(23:24)「その映画は見ておけば良かったな」と思いました。「おろしや国酔無譚」。井上靖さんの小説も読んでいなかった。
ロシアの、しかもシベリアのイルクーツクの地に来て、これだけ数多くの日本人の足跡に触れる事が出来るとはあまり予想していなかったし、それが1990年代に映画になったことも不明にして結びつかなかった。無論映画の題名は覚えている。しかしまだ見てない。イルクーツクでも、これから私たちが行くサンクトペテルブルクでも、大規模なロケを行ったようだ。
驚いたことに、イルクーツクには「金沢通り」があった。写真の通り。同市と金沢市が姉妹都市関係にあることから、一つのイルクーツク市内の通りが金沢に因んで名付けられた。しかし、「(金沢市には)イルクーツク通りという名前の通りがあるとは知りません。何故ですか?」とターニャに聞かれても、直ちに返事を持ち合わせていなかった。
そしてその通りの一番奥手にあるのが、1994年に建立された大黒屋光太夫の碑です。生命を生む卵が一つ、それをくり抜いたとも思える背の高い碑の前にある。卵の前には、「露日交流の記念碑」という短い文章が、ロシア語と日本語で書かれている。
バスの中で、iphone で「大黒屋光太夫」に関して検索して、ちょっと読みました。小谷野先生の話と合わせて、「あのロシアを、鉄道でもしんどいシベリアを」馬と徒歩で横断した日本人達に驚愕しました。何人かは亡くなり、足が凍傷になってロシアに帰化した人もいた。 小谷野先生によれば、「大黒屋光太夫 帝政ロシア漂流の物語」(2004年 山下恒夫著)などが良いという。帰って読もうと思う。
我々が泊まったホテル(ロッジというか、山小屋)の直ぐ近くに「日本人墓地」があった。カタカタで60人の方の名前が刻まれている。抑留の間に亡くなった方々と聞いた。綺麗に花が飾ってあり、その周りはロシアの方々の墓が広がっていた。ロシアは土葬だそうだ。寒いだろうに。しばし合掌しました。
ターニャがいろいろなことを話してくれた。彼女の日本語は、ところどころおかしい。しかし全体的にはしっかりしているし、聞いていれば何を言っているのか分かる。何よりも熱心なのが良い。
やはり現地の方と長く話していると、自分のその国に対する知識が改まって良い。「ロシアは毎年70万人口が減っていると聞いたが」とFTの話を引用したら、彼女は
私がシベリア鉄道の旅をしているとサイトで読んで、いろいろな方がメールを下さっている。通信状態が悪く、全部に返信できないでいる。しかし、1993年という混乱の最中にイルクーツクにいらっした方が、当時の写真までスキャナーで読み取って送ってくれた。貴重だ。木の博物館には私たちも正に今日行って、送っていただいた要塞も見てきました。当時のマーケットの写真が良かった。
梅本さんからは、自分のシベリア鉄道乗車の際に、おっかなびっくり飲んだ飲み物について。ターニャに聞いたら、まだあるそうですよ。まだまだいろいろな方から、「こうだった」とか「参考になる」だとか。
しかしここはイルクーツク市内でなく、バイカル湖の近くの村。日本人墓地の直ぐ近く。無線LANがないホテルだった。ある予定だったのだが。よって今日隣の遅いwifiがあった緑屋根のホテルまで行って使わせてもらった。サンクトに行けばもうちょっとまともな対応が出来そうです。
明日の朝は午前3時に移動を開始します。