさせて下さい。私は中学二年生まで他の子と同じように何不自由ない学園生活を送っていました。ピアノの好きなどこにでもいる女の子でした。ところが突然、足がいうことをきかなくなって、体育の授業になりません。足を自分でコントロールできなくなってしまったんです。医者で診てもらったら、神経の難病だと診断されました。今はまだ手が動くけれど、いつピアノが弾けなくなるかわかりません。いえ、手どころか骨髄と小脳が同時におかされるこの病気は必ず少しずつ進行していくそうです。神経の細胞が変形し、なくなってしまったり、萎縮してしまったりするのだそうです。この病気自体は、命に別状をきたすものではありません。でも、人間として自立し社会生活を営む上で必要な運動能力は、徐々に容赦なく奪われていってしまうのです。この病気の患者は、じわじわと進行する運動障害を抱えながらも、永く生き続けることになります。迫り来る死はすぐにというわけではありませんが、体の自由が少しずつ、もがれるようになって、なんというか精神的な苦痛が、死ぬまで続くのです。でも…でも……私には何より、いずれ手が動かなくなるということを受け容れるのに時間がかかりました。何度死のうと思ったかわかりません。おかあさんに、一緒に死んでほしいと泣いて頼んだこともありました。治療法は確立されていないそうです。もう、絶対に治らないんです。今はまだ、なんとか手が思うように動くけれど、いつか必ず、必ずですよ、手が自分でコントロールできなくなってしまうのです。いつも私は、『明日にはもうピアノが弾けなくなるのではないか』と思い、おびえながらピアノを弾き、次の日になると、『まだ大丈夫だ』と安心しながら、また次の日のことを考えると恐くなります。明日こそ、と毎日毎日不安で、だから、弾けるうちにと思って、来る日も来る日もバッハを弾いています。バッハなら手の動きが割合単調なので、徐々に弾けなくなっても自分で納得しながら弾けなくなっていけるのではないかと思ったからです。それに、弾きながら最近気がついたんですけど、バッハって、曲は単調でも、深いんです。心に響くんです。だから、最近では、もう、そんな風に恐がりながらピアノを弾くのはやめようって……。それから私、時間がたくさんあるから本を本当にたくさん読みます。一杯本を読んで、もう一つわかったことがあります。それは、自分の身の回りに起こることは全部自分が引き起こしているんだ、ということです。そう考えたら、自分を哀れむ気持ちが少し減りました。きょう、きっちり人前で弾いて、その思い出を心に焼きつけておきたいんです。あとは、いつ弾けなくなったっていい。あの時、久しぶりにたくさんの人の前でピアノが弾けて、みなさんが拍手をしてくれて、そんな思い出だけを抱いて生きていけたら、もう、手が動かなくなったっていい、この前そんな風に思ったんです…。きょうはありがとうございました。みなさんの楽しそうな笑い声やバイオリンやピアノが地下室から聞こえてきて、私の一つの区切りは、ここでやりたいなって思ったんです。」

ここまで一気に話して、和津子はニコッと笑った。瞳が潤んでいる。気丈な雰囲気が少しやわらぐ。多分、家族以外に見せる久々の笑顔なのだろう。

「曲は、バッハのコラール前奏曲ハ短調です。」和津子が曲を紹介する。

「あっ、この曲、映画が好きな方は、ロシアのタルコフスキーの『惑星ソラリス』のテーマ音楽としても有名です。」多木がつけ加える。

静かに二人の演奏が始まった。

曲はひそやかに流れていく。たしかに「惑星ソラリス」の音楽だ。

私も、「ソラリス」には思い出がある。大学時代に衝撃を受けた。夫婦の愛と孤独の物語。地球に近付く謎の惑星ソラリスは見る者の心の願望を映し出し、身の回りに実現させてしまう不思議な惑星だった。主人公の宇宙飛行士は、ソラリスに近付くうちに死別した妻が現れるのを見る。そして話の終盤で消えた妻の幻影が再び去り、喪失感の中で主人公は立ち尽くす……。そんなストーリーだった。

ピアノの音は淡々と重ねられていく。バイオリンが旋律に花を添える。当時、大学生だった私は三十才になったら再びソラリスを見てみたいと思った。自分が変わってどんなふうにこの人間ドラマが心に映るのか知りたかった。そして三十才を越えて本当にビデオを見てみた。その時には既に結婚をしていた。バブルが始まる頃だった。三十才の私にとって、ソラリスは大学の頃感じた衝撃的な人間ドラマではなく、別れと悲しみのある、ごくありふれた人間の営みのドラマだった。実際の生活には必ず愛と孤独が同居していることが、その時にはわかっていたのだ。

私は、もう四十才を超えている。乗り越えるべき過去もいくつかある。別れた女房も含め謝るべき相手もたくさんいる。過去のいくつかの過ちを静かに振り返る強さも、少しずつ身につけつつある。こんな気持ちの中で生きていく楽しさを感じられるようにもなっている。私にとっては、すべては「総括」なのだ。これから強く生きていくための………。

バッハの曲を聴きながら私はとめどもなく考えごとをしていた。九十年代後半に入って日本という国も大きな岐路にさしかかっている。八十年代の後半に既に国力はピークをつけてしまった。あとは滅びに向かって徐々に時を過ごしていくことになる。しかし、この滅びの過程は素晴らしく楽しい時代にもなりうるのだ。構造改革がうまくいきさえすれば、前途洋々ではないが、楽しみながら充実した時間を共有していける。日本人は悲観しすぎている。日本という国の良さを評価して外人は、日本の土地や株を買っている。たまには映画を見に行ってみよう。才能のある日本の映画監督たちが海外のグランプリを取っている。サッカーでは年若い選手たちが純粋な目をして世界と闘っている。私たちビジネスマンだって一生懸命働くことを忘れてはいない。元気を出せ、守ろうとするから辛くなるのだ。壊して立ち上がるのだ。勇気を出すのだ。少女に負けない、勇気を持つのだ。

私はバブルの崩壊で全てを失った。そして失うことによってもっと重要なものを得ることが出来た。日本というこの国はこれからも世界の中で失い続けるだろう。それでいいのだ。失いながら、生きていくのだ。

演奏が終わった。和津子と多木は目を見合わせ、互いに納得したようにうなづき合った。今度は、長井の伴奏で私がサックスを吹き、西田京子が歌う番だ……。サックスを両手で握りながら、ソラリスのことを考えた。それから、和津子の「自分の回りに起こることは自分の心が引き起こしている」という言葉を思い出していた。そして、こんな姿を麻子や奈都子に見てもらいたいな、と思った。今なら少しは素直に話せるかもしれない、元のサヤに戻るはずはないが、新しい時代に合った今とは違う新しい三人の関係ができるかもしれない、と思いながら………。

戸塚芳恵は歩いていた。豪徳寺の駅から会社への道を歩いていた。土曜日にこの道を歩くのは二度目だった。一度目は会社の同僚だった真治と会社の前でおち合って初めてのデートをした六ヶ月前の土曜のこと。「休みに会社の前で待ち合わせるなんて、おかしいね」と笑い合いながら、普段行けない近くの公園へ行った。しかし、真治との愛は、数ヶ月であっけなく終わり、真治は職場で大騒ぎを起こした後、「自分の技術を活かしたい」と言って会社を去っていった。

芳恵はいづらくなった職場に必死にしがみついて、きょうまで頑張ってきたのだ。そして、ついにきょうの朝、さばさばした気持ちで辞表を書いた。理由は、なぜだかわからない。休みのきょう、職場に置いてある私物を運び出し、辞表を机の上に置いてくるつもりでいた。

芳恵はきょう、いつもの通勤とはちょっと違う道を通って、会社へ行きたいと思った。こんなことは、田舎の短大を出てこの会社に就職して以来七年間考えたことはないことだ。

芳恵は、わざと細い道を選んで歩いていた。歩いていくと、銀色の金属で覆われた変わった家が目に入った。家には門がなく、道に面して小さな花壇が作られている。花壇では赤や白の百日草が咲いている。花を見ていると、地面の下の方から、小さな音でピアノの音とサックスらしい音が聞こえてくる。何の曲だかわからないが、明るい曲に思えた。

曲が終わると、いくつもの拍手と歓声が聞こえた。

芳恵は、自分が元気づけられている気がした。別に理由はないが、そんな気がした。そして、会社の方向を目指して、また歩き出した。

                              一九九七年夏

 

 

 

<掟破り・・・作者自身によるあとがき>

この作品は、1997年ですから今から2年前に執筆し、フィスコ社のファンドマネージャー向けの専門雑誌「インテリジェンストレーダー」に連載していただいたものです。このたび、もう少したくさんの方に読んでもらいたいという思いから、伊藤洋一さんのこのホームページに掲載していただくことになりました。執筆してから2年が経っていますので、既に内容が風化してしまっているところもありますが、この作品の中に萌芽としてあった希望、すなわち私たち自身や日本という国の再生という問題が、今2年経ってまさに正念場を迎えつつあるという気がしています。社会の中のあらゆる局面や会社などの組織の中、あるいは家庭の中、自分自身の心の中で、変革の痛みを感じているすべての方にこの作品を捧げます。

私はビジネスマンとしてコンサルティングを行う会社に属しており、ここで書かれた内容は金融業界で働くたくさんの友人たちが話してくれた金融界の状況を参考にして私なりに創りあげた100%架空の物語です。しかし、この作品に登場する舞台は金融という社会の中での部分的な世界ではありますが、恐らくバブルの前後には、この作品にあるようなドラマが金融の世界ほどではなくても、多かれ少なかれ日本のあちらこちらで繰り広げられたのではないでしょうか。

今の正念場を乗り切って新しい時代を切り拓いていくためには、バブルとその後の時代を総括しないことには始まらない、そんな思いで書いたものです。

・・・本当はそんなに大袈裟なことではないのかもしれません。ただ自分を癒し、周りの人を癒したいという思いだけなのかもしれません。

この作品は、ビジネスマンの方を読者として想定しています。

毎日の仕事に疲れて感受性が麻痺してしまい、夜遅く帰ってから見るプロ野球ニュースや週末に読む歴史小説ぐらいでしか、自分を癒すことのできない、心優しく、普通のビジネスマンの方にも読んでいただきたいと思っています。この作品に触れて、次の日に少しだけ早く起きる勇気と元気を感じていただけたなら、作者として望外の幸せです。

1999年5月 香西 春明(かさい しゅんみん/はるあき)