Essay

<歩く事と両親――Cyberchat>

 この間地区のウォーキングがあった。私も20年以前よりウォーキング、サイクリングをやって来た。近頃は多くの人が犬の散歩がてらに朝の道を歩いて居る。60才以前はどこに行くにも自動車であり、自転車であった。歩けば何だか損をした様な気がする。努めて歩くようになったのは60才過ぎである。

 夏は暑いから五月から九月頃迄は4時半から6時半迄二時間位歩く。この時間は道は新聞配達と鳥、小鳥が占領する。日の出過ぎに家に帰る。案外毎日散歩して居る人に会う。小牛のような大犬を三頭もつれて散歩する人、又は多分美容院のマダムか、黒づくめの薄い服、長い羽根のついた黒の帽子をかぶって居る美人と挨拶を交わす仲となった。感じから”せみのはね夫人”と名付けたが彼女はまっすぐの姿勢で両手を大きく振り、模範的なウォーキング姿勢で歩く。彼女のコースは決まっていて、このコースを頭に入れ散歩すれば会える機会が多い。会えた日は、一日気分がよい。ウォーキングの余得である。

 その外、多くの人に会う。宮坂五郎さん(故)、新町の原藤先生、これはジョギング、伊藤寿男君、犬をつれて居る。横山といううなぎ屋のおばさん。歩くのは範囲が限定されるので自転車で湖畔を廻る事もある。湖畔はウォーキングロードが整備され多くの人が歩いて居る。たまには諏訪湖一周をする事もある。二時間半位かかる。毎日つづけると顔見知りになり挨拶を交わす様になるのも楽しい。夫婦で散歩を楽しむ人が案外多い。ジョギングをする初老の人、犬をつれた婆さん、80キロもある女性が3人そろってノッシノッシと歩いて居るのには圧倒される。

 60代は何ともないが70過ぎると体力の衰えを感ずるようになる。同級会でも欠席が目立ち理由は腰痛のためというのが多い。同級生が日赤へ言ったら口の悪い医者が居て、おめえ様これは死ななきゃあ直らないぜ。高部にいい病院があるからそこへおいでなぁと言われ怒って居たが、この医者は正直者だろう。ウォーキングをする人に互いに頑張ろうと声をかけたい。ウォーキングをする人は皆善人に見える。昔、天竜道人と云う人は92才で歩けなくなり折脚仙と号したと言う。道行く人も遂には死ぬだろうが、それにしても多くの先輩、同級生達が歩行困難になり苦労するのは痛ましい。別に長生きをしたいとも思わないが、それでも生きて居る限りは歩きたいものだ。それにしても、金さん銀さんはえらい。唯ボーっと生きて居れば100才になるというものではない。絶えざる肉体的鍛錬と精神衛生のなせるわざだ。

 おそくとも60代には準備を始めるべきだと考えるのである。

 


 1997年の暮れに小生の親父がミニコミ誌に寄せた短い文章です。ほぼ原文。ウーン、私とどこか文体が似ている。これだけで、毎日結構楽しく時間を過ごしていてくれることが分かる。親の文章を、自分のサイトのどこかに残しておくのも記念になるでしょう。笑っちゃいますね、「せみのはね夫人」とは。

 彼の今の生き甲斐と社会的評価の源泉は全国の諏訪神社(お諏訪さん)の源である「諏訪大社」の歴史研究。私にはまったく頓珍漢な古文書を解読している。来年の春には本も出す。一冊5000円だそうだが、まあ私も買ってやりましょう。自分の本は彼には20冊進呈しましたが。「諏訪大社の研究」と言えば祖父もそうだった。片手間に政治にも手を出したが、こちらは成功しなかった。まあ、多分私は神社の研究はしないでしょうが。本のように何かが残ると言うのは良いことだと思います。両親には、長生きをして欲しいものです。(1998年01月02日記)


 と思っていたのに、父は2005年5月23日、ちょうど私の息子の誕生日にあの世に旅立ちました。そしてそれから2年余あとの2007年7月05日、今度は母が逝きました。相次いで両親を失って「親なし子」になった気分はただただ悲しい。

 仲良かった両親には、サイトの中でも仲良く並んでいて欲しいと思い、その時に書いた文章をここに掲載します。それぞれの死去の際に、私がサイトに書いた文章です。あの世でも末永く仲良くいて欲しいと思います。時間はいりくりしますが、先ず母への追想を、そして2005年に書いた父の葬式に関する文章を。

『母への追想』

 (00:00)その人からの電話は直ぐに分かりました。週に2~3度。毎回午前8時前後。「あれはどうなったのか」「あの準備はしたか」といった類のものが多かったように思います。「またか」と思うことはありましたが、それは彼女が元気である証拠でもありました。

 実に良く先を読む人でした。車に乗せていつも驚いたのは、「信号が赤だよ」と彼女が言うのです。私が目にしている次の信号は「青」なので「青だよ」というと、「次の次の信号が赤だよ」と言うのです。一事が万事でした。常に何が起きているかを把握し、そして判断する。子供達にとっての司令塔でした。

 約10年前のくも膜下の後遺症で足の能力が低下し、移動は車いすとなった82才でしたが、実にクリアな記憶力と思考能力を保持し続けた。ボケの兆候はどこにもなかったと言えます。私が渡したケイタイ電話を、最後まで使いこなしていました。

 そんな彼女が急に逝ってしまったのは7月5日朝でした。6時前にはいつも通り起き、毎週木曜日の私が出ているテレビ番組(テレビ朝日「やじうまプラス」)を見ていたそうです。しかし朝食前に彼女を10年前と同じくも膜下が襲い、そのまま心肺停止状態となった。直ちに救急車で運ばれましたが、5日午前10時過ぎにこの世の人ではなくなりました。

 直前まで凄く元気でした。5月20日には2年先に逝った夫の3回忌に東京から諏訪に車で移動し、葬祭を済まし、ついでに自分の家に寄って子供達に家のこまごまとした処の説明までしました。私はその時2階に上がるのに彼女をおんぶしましたが、その重さや感触は今ではっきり覚えています。

 つい2週間ほど前には、諏訪から来た義理の妹や姪に加えて、東京の親戚を会わせて10人近くで八王子で冗談を言い、話しに花を咲かせたばかりでした。最近ばかりではなく、10年前に倒れた時を除けば一生涯非常に元気な人でした。子供の頃、彼女のうたたねは毎日見ましたが、病気で寝たのを見たことがありませんでした。

 祖父や父にはありましたが、彼女が書いた文章を読んだことは今まではありませんでした。しかし今回家を整理していて彼女が書いた膨大なノートを発見しました。葬儀から結婚式、いろいろな集まりを家でする習わしだった当時にあって、それぞれの会の人数、それに必要な献立、レシピーをはじめ、実に多くのデータが出てきました。それはそれは「よくここまで書いたな」と思えるものでした。こうした記録があったればこそ、数々の忙しい場面を彼女は切り抜けられたのだと思いました。

 妹や自分のスリーサイズまで記録にありました。よく毛糸を編んでいましたから、それに必要だったのでしょう。それは実に詳細な記録でした。それによって息子の私は初めて自分の母親のバスト・サイズを知ることになったのです。

 火葬場で白い骨になって出てきた彼女を見て、「ああ、自分はここから出てきたのだな」と思い、そしてそれを「本当に良かった」と考えました。つい数日前まで、子供達に指令を出していた人が白い骨になる。実にリアルな現実ですが、彼女がもたらしてくれたものはまだ私や弟妹の、そして5人の孫の中に生き続けると思いますし、そうしなければならないと思います。思い出は数々あります。

 長い間、有り難うございました。安らかに眠って下さい。合掌。


 『父の葬式』

 (10:00)ウォーキングな人は、ちょうど一週間前の23日にこの世を去りました。まあ、80才を優に過ぎていたし、大きな病気があったわけでもないので、天寿を全うしたと言える。

 「歩くことが好きな人」(晩年は寝ていることが多かったのですが)であると同時に、彼は古代史の人でもありました。文章を残し、本も残した。苦労もしたが、好きなこともした人生でした。

 私は葬式を出すのはこれが二回目ですが、別物の印象。前回の大叔母の時は、通夜から告別式まで東京での式。しかし今回は、親父が最後の数年は東京に居たので、東京で仮通夜・火葬までして、告別式・本葬は彼が80年以上を過ごした諏訪で行った。二つやったようなものなので、セッティングはなかなか難しかった。

 通夜は大叔母と同じ新井薬師さんにお願いし、火葬は私が家のご近所さんである堀之内斎場で。高円寺に住み始めた時(随分昔だな....)に、まさか親父を堀之内斎場で火葬していただくとは思ってもいませんでした。まあ、時間の流れの中ではいろいろなことがある。葬式を出して改めて、「葬式はいろいろな人からお気持ちをいただき、手伝ってもらってやっと出来るものだ」ということが分かりました。流れはこちらが作らないといけないが、こちとらが知らないことがいっぱいある。それを教わらないと出来ない。

 今回驚いたのは、諏訪には「門悔やみ」という習慣があったことです。これは知らなかった。何かというと、本葬・告別式の日の午前7時から一時間ほど家の前に焼香台を設けて、遺族が立ってご焼香を受け付けることです。しかし、その理由を聞いて「それは合理的」と思いました。

 歳をとってなかなか式場まで行くのが難しい人もいるし、日中の本葬には出られないが、朝早くなら会社への通勤の前でもあり焼香が出来る。是非焼香を希望する人に、場を提供するということらしい。本葬は28日土曜日だったので実際には通勤はあまり大きな問題ではなかったのですが、「ご近所の方々には良いシステムかもしれない」と思いました。まあ、一軒家がほとんどで、近隣の付き合いがまだ濃密な地方ですからそういうことになるのでしょう。しかし葬式は、同じ諏訪でも岡谷に行くとまた全く違うらしい。分かったのは、「葬式には決して慣れない」ということです。出すサイドに立つと。

 お葬式は昔は家でやった。家でやった時期は、もうその家は戦場で、ご近所の力添えがなければ当然できない。「手」が足りないからです。遠くの親戚より、「ご近所の底力」だったはずです。今は専門のホールが出来ていて、今回もそうでしたが、それにしてもいろいろな習慣は残っている。それを一つ一つ越しながら、ということでした。

 一つ今思っているのは、お葬式ではいろいろな方からもらい物をする。それは良いのですが、「是非、ご住所を」ということです。徐々にその整理に入るのですが、お返しをするときに住所が書かれていないのが一番困る。昔は「who's who」の確認の為に、何人もが数日間かかったらしい。私のところは、私がエクセルのファイルを作って、この筋の人、あの筋の人に回して項目を埋めていこうと思っている。もうかなり出来た。

 帳付けと言うのですか、香典袋などの記帳がスキャナー処理になっていたのには驚きました。受付で記帳もしないのです。いただいた袋をそのままスキャナーにかけて1ページに10枚入れて金額を書き込み、それで何冊か作って終わり。彼等は専用のソフトを使っていた。残るのは手書き文字のスキャナー画像なので、エクセルに持ち込むのは難しい。それにしても、受付は楽。受け取るだけです。まあ確認作業は引き続き大変ですが。

 生前の親父の文章を自分のサイトにネット収録しておいたよかったな、と思いました。その時はそんな考えがあったわけではない。しかし、いつでもどこでも会える気がする。

 残ったおふくろには長生きして欲しいものです。