Essay

<手探りと不思議の国ミャンマー=2012→13年-Cyberchat>

 2012年の12月26日から2013年の01月04日まで、ミャンマーのヤンゴン、タチレク(タイ国境の町)、チャイントン、へーホーとその近郊のインレー湖、そして古都バガンなどを訪れた。乾期に当たり雨は一回も降らない中での10日間弱の訪問だったが、この国が初めての私には非常に面白かったし、ミャンマーに強い関心を持った。父と娘 そっくりです ミャンマーのお店にはよく飾ってあった  日々に何をしたか、何を感じたかについては後の日付が付いている文章を読んで頂ければ良いが、総体的に何よりも私が思ったのは、「この国は絶対に発展する」ということだ。何せスタート台が低い。統計(一人当たりGDPで700ドルちょっと、日本は4万、中国は5000ドル)がそれを物語るし、女性が田植え仕事を一日手伝って労賃が400円だ。国さえ開けば海外資本が見逃すわけがない。

ミャンマーのチャイントンで会った双子 実際に来て強く思ったのは、「ものすごい成長余地がある」ということだ。自国で生産できるもの(特に農産物)は多いし、天然ガスもある。貿易収支は黒基調だ。人々の手先が器用だ。ウィーさんは裁縫も上手かった。何を作らせても良さそうだ。ベトナム人に似ている。ちょっとしたバイクの修理など、自分でしてしまう。それなのに「これといった産業がない」のだから、お金が入って場を設け、育てれば凄い。整えなければならないインフラは山ほどある。

 産業がないのは、専ら「長らく経済制裁を受けていた」という環境による。国内には資本の蓄積がなかった中で、制裁故に海外のお金は入ってこなかった。中国がもっぱら外の資本で発展していることを思えば、それがなかったのだから発展が遅れたのは当然だ。

 しかし今後は有力だ。何よりも中国が狙うほど、天然ガスなどの資源も豊富だ。今でも貿易収支は黒字なのだから、これで産業が入って縫製などを切っ掛けに大規模な工業化が進めば、ミャンマーは大きく変容する可能性がある。いや、発展は確実だ。

ミャンマーの人達が好む噛み煙草 そういう意味では、アメリカや日本、それにヨーロッパがこの国に熱い視線を送るのは当然だし、それだけの可能性があると思う。

《 ネックもある 》
 しかし懸念材料もある。それを思いつくままに列挙すると以下の通り。

  1. 酷いインフラ
  2. 民族問題の存在
  3. 金融システムの未整備
  4. 宗教国家であること

 インフラの悪さは突出している。道はまともに走れる方が少ない。特に農村部では。走れてもガタガタで、例えばバスなどに座っている人間は常に大きく揺さぶられ、時には跳ね上でられる。道路は舗装してあるようでなく、ないようである。舗装と非舗装の境界が曖昧だ。つまり、入り交じった道なのだ。

 ホテルの水質から想像すると、ミャンマーの国土全体で水道管も酷いだろうし、我々のバスがヤンゴンで電線を引っかけたことで分かる通り、電気の送電網も酷いことになっているはずだ。「(工業化にとって)もっとも問題だ」と思うのは高い頻度で起きる停電だ。「ミャンマーでは一日3回停電する。それぞれの停電の長さは8時間だ」という冗談が、冗談ではなく聞こえる。

恐くはないのか ? 実際に我々の滞在中に両手で数え切れないほどの停電を経験した。我々はホテルやレストランにいたから間もなく回復したが、一般の街中は大変だ。それぞれの店や家が自家発電機を持っていて、停電の数十秒後に稼動するから必要な電力は採れる。しかし自家発電機を持たない貧困層の家などは、「そもそも電気を頼らない構図」になっている可能性がある。

 電力は、我々近代人が感じている豊かさの全ての源泉だ。それが時々枯渇すると言うことは、例えば工場などを稼働させるにしても、できあがり製品の品質維持が極めて難しいということだ。我々が居たのが乾期の間ということもあるかもしれない。しかし、ミャンマーが抱える電力事情は、ベトナム、インドなどと同様に厳しい。ベトナムから来た日本人が、「駄目なんじゃないですかあの国は。だってインフラが.....」と言っていた。ミャンマーもその可能性がある。

勉学にいそしむミャンマーの若僧 高速道路もできはじめていた。ヤンゴンとマンデレーの間だ。600キロの移動に9時間かかるそうだ。もっともマンデレーとヤンゴン間の列車は16時間かかるそうだから、凄い進歩ではある。まだまだこれからだ。携帯電話などは中間省力で進むが、インフラはそうはいかない。

 次にベトナムにはそれほどない問題がミャンマーにはある。民族問題だ。ミャンマーには138の部族がいるという。最大民族のビルマ族が4割近くを占めるが、その他に州の名前になっている七つの大きな民族がおり、その民族がまたかなり細かく枝分かれしている。

空から見ると整備された国土 我々がそのかなりの時間を移動したシャン族(その中が多くに分かれているが)に入る人々は合わせて500万人くらいいるが、ミャンマーからの「独立論」が強いという。シャンの人々は今でも自分達が住む地域を「シャンの国」と呼び、ヤンゴンなどビルマ族の人達が住む都市などに行くときは「ビルマの国に行く」と言うそうだ。またビルマ族の管区の人々を「ミャンマーの国の人達」と呼ぶそうだ。カチン州も独立論が強いそうだ。

道ばたでガソリンを売っている 主にバイク用 ユーゴスラビアもそうだったが、多民族を抱えた政府は、何かでその問題の噴出を押さえようとする。宗教だったり、軍政、圧政だったりする。ミャンマーは後者だ。あえて言えば軍政故にミャンマーの国内はそれなりきに一つの国としての体裁を整えてきたとも言える。しかし今でも武装闘争があり、それが新聞に載る。そうした地域には外国人は今でも入れない。我々も予定していたのに、入れなかった地域がある。

 ユーゴスラビアは私に言わせれば「社会主義という名の一種の宗教、それにチトーという英雄を」をその統治手段、不満抑圧手段としていた。しかしそれが崩れると一挙に内戦が起きた。結局ユーゴスラビアはばらばらにいくつかの国になってやっと落ち着いた。ミャンマーも規模は違うがそうなる可能性がある。

 軍政から民主化のプロセスも、民族問題を抱えた国では難しい。なぜならなんらかの抑圧が解けた段階で、それが噴出する可能性がある。アウンサン・スー・チーさんが民族問題に「人道的見地から発言はしない」と言っているのは、彼女の、そして「民主化の限界」でもあるのだ。ミャンマーは民主化と民族問題解決が共存する道筋を描けない。

悠然と村を行く牛車 更に言えば、ミャンマーの金融システムの未整備が挙げられる。なにせ1000チャットが日本円で100円という世界だ。車を買うときなど「米俵のような袋にお札を入れて昔は買いに行っていた」という。札を数えるだけで日が暮れてしまう。今はまずお金を銀行にもっていって金額を確認して貰い、その後銀行間決済にするという。

モノが豊かなガバンの市場 ミャンマーでは日本で言うカードは一切使えない。それは銀行のシステムが出来上がっていないからだ。またミャンマーの人が銀行に預金をすると年10%の利子が付くという。今の世界で10%の利子を保証してくれる国などない。それだけ「資本が不足している」ということだ。外国人はミャンマー国内で預金は出来ない。また国土は国の保有で、国民は期間30年で賃借する権利を買い、それを売り買いするのだという。

 労働力の問題、それに「宗教」に関わる問題にも触れておく。ミャンマーは日本よりはるかに「宗教的な国だ」だ。生活の全ての面に「仏教」が顔を出す。ウィーさんは「子供が出来て、その子が男の子で、ある程度成長してお坊さんになりたいと言ったら嬉しいし応援する」と言った。また彼は我々と旅行中も一回も朝のお祈りを欠かした兆しがない。

新年のバルーン上げシーン インレー湖の畔のホテルで 彼によれば、ミャンマーの男性の20%は「お坊さんという職業」に一生ないし、一時的に仏門に入るという。お坊さんは祈ることと托鉢が主な時間の使い方だ。無論生産活動には参加しない。ということは尼さんもいることを考えれば、ミャンマーの労働人口はその人口統計で推測できるほど多くはない、とも言える。

 また最後はミャンマーとは「深く仏教に帰依する国」として見れば、恐らく個々の人の労働への誘引などは、日本で想像するのとは違ってくるのだろう。それはミャンマーを見るときの一つのポイントしておいた方が良いように思う。

 しかし繰り返すが、ミャンマーは非常に面白い国であり、今の水準からの成長余地は非常に大きい。国内問題を抱えていない国などない。そういう意味では、今掲げたような問題は、「ミャンマーが徐々に乗り越えねばならない問題」ではあるが、それが直ちにこの国の成長を阻害する要因ではない、とも言える。

《 ミャンマーの今を切り取り 》
 ところで、ミャンマー旅行中に撮影した写真は適宜公開してきましたが、動画はなかなかアップできなかった。ネットの伝送能力の問題です。しかし日本に帰ってきて楽にできるようになりましたので、まずまずの出来の5本をユーチューブにアップしました。

 文章とはまた違って、「今のミャンマーの切り取り」になっていると思います。ユーチューブですから、解像度はちょっと落ちている。しかし私も間違って消したりしないように映像を投げれるのはラッキーな事です。

  1. ミャンマー最大の都市ヤンゴンの今
  2. ミャンマーとタイ、ラオスの国境「黄金の三角地帯」の町タチレクの昼
  3. インレー湖:湖上の漁業と農業
  4. パゴダ群に沈む壮大な夕陽=シュエサンドー・パゴダの上から
  5. ヤンゴンの壮大なパゴダ「シェッダゴン」


2012年12月24日(月曜日)

 (17:25)あらら、もう24日ですか。実は25日の夜にミャンマーに向かいますので、日本にいるのはあと24時間くらいです。テレビもデジャブーなくだらない番組が多くなってきたし、この辺で「違う世界」を見に行くのもいいかな、という感じ。

 ミャンマーに行くのは別にオバマが行ったからではなく、以前から計画しておりました。もう一年以上前でしょうか。また新しい世界が開ければと思っています。この3年くらいだと、2010年にはチベットに行き、11年はシベリア鉄道に乗ってロシアを旅し、今年はギリシャとシルクロードを歩きました。いずれも非常に良い経験になった。その前はモンゴル、ブータンなどなど。全部このコーナーに記録があります。

 今回も面白い体験ができると期待していますが、まだ何も準備もしていないし、勉強もしていない。見に行くのだから、あまり事前の勉強は必要ないとも思います。持っているのは最近のいくつかの新聞記事と、以前からの同国(ビルマ時代を含めて)に対する知識のみ。

 それにしても、この3連休は本当に人出が凄かった。大阪に向かうためについさっき東京駅を通ったのですが、「主催者が「TOKYO HIKARI VISION」の中止を決めました」とあちこちでアナウンスしていた。

 内容は相当違うようですが、「見逃した」と思われる方は以前私が撮影したこの動画をどうぞ。この時も、その直後に中止になりました。テレビが報道するとわっと人が集まる。もうアカンのではないですかね。この種のプロジェクションマッピング・イベントは。公道ですから入場制限というのも無理。

 確か昨日だと思ったのですが、繁華街という繁華街にはものすごい人出がありました。銀座も新宿も。ホテルも混んでいた。たまたま行ったニューオータニなぞ「爆発しているかのように」あらゆるところに車が駐車し、ホテル内も人が溢れていた。

 何か休みのパターンが変わったような。まあ3連休ですから人が出るのは分かるのですが、「日本もまだエネルギーがある」と思いました。お正月はどうでしょうか。静かなのかどうか。私は帰ってくるのが4日なので、全く目撃できませんが。

 ミャンマーの通信事情は全く分かりません。ゼロということはないでしょうが、整っているのは首都だったヤンゴンくらいとも聞く。ですからアップの頻度はかなり落ちると思います。それでも覗いて下されば、面白い文章や写真がアップされているかも。


2012年12月25日(火曜日)

 (17:25)出発の前にいくつかの写真を。右の二品は名前入りです。アルバムは以前からの「メシ友」である渡辺真知子さんと先日食事をご一緒した際、「最近では私がもっとも力を入れたアルバム」ということで、不本意にも頂いた。「買う」と言ったのに。

真知子さん and 優子さんの素晴らしい作品 凄いですよ。その場で聞いたのですが、渡辺真知子「腕の中のスマイル」には、「展覧会の絵」が入っている。ムソルグスキーの。私はこの曲名を見たときに目が点になった。「どうやって彼女の歌に」と思ったのです。

 聞いたら納得。随分お金もかかったそうです。フルオーケストラを使ったり、バックコーラスを何日もホールドしたり。無論彼女だから「かもめが翔んだ日」なども入っているが、その他も良い曲が多い。最近ではかなり「いいアルバム」でした。

スタンバイ特番収録風景 その右上のお皿は、今焼きものに凝っているキッチン5の優子さんが、店の壁に残っていた私のサインを使って焼いた一枚。いいお皿でしょう。彼女、今に自分が焼いたお道具(お皿など)で店を一杯にするそうです。「いいなあ、こういう才能がある人は」と私。彼女自然に次々に作っている。羨ましい。

 左の男六人の写真は、先日あった「森本毅郎スタンバイ」の年末・年始特番での収録風景。というか、収録の合間の一枚。なかなか余裕が感じられて良いでしょう。下らないテレビ番組を見るよりは、この番組をどうぞ。

 左手奥手から月(渋谷)、火(酒井)、水(嶌)、木(山形)、そして金(伊藤)です。右手一番奥は森本さん。長く続いている番組ですが(私が出始めただけでも13年かな)、それにはちゃんと理由がある。森本さん、遠藤さんがいつも知識をリフレッシュする中で、各曜日のコメンテーターが各自持ち味を付加しているからでしょう。

 年末・年始はただ騒がしいだけのテレビなどよりも、「スタンバイ」Roundup World Now、さらにテレビでも科学に特化した番組地球アステク(BSジャパン、27日の夜10時と4日の夜11時)をお楽しみに。

 と書いているうちに、そろそろ支度をしないと。羽田から出ます。戻りは成田とちょっと面白いフライトです。今日念のためにドコモとauに行ったら、両方ともミャンマーは「データ通信のローミングはなし」。ということは、wifi のあるところしか通信が出来ない。皆さんともちょっと、さらには寸断的にお別れですかね。良い年末・年始を


2012年12月26日(水曜日)

 (06:25)羽田を日本時間の午前0時過ぎに出て、今はタイのバンコク国際空港で乗り継ぎ待ちです。時差は2時間。なかなか良い時間帯のフライトだった。飛び立つ前に寝たので実際には何時に出たのか知りませんが、通常の睡眠時間帯の間に移動した。

 ちょっと考えたのです。ミャンマーが今まで私が行った国、また知っている国と何が違うか?と。そして考えたのは、ミャンマーは「開きつつある国」「緩みつつある国」というのが特徴かな、と。

 それは世界でも珍しい。北朝鮮はますます閉じつつある国であって、国民の権利に対する規制もさらに厳しくしつつある。中国もチベットや新疆ウイグル自治区では「(規制を)強化しつつある国」「閉じつつある国」だが、少なくともミャンマーは違う。

 もっとも「緩みも緊張もせずフラットで、そもそも規制が緩められている国」が普通の国です。世界の大多数。日本や大部分の先進国がその仲間に入る。しかしミャンマーはそうではない。

 今世界を見渡しても、それは珍しい。「閉じていた国が開きつつある」というのがウリで、そこには6000万強の人口がいて、その労働賃金は典型的な労働者で月8000円。かつインフラらしいインフラはないらしい。これはこれから見るのですが。a lot of opportunitis という訳です。ミャンマー自身にも、そして海外の企業にも。

 NHKの仕事で2008年に行ったベトナムが当時はそんな感じでした。もっともその時のベトナムは既に日本や台湾の資本などが入って大規模な工場団地などが出来て、そこで大量の労働者が働いていた。

 ミャンマーはそれもこれからです。だから可能性が沢山。バンコクの空港は2009年にブータンに行ったとき以来。その時はバンコクに一泊しましたが、今回はあと1時間ほどしてミャンマーの旧首都ヤンゴンに移動します。

 それにしても深夜の羽田は混み合っていて活気があった。これでは成田は霞むと思いました。だって便利ですから。


2012年12月27日(木曜日)

 (00:25)旧首都にして人口約500万のミャンマー最大都市ヤンゴンは、初日の短時間にしてかなり強烈な印象を私に残した街でした。「緑の多さ」「パゴダ」「トラック改造バスに乗る人々」「ロンジー」「街を歩く僧侶」「インフラ建設の足音」「しかし追いつかずに垂れ下がる電線」などなど。

ホテルの7階から見たヤンゴン。緑が多い 空港は昔のニューデリーの空港のような喧噪が特徴でしたが、街に入ってまず思ったのは「緑が多い」ということでした。最近行った都市の中ではウズベキスタンの首都タシケントに負けるとも劣らない緑の多さです。右の写真で分かる通り、街全体が緑に包まれている。加えてパゴダなど歴史的建造物の屋根が緑です。

 パゴダは夕刻に行ったヤンゴン最大のシェッダゴンパゴダがやはり印象的でした。ネットにもいろいろ写真が載っていますが、一枚の写真では映しきれない重層的な建物群。圧巻です。仏様が一体何体あるのかも分からないほどの規模。ということで、4分の動画 at Shwedagon Pagodaを撮り、wifiの飛んでいるホテルからユーチューブにアップしておきました。ご覧下さい。

 皆祈っている。ミャンマーの人々は。何を祈っているかというと、「輪廻転生の先」であり、現在の健康(自分や家族)であり、生活や経済であったり。夕方から混んだ。午後3時半くらいに仕事が終わって(特に公務員はそうらしい)、それから毎日のようにヤンゴンの人はこのパゴダにお祈りに来るのだそうだ。

 街の区画区画を切り取ると、かなり強烈な側面がある。まず路上でガソリンなどの危険燃料を売っている。大きなタンクに詰めたり、ペットボトルに詰めたりして。無色透明のガソリンもあり、間違って子供が飲んだなどの事故も起きているらしい。そう言えばガソリンスタンドはあまり見なかった。

 「見なかった」と言えば、バイクは全く見なかった。「禁止されている」らしい。本当に一台もない。ミャンマーの他の都市ではバイクは一杯走っているらしいのですが、ヤンゴンは「旧首都という大都会でもあり、交通状態が酷くなることもあるので禁止」ということらしい。

 しかし車(乗用車、バス、トラックなど)は多い。ちょっとの移動でもあちこちで渋滞が起きる。我々も何回も巻き込まれた。走っている車の9割は日本から輸入された中古車。だから面白い。我々が乗ったバスがエンジンをかけたら日本語で「カードを入れて下さい」と車がアナウンスした。

 ETCのシステムはミャンマーにはないようにお見受けしたが、日本からの中古車(私たちが乗ったのはバスでしたが)なので、今もエンジンをかける度に、ETCカードの事前挿入を忘れた時に車が警告するアナウンスメントが流れる。「ありゃ」と思う。私は最初ビックリして、あと「なるほど」と納得した。ミャンマーの人の多くは意味不明と思っているアナウンスだろう。

 街は「開きつつある国」「緩みつつある国」の最大の都市というに相応しく、活気に満ちている。若い人が多い。半分以上のヤンゴンの住民はロンジーと呼ばれる腰巻きスカートをはいているように見える。その中は夏は何もつけないそうだ。男は。誰かが「あれで走れるのか」と聞いたらガイドのウィーさんが「走れます」と答えた。

 色々な国の側面を持つ。喧噪はコルカタのそれに似ている。トラックバスで移動する人々。しかしお乞食さんはインドよりはるかに少ない。こぎれいだ。しかしところどころに目を疑いたくなる光景はある。

バスが大きかったので電線と接触、一本を外してしまった。バスの上で電線を扱う人 我々が移動で使ったバスはでかかった。日本から持ってきた観光バスなので。小さい道に入ったら、上の電線にひっかかって、電線が垂れてきた。左の写真がそれです。危ない話だが、バスが全体として帯電することはなかった。

 写真のバスの向こうを見て頂くと分かるが、ヤンゴンの大部分の人はこうした古びたアパートに住んでいるらしい。エレベーターはないそうだ。つい3年ほど前までのミャンマーは停電が多かった。エレベーターを設置しても「動いている時間が少なかった」から、そもそも設置されなかったとウィーさん。今は停電は少なくなったらしい。そう言えばまだホテルも一回も停電していない。

 ガイドのウィーさんはパゴダ動画の中に出てきますが、実に面白い。だじゃれを連発する。彼の日本語は「学校に行ったわけではない。おじいさんに教わった」そうだ。お爺さんは学校で日本語を習い、戦争中に関連した仕事に就いたこともあるらしい。ウィーさんに「あいうえおの平仮名から教えた」そうだ。だから彼は文章も読める。

 「日本人はあまり来なくなった」とウィーさん。「でも私は日本語オンリーのガイドとして頑張っている。お爺さんから日本語を教わったし」と。今日本人は7位だそうだ。ミャンマーを訪れる数で。一位はドイツ、二位がイタリア、三位がフランス。確かにどこに行ってもそういう感じの観光客がいっぱいいた。「オバマも来て、アメリカ人も増えつつある」とウィーさん。5位が中国人、7位が韓国人、そして9位が日本だと。

ホテルの若いITマンが部屋に置いていった無線LANマシン 「ミャンマー人は総じて中国が嫌い」とウィーさん。無論彼の印象かも知れない。しかしそういう話はあちこちで聞く。「一晩で壊れるものを作る国」という印象があるらしい。「偽物作り」でもあると。まその点は今後じっくり見るつもり。

 こうして絵や文章をアップできるのは、wifi がところどころ繋がるからです。キーは比較的開放的に公開されている。しかし無線LANは細い。ホテルは面白かった。繋がるがちっともデータのやり取りができない。メールが落とせないくらい。ですからホテルのフロントに言ったら、お男の子(ITマン)が来た。

 しばらくいじっていて「5分待て」といって出て行って、なんと私の部屋に無線LANの送受信機を持ってきた。びっくり。設定をして「使ってくれ」というので、使ったのですが、「ちょっと速くなった」くらい。しかしメールは取れてサイトもまずまずの速さで移動できる。ナイス。

 昼、夜と行った二つのレストランでは「wifi」が一つのウリになっていた。旧首都のヤンゴンではちょっとブームらしい。しかしどこでも回線は細い。「やっと使える」程度。日本から見れば。メニューにキーが書いてある。しかしないよりましだ。明日から行く地方はそんなブームにもなっていないかも知れない。ホテルでさえ。

 物価は日本の10分の1の感覚。安い。「日本の安い床屋は1000円だった」と日本に行ったことがあるウィーさん。「ミャンマーの床屋は1000チャット。でも日本の床屋に使う1000円があれば、ミャンマーの1000チャットの床屋に10回行ける」と。

 まだ実質半日もいない。旅はこれからだ。


2012年12月28日(金曜日)

 (00:25)きたきたって感じです。予想していたものが。完全ブラックアウト。今はタイとの国境に近いチャイントンという街にいます。

 ほぼ一日移動してホテルに着いて、「ところでインターネットは?」と聞いたら、「ないない」とはなから拒否ジェスチャー。ホテルの人は常に聞かれてウンザリしているんだろうな。ないんですよ「ネット」というものが。

顔にタナカを塗ったミャンマーの子供 加えて街全体が停電している。だから完全ブラックアウト。街の中は各建物の自家発電でかすかに明るい。ホテルもそうで、なんとかPCを充電しながら文章だけは書いていますが、いつアップできる事やら。あさってかな。まそれも、「いつもとはあまりにも違う」という意味では面白い。

 チャイントンは人口10万程度の街だそうですが、要するに短い言葉で表現しようとするならば開発前的田舎町です。街の中心部の舗装が完全ではない。土埃が凄い。その周りにこれといった道との境もなく、少し高くはなっているが、商店が数十並んでいる。良い意味でも悪い意味でもヤンゴンとは違う(だから良いのですが)。

可愛らしいミャンマーの子供。丸出しでした どうやって来たかというと、ヤンゴン10時のプロペラ飛行機に乗りへーホーとラッショ(覚えたばかりの街の名前です)を経由し、その度に我々以外は乗客がほとんど入れ替わるという中で「ブーメラン的どスライス飛行」してタイとの国境の街タチレク(私が知っていた街だとタイのチェンマイに近く、その北。そう言えばそこに住む私の友人・内田さんは元気かな?)に着いた。

 そこが国境の町、ややこしい地域と言うことで1時間以上パスポート・コントロールで待たされた後(それが午後3時過ぎだった)、今度はバスに乗ってインドの田舎道並みの酷い道を移動してたっぷり暗くなった午後6時過ぎにこの街に着いた、というわけ。

 一日中移動.......。直線ではヤンゴンからそれほどの距離ではないこの地に、

 「ブーメラン的どスライス飛行」
 「お尻が痛くなる凸凹バス移動」

 してきたのは、ヤンゴン→チャイントンの「便がない」の一言ですが(チャイントンにも空港のマークはあるが、週一便くらしかないらしい)、まあそれも楽しかった。ミャンマーの地方も見たかったので。

 何のために来たかというと、ミャンマーを今は主に統治しているビルマ族(全人口の半分以上を占める)だけでなく、「少数民族に会いに行こう」ということで。ちょうど今日と明日、この地でアカ族のお正月のお祭りが行われるため。年に一度の。それを見に。

 着いて夕食を8人(現地ガイドのウィーさん、日本からのガイド稲村さんを含め)で食べた後、早速祭りの会場に行ったら面白かった。出店が凄い。なんでも売っている。日本の露天が集積した感じ。違うのは鶏の足、ソーセージなどなど揚げ物が一杯あることと、ゲームが多種多様あって、多くの人がそれにお金を使っていると言うこと。

 変形ビンゴ、投てきなどなど。割りの悪い(主催者に有利)ゲームばかりでしたが、おもしろがってやっていたら何十人という参加者の中で最初の一人しか当たらない変形ビンゴで稲村さんが「大当たり。なんでも商品を選べる」というのに。で皆(ミャンマーの人達)の羨望をあびながらビール24本入りケースを持って帰ったり...。その前はウイスキーで大当たりもあった。順調に消費できます。ははは。

 実に驚くことに、ミャンマーには約138の民族が住むという。中国でもあの広い国土に50弱の民族だから(しかも漢民族が大部分だが)、日本の1.8倍、6000万強の人口に対して138の民族というのは対人口比では非常に多いと思う。

 しかも重要なのは、それぞれの民族が話す言葉が違っているとされることだ。文字も違うと。私はどっちにしろ分かりませんから確かめたわけではないが、「そうです」とウィーさんが言う。シャン族はタイに近い南東部分に住むが、シャン族はタイにもいるらしい。

パゴダに少額ですがお布施をしました 大まかに行って、「州」と付くところはその名の民族が多数派をしめるところだそうだ。時計回りに見ると、ヤカイン、チン、カチン、シャイン、カヤー、カレン、モンなどとなる。アカ族はシャン州に居住するが、シャン族の中で分派するらしい。分派だが習慣も言葉も違う。アカ族は数十の村に分かれて住んでいるが、今年の彼等の正月は満月の12月27、28、29で、このチャイントンに集まるらしい。

 一方地図を見ると「州」とは別に「管区」と表示される地域もある。それは多数を占めるビルマ族の行政区に相当するという。ということは、ビルマ族がヤンゴン管区とかマンダレー管区などの言ってみれば「中原」(中国で言う穀倉地帯)に住み、その他の民族はその周辺、場所によっては山深き場所に存在すると言うことになる。

 それぞれの民族が今いる地域にずっといたわけではない。例えば今のヤンゴンはもともとモン族が作った街だと言われる。しかしそれをビルマ族が奪ってさらに大きくし、名前に「ヤンゴン」(戦いの終わり)を名付けた。都市そのものにしても複雑なのです。その辺は日本と全く違う。

 今日と明日の朝までこの地にいて、アカ族など少数民族の祭り、暮らしぶりなどを見させて頂きます。


2012年12月28日(金曜日)

 (23:25)移動に明け暮れた27日と違って、一つの街(チャイントン)を中心に、ゆったりと時間が流れました。もっとも「ゆったり」はしていたが、行き帰り各約1時間のバス移動ではその悪路故に随分揺られ、ややお尻が痛くなった。しかしアカ族の山の中の村まで行き、貴重な体験でした。

 まず道すがらの話ですが、ミャンマーは国全体として特に南は「三毛作の国」だそうです。で、日本人の私たちには「12月なのに」と思えるのですが、この地(チャイントン)ではそこら中の田圃で田植えが行われていた。

アカ族の衣装 田植え風景は昔の日本に非常に似ている。田植え歌は聴かなかったが、右の写真のように一列に並び、手際よく植えていく。日本のように綺麗なラインを作りながらではなく、アバウトに。苗代から苗を取り出すのは男性、それを田圃に植えるのは女性と役割が決まっているらしい。三毛作で田圃が貧弱化するのを避けるためには、牛の糞を使うと。

 日本で言う「ゆい」(労働力の家ごとの融通しあい)の制度があるらしく、これだけ多くの人が一つの田圃の田植えには並ぶ。中には一日4000チャット(約400円)を日当に、周囲から働きに来ている人もいるという。ちょっと想像を絶する一日当たりの安い労賃だが、産業とてないこの地方では農業、特に稲作が主要な雇用の吸収先となる。

シャン族は働きもの。特に女性は ところでミャンマーの少数民族です。我々が行った最初のアカ族の村は20世帯くらいが住む、山の傾斜に佇んで農家が点点とある村でした。傾斜に家を建てるためや、下を倉庫に使う都合、それに邪悪な動物が上がってこないように、家を高床式にしているケースがほどんど。

 立派なキリスト協会が岡の上にある。大乗仏教を信じるビルマ族と違って、イギリスの宣教師が入ってかなり前に村全体がキリスト教に改宗した。その前は精霊をうやまう村だったそうだ。以前の土着信仰だと、双子が生まれたらどちらか一方を殺さねばならなかった。それをこの地の人達もやめたがっていた。そこにキリスト教が救いの手を差し延べたと聞いた。

 どのくらい土地を持つかで村の中でも格差があって、私たちが訪ねた家は「中級」とのこと。高床式でおじいちゃんと息子夫婦、それに孫一人が住んでいるそうだが、その時間はおじいちゃんだけがいた。子供が6人いたが5人は外に出たそうだ。タイなどに出稼ぎに行っているという。産業がないので、収入を求めようとしたらそうなる。

 男性優位の社会だそうで、お嫁さんは自分が4人続けて女子を産んだら、ダンナさんに「次の嫁」を自ら紹介するのが習わしだそうだ。その次も同様。財布は男性が握り、買い物に必要な分だけ女性に渡す、と。女性は農閑期などには例の織物をする。

 それでも私に解けなかったのは、「なぜそれほどまでに民族が分化したのか」でした。州の名前になっている主要7少数民族の中でさらに細かく分化し138民族になった。それがまた別々の言葉(しゃべりも文字も)を持つという不思議。日本だと話し言葉は鹿児島と青森ではかなり違うが、文字は同じです。

 以前だが、インドネシアのジャングルに住む各部族は地理的には近くにいても、それぞれに言葉が違うということを本で読んだことがあるが、そういう事かも知れない。つまりそれぞれの村が孤立して生活し、それ故に言葉が交わることなくそれぞれに分化し、着るものや風習も変わっていったと。

祭りはバイクが山ほど集まりました でもアカ族(その中にもいろいろあるが)の着るもの、冠り物はミャンマーの多民族の中でもその色合いなどで突出していると思う。赤と黒が基調で、結構シックです。28日の夜は27日の夜、28日の朝に続いて私としては3回目の「祭りの会場」めぐりをした。大きな出し物がある、ということで。そこでアカ族の衣装も買ってみました。

 彼等の民族衣装の踊りなどを見て改めて、これだけの特徴を獲得するには長い時間の孤立と縫製技術の確立が必要だったのかも知れない、と思いました。兎に角ヤンゴンのビルマ族とは全く違う言葉を話す。それはウィーさんにも分からない。だから我々のバス移動は日本人7人、ミャンマー人4人の構成。タチレクに着いた後ずっとそうです。

 ミャンマー勢の4人の一人はバス(車体を見ると昔はKEIOバスだったようだ)の運転手さん、二人目は当地出身のアカ族の言葉が分かる青年(24歳でジャニーズ系)で現地の人とウィーさん(総括ガイド)の間の通訳をする。そして最後がパスポート・コントロールなどで書類を出したり、トルゲートで走っていって料金を払ったりする男の子。それだけ見ると随分贅沢な人の使い方をしていますが、言葉や治安対策がややこしいからそうなる。

 それにしても移動しながら「ニーズはすごくあるな」と思ったのは、ミャンマーのインフラに関わる需要です。とにかく街の中心部からちょっと出ると舗装道路は絶え、ほとんどが非舗装道路。じゃりでもない土の道。その凸凹さが半端ないときている。我々はバスの中で揺られ、時には跳ね上げにあうという感じ。一移動するとちょっと体が軋む。

 橋もバスが通るのそに木製のところもある。危なくてしょうがない。もっともインフラ需要は膨大だが、「ではその資金をどうやって作るか」という問題がある。主な輸出品は天然ガス,豆類,宝石(ひすい),チーク・木材など。天然ガスを除けば、それほど伸びは期待できない。

 輸入品は「石油,機械部品,パームオイル,織物,金属・工業製品」と主に工業製品。インフラ整備、国内の産業育成の為には膨大な輸入が必要になる。確かに「安い人件費」は魅力だろう。ミャンマーにとっても、日本や先進国、中国などにとっても。とにかくきつい田植え仕事一日分が4000チャット、400円なのだから。であるが故に、縫製産業などの立ち上げは急ピッチで進み、日本でも製品が見られるようになった。しかし規模はまだ小さい。この国全体を豊かにするには。

 一労働者当たりの一日当たりの労働賃金は、私が2008年に行ったベトナムのそれより安い。一月あたり約7500円。しかしヤンゴンなどミャンマー主要都市のホテル代が急上昇しているがごとく、労働賃金には上昇圧力がかかりつつあるとも言われる。失業率といった統計はあまり整備されていないようで、ウィーさんに失業率を聞いたら「わかりません」との事だった。「かなり高い」というのが当たっているのだろう。全体的には、まだ労働力の供給には余裕はありそうだ。

 とにかくミャンマーのインフラは酷い。ヤンゴンなどを別にして、まずは電力供給が問題だ。乾期は特に水力に発電を依存している国とあって、今のチャイントンのように一日14時間とか停電する。我々はずっとそれに直面している。あぶなくて工場も作れないし、作ってもモノを運ぶ道路は悲惨だ。当初は海岸沿いか。

 「アジア最後のフロンティア」とミャンマーはよく言われる。その通りだと思うが、ここが立ち上がってくるにはちょっと時間がかかる、というのが印象だ。インドと同じく、難しい民族問題もある。


2012年12月29日(土曜日)

 (23:25)土曜日は早起きして朝のチャイントンのマーケットに。面白かったな、「豚のハーフぶった切りお頭(兜)」があったり、「美人姉妹のお総菜屋さん」「美人姉妹のチャーハン、ラーメン店」があったり。

 姉妹しか出てこないのは、「シャン族は女が働く。男は家にいて子供の面倒を見て、あとは噛み煙草を吸っている」のが普通だからだそうで、実際に朝6時過ぎからお店を出した店主は全員がおなご、女性だった。

豚の兜が出来そう 圧巻は豚肉のお店かな。写真のように豚のお頭を売っている。真っ二つです。大きな鯛かマグロのお頭のよう。食べている時間はありませんでしたが、「ドイツ人のように豚を全部食べるんだ」と思いました。無論内臓も。

 20以上のお店が店開きしているが、一つとして同じ種類の店がない。うまく棲み分けているのには感心しました。きっと昔から「ここは誰」と決まっていて、そこに出店するのです。総菜屋さんの姉妹は、息もピッタリで仕事も速かった。

良いお味でした チャイントンにはそあれで別れを告げて、また来た道をバスでタチレクに戻ったのですが、その途中でタイとミャンマーを結ぶ国境の橋のある地帯に行った。いわゆる「黄金の三角地帯」(The Golden Triangle)の一角。ここから東に行けば数キロでラオスになる。参加国の国境が目と鼻の先です。ずっと前から聞いていた興味深い地域です。

 有名なミャンマーとタイを結ぶ橋の袂の商店街と人並みは凄い。今まで人が少ない場所にいたので、「こんなに人が集まっているのは久しぶり」と思ったし、国境特有の緊張感もあり、かつ活気もあった。

国境の町 バーツ優先 私は日本にない「国境が好き」で、ベトナムと中国の国境線に行ったときも独特の緊張感を感じたものですが、今回も短い間でしたが「また来たい」と思いました。タイの側から見て真っ正面に「The Golden Triangle Hotel」というのがある。あそこに泊まるのも手かな、と。

ミャンマーの屋台 メンバーの一人である市岡さんが「日差しが暑いから帽子が欲しい」と言い出して買い物に行ったのです。そしたら面白い話をお土産にもってきてくれた。それはミャンマーのお店なのに「バーツしか受け付けません」とガイドさんのウィーさんと市岡さんに売り子が言ったというのです。

 その後もレストランに昼飯を食べに入ったら、「バーツでの請求書」が来たし、他の買い物をしても「バーツ」と言われたそうです。つまりミャンマーのチャットはこの橋の周辺では信用されておらず、タイのバーツが流通通貨になっている。ま、経済力の違いが如実に出たと言える。

 人出が多いのは、タイに出かけるミャンマー人がいたり、輸出入をする商人がいたり、観光客がいたりだからでしょう。我々はタイに行くVISAを持っていないので、橋の直前でストップ。地元の人達は証明書があれば一日のビザが簡単に出るそうで、それで行き来する。

 また来たい地域だなと思いました。「The Golden Triangle Hotel」に泊まって。ははは。夜までにはヤンゴンに戻りました。また明日朝早く、今度はインレー湖に行きます。片足で立って船を漕ぐ民族のいる湖へ。


2012年12月30日(日曜日)

 (23:25)ミャンマーは中部の観光地「インレー湖」(Inle 大きな、南北に長いおたまじゃくしのような形をした湖です)のほとりのリゾートホテルで、ユーミンの最新アルバムを聴きながらこの文章を書いています。数人でちょっと飲み、食事もし、解散した後に本を読み、そして何もすることがなくなって。気分が和らぐ。今は「守ってあげたい」から「卒業写真」に。

この船で移動しました 日程に組み込まれているので料金などは知りませんが、良いホテル(Aureum Palace)です。湖畔に一つ一つの部屋がロッジのようになっているが、中は比較的豪華です。お風呂も大きく目の子で65平方メートルはある。ただしお湯は貴重で、長くは出ない。風呂はコロニアル風で大きい。

 ホテルは我々日本人が想像する「ミャンマー」の一般的なイメージからは隔絶している。これもこの国の一つの現実でしょう。タイの豪華リゾートの雰囲気がある。プーケットなどの。ただし標高800メートルの高地で、夜は寒い。ミャンマーの航空会社が作ったホテルだそうで、正月前後ということもあるのでしょう。我々以外はすべて欧米人のグループ、家族です。

 ヤンゴンを出た、いや「出ようとした」のは朝早かった。午前5時にはホテルを出発。フライトが早かったので。しかし空港に着いて一同唖然。フライトがキャンセルに。しょうがないので一端ホテルに戻ってまた2時間ほど寝て、今後は12時のフライトで飛べてへーホーで降り、そこからバスで移動してインレー湖の北にある船着き場に。

 乗ったのが写真のような船です。これに荷物全部と我々を二槽の船に乗せて湖上を移動。移動の様子は動画に撮ってユーチューブにアップする予定ですが、今この文章を書いている段階では「予定」です。ネットはかろうじて湖に面した良い雰囲気のロビーで使えますが、か細い。フェースブックでやっと文章がアップできる。写真は無理です。ですからこの文章も次の都市バガンでのアップとなる予定。

 インレー湖のウリは旅の本などには「片足で船を漕ぐ民族」とある。それはそれで面白かった。動画を撮ってあるのでユーチューブで見て頂ければ良いのですが、要するに観光客目当てのショーの色彩が強い。だって僕らの前で演技した連中は制服を着ていた。

その後二人がかりで ではなく、驚いたのはへーホーの空港でちょっと小腹が空いたので皆でシャン族のラーメン(日本で言えば名古屋のきしめん風)を食べようと空港沿いの小屋風のレストランに入って注文したら、男が3人ほどよってきた。何か合図している。肩を指して。何かと思ったら、待っている間にマッサージをするというのです。

お坊さんを乗せたトラック で全員でやってもらった。笑える。ラーメンが来ても止める様子がない。肩、腰、頭と来て、足ももみ始めた。皆で大笑いです。ラーメンが冷めてしまう人も出てきた。稲村さんがまとめて料金(一人200円くらいです)を支払ったら、今度はサービスでまたもみ始めた。テヌーという部族だそうです。

 日本の1.8倍のミャンマー。「さすがに広い」という印象です。テヌーの人達はビルマ族の人達に比べて総じて背が低く、顔がディープ・ブラウン。皆ひとなつっこい。彼等もシャン族だそうです。しかし外見はチャイントンで会ったシャン族の人々とは全く違う。

 ミャンマーのどこに行っても感じるのは、セキュリティーへの安心感です。「何か異様なこと(犯罪)が起きるかも知れない」という印象がしない。時刻表はめちゃめちゃだが、セキュアーな社会に見える。ただし、「我々が行ける地域は」です。ミャンマーには外国人が入れない地帯が数多くある。

 人々も「ここ」というときに控え目です。体制と人々の気質がこの雰囲気を作っているように思う。しかしこの多様な、発展を始めた国に対する私の思いは徐々に明確になってきています。でもそれは日本に帰ってから書こうと思います。ちょっと眠くなってきましたし。

 ちょうどユーミンのアルバムは、「時をかける少女」を経て「A HAPPY NEW YEAR」に向かっている。そう言えば明日は今年最後の日ですか。丸一日当地にいます。水上寺院などを見て。その後はミャンマーでの初ガラです。そして新年。


2012年12月31日(月曜日)

 (22:25)今年最後の日をほとんどインレー湖の湖上で過ごしました。すべての行程を例の船の上での移動で済ませた。何せ、水上寺院(そこの仏様は子供のような顔をしていました)も、鍛冶屋も、床屋も、それにレストランも湖上にありますから、どこを移動しても「水上」ということになる。あそうそう、宿泊しているホテルも一部のロッジは湖に突き出している。

ミャンマーの仏像は皆どこか人間臭い。これは子供っぽい顔の仏像 それにしても、湖の使い方もこれだけ多様なのか、と思う。湖の近くで育ちましたが、「あらゆる事が湖上」というのは初めてです。日本では遊覧船が走り、ワカサギ釣りなどの漁業・趣味行為が少々行われる程度。しかしミャンマーのインレー湖の上では全てがその上で行われる。行水も、洗濯も、織物も、そして銀細工も。

本物がいました 無論重要な交通路でもある。観光客をいっそう当たり4人ほど乗せた船が頻繁に行き交う他に、お米を船が沈みそうなくらい積んだやや深い船を初めとして、実に多様な運搬が行われている。無論現地の人達も船で移動します。こちらはいっそうに15人くらい乗っているのを見たことがある。道路があまりよくないので、その殆どにおいて穏やかなインレー湖は格好の移動手段の提供湖となっている。

 片足で木製の船を操る方々に関しては、お詫びを申し上げなければならない。昨日「制服など着て」と書きましたが、それはインレー湖の入り口で主に観光客相手の「漕ぎ」をしている方々に関してでした。

 今日はもっと湖のディープな地帯に入りこみましたが、「観光客には基本的に目もくれずに魚などを真剣に捕っている方々」をお見受けしました。結構の数で。ということはインレー湖を有名にしたあの漕ぎ手と漕ぎ方は「current」であるということです。

 銀細工の工房とお店にも行きましたが、「湖上に住んでいるとあまり外に行けないので、行かなくても良い仕事をしている」というのが、この工房の由来らしい。魚、虎、猫などの動物を初めとして実にいろいろのものを銀でうまく作っている。無論ネックレス、ブレスレットなど銀製品にふさわしいものは一杯あった。小さいモノをいくつか買いました。

インレー湖の湖上の家 それにしても、湖上はものすごくインターナショナルでした。湖上の織物工場に隣接して出来ているお土産物屋さんでイタリアの女性が「10ドルにしてよ」と値切っているかと思えば、別の建物にある首長族(本当に首が長くなっている)の女性や、それを見て笑う観光客を見てアメリカ人が怒りをあらわにしていたり、水上レストランではドイツ語やイタリア語が聞こえ、ホテルに帰ればスペイン人が比較的静かな声で話している、という感じ。

 日本の方もごく少数ホテルでお見受けしました。もっとも「東京の市ヶ谷に住んでいます」という欧米人が居ました。彼等とはちょっと話しましたが、総じてアジア人そのものが少ない印象を受けた。ここはアジアなのに。最近はどこでも聞かれる韓国の言葉もなかったように思う。そういう意味では、この湖はもっともっとこれから国際化するのではないか。なにせ非常にユニークな湖ですし、ミャンマーのイメージとはかけ離れた涼しさもある。

 私がこの文章をアップできるのはもう日本が元旦の朝になってからかも知れませんが、皆さんには良い新年をお迎え下さい。


2013年01月01日(火曜日)

 (08:25)元旦の朝ふと目を覚ましてベッドの横に置いてあるホテルのちょっとしたお知らせの紙があるのを見つけました。見開きで、左側には「ここは寒いので毛布がクローゼットの一つに入っています。湯たんぽもあります。お電話を....」と書いてあるのですが、右には次のような言葉が書かれていました。湖上での晦日の夜の風景

Dear MR YOICHI ITO

Take time to be friendly - it is the road to happiness.
Take time to dream - it is hitching your wagon to a star.
Take time to love and to be loved - it is the priviledge of the Gods.
Take time to look around - it is too short a day to be selfish
Take time to laugh - it is the music of the soul.

 「Gods」と当然ながら複数形だ。「誰か有名な人の言葉かな」と思ったら、最後には「ハウスキーピングのアシスタント・マネッジャー」の名前が。ははは、でも新年の朝に目にするにはナイスな言葉です。特に最後が好きです。

 旅も半分をとうに過ぎましたので、ミャンマーの自然について書いておきます。日本でもミャンマー情報はあふれかえるようになりましたが、「その自然」について書いてある文章はあまりないようなので。

ミャンマーの子供達の通学風景 とっても日本に似ています。まず他のアジアの国や世界の国ではあまり見かけない「トトロの森」がある。うっそうとした木々の緑、そして所々にある背の非常に高い木。トトロに出てくる木や森は概ね緑(紅葉もあったかな)ですが、ミャンマーもそうです。「緑が溢れている日本のような国だ」と思いました。

 2012年に行ったウルムチの火焔山(暑さ故に木が山に一本もないように見える)は例外ですが、中国でもベトナムでも北半球のアジアでは山でも木はまばらです。その長い歴史(といっても人類のそれですが)の間に、人々が木を薪に使ってしまったからというのもある。しかしミャンマーでは日本と同じように「トトロの森」が残っている。しかも多種多様な木々が。これが第一印象です。

 次に、これは何度もフライとしたこともあって分かったのですが、どこに行っても田圃がある「稲作の国」だということです。土が赤茶けて「これはちょっと使えないだろう」というところ以外は、水を張った田圃が一杯見られる。それも日本(例えば庄内平野)ほどではないが、かなりきちんと区画され、あぜ道が細いながらくっきりとしている。

 水を張った田圃があると思えば、田圃のあちこちから煙りが上がっていたりもする。飛行機から見るとそれが皆同じ方向にたなびいていて、なんとも良い、のんびりした気分になる。きっと収穫を終えたあと藁を燃やしているのだろう。兎に角年3回も収穫できる。あるところでは稲刈りをし、別の地方では水を張って田植えをしているという感じなのだ。田圃の風景はとっても日本に似ている。

 しかし無論のことながら、日本と同じではない。今は乾期なので酷い道路事情は猛烈な土埃を巻き起こす。その土埃が道路周辺の木々や草にこびりつく。綺麗な自然があるのに、国全体がちょっと茶色になったように見える。雨期はまた違うかも知れない。

 次にゴミが多い。道路、湖上のあちこちにぽいと捨てられている。目に付くし気になる。時々大量投機も目にする。掃除する人がいないわけではない。ヤンゴンでは箒を持って掃除している人を何人も見つけた。その区画は当然ながら綺麗なのだ。しかし綺麗な区画が限定されている。それが日本と違う。

煙が上がるミャンマーの田圃 日本にはない良い事もある。ミャンマーで実に豊かな果物が採れるし、近隣の諸国から輸入できる環境にある国だ、ということだ。車でちょっと運べばよい。マンゴー、バナナ、パパイア、隼人瓜などなど。皆食べたくなる。日本で食べ慣れた味とはそれぞれちょっと違う。バナナでさえそうなのだ。バナナは美味しいが、ちょっとねばねばする。しかし美味しい。

 今日は昼にゴバンだったかバガンだったかに移動します。そこに二日いて、その後はバンコク経由で日本に帰ります。日本の皆さんには、良いお正月を。


2013年01月02日(水曜日)

 (07:25)インレー湖の畔のホテルを元旦の昼頃出て、マンダレー経由でガバンに来ています。古都。なんでもパゴダ(寺院)が一杯あるらしい。ウリは、「このパゴダ群に沈む夕陽」だと。金色の数多くのパゴダが、沈む夕陽を受けて一段と黄金に輝く時があって、それが実に美しいと。その絶好のシャッターチャンスの為に来たようなものです。私にとって。

 有名なお寺に2~3行くらしいが、私は「何年前に建てられた.....」とかいうことにも、寺院そのものにもあまり興味がない。それよりも、「人々はどうやって生きてきたか、今どうやって生きているか」に興味がある。この街は人々が住む場所とは違う場所に、専らパゴダ群として作られている、という。実は「人々が住む場所」の方を見たい。だからバゴダは「瞬間の撮影」の為に来たようなものです。

元旦もやっていた村の小学校 そういう意味では、晦日と元旦の朝に歩いたインレー湖のほとりの村は面白かった。ホテルを出て片道30分の道を「行って帰って」で二日連続歩いた。車が通る道を一歩はいった土の道の周りの農家が面白かった。行き帰りで良い運動にもなった。

 ミャンマーの小学生と中学生が通学し、農耕用のトラクターが行き交い、湖で採れた魚を売る女性連れがおり、店を開けていつくるとも知れない客を待つ商店主(といって並んでいる商品はせいぜい数十です)がおり、路上のバイクの上で談笑する若者のグループがおり、家の中で家事をする女性がいた。人々は確実にそこに生きていた。皆薪をくべるかまどだった。

バガンの夕暮れ。綺麗でした 貧しい。埃っぽい。所在なくただ通りを見ている人が多い、などが印象です。しかし2006年にNHKの仕事で行ったハイデラバードの北のインドの農村よりはるかに豊かです。なによりも竹で作った高床式の家があり、多くは衛星放送のアンテナを持っていた。

 インドの農村で見た家は、面積が4畳半+半畳くらい台所だった。といっても畳はない。家の中が土間だった。薄暗い電球が一つ。かつ料理の道具は、汚い鍋が二つある程度。主人が借金苦を気にして自殺した家を訪ねたのだ。

 その家は村でもどちらかと言えば貧しい方だったが、いまでもよく覚えている。子供を抱えた女性が呆然としながら農業の手伝いをして生きていた。見る方も、インタビューする方も辛かった。しかしなんとこの部分は二日もかけて取材したのに、いろいろあって放送は出来なかった。残念だ。

 ミャンマーの村の方がベターなのだが、インドと違って「これはちょっと恐ろしい」と思ったことがある。それはミャンマーの田舎の結構あちこちで見られるのだが、そこでも「豚とニワトリの共同生活」がごく当たり前に見られることだ。これは「鶏インフル」の発生要件の一つとされる。鶏のインフルが豚を経由して人間に、という経路。

 実際に案内書を見ても、ミャンマーは「ちょっと油断すると危ない国」と書かれているし、「ミャンマーを旅行すると疲れる(温度、しばしば感じる不衛生などを原因に)ので注意」と書いてある。確かにそのリスクは特に郡部においてあると思う。これはインドを含めて南アジア全体に言える。実際に我々のグループでも体調を壊した人が二人出た。

 「どんなものを食べたのか」と聞かれれば、端的には「インド的タイ料理、中華料理、ベトナム料理」ということになる。しかし民族が138もあるミャンマーには、実に多様な料理がある。美味しかった順に言うと

  1. シャン族のラーメン
  2. アカ族(シャンの一部族です)のおこわ
  3. 豚肉と鶏のカレー
  4. トマト入り野菜天ぷら

 などだ。シャン族のラーメンはベトナムのフォーに一見よく似ているが、麺に総じて強い腰がある。チャイントンで食べたものとへーホーで食べたものはまたちょっと違ったが、「腰」の理由は「餅米」が入っているからだと思う。

 「おこわ」は竹筒に入れて暖めて食べたりするのだが、日本のお赤飯によく似ている。中にはジャガイモなども少量入れるらしいが、粘りけがあって良い。食べ物として安心感がある。カレーはベンガルのカレーより内容物の形が残っている。みずっぽくない。だからうまい。

村で魚を売る女性 知らない野菜も一杯出てきました。しかしとにかく食器やスプーンなどがホテルなど一部を除いて「大丈夫だ」とは思い切れないものが多かったし、ミャンマーのレストランのキッチンを除くとぎょっとすることが多かったので、私でも「警戒的試食」の域を出ていなかった。しかも食べているところが本当にここの普通の人々が食べている所ではない部分もある。屋台にも座ったが、食べるものは選んだ。

 料理の中でも火を目の前で通したモノはまず安心なので、それはバカバカ食べた。結構頂けるものが多かったように思う。美味しく。日本にはタイ料理は店として大量に出てきている。ベトナムもそうだ。ミッドタウンのフォーの店など好きだ。だからシャン族のラーメンも「(日本で)いける」と思ったのでウィーさんに言っておいた。

 あと二日なのでまあ大丈夫でしょう。私のお腹は。インドでもそうだったが、最後はちょっと冒険します。食べ物で。旅の初めに体調を崩すのはつらいので。ただし水では冒険しません。ホテルのボトルで通す。

 そうそう、ミャンマーの学校は、朝必ず朝礼があるようです。小学校でも中学校でもやっていた。生徒が温和しくをれを聞いているのが面白かった。


2013年01月03日(木曜日)

 (00:25)目玉の「パゴダ群に沈む夕陽」は実に壮大で綺麗でした。世界中から来た観光客が100段近い急な階段を上がってシュエサンドー・パゴダの上で太陽が遠くの山並みに沈むのを待ち、そしてその時が来るとざわめきと驚嘆の静けさが訪れた。「オー」くらいしか言葉がない。

見事なサンセット 太陽が沈むシーンもそうですが、その夕陽を正面から受けて浮かび上がった東側の大小数々のパゴダの群れもまた圧巻でした。写真を何十枚となく撮ってしまった。自然現象を写真に撮るのが難しいことを知りながら。特に太陽をとるのは難しい。沈んでも雲に夕陽が当たって、それがまた綺麗でした。写真を掲載しますが、やはり機会があったら皆さんに実際に見て欲しいと思います。

 昨日「金色の数多くのパゴダが、沈む夕陽を受けて一段と黄金に輝く時」と書きましたが、それは私の勝手な想像、というか調査不足でした。バガンのパゴダは黄金色は少なく、多分赤土を日干し煉瓦にした材質がそのまま出ている赤茶色が多かった。しかし夕陽が黄金色ですから、夕陽があたったパゴダはやはりその時は黄金色にはなる。

 バガン全体では「約2000のパゴダがある」(ウィーさん)ということです。そのうち約300がシュエサンドー・パゴダの上から見えるそうで、実際に見ると土と緑の大地の上に大小のパゴダがにょきにょきと建っている。殆どが赤茶色く、時々石造りの白っぽい大きなものがあるという具合。

 なぜバガンにこれほど多くのパゴダがあるのか。「ある時宝石の雨が降った。だから貧しい人もパゴダを建てられた」と説明された。しかし大小のパゴダの間を走っていると、それはまるでとっても大きな墓標のように見える。建てた人、家の名前のようなものが刻まれている。

 全体的なバガンの環境を言うと、土はやせて乾燥している。今はちょっとした野菜がところどころ作られているが、肥沃な土地ではない。そこに誰か王様か偉い人が大きなパゴダを建て、「そうしないと良い転生が出来ない」といった考え方が人々の間に広まって、それが「少しでもお金が出来た人はパゴダを作る」となったような気がする。

 日本でも例えば尾道では「商売に成功したらお寺を作る」という伝統というか風習があったと聞いている。人間はちょっと豊かになると、大部分のケースにおいて「死後」を考えた。それが一つの時代の風潮として「パゴダ群」となった気がする。

 ピラミッドも考えてみれば墓だが、パゴダは建前としては「仏様を祭った建物」だから違う。しかしどこかで「人間は死ぬ」という事実と結びついているように思う。つまりパゴダ群は明らかに「昔生きた人々の死後への"気"が入った建物が林立する場所」なのだ。そう思えば面白い存在だ。

 それにしてもパゴダの上にいるときには、世界中から人間が集まっているだけに「何かで押し合いへし合いになったら誰かが落ちるという惨事も」と考えてしまうほど高く、狭い場所での夕陽鑑賞だった。無論朝陽鑑賞も綺麗だそうだが、今回はそれはなかった。いつかやってみたい。多分絵(静止画、動画)で見るよりは、実際に自分の目で両方(sunrise とsunset)を見た方が数段良いだろうから。そうだ、今度は朝陽だ。

子供が上の親子仏と ガバンで それにしてもバガンは面白い街です。もっぱらパゴダが一杯ある地域を狭い意味で「バガン」と呼ぶ。それが有名です。その周りにニューバガンという人の住む地域があり、それとはまた別にニャオといったか空港の近い場所に人々の住む地域がある。それら全体を「バガン(BAGAN)」と呼ぶこともある。

 いろいろな移動手段を使いました。昼の空き時間の1時間ちょっとは、パゴダ群の中を私と稲村さんは自転車を使って走り抜けて見ました。他の方々はマッサージ。良かったそうです。しかし私は自転車でパゴダ群の中を走る方を選んだ。パゴダが並ぶ中でその空気を感じたかったのです。建てた人々の気持ちが伝わってくるような気がした。インレー湖より暑いバガンでは、びっしょり汗をかきました。

 観覧場所のシュエサンドー・パゴダまでは馬車二台に分乗していきました。土道をもうもうたる埃を立てながら。大柄の人二人を乗せた馬車の馬は可哀想でした。馬は大体20歳になるまでは使うそうです。ポニーより一回り大きな馬です。ニューヨークの街並みを走っているような大きな馬ではない。しかし悪路をよく走ってくれたと思う。

 ミャンマーの人々が顔に塗る「THANAKHA」(タナカ)のミュージアムにも行きました。古くから使われている顔料だそうで、王様が使ったことから広まったらしい。グループの中に実際に塗った人がいて、その人は「気持ち良い」と言っていたが、「日焼け止め」に実際にどのくらい効果があるかは知らない。

 インレー湖ではほとんど見かけなかった日本からの人も、ガバンには沢山いました。日本人は「歴史」とか「古都」が好きなんだなと改めて。大きな三脚とカメラを持ち込んだ「中小企業の従業員ですよ。こんな時しか休みが取れないので」と語っていた自称"素人カメラマン"は、持っていた連射マシンで周囲の、特にボローニャから来たイタリア人カップルの賞賛を浴びていました。

 兎に角、シュエサンドー・パゴダは国際交流の場で面白かった。少し変な人が居て誰かを押したら、ビルの5~6階くらいの高さですから、間違いなく重傷者、死者が出るのですが、日本のような囲いもない場所で、それぞれの国の人が常識を守って何事もなかった。

 日本だったら鉄製の囲いと入場制限をするだろうに。


2013年01月03日(木曜日)

 (23:25)実質最後の3日は朝早い時間にバガンの空港を出てマンダレー、へーホーの2つの空港での乗客の入れ替えをこなしながら、昼前にヤンゴンの空港に到着。その後はお土産屋さんに行ったり、途中のうまそうな店(現地で人気があるらしい。店名は"フィー")に立ち寄ったり、最後には5年前に出来たというスーパーマーケットに行ったり。

食べるお茶などがありました。食材に限らず豊富だった サンクトペテベルクもそうでしたが、旅の最後にその都市のスーパーに寄るのは「総集編」として面白い。その国の人達が実際に今必要としているものが一杯ありますから。寺や神社など過去の遺産・遺物ではない「current」「今」がある。最後にそれを確認するのだ。

 日本のそスーパーのようには洒落てはいない。しかし商品が一杯並んでいて面白かった。そこで働いている人、そこに買い物に来ている人の顔を見るのも楽しい。お坊さんもスーパーでの買い物をしていた。

 「(日本に)買って帰る」という気は起きなかったが、「食べるお茶」なんてのもあった。日本にはない商品も一杯ある。例えば停電の時に使うLEDライト。これは買ってきました。充電可能でオンにすると煌々と光る。停電が多い国ならではの製品だ。ヤンゴンの空港でトイレに入ったらちゃんとそれが置いてあった。シャン族のラーメンなど滞在中に食べた麺の即席バージョンもありましたので、それも買いました。

怪しい名前のメーカーの商品も一杯 お土産品で気に入ったのは、首からスポっとかけるタイプの布製の「もの入れ」です。二つも買ってしまった。ミャンマーの人はこれを皆やっている。体重のバランスが崩れなくて良い。ちょっとしたもの、例えばミャンマーのような国では「ウエットティシュー」などを入れておけば便利だ。パスポート入れにもなる。

 「開きつつある国」として当然あるだろうなと思ったのはゴルフ場。ありました。ヤンゴンとバガンの二カ所で見つけた。あれだけ広い国土故に、今後増えるのではないか。ヤンゴン市内には「ゴルフ・ショップ」も見つけました。しかし多分「芝付き」は悪いと思う。なにせ乾期がある。

 ヤンゴンは変わりつつある。ウィーさんが面白いことを言っていた。ヤンゴンで住所を聞いても「知らない」と言われるケースが多い。よくよく調べると隣だったりする。しかし普通のミャンマーの地方都市では、聞かれた人がその場所を知っていたら、自転車でも何でもそこまで連れて行く、と。都会なんですよヤンゴンは。

 夕方の飛行機でバンコクに飛び、そこで乗り換えて東京には4日の朝に着きます。


2013年01月04日(金曜日)

 (05:25)成田にもうすぐ到着します。約10日間という短い間でしたが、「今開きつつある国」であるミャンマーに関する私なりの印象を機内での簡単なまとめとしてですが、書き残しておきます。2012年から2013年の初めの期間の。特に時を記しておくのは、この国は少しの時間の経過で大きく変わるだろうからです。

 まず記しておきたいのは、「ミャンマーは綺麗でもあり、汚くもある国だ」という事です。インレー湖の湖面を渡る風、朝陽や夕陽の光をきらきらと反射する湖面、バガンの夕陽(そして恐らく朝陽)、そしてミャンマーのかなりの国土に見られる「トトロの森」、各民族ごとの印象に残る楽しい衣装の数々など、強烈なイメージとして記憶に残ったものは一杯あります。また来たいと本当に思う。

 ミャンマーの人々はと言えば、 fun-lovingです。ウィーさんが特にそうですが、彼が例外なのではなくミャンマー人同士の挨拶を見ていると、短い間に何か一つお互いに冗談を言っているように見えた。ノリも良い。滞在中に少なくとも3回(アカ族の正月の祭り、ホテルのガラ・パーティー、そしてバガンでのレストランでの出し物=主に民族の踊り)も「江南スタイル」を聞いたが、最後のバガンの夕食の時にちょっと「江南ダンス」を従業員の近くで披露したら、えらくうけた。愛想も良い。

 私が持った印象では、「身の安全」という意味からして、決して危なくはない国だ。ホテルを出て時には一人で結構歩き回りましたが、誰かに会ってもちょっと笑顔を送ると、笑顔が返ってくる。どこでも。だからミャンマーという国に居てセキュアーな感じがある。ナイスだ。犯罪にあう感じはなかった。

バガンの最後の晩にレストラン(野外)で披露された しかし一方で汚い国でもある。特に目に付いたのは、色々なところで目に付く投棄されたゴミだ。緑と土色(やや赤い)のコントラストのある国土をしているのに、あちこちに見えるゴミ(しばしば白い)がこの国を汚くしているように思う。綺麗にしているところもあるが、これは残念だ。綺麗に掃除されているところもあるのだが。あとは乾期の土埃やレストランのキッチンの雑然とした感じなど。まあ綺麗になるのはこれからでしょう。

 「ミャンマーに行きたい」と思った方にお伝えしなければならない事がある。それは「決して日本の利便性、清潔さを求めてはならない」ということだ。お風呂でお湯が常に潤沢に出たのは、最後のバガンのホテル(Bagan Thiripyitsaya Hotel)だけだった。このホテルには日本の資本が入っていると聞いた。日本から研修生も5人ほど来ていたし、その他に日本語を喋る従業員もいる。しかしそこの風呂も、お湯をためると薄く濁っていた。

 他の宿泊した四つか五つのホテルは、「お湯は極めて出にくいか、出ても最初の10分ほど」だった。それも湯船にためると色濃く濁っている。「シャワーでさっさと済ました方が良い」と言われているようなものだった。それは「日本とのコントラスト、違いを楽しみに来ている」と思うことだ。また「大陸的粗雑さ」で、ホテルの建て付けは総じて良くない。

 ネット環境は劣悪だ。都市によって違いはある。しかし「時々繋がり、時たま速くなり、直ぐに繋がらなくなる」という状況だ。「速くなる」と言っても、日本のポケットwifiの域に達しない。空港のロビーにしてそうだ。だから相当遅い。

 かつ良いホテルにして「wifiが走っているのはロビーのみ」というところが多い。結構良さそうなホテルでもそうだ。全く無いwifi、LAN環境がないホテルも多い。チャイントンのホテルがそうだった。そういえば、部屋でネットが使えたホテルには私は最後までぶち当たらなかった。国のネット回線そのものが細いのだ。

 だから夕方や朝のホテルのロビーは、「ネットをつなぎに来た人々」(私以外は大部分は欧米人だった)がそこかしこに居るという状況になる。「どの場所で、いつがベターか」という情報が飛び交う。これは良い会話の切っ掛けになった。

 「飲み水や食事には気を付けねばならない」ということは、南アジアと同じだ。ミャンマーはインド、バングラデシュの隣国だ。この二カ国では水が、だから氷や野菜サラダなども注意しなければならない。日本人はミャンマーの水に慣れていない。油断するとお腹をやられる。

 ちょっと不便さがあるミャンマーのホテルでも、良い事がある。ランドリーが素早いことだ。きっとものすごく人手があるのだろう。出すとあっという間に出来上がってくる。仕上がりは総じて良い。だから思ったより少ない枚数で10日間を過ごせた。ちょっと衣類を持って行き過ぎた気がする。

 「それにしても」と思う。日本の1.8倍の国土に日本の半分以下の人口。平野でも山間部でも、湖上でも人類というのは実に多様な生活を、そして風習を育んできたとミャンマーで改めて思う。首を長くしている人、入れ墨をした人。それらは「他との違い」をつくって種族保存ははかった形跡が濃厚だ。そういう意味では奇想天外な風習でも合理性があると思うし、今の価値観だけでその善し悪しの判断は出来ないと思う。言葉が違ってきたのも、そういう背景があるかもしれない。

 土地は山ほどあるはずなのに、山の傾斜にもちゃんと田圃を作り、そして高床式の家を建てて人々が住んでいる。結構な数の子供はフルチンだったり裸足だったりする。人なつっこい。自ら寄ってきて何かを要求する子供も一部いたが、そうでない慎み深い子供達が多かった。ブータンと同じだ。

 多様性が好きで、どちらかと言えば好奇心が強い私のような人間には、とっても楽しめた国だ。長い歴史があり、神話があり、fun-lovingな人々がいる。急激な開放の中でこの国も大きく変わるだろう。「失って欲しくないものがある」などという出しゃばった気持ちはない。それぞれの国は、そして人々はそれぞれに変わる権利がある。それがまた楽しみだ。

 しかし2012→13年という変わり目の時にこの国に来て、本当に良かったと思う。間違いなく私が見たミャンマーはこの国のごく一部だ。時間も限られている。今度は雲南からゴールデン・トライアングルを抜けてタチレク、そしてチェンマイ→バンコクも面白いルートだろうな、と思っている。多分この旅はインレー湖やバガンのホテルのような利便性は一切ない。しかし「面白いだろう」と思う。

 思わぬ収穫もあった。なんとミャンマーには美味しい赤ワインがあったのだ。最初ヤンゴンのレストランで飲んで、あまりにもバリューなので、あとで酒屋に寄って買った。「ミャンマー・ワイン」は日本に持って帰ってどのくらい美味しく飲めるか知らない。

 そう言えば、ウルムチにも美味しいワインがあった。乾期を持つ地域では、ことのほか良質の葡萄が育つ環境があると改めて思った。
ycaster 2013/01/05)



ALL RIGHTS ARE RESERVED.Copyright(c)1996~2020 伊藤 洋一