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2015
11/25
Wed

品質が悪かったから....産業がおきた

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 (17:40)本州の西をあちこち移動しながら、ずっと私の頭の中にあった単語は、「経路依存性(Path dependence)」であり、それとの関連から国も社会も「それ(経路の起点とその後の展開)が多いほど経済が多様で豊かになる」という視点です。

 「経路依存性」はいろいろに理解できるが、一般的には「あらゆる状況において、人や組織がとる決断は、(過去の状況と現在の状況は現段階では全く無関係であったとしても)過去にその人や組織が選択した決断によって制約を受ける」という考え方。

 難しく考えなくても、「常識」と言えるものです。我々も普段そう考えている。あれがあったから、今のこれがある、というような。もっと簡単に言えば「ものごとにおいて歴史的経緯はとても重要である」ということです。

 なぜ長州が明治維新胎動の舞台になったのか、なぜ宇部には今でも本社を同地に置く有力企業が多いのか。考えれば要するに全て繋がっている。何かがあるから、何かが生まれて、今も残っている。

 毛利藩が瀬戸内海に城を作れていたら、もし領地を減らされても60万石程度の大藩でいられたら、もし吉田松陰が斬首ではなく切腹であったらなど、考えれば面白い仮定は一杯出てくる。歴史が選んだ道は一つだが、それぞれに可能性があった。

 火曜日でしたが、宇部経済倶楽部の方々を相手に講演したのですが、その前後の会話で非常に面白かったのは、「宇部は石炭が出た。しかし品質が良くなかった。しかしそれが今の産業発展の起点になった」というのです。これは面白い話だった。

 かつての日本の産業を支えたのは石炭です。黒いダイヤと言われた。品質が良かったのは九州と北海道の石炭です。炭鉱名はご存じでしょう。宇部も石炭が出た。軍艦島と同じく海底炭鉱で、大きな落盤事故もあったらしい。しかも品質が良くなかった。しかしそれが宇部には良かった。

 「宇部炭は品位があまり高くなかったこともあり、硫酸アンモニウム等の化学肥料に転換されたり、セメント製造の燃料として用いられる等の効率的な使用が行われ、やがて宇部の化学コンビナートへと発展することになる。」とwikiにも書いてある。それを宇部興産の方々から聞いて、「なるほど」と思った。

 つまり人々が品質の悪い石炭を使ってどう生き残るか(北海道や九州の炭鉱と競争できなかった)を考えたら「肥料」に行き着き、その広がりの中でセメント(小野田セメント)やガラス(セントラル硝子)になっていったと。話を聞いたら全く「経路依存的」な産業を起こり方をかたをしている。実に面白い。

 その後を考える、品質が良かった石炭を生産した九州や北海道の炭鉱はそれ故に暫く生き残ったが、手を加えるまでもなく品質が良かったが故に、「石油の時代」の到来で一気に時代遅れの存在になった。九州や北海道の炭鉱がその後辿った道は良く知られている。

 面白かったのは、宇部で育った企業は、依然として宇部に本籍を置き、税金を宇部に落としているというのです。それは京都に似ている。宇部興産も、セントラル硝子さんもそうらしい。本社は東京にあっても、本籍は宇部。

 もちろんこの手の経路依存的な話は全国に一杯ある。そして思うのは、そういう話が一杯ある国ほど抱える、揺籃する産業や企業が多くなるのだろう.....と。日本はそういう意味では非常に昔から各藩があり、各地域があり、それぞれに資本の集積があって、様々な資源もあって、それが産業を育てている。

 その一つの地域的な典型はやはり瀬戸内海でしょう。昔からヒト、モノ、カネが移動した。この狭い水道としての瀬戸内海、それを取り囲む地区を昔から私が好きな理由はそこにあります。面白い企業、面白いヒトが一杯いる。今回またそれを確認しました。

 そして重要な事は、「経路の起点とその後の展開」には「一人一人の人間が関与できる」ということです。私はこれを「天童の将棋の駒」を調べているときに強く思った。

 詳しくは時間がないので書きませんが、「吉田」という人がいなかったら、「天童に将棋の駒」作りの産業は生まれなかった。そう考えると、むろん自然条件など様々な要因があるが、やはり経路の起点を作るのも、経路の方向を変えるのもヒトだと言える。

17:49
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