Essay

<1997年正月=デジタル徹底派宣言-Cyberchat>

 あ~あ、うるさいうるさい。ここまでくると聞き飽きまんな。悲観論まで横並びでっか。「日本が消える」なんて見出しが出ていた元旦の新聞がありましたで。めでたいこの日を選んで、よう書きますわ。じゃ、あんたの新聞も消えるんでっか。2020年に。「その後も続く !」。「どして」。民が残りますけん、商売はできるって。じゃあ、企業も残り、民も残って、国だけ消えてどこさ悪い....? くだらんこと書いとらんと、はよ英語版を日刊で出したらどうでっか。

 大体、分裂症でっせ。マスコミは「時間と空間を越える」とかいうて「デジタル革命」を誉めておきながら、それについていけないと「日本が消える」と「警鐘」をならす。どっちにしても、国民経済の枠組みはほぐれていくんと違います。今更、殊更「日本」「日本」というのは、結局頭の中は「アナログ」ってことですかい。「消える」って、列島が沈没するんでっか。それとも、パーキャピタいうのが50位になることでっか。世界にゃ、国は200近くもありまっせ。50番でも上出来上出来。新聞だったら、「言の葉」をもっと丁寧に、定義しながら使ってほしい思いまんな。

 国が無くたって、固有の伝統を逞しく守り、しかも国際化した民族は結構おりますぞ。ガーガー「..が危ない」とがなりたてるのは、知的レベルが低いか、次に何が来るか実は分かんないか、怖いだけと違いまっか。考えてもみいな。90年に「95年のインターネット中心のデジタル社会」をどいつが正確に予想した思います。誰も。人間は、5年先も予想できん動物でんねん。多分2020年は、今の我々が想像を絶する社会でっせ。

 「分裂症」いうたら、「デジタル」に対する見方もひどく割れてまんな。一方では「超楽観論」、一方では「暗い邪悪な社会」への悲観。ちゃうちゃう。どちらでもあらしまへん。デジタルは「技術」でんねん、そうでんねん。よう使うも、わるう使うも人次第。今のネットを見たって、フロイト信奉者おり、官僚主義者、礼儀再教育必要者おり、もう様々でんな。人間社会の引き写し。そのままでんな。これからも、そやろうな。だからあたしゃ、「デジタルを技術以上に評価しがちだった」去年の末までの時期(最初の一年半でしたね)に対しては、「はしか脱出宣言」しときます。何に、何のためにが重要でっせ。

 できることは増えまんな。たとえば、新聞が全部デジタルになったら、サハラ砂漠がゲルマンの黒い森になるかもしれまへん。情報を紙に印刷し、紙で見、紙で保存する必要は全くない。優れているのは閲覧性くらいですかな。木を大事にできる。そや。「ビット」には、「アトム」の世界では想像もできなかった移動・圧縮・複写の自由自在がありまんな。ビットの複写には、ゼロックスは入りまへんで。いいこと仰山、やれること一杯。だから、もういっちょ宣言いきまひょか。割り切った上での、「デジタル徹底派宣言」。中途半端だから、みんな怖がる、紙は使う、中途半端に威張る。

 メールアドレスもってる仲間だけで、電子年賀状交換してるだけではあきまへんな。デジタル技術が泣きまっせ。年賀状一杯もらいました。そして考えました。「世の中もらえない人もいるはずだ」「寂しいやろ....」「電子メールでおくれんかいのう....」。病院や、養護施設には年賀状こない人おりまんのやで。ち~と、ちいさなところから役立てる。足下を見ながら。それの方が、健全でっしゃろな。

 悲観論はあきまへんなあ。貌まで寂しくなってしまう。眼には光が失せる。1997年。眼を輝かせていきたいもんですな。
ycaster 97/01/01)