Essay

通貨政策の経済学-通貨政策をめぐる4つの思想

                           1996年8月25日 大和投資顧問ファンドマネージャー 河野龍太郎

  経済学は全く役に立たない、混乱している。そう考える読者は多いはずである。実際に多くの経済問題への処方箋として、全く正反対の経済政策が同時に提案される。あるエコノミストは市場介入主義的な経済政策を打ち出し、別のエコノミストは自由市場主義的な解決方法を打ち出す。前者は市場メカニズムが不完全なため、何らかの公的介入が必要であると考える(不完全市場派)。後者は、市場メカニズムにゆだねれば最良の結果が得られると信じている(完全市場派)。

 それでも、ミクロ経済政策については、できるだけ自由主義的な経済政策を採るべきとのコンセンサスが出来上がっている。しかし、マクロ政策では意見の一致は難しい。「左派vs右派」、「ケインズ派vs新古典派」。呼び方はどうであれ、おおむね「不完全市場派」と「完全市場派」の両派から全く異なった処方箋が出されることになる。エコノミストが集まると、結論の出ない議論がいつまでも続くのはこのためだ。

 不幸なことに、通貨政策(通貨制度)となると話はさらに複雑になる。他のケースと同じように、処方箋は2つ、変動レート制と固定レート制である。ターゲット・ゾーン制やアジャスタブル・ペッグ制などいろいろなバリュエーションがあるが、基本形は2つと見て差し支えない。やっかいなのは、この2つの通貨制度に対して経済学的なアイデアがそれぞれ2つづつあることだ。自由市場主義(完全市場派)の「変動レート制」派と「固定レート制」派、介入主義(不完全市場派)の「変動レート制」派と「固定レート制」派の4つである。

 通貨政策を巡る四つの理論
  4つの基本形は次の通りである。

①「不完全市場・変動レート」派
  「為替レートの変化は、国内商品と外国商品の相対価格を変化させるために、輸出入に影響を与える。このため、通貨政策はマクロ安定化政策や貿易収支調整策として利用することができる」、との立場である。

 例えば、国内景気が低迷している時に自国通貨を下落させれば、自国製品が海外製品に比べ割安となる。これは、輸出促進と輸入抑制につながり、国内生産を刺激することになる。不完全市場派と呼ぶのは、市場が不完全で価格メカニズムが緩慢にしか働かないことを前提にしているためである。専門的になるので詳しい説明は省略するが、為替レートの変化が貿易収支や実物経済に影響を与えるのは、市場メカニズムがうまく機能しないためである。市場メカニズムが完全に働けば、為替レートの変化は実物経済にほとんど影響を与えないため、為替政策は役に立たなくなる。

 自国製品を外国製品に対して割安にする方法は、通貨切り下げ以外にもある。国内の物価を下落させれば、為替レートを減価させなくても自国商品は割安になる。しかし、国内物価が下落するためには、国内経済を大幅に悪化させる必要があるのだ。一方で、為替レートを減価させれば、ほとんど痛みもなく自国商品を割安にすることができる。この理論は、学界の主流派からも、通貨当局からも支持されている。85年のプラザ合意でのドル切り下げやクリントン政権のドル安政策はこうした理論に基づいていた。経済政策を立案するポストにニューケインジアンが多数を占めるため、現在でもホワイトハウス・財務省は「不完全市場・変動レート」派である。日本の通貨政策を決定する大蔵省も同様の見解を持つ。榊原国際金融局長が「不完全市場・変動レート」派の中でも有力な理論な「マサチューセッツ・アベニュー・モデル」を前提に通貨政策を進めている可能性があることは、これまで何回か指摘した。

② 「不完全市場・固定レート」派
為替レートが輸出入を調整するとしても、為替レートをうまくコントロールできるかどうかは全く別問題である。一度通貨切り下げを始めると、通貨当局が全く予想しない水準まで為替が下落することもある。78年、87-88年、94-95年のドル暴落はまさにそのケースであった。「為替市場では頻繁に投機的なバブルが発生し、実物経済に過度の負担を強いる。ならば、固定レート制の方がよい」と考えるのが、「不完全市場・固定レート」派である。

 ブレトゥン・ウッズ体制における固定レート制も、1930年代の世界経済を混乱に陥れた不安定な通貨の動きを阻止するべきとのケインズのアイデアから生まれた。70年代、80年代に続き90年代も為替レートは無秩序な変動を繰り返している。これらは、必ずしもファンダメンタルズの不安定性が理由ではない。こうした経験から、介入主義の影響力が再び強まるかもしれない。

 80年代にドルの変動に翻弄された元大蔵財務官の行天豊雄氏が固定レート制を支持しているのは有名である。また、他の通貨当局者の発言にも固定レート制の支持がうかがえる。しかし、マーケットが余りにも大きくなりすぎたために、もはやコントロール不可能と考え、次善の策として一番目の立場を採っているのかもしれない。

③ 「完全市場・変動レート」派
  経済学者のミルトン・フリードマン教授(市場メカニズムに絶大な信頼を置くマネタリストの総帥)が主張するように、何はともあれ自由市場に任せよう。効率的な投機のおかげで、為替レートはあるべき均衡水準に落ち着くはず?である。変動相場制は、国内GDPに対応した貨幣供給量をターゲットとするマネタリズムの金融政策とも整合的である。もし、固定レート制を採れば、貨幣供給量のターゲットを放棄することになる。プラザ以前のレーガン政権はマネタリスト的立場をとっていた。アメリカの国際競争力を低下させた異常なドル高に対しても、「ドル高は、強いアメリカの象徴」とレーガン大統領は自画自賛した。1985年に財務長官がマネタリストのリーガンからベーカーに代わることで、アメリカはマネタリスト的通貨政策を放棄し、プラザに向かう。

④ 「完全市場・固定レート」派
  ③のマネタリズムに対して、グローバル・マネタリズムとも呼ばれる。彼らが固定レート制を支持する理由は簡単である。「貿易赤字は、国内の貯蓄と投資の差額で決まるのであって、為替レートは関係ない」。このため、「通貨政策は貿易収支の調整に役立たない」のである。(①の立場と全く反対の考え方である。)一方で、「ドルの切り下げはアメリカにインフレ(外国にはデフレ)をもたらすだけ」である。これは、アメリカ商品の価格競争力を失わせるだけの結果になる。この結果、「物価の攪乱を防ぐために、金本位制などの固定相場制が望ましい」という結論にたどり着く。

 価格が完全に伸縮的な世界であれば、この意見は正しい。しかし、実際の世界では価格メカニズムは完全には機能しない。世界経済の統合が進んでいるとはいえ、スムーズに商品や資本が移動する世界にはまだほど遠い。非現実な理論でありながら、理論の美しさからか、金本位制度というストイックな政策のせいからか、多くの保守派政治家や政策当局を引きつける有力な理論である。80年代の一時期には、ウォールストリートジャーナルの公式的な見解になるほど影響力を高めた。