Essay

<小説「終わり、始まる」-Cyberchat>

 珍しく「小説」の掲載希望があったので、それを紹介します。私のサイトも段々幅が広くなって嬉しい。例のごとくFRIENDSのサイトに収録しました。題名は、「終わり、始まる」です。PDFHTML の二つのフォーマットでアップしました。私は二回読みましたが、面白い。背後に常に音楽が小さく聞こえてくる小説です。

 くどくど解説を書くのはやめます。金融に携わったことのある人なら、違和感は残るにせよ、この主人公に自分を写し会わせることができるでしょう。市場との取り組み、挫折感、孤独と再生.....。筆者は、「ビジネスマンとしてコンサルティングの会社」に属する「香西 春明」です。ははは、詮索しないで下さいね。私ではありません。私の数多い(^_^)(^_^)友人の一人です。

 「個という意識」を持った瞬間から、人間が一番悩んできた問題の一つは国や社会、家族、時代の流れ、両親、近隣の人間.....などと自分との距離をどう保つか、つまり「位置取り」の問題だったような気がします。動物のように、生存に必要な利己的なもの以外には「個」というものが存在しなければ、人間が抱えている問題のほとんどは存在しない。

 社会形態が安定している時には、多くの人にとって「位置取り」の問題はまだ少ないように思う。社会的に認知された知恵が強固なものとして存在するからである。しかし、社会も、職場もそして家族の制度も揺れ動くとき、この位置取りの問題はすべての人にとって非常に難しくなる。望まなくても、問題が向こうから降りかかってくるからである。今はそういう時代でしょう。今の日本は、特に会社や家族と個人との位置取りが変わってきている。
  ――――――――――
  「バブル」という言葉は私自身はあまり好きではなく、今までこのサイトではほとんど使ったことがない。それは、人間の営みとしてあの時期が特に異常だったという認識には必ずしも賛成できないからですが、それにしてもあの時代が資産価格の高騰という意味でその前後と比べて一線を画していることは間違いない。そして、その時代の後遺症に日本が悩んでいることも確かです。

 この小説は、その「総括」と、様々な主体の新たなルート探しを試みている。2年前に書かれたそうですが、雇用などの問題では極めて今日的な課題を抱えている。「時代の流れの中での個人」の問題などで考えさせられる文章である。以下に筆者の<作者自身によるあとがき>を掲載します。

<作者自身によるあとがき>

  この作品は、1997年ですから今から2年前に執筆し、フィスコ社(http://www.fisco.co.jp/)のファンドマネージャー向けの専門雑誌「インテリジェンストレーダー」に連載していただいたものです。このたび、もう少したくさんの方に読んでもらいたいという思いから、伊藤洋一さんのこのホームページに掲載していただくことになりました。執筆してから2年が経っていますので、既に内容が風化してしまっているところもありますが、この作品の中に萌芽としてあった希望、すなわち私たち自身や日本という国の再生という問題が、今2年経ってまさに正念場を迎えつつあるという気がしています。社会の中のあらゆる局面や会社などの組織の中、あるいは家庭の中、自分自身の心の中で、変革の痛みを感じているすべての方にこの作品を捧げます。

 私はビジネスマンとしてコンサルティングを行う会社に属しており、ここで書かれた内容は金融業界で働くたくさんの友人たちが話してくれた金融界の状況を参考にして私なりに創りあげた100%架空の物語です。しかし、この作品に登場する舞台は金融という社会の中での部分的な世界ではありますが、恐らくバブルの前後には、この作品にあるようなドラマが金融の世界ほどではなくても、多かれ少なかれ日本のあちらこちらで繰り広げられたのではないでしょうか。

 今の正念場を乗り切って新しい時代を切り拓いていくためには、バブルとその後の時代を総括しないことには始まらない、そんな思いで書いたものです。

 ・・・本当はそんなに大袈裟なことではないのかもしれません。ただ自分を癒し、周りの人を癒したいという思いだけなのかもしれません。

 この作品は、ビジネスマンの方を読者として想定しています。

 毎日の仕事に疲れて感受性が麻痺してしまい、夜遅く帰ってから見るプロ野球ニュースや週末に読む歴史小説ぐらいでしか、自分を癒すことのできない、心優しく、普通のビジネスマンの方にも読んでいただきたいと思っています。この作品に触れて、次の日に少しだけ早く起きる勇気と元気を感じていただけたなら、作者として望外の幸せです。

1999年5月 香西 春明(かさい しゅんみん/はるあき)

ycaster 99/05/28)