Essay

ゼロインフレは中央銀行が目指すべき最終目標か? その1

                             1996年8月18日 大和投資顧問 河野龍太郎

 

 前回、連銀の新しい研究「金融政策の機動的アプローチ(Opportunistic Approach to Disinflation)」を紹介した。グリーンスパンFRB議長を含むいく人かのFOMCメンバーの立場がこの理論に近いと考えられたため、マーケットでは注目された。内容は以下の通りであるが、連銀は短期的にはゼロインフレを必ずしも目指す必要がないと解釈できる。

 ①現在のようなディスインフレ下では経済成長率が高まっても、物価上昇が始まらなければ、金融引き締め策を採らないで景気減速やインフレ圧力を抑制させるショックを待つ。

 ②しかし、実際にインフレの兆しが見え始めれば、物価上昇の初期段階で徹底的に金融引締めを行う。

 今度はブルッキングス研究所から「連銀は長期的にもゼロインフレを目指すべきではない」との研究結果が発表された。結論は以下の通りである。

1. すでに低インフレが達成されており、ここからゼロインフレに到達できたとしても、その便益はあまり大きくない。

2. 一方で、ゼロインフレを達成するコスト、つまり失業や低成長などの経済的な犠牲は非常に大きい。これは、名目賃金が粘着性(下方硬直性)を持つため、ゼロインフレ下では相対価格の変化による効率的な資源配分が困難となるためである。

3. 現状程度のインフレ率は経済の潤滑油として必要であり、連銀は長期的にもゼロインフレを目指すべきではない。

 このレポートを無視し得ないのは、ブルッキングス研究所が民主党・クリントン政権に近いだけではない。研究者の一人であるアカロフ・カリフォルニア大学教授自身クリントン政権に非常に近い経済学者である。アカロフ氏は、前連銀副理事のブラインダーや財務副長官のサマーズ同様、ニューケインジアンに属する。あるいは、彼らをケンブッリジ学派と言う方が適切かもしれない。ケンブリッジ学派がクリントン政権の経済政策を形作っていると言っても過言ではない。また、アカロフ氏の配偶者がジャネット・イエレン連銀理事(FOMCメンバー)であることも見逃せない。

 重要な点は、ディスインフレが定着する中、教条的なゼロインフレ論に対抗する知的基盤が固まり、実際の金融政策の場にもその影響力が広がってきたことである。すでに、経済学の世界では、ニューケインジアンの影響力が80年代後半以降強まっている。一方で、新古典派(マネタリズム、合理的期待など)の影響力は低下傾向にある。

 アカロフ氏らのレポートだけでなく、多くの経済学者は「インフレのコストは一般に考えられているほど大くはなく、一方でインフレを抑えるコストは予想以上に大きい」と考えている。また、伝統的理論に従えばインフレ抑制のための経済的コストは短期にとどまるはずだが、最近の研究では長期的にも悪影響が持続することが指摘されている。次回は、「インフレのコストとインフレ抑制のコスト」などに関する実証研究を紹介しよう。

 ちなみに、アカロフ氏は、ミクロ経済学の教科書に出てくる「レモンの経済学」で有名な経済学者である。アメリカでは「欠陥中古車」など期待はずれのものをレモンと呼ぶ(これはスロットマシーンからきている)。買い手には中古車の性能はわからないため、売り手の付けた値段が割高か割安か、本当のところは買ってみなければ判断できない。売り手と買い手の情報に非対称性がある場合には、市場メカニズムがうまく機能しないのである。次回に続く